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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
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 ひとりになるとアベルは買い物へ出かけ、それから雪が激しくなるまえにと、共同洗濯場へでかける。洗濯場で洗った服は、近くの川から洗濯場内へ引き入れた水ですすぐのだが。


 この洗濯に関する一連の作業をする時間がアベルはやや苦手だった。

 というのも共同洗濯場には、周辺に住む女性が集まる。当然、井戸端会議の場所となる。

 若い人から年配の主婦まで幅広いが、新参者のアベルはむろん彼女たちの格好の噂の的だ。


 アベルが洗濯場の扉をくぐると、皆の視線がいっせいにこちらに集まり、これまで賑やかだった室内が静まり返った。

 悪意はないのだろうが、居心地が悪いことといったら。

 軽く挨拶をして洗濯を始めると、アベルより少し年上と思しき女性に話しかけられた。


「あんた、若い男二人と暮らしてるんだって?」


 どこからそんな噂が流れるのだろうか。

 ややあってアベルは答えた。


「はい」

「ふうん」


 意味ありげな視線を投げかけてくる相手に、アベルは苛立ったが、ここは短気を抑える。

 けれど。


「ローブルグ人って分からないわね」


 含みのある言葉を向けられれば、反論せずにはおれなかった。


「わたしはシャルム人です」


 するとわざとらしく女は笑ってみせる。


「この髪と、この目の色で、シャルム人?」


 リオネルが綺麗に結ってくれた髪を引っぱられた。


「染めてるんじゃないの?」

「触らないでください」


 強く言えば、相手がフンと鼻を鳴らす。


「本当にシャルム人だっていうなら、男の目を引くために染めてるんじゃないかと思って」


 意地悪く言う女性に、別の者が声を上げた。


「やめなさいよ、そういうことしているとみっともないわよ」

「あんたは黙ってなさいよ、オルガ」

「ちょっと、オルガの言う通りよ。シャルム人にだって金髪碧眼は生まれるわ。あなた、この子になんの恨みがあるの?」


 他の女性も、アベルをかばってくれる。


「善人ぶって憲兵ごっこのつもり? 馬鹿じゃないの、そんなことしてるうちに旦那を寝盗られるわよ」

「うちの旦那は、あんたのところは違って、節操がありますから」

「なんですって」


 女たちが洗濯物を放りだして、喧嘩をはじめる。きっかけとなったアベルは、すでに完全に蚊帳のそとだった。

 普段は平穏な共同洗濯場を、アベルが乱したのだと思えば、いたたまれない気持ちになる。


「わたし、洗濯終わりましたから」


 きいきいと高い声で喧嘩していた女たちが、拍子抜けした様子でこちらを振り返る。


「終わったって、さっき来たばかりじゃ……」

「そうよ、気にせずにゆっくり洗濯したらいいわ」

「ありがとうございます、けれど本当に終わったんです」


 ぺこりとお辞儀をして、背中に視線を感じながら洗濯場の外へ出た。

 そとの空気は冷たいが開放感がある。雪の舞う真っ白な景色をまえに、ふうっとため息がこぼれた。


 どこで暮らすのも楽じゃない。

 自分がしっかりしなければ、この世に楽園などきっとない。

 ただ、そばにリオネルがいてくれれば、アベルはなんだって耐えることができるような気がした。


 ほとんど終わっていない洗濯物を持って、アベルは小川へと向かう。

 凍りそうなほど冷たい水に、洗濯物を浸した。洗濯場から拝借してきた灰で汚れを落とし、小川の水で注ぐ。お湯を使っていないからあまり綺麗にならないかもしれないが、仕方がなかった。

