55
雪が深いのは、昨日から夜中にかけて降る雪の量が多かったためだろう。
セレイアックの街では、人々が歩きにくそうに、また馬車は幾度も車輪を雪にとられながらも、忙しそうに行き交っていた。
由緒あるアベラール侯爵領の最大都市だけあって、朝から街は活気に溢れている。
「若い騎士様、あたたかい膝かけなんていかがですか」
さっそくジュストは露店で声をかけられた。
「いや、けっこうだ」
アベラール邸を出て街を歩いているのは、ようするに、館ではやることがないからである。手紙を届けるついでにディルクの様子を探ってくるようにとクレティアンから言われているが、彼は軟禁されていて会うことができない。様子の探りようがなかった。
もうひとり、居場所を知っている可能性のあるレオンは、マチアスの助言なのかどうか、一歩も外へ出ないで哲学書を読みふけっている。よく飽きないものだと感心するくらいだ。
マチアスは本当に知らない様子だし、これでは居場所それ自体を探るどころか、だれが本当に居場所を知っているのか、リオネルやアベルが無事なのかどうか……確実なことは一切わからない。
なんの成果も得られぬままではクレティアンのもとへ戻るわけにもいかず、ジュストはアベラール領内に留まっていた。
この日ジュストが街にいたのは、セレイアック大聖堂に滞在しているエマとカトリーヌの様子を見にいくためだ。
顔を出すと、二人は驚くと同時に、やや複雑な面持ちになった。
特にカトリーヌのほうは警戒する様子である。
「ジュスト様は、ベルリオーズ邸に戻られたのでは」
頭を下げたあと、最初のひと言がそれだった。
いろいろあって、と言葉を濁してから、寝台で半身を起しているエマのほうへ寄る。エマは痩せた両手でジュストの手を取り、再会を喜んでくれた。
「ああ、ジュスト様。またお会いできて心より嬉しく思います」
「エマ殿はずいぶん顔色もよくなったな」
「すべて貴方様にお会いできたからでございます。ここに連れてきていただかなければ、わたしは未だにお嬢様と再会できずに、どこかで野垂れ死んでいたかもしれません」
「エマ様ったら、縁起でもない」
カトリーヌが少し怒ったように言う。
「私こそ、エマ殿に会わなければ、ここでリオネル様やアベルを探しだすことはできなかった。感謝している」
律儀に礼を述べあったあと、エマは当然のように尋ねる。
「セレイアックへお戻りになったのは、お二人を探すためでしょう?」
「ああ、そのとおりだ」
ジュストは正直に認めた。リオネルらを探すために戻ってきたということは、おそらくカトリーヌも察していただろう。
「残念ですが、わたくしどもはお二人の居場所を知らないのですよ。リオネル様もシャンティ様も、わたしたちがベルリオーズ家の方々に聞かれても困ることのないように、行く先を告げずに出ていかれました」
「わかっている」
そう、リオネルとアベルならそうするだろう。
居場所を知らせないことが、彼女たちを守ることになる。ディルクがマチアスをそうして庇ったように。
わかっていたが、なにか手掛かりが掴めないかと思ったのも事実だ。だからこそ二人に対しては気まずさもあった。
「ベルリオーズ家の方々には、本当に申しわけないと思っております」
エマは寝台で頭を下げる。
「シャンティ様のために、リオネル・ベルリオーズ様がご不在となり……」
「それは主人が自ら望んだことだ」
「けれど、ジュスト様のように考える方は少ないはずでございます。ベルリオーズ家の方々のご心配はいかばかりのものか」
エマはシャンティのことだけではなく、リオネルやベルリオーズ家の事情までも慮っているようだった。
「ベルリオーズ家の騎士たちのあいだでは、リオネル様はディルク様のもとで過ごされているということになっている。公爵様はたしかにご心配されているはずだが、あの方の真のお心は私などに測ることはできない」
「ご迷惑をおかけしていることは、充分承知しております。それは、おそらくだれよりもシャンティ様ご自身がお感じになり、自らを責められていることでございましょう」
どうかシャンティを責めないでほしいというエマに、ジュストは淡々と告げた。
「アベルと共にここを出て街で暮らすことを、私はリオネル様から事前に聞いていた」
少し驚く様子でエマはジュストを見上げる。
「お止めにならなかったのですか?」
「アベルを守るために必要なことならば、今はそれでいいと思っている」
「お二人の仲を認めておいでで?」
「認めるもなにも、そもそもリオネル様だけではなく、今はアベルと呼んでいるが、シャンティ様とて私より高貴な方だ。私が認めるようなものではない」
