54
……暖かい。
この心地よさはなんだろう。
深い安堵に包みこまれ、このままいつまでも目を覚ましたくないと思った。
幾度か覚醒しそうになったが、意識を混濁の淵へと沈めて、現実と夢のあいだを揺られつづける。母親の胎内にいる赤ん坊とはこんな感じなのだろうかと思った。
昔――、本当に遠い昔。
自分もきっと、安心しきって母親のお腹のなかで身を丸めていたころがあったのだ。
記憶にない母は、お腹にいたアベルを大切に守り、育ててくれていたに違いない。
はじめて、本当の母に会いたいと思った。
自分を産んでくれた母親に……。
両腕でぎゅっとしがみついてから、アベルは違和感を覚える。
〝しがみつく〟……とは?
――なにに……? いや、だれに?
手に触れる感触は、たしかに人の体温で……。
おそるおそるアベルは目を開ける。
ここは――。
温かい肌。
綺麗に筋肉のついた、古城の彫刻のごとく整った男性の身体。
アベルを抱きしめてくれているのは、しなやかでいて力強い腕。
現実とは思えぬ心地でゆっくりと相手を確かめれば、それは当然リオネルだ。
リオネルが、上半身の服を着ていない。
いや、おまけに自分も下着姿だ。
不思議なことに、リオネルはすっかり寝入っていて起きない。アベルが目覚めているのに、リオネルがその気配に気づかず寝ているとは。しかもこの状況で。
信じられなかった。自分は夢でも見ているのだろうか。
すっぽりリオネルに包まれていて、身動きできない。
どうしたらいいのだろうか。
顔は真っ赤で、頭のなかは真っ白だ。
意識を失うまえの記憶は徐々に取り戻している。そう、共同洗濯場に行ってから、ジャックに川へ突き落とされ、なんとか戻ってきたらリオネルとベルトランが来て、部屋に連れていかれた。
そして――。
「…………」
服を脱がされたこと、リオネルも自らの衣服を取り去って、アベルを温めてくれたこと、そのすべて思い出して、言葉にならない衝撃を受けた。
――こ、こんな貧相な身体を見られたなんて!
いや、しかしそういう問題ではなく――。
身動きできないままあたふたしていると、声が聞こえた。
「起きたのか」
床ではなく寝台で横になっていたらしいベルトランだ。二人用の寝台をアベルとリオネルが使っているので、もうひとつが空いたのだ。
「気分はどうだ」
こちらに背を向けて聞いてくるベルトランは、間違いなく二人のこの状況を知っている。
恥ずかしくて死にそうだ。
恥ずかしすぎて声が出せない。
空気だけで察したらしく、ベルトランが生真面目に言った。
「その感じだと、だいぶ体調はいいみたいだな」
いやいや、体調がいいとか悪いとかいう話じゃない。
この状況に、どうしてベルトランは落ちつき払っているのか。
「ああ、念のために言っておくが、その状況でリオネルはやましいことはなにひとつしていないぞ」
「…………」
「まあ、リオネルのことだから、昨日の状況ではそんなことは考えもしなかっただろうが」
「…………」
――穴があったら入りたい。
沈黙がいやに長く感じられる。沈黙に耐えきれなくなったころ、ベルトランが再び口を開いた。
「ジャックとなにがあったかは、リオネルが目覚めてから聞こう」
「……あ、あの」
ようやくアベルは声を発した。
「……リオネル様がお目覚めにならないのですが、大丈夫でしょうか?」
空白を埋めるように、アベルはベルトランに念のため尋ねてみる。
普段は気配だけで目覚めるのに、今はこんなに話をしているのに目覚めない。とても信じられないことだ。具合でも悪いのではないかと心配になる。
「ひと晩じゅう、おまえを心配して寝付けなかったからだろう」
「ひと晩じゅう……」
「おまえの体温が戻って、ようやく安心して眠ったんだ」