 あの空間にいるのは、落ち着かない。

 自分は逃げているのだろうか。

 毎日あそこに足を運べば、なにかが変わるのだろうか。


 答えを求めてリオネルの顔を思い浮かべたとき、背後に気配があった。はっとして振り返ったが、相手の顔をみとめたときにはすでに遅い。

 トン、という衝撃と同時に、身体が突き飛ばされる。


 手を伸ばしたのは無意識の行動で、けれど相手はにやにやと笑っているだけで、こちらの手を取ろうとはしなかった。

 笑っていたのは、大家の息子ジャック。


 つかまるところさえなく、次の瞬間には、アベルは盛大な音を立てて川のなかへ落ちていた。


「は――――」


 凍るような冷たさに、胸が痛みを覚えて息が詰まる。

 息ができない。

 いつか自分はこんなふうに冷たい水におぼれたことがあるような気がした。


 突然冷水のなかに突き落とされたせいで、身体に感じる感覚がおかしい。肌が痺れるような、痛いような。


 泳ごうとしても、水を吸った服が重い。

 助けて、と声を出そうとしても、寒さで喉が締まりきっていた。


 そういえば、今年のはじめにレオンも凍った池に突き落とされたのだったか。

 ふっと眩暈を覚えて身体から力が抜けそうになるが、このままでは死ぬと、必死に意識を繋ぎとめた。


 こんなところでは死ねない。

 仕事から戻ってくるリオネルを、あの部屋で待っていなければ。


 水を含んで重くなった外套をなんとか脱ぎ捨て、無我夢中で川岸へ辿りつく。そのときには、あまりの水の冷たさに、すでに身体の感覚はほとんど失われていた。


 うまく動かすことのできない指に力を入れて、岸に上がる。

 身体は自分のものとは思えないほど激しく震えていた。


「すげえ、自分で上がってきた」


 川岸では、ジャックがおかしそうにアベルを見下ろしている。


「ははは、大丈夫? 唇が真っ蒼だぜ。身体じゅうおかしいくらい震えてるし」


 アベルは腕を伸ばし、這うようにして川面から完全に身体を引き揚げた。

 凍えた身体のうえへ、大粒の雪が追い打ちをかけるように降り注ぐ。


「へえ、服が濡れて身体の形がわかるぜ? 本当にがりがり・・・・だな」


 こちらへ伸びてくるジャックの手を、アベルは咄嗟に払いのけた。

 ぴしゃりと鋭い音が響くが、凍える身体を無理に動かしたせいで均衡を崩す。倒れそうになるのを支えて、積もった雪のうえにつく手が、あまりの冷たさに痛みを覚えた。


「まだそんな動く元気があるのか、すごい気力だな」


 嘲る様子のジャックは、なにか気がついたようにアベルの肩をポンポンと叩く。


「ああそうだ。そこに着替えがあったぜ? そのままだと冗談抜きに凍死するから、着替えたら?」


 せせら笑いながらジャックが指差したのは、まだ洗濯していない服だ。

 感覚の失われた手足を動かしてどうにか立ち上がり、幾度も転びながらアベルは洗濯籠のところまで行く。


 むろんこの男のまえで着替える気などない。

 ジャックに言い返し、その顔を思いきり殴りつけてやりたいが、凍えきった今のアベルにその力は残されていない。そのことが、ただただ悔しい。


 リオネルの白いシャツをかじかむ手で掴み、顔をうずめた。

 ――透明感のあるリオネルの香り。

 温かい。


 せめて部屋に辿りつくまで……。

 まだ濡れていないそのシャツを握りしめ、洗濯籠を胸に抱えて、アベルは歩きだそうとした。


「すごいな、歩いてやがる。おもしれえ。どこまでいけるか見届けてやるよ」


 寒さで身体の感覚を失っているので、歩く動作はおぼつかない。


「なあ、おれが部屋に連れて帰って、温めてやろうか」


 横から声をかけられたが、無視したというより、凍えて反応できない。


「関心ありませんって顔して、抱かれてるときには娼婦みたいに喘ぐんだろう? あの男より、あんたをいい声で鳴かせてやるよ」


 腕を引かれてアベルはジャックの身体に倒れ込んだ。

 太ももを撫でられる感覚に、鈍っていた意識が呼び覚まされる。咄嗟にアベルは膝を突き上げて、ジャックの腹部を蹴りつけた。考えるよりも身体が動いていたとしか言いようがない。

 最後の力を使い果たしたような気がした。


 それでも、言葉もなく痛みに耐えるジャックを残し、アベルは必死で両足を動かす。

 早く帰らなければ。

 あの部屋へ。


 セルヴァント通りへやっと辿りついたときには、ほとんど完全に身体の感覚を失くしていた。本降りになった雪のせいで、だれもが足早に通りすぎていくだけで、アベルの様子に気づかない。