「けれどジュスト様は、ベルリオーズ家の騎士様であらせられます。シャンティ様がリオネル様のお相手では、この先ご結婚も、お世継ぎも難しいことをわかっておられるのでは」
それでも二人を認めるのかと問いたそうなエマのまえで、ジュストは瞼を伏せた。
「かつて私は、アベルが女性だと気づかず、リオネル様に気に入られていることが納得できなくて、館から追い出そうと幾度もひどいことをした」
「…………」
「リオネル様が愛している女性なのだと知ったときはじめて、これまでのことを深く悔やんだのだ。我ながら情けないかぎりだと思う。つまり……私なりに償いの意味もあるのかもしれない。今はアベルを守ることが、リオネル様に仕える者としての私の役目だと思っている」
「〝今は〟とおっしゃいますけれど、このまま戻らなければ?」
用心する様子で尋ねたのはカトリーヌだ。
現在の状況において、災厄の原因となるシャンティを排除しかねないベルリオーズ家の存在は、カトリーヌにとっては心を許すことのできない相手であるに違いない。
「最も望ましい形で、リオネル様とアベルがベルリオーズ邸に戻れるよう、私なりに力を尽くすつもりだ」
思ったとおりに答えれば、それきりカトリーヌは沈黙した。続きを引き継ぐようにエマが口を開く。
「ジュスト様のお立場は充分わかっております。そのお気持ちだけでわたしどもは感謝しております」
感謝なんて、とジュストは思う。自分はかつて従姉妹のライラにそそのかされて、アベルの酒に毒を盛ったことさえあるのだ。明確な殺意をもって。
「どうぞシャンティ様をお恨みにならないでくださいまし。災いを招いたのは、わたくしでございます。シャンティ様は、大人たちの愛憎劇に巻き込まれ、被害を受けた方――重い運命を背負わされた方なのですから」
ジュストは二人のために、自分にできるかぎりのことをするつもりだとエマたちに告げて、大聖堂をあとにした。
中央広場に出て雪のなかを歩みながら、ジュストは考えさせられる。
最後のエマの言葉が耳に残っていた。
形は違えども、過酷な運命を背負っているという意味では、アベルとリオネルはよく似ている。
むろんリオネルがこのまま戻らないのは、ベルリオーズ家の家臣としては困る。
けれどジュストは、リオネルが必ず戻ってくるような気がしていた。それはきっと、リオネルの意志だけではなく、アベルの意志がそうさせるだろうからだ。
だれよりもベルリオーズ家のことを考えているのもまた、アベルなのだ。
それがわかっているからこそ、ベルリオーズ家の大切な嫡男であるリオネルの心を占める存在であっても、けっして憎むことはない。おそらくクレティアンも、多くの他の騎士らも、同様なのではないだろうか。
立場上ジュストは居場所を探らなければならない。
けれど、知りたくない気持ちもあった。
二人が心安らかに過ごすことのできる場所。それが市井の暮らしにあるならば、しばらくそっとしておいてあげたい気がした。あえていうならば、悠長に構えていてなにか取り返しのつかない事態になること、それだけが心配だった。
ふと視線を上げれば、真白な雪景色に染まるセレイアックの街並み。
このままアベラール邸に戻ろうか、けれど、戻ったところで手持無沙汰だ。読書に耽るレオン王子の横顔を見ていたところで、リオネルたちの居場所がわかるわけでもない。
何気なく視線を漂わせていた街の景色のなか。
ジュストはよく知る顔をみとめた。
かつて人の顔を一度たりとて見間違えたことなどないジュストでさえ、我が目を疑う。
「あれは――」
中央広場に面した裁判所から出てきたのは、リオネルとベルトランではないか。
外套を目深にかぶっているが、間違いない。二人はなにか深刻な様子で話をしていた。
ジュストのなかで、すぐにクレティアンの顔が思い浮かぶ。一瞬のうちに、ジュストは考えをめぐらせた。
このまま二人のあとをつければ、住んでいる場所をつきつめることができるだろう。場所がわかればクレティアンに報告できる。
けれどそうなれば、リオネルは強制的に連れ戻され、アベルはどこか遠くへ行かされるに違いない。
ベルリオーズ家の家臣として、クレティアンに仕える者として、それがもっとも正しく、そして望ましい形なのかもしれないが……。
果たしてそれでいいのだろうか。
リオネルに仕える者として、そして、ひとりの人間として。
――今、自分はどう行動すべきなのか。
ジュストはまっすぐに二人のもとへ歩み寄り、振り返ったリオネルのまえで、丁寧に一礼した。
+
彼らが再会するより少しまえのこと。
裁判所を出ると、ベルトランが低くつぶやいた。
「判決が出るまでに時間はかからないようだな」
