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外は雨が降っているので、陽光を浴びないステンドグラスは色彩を失ったままで、神殿内は薄暗かった。
厚い壁によって雨音はほとんど遮られ、シュザンの靴が石の床とこすれる乾いた音だけが、いやに大きく響く。
だれも座っていない、幾列も並んだ椅子の脇を通りすぎ、シュザンは奥へ進んだ。
祭壇の背後には、女神の像が三体並んでいる。
戦旗と長剣を掲げているのは、戦いと勝利の女神アドリアナ。足元まで垂れ下がる聖典の巻物を手にしているのが、知恵と法律と公正の女神ラリサ。そして、天に手を伸ばし、穏やかな表情で宙を見据えて立っているのが、愛と平和と豊穣の女神リュドミーラである。
シュザンは、大神官以外は踏み入れることが許されていない祭壇場に上り、女神たちに深々と頭を下げてから、リュドミーラの足元に手を伸ばした。服の裾から少し外に出た石の足は、かたりと音を立て開く。その中から、手のひらほどの大きさの、鉄製の鍵が現れた。
鍵を強く握りしめたシュザンは、そこから通路を挟んだ斜め後ろに位置する、地下墓地へと通じる階段の前に立った。
階段の奥は光が届かないため、深い闇が漂っているだけだった。
近くにあった燭台を手に取り、シュザンは階段を降りる。十段ほど下ったその先に、揺らめく炎が大きな扉を映し出す。墓所への扉だ。
シュザンは肩で小さく溜息をついた。
「神よ、代々王家の霊よ、非礼を許したまえ」
小声でそう呟くと、シュザンは入手したばかりの鍵を鍵穴へ差し入れ、扉を開ける。
黴臭い冷ややかな空気が鼻をついた。
手にした燭台だけが、その場にある明りのすべてだ