 けれど、ひとりこちらへ近づく気配がある。追いついてきたジャックだ。


 小間物屋の建物まであと少しというところで、ジャックに肩を掴まれる。なにをされるのか考えるよりも先に、身体を支えていること自体がもう限界だった。

 氷が砕けるようにその場に崩れ落ちる。


 意識はあるのに、身体が動かない。

 身体は完全に凍りついてしまったのかもしれなかった。


 目はうっすらと開いたまま、なにをされるのだろうと思っていると、馬の嘶きが近づき、ジャックの顔に苦い色が走った。逃げ出そうとしたジャックに追いすがる影がある。


 ――あれは、ベルトランだろうか……。


 ユリウスに跨ったベルトランに一瞬のうちに追いつかれ、ジャックは乱暴に馬上に引き揚げられた。ほぼ同時に、身体が抱き起こされるような感覚がある。

 視線を彷徨わせれば、リオネルの紫色の瞳と間近で視線がぶつかった。


「アベル!」


 切羽詰まった声で叫ぶ、リオネルのその顔といったら。

 アベルは笑ってみせようとした。


「……かわ、落と……さ……」


 唇が震えて、うまく喋ることができない。

 一瞬のうちにリオネルの腕に抱えられて、建物に入った。背後で、ゴツッと鈍い音が幾度か響いたが、なんの音か考える余力もなかった。









 寝台に横たわらされる。

 びしょぬれになったドレスの背中のリボンを、リオネルはひとつずつ解いていった。


 肩から濡れた服を脱がされていき、恥ずかしさに身を縮めようとするが、凍りついた身体はただ震えているだけで、うまく動かすことができなかった。


「なにもしない――怖くないから」


 リオネルの口調は真剣だ。


 まとっていたものを取り払われると、リオネルはアベルの身体を毛布で覆った。身体はまだカタカタと震えている。


 毛布のうえからぎゅっと抱きしめられる。こんなに包まれているのに、寒さに支配された身体は体温を取り戻さなかった。


 寒い……。

 意識が遠のく。

 不意にかくんと首が傾き、名を呼ばれて我に返った。


「アベル、アベル――アベル!」


 リオネルの必死な声が耳元。


 もう一度アベルは笑ってみせようとした。大丈夫、と。

 けれど、意識の混濁に引きずり込まれて、身体じゅうから力が抜けていく。ただひたすらに寒かった。


「まずいな」


 いつのまに戻ってきたのか、ベルトランの声。


「このままでは危険だ」

「わかってる、だから焦ってるんだ」


 びしょぬれの金糸の髪を麻布で拭き、リオネルはアベルの頬に自らの頬を寄せた。


「――あいつは?」

「憲兵につきだしてきた。近く、裁判になるだろう」

「おれの手で殺したい」

「代わりにおれが半殺しにしておいたぞ」

「…………」


 二人の会話は、遠く夢のなかの世界のできごとのように感じられる。寒くて身体の震えは抑えられないのに、不思議なくらい眠かった。


「ベルトラン、少しだけ部屋から出ていてくれないか」


 リオネルのひとことに、すべて承知したふうにベルトランが無言で出ていく。


 ベルトランがいなくなった部屋。

 リオネルが自らの上着を取りさらう。

 アベルも毛布を取り払われ、リオネルの身体に包みこまれた。


 触れあう肌の感触。

 伝わる熱。

 わずかにリオネルが眉をしかめたのは、アベルの身体の冷たさのためか。


 冷静な判断などできなかった。

 触れあう肌の熱を求めて、アベルはリオネルの背中に手を回す。躊躇いがちだったリオネルの腕に力が加わり、アベルは強く抱きこまれた。


 触れあっているところから、氷の溶けいくがごとく、凍りついた身体が体温を取り戻していく。


「……あたたかい……」


 アベルはリオネルの硬い胸に頬を押しつけ、つぶやいた。


「ごめん」


 どうして謝るのだろう。

 熱を求めて身体を寄せるアベルを、リオネルはそっと髪を梳きながら、いつまでも抱きしめていてくれた。









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