とんだ迷惑をかけたようだ。
「けれど、おそらくそれだけじゃない」
もっとなにかあるのだろうか。
「少しは緊張を解いているのだろう」
「……緊張を解く?」
「ベルリオーズ邸を離れ、街で暮らし、愛する相手と共に眠ることが、リオネルの緊張を少しばかり解かしている」
ベルトランの言葉を頭のなかで反芻し、少し冷静になると、あらためて視線を上げてリオネルの寝顔を見た。
綺麗な寝顔だ。
リオネルもまた、生まれた瞬間から過酷な運命を背負いつづけてきたが、今はなににも囚われずに夢のなかにいるのだろうか。
そう思えば、胸が締めつけられる思いがした。
「リオネルの寝顔など、もう二度と見れないかもしれないぞ」
よく見ておけ、というベルトランの言葉に、アベルはすこしくすぐったい心地がする。
リオネルの寝顔を見たのは数えるほどだ。以前、山賊討伐へ向かう宿営のテントのなかでも目にしたことがある。
自分しか知らない、リオネルの安心しきった表情。
背が高く肩幅もあり、しなやかな四肢やひきしまった身体は逞しく、顔の線は繊細に整い、男らしくも優しげだ。
その寝顔は、無防備で少しあどけない。
恥ずかしいが、こんなことでリオネルを緊張から解き放てるなら、いくらでもいっしょに眠りたいと思う自分もいる。
けれど。
リオネルは綺麗だ。どこまでも。
それに比べて自分は……。
知らず、リオネルの身体から離れようとすれば、彼の手がわずかに動く。意識の覚醒を感じさせる動きに、アベルはどきりとした。
おそるおそる視線を上げてみれば、リオネルの茶色い睫毛の影が揺れて、開くところだった。
「アベル……」
名前を呼ばれてアベルは心臓が跳ねる。
彼の瞳はこんな色だっただろうか。
けれどリオネルはこの状況に恥ずかしがるでもなく、すぐになにか確かめるようにアベルの手へ、頬へ、ひたいへ手をやった。それから、大きく息を吐き出し、ぎゅっとアベルの身体を抱きしめる。
「……よかった、体温が戻ってる」
どうして男性と女性とでは、これほど体格が違うのだろうとしみじみ思わせるほど、リオネルの身体には無駄な贅肉がない。その身体の力強さ。
「あのまま目を開かないかと思った」
リオネルの声は小さくかすれていて、昨日の動揺の痕跡が漂う。
「凍えて死んでしまうかと思った」
「……そんなことで、死んだりしません」
抱きしめる腕に力が入る。リオネルの不安を感じて、アベルはどうしていいかわからなかった。
「あんなに冷たいアベルの身体を抱きしめたおれの気持ちがわかるか。……まるで死んでしまったようだった」
たしかに川に落とされたとき、だめかもしれないと思った瞬間があった。
思い返してみれば、よくセルヴァント通りまで自力で歩いて戻ってくることができたものだ。
「ごめん、今だけだから――アベルの温度を確かめていたい」
リオネルの吐息が髪にかかる。
「本当に怖かったんだ」
心配をかけたのだと知れば、歯がゆい気持ちになった。心配かけないようにと、心がけていたつもりだったのに。
「アベル……」
無言で抱きしめてくれているあいだ、アベルは目を閉じていた。
リオネルの鼓動が、耳元。
全身でリオネルを感じる――そのときの安堵と、早鐘を打つ自らの鼓動と、そしてわずかな不安。
どれくらいそうしていただろう。辺りはまだ薄暗かったが、明け方の六時を知らせるセレイアック大聖堂の鐘が聞こえてくる。
鐘が鳴り終わると、リオネルはアベルの身体をそっと解放した。
「体調はどう?」
「大丈夫です、痛いところも苦しいところもありません」
「そうか……」
安堵する様子で半身を起したリオネルは、はじめて今の二人の状態を意識したように、ふっと頬をわずかな朱色がかすめる。