「軽い刑罰になったら、おれが直接手を下すよ」
物騒な言葉をリオネルが淡々と口にすると、ベルトランが片方の肩を上げる。
「……今日の雰囲気だと、そういう展開にはならないだろう」
裁判所の役人らは、事情を説明しにきたリオネルとベルトランにやや気後れする様子だった。普段裁判所へ訴えにくるような者たちとは、雰囲気が大きく異なったからだろう。
洗練された雰囲気をまとう若者二人が、理路整然と前日に起きた事件について語るのを、彼らは幾度も相槌を打ちながら聞いていた。
「犯した罪に見合った処罰が下されるはずだ」
リオネルはわずかに首を傾げて目を細める。
「アベルに執心していたというわりに、命を脅かそうとしたのが未だに理解できない。本人に会って問い詰めたいところだが」
「おかしな性的嗜好のやつは少なくない」
ベルトランのひと言を受けて不愉快げな色が顔に浮かぶのをリオネルは隠そうとはしない。
「……とにかくアベルのことが心配だ。この先つきまとってくる男は、ジャックのほかにもいるだろう」
「また男装させるか」
「男装したって、アベルは目立つ。できればベルトランがそばにいて守ってくれたら、ありがたいのだけれど」
「ずっとは無理だ。おまえの護衛をしないわけにはいかない」
リオネルが黙りこんだとき、こちらへ近づく気配があった。振り返れば、思いもかけぬ相手である。
「……ジュスト」
外套のフードを外したジュストは、深々とリオネルに一礼した。
「お探ししておりました、リオネル様」
「父上の命か」
「はい」
「ここで会うとは思わなかった」
「エマ殿とカトリーヌのもとを訪れていたのです」
「なるほど」
リオネルに動じるところは少しもなかったが、ジュストもまた冷静だった。
「リオネル様のお手紙、たしかに公爵様のもとへお届けいたしました」
「色々とすまない」
とんでもありませんと首を振ってから、ジュストはやはり冷静な口調で告げる。
「公爵様は、リオネル様の身を案じておられます」
「だから戻るようにと?」
リオネルが問えば、ジュストは複雑な面持ちになった。
「聞き入れてくださらないことは、承知しております」
「すまないが」
ジュストは瞼を伏せてから、遠慮がちに再び口を開く。
「……もしお時間があれば、この場で少しお話をさせていただけないでしょうか。クレティアン様のこと以外に、ディルク様の状況などもお伝えしたいのです」
「ディルク?」
不在のあいだに一度訪れたきり、ディルクが顔を見せないことはリオネルも気になっていた。
「ディルクがどうかしたのか」
「私は、クレティアン様からアベラール侯爵様に宛てた手紙を届けるため、セレイアックにまいりました。その手紙には、ディルク様が居場所を知っているならば、聞き出してほしいとあったのです」
「それで?」
「アベラール侯爵様に問われたディルク様は、居場所を知らないとおっしゃいました。けれどアベラール侯爵様はそれを信用なさらず、居場所を白状するまでは部屋から出ないようにと」
「閉じこめられているのか」
「はい、もう五日目になります」
「五日……」
五日前といえば、ちょうどディルクとレオンがアベルのもとを訪れた日である。あれからずっと部屋に閉じこめられているのか。
「レオンは?」
「殿下は朝から晩まで哲学書を読みふけっておられます」
「…………」
リオネルが黙りこむと、ジュストは続けて言った。
「けれど、この事態のためにリオネル様がベルリオーズ邸へ戻られるのは、おそらくディルク様の本意ではないかと思われます」
意外な言葉に、リオネルは視線をジュストへ向ける。軟禁されているディルクのために戻るよう説得するのが目的でこの話を持ち出したのだと思っていたが、どうもそうではないらしい。
「ここでお会いしたことを、私はクレティアン様にご報告しないつもりです」
どこまでもクレティアンに忠実なジュストが発した言葉とは思えなかった。
「探しにきたのではないのか」
「……もし私がクレティアン様にご報告すれば、リオネル様はベルトラン様やアベルと共にこの街を出てしまわれます。せめてセレイアックで――ディルク様のご領地でお住まいと知っていれば、私も安心できますので」
「だが、それではジュストが父上を裏切ることになる」
「事実を伝えて、事態が悪い方向へ進むのならば、伝えないというのも家臣としての役目ではないかと考えます」
ジュストはどこまでも忠実であり、そして機転が利く。
「私はもうしばらくセレイアックに滞在してから、手掛かりが掴めなかったことをクレティアン様にご報告するつもりです」
ひとまず言葉を切ってから、ジュストは裁判所へちらと視線をやった。
「あの……アベルは元気ですか?」