リオネルがそんな反応をしたので、しばし忘れていた恥ずかしさがよみがえり、アベルは動揺した。顔半分まで、すっぽりと布団を引き上げる。
「その、アベル……」
こちらを振り向き、けれど視線は合わさずにリオネルが名を呼んだ。
「な、なんでしょう」
けれど逡巡する様子でしばしの間を置いてから、リオネルは首を横に振る。
「――いや、なんでもないんだ」
そう言って、リオネルはベルトランが用意したシャツにさっと腕を通す。こんな場所にいても、リオネルはシャツを着る仕種までもが洗練されていて優雅だ。
さっきはなにを言いかけたのだろう。
服を素早くまとうと、リオネルはアベルの髪に軽く触れながら言った。
「アベルには休んでいてほしいのだけど、昨日なにが起きたのか話を聞かなければならない」
「おれたちは、裁判所にも行く必要があるだろう」
ベルトランが付け加えた。
「……わたしもすぐに起きます」
「辛くない?」
「平気です」
リオネルが目を細める。
「熱とかはないようだけど、疲れていたら、すぐに言ってほしい」
うなずき返せば、リオネルはアベルのために着替えと洗面器を用意し、ベルトランと共に先に部屋を出た。
+
考えてみれば、昨日の昼から今朝方までアベルは寝入っていたのだ。よくそんなに眠れるものだと我ながら思う。冷たい川に落ち、身体が弱っていたためだろうか。
そのアベルをずっと世話してくれたリオネルが、だれよりも疲れているのでないかと思うのだが、彼は今朝もご飯を用意してくれた。
アベルは手伝わせてもらえなかったので、暖炉のまえで身体を暖めてから、リオネルとベルトランの作った食事を口にした。
昨日の朝食以来何も食べていなかったので、お腹は空いている。
「おいしい……」
二人の作ってくれたスープを口に運べば、ため息がこぼれる。
「よかった」
目のまえでほほえむリオネルの顔には、安堵が広がっていた。
「たくさん作っておいたから、食べられそうだったら、お代わりするといいよ」
アベルはうなずく。今朝はたくさん食べられそうだ。
「あの、昨日は本当にすみませんでした」
匙をいったん食卓に置き、あらためてアベルは頭を下げた。
「謝ることはないよ。アベルは被害を受けたほうなんだから」
「けれど、ご心配をおかけしました」
「すべてはジャックが招いたことだ」
「どうして……」
リオネルたちは経緯を知らないはずだ。
そういえば昨日、まだ昼時だったのに、ベルトランはともかく、なぜリオネルまで戻ってきていたのだろうか。疑問点は色々とあったが、すぐにリオネルが解消してくれた。
「ブリスさんが教えてくれた」
「大家さんが?」
大家がジャックのことをリオネルに話したと――、そういうことなのか。
「息子がエステルに執心しているようで、彼は素行が悪いから、なにをするかわからない。エステルになにかあったら申しわけが立たないから、様子に気を配っていてほしいとブリスさんに言われていた」
いつの間にそんな話をしていたのか。
たしかに街で声をかけてきた若者らが、ジャックは家族から持て余されていて勘当寸前だと言っていた。大家のブリスは、ジャックの行動を予測して、リオネルに事前に警告していたようだ。
「……本当に間にあってよかった」
「そのために早く戻られていたのですか?」
「昨日も、一昨日も、お昼に一度戻ってきていたんだよ」
アベルは目を見開く。まったく気づかなかった……。
知らぬうちに守られていたのだと思えば、驚くと同時に、少し不甲斐なくもあった。自分こそリオネルを守るべきであるのに。
「川に落とされたのか」
おおかた事情を察しているらしいリオネルに、アベルはこくんとうなずいた。
共同洗濯場での出来事は伏せ、洗い場が混んでいたため川で直接洗っていたら、後ろから突き落とされたのだと語った。
「ひどいな」
話を聞いていたベルトランがつぶやく。一方、リオネルは無言だった。
その沈黙が怖い。
冬の夜明けは遅く、ようやく窓の外が明るくなりはじめる。
「冷たい水のなかにアベルを突き落とし、アベルが自力で岸に上がるのを、やつはただ眺めていたのか」
ベルトランに確認され、そうだと告げれば、リオネルの声が低くなった。
「殺すつもりだったのか」
「……死んでもおかしくなかった状況だな」
ベルトランが険しい面持ちで言う。
「どうもブリスさんの話とは、少し事情が違うようだ」
話しあう二人に、アベルはおそるおそる告げた。
「殺すつもりまでは、なかったと思うのですが」
「なぜ?」
「その…………」
リオネルとベルトランの視線がこちらへ注がれる。
「心配しなくていいから言ってみて」
優しくリオネルに諭されて、アベルは重い口を開いた。
「つまり……服が濡れたから、この場で着替えろとか、暖めてやるとか……そういうことを言われたので……本当に殺すつもりだったなら、もう一度突き落とすこともできたはずで……」
動きを止めたリオネルが、すっと鋭い空気をまとう。
アベルはいたたまれない気持ちになった。ジャックに言われたときよりも、そのことをリオネルに語るほうが何倍も嫌だった。
「それだけか」
「え……?」
「なにかされたり、他に嫌なことを言われたりしなかったか」
瞼を伏せてから、アベルは首を横に振った。
「アベル」
匙を置いて立ち上がったリオネルが、こちらへ歩んで、視線を合わせるようにしゃがみこむ。真剣な声音だった。
「大事なことだ。どんな小さなことでも、隠さないですべて教えてほしい」
どんな小さなことでも、と言われてジャックの言葉を思い出し、アベルはわずかに表情を曇らせる。思い出すだけでも嫌な気がした。
「なにかあったんだね」
「……たいしたことではなく、その……『あの男より、いい声で鳴かせてやるよ』とか、そんなようなことを言われたくらいです」
リオネルを取り巻く空気の温度がいっきに下がったような気がした。
「そう言われたのか」
アベルはうなずく。
「なにをされた?」
「……少し触られましたが、膝で蹴りつけて逃げました」
リオネルが拳を握った。
「おれは少しも間にあっていたわけではなかったというわけだ。アベルが自力で逃げられなかったら、とんでもないことになっていた」
「平気だったのですから、リオネル様が気にすることはありません」
「平気?」
問い返すリオネルの声は固い。
「アベルは少しも平気ではなかったよ。そんな言葉を聞かされるだけでも嫌だったはずだ。怖かっただろう。川で溺れていた可能性だってあるし、あと少し遅ければ、きみはあのまま目覚めなかったかもしれない」
リオネルは、アベルのために真剣にジャックに怒ってくれている。落ちつかない気持ちもしたが、大切に思ってくれているのだと思えば胸がきゅっとなった。
食事を終えたベルトランが立ちあがる。
「命を危険にさらしたうえに、手を出そうとしたとは幾重にも赦せないな」
「ああ」
「おまえも早く食事を終えてしまえ、リオネル。裁判所へ行くぞ。事情をすべて明らかにしよう」
「わかってる」
短く答えるリオネルを見やってベルトランがつけ加えた。
「……もし殴りつけてやろうと思っているなら、やめておけ。あんな男を殴れば、おまえの手が汚れるだけだ」
ベルトランの言うとおりだとアベルも思う。なんなら、アベルが自分で返礼をしたいところだが。
アベルの気持ちも察せられたのか、ベルトランは言った。
「おまえたち二人のぶんまでおれが殴っておいたから、しばらく立つこともできないだろう」
納得したふうではないリオネルだが、アベルのひたいに軽く口づけしてから食事を済ませ、裁判所へと向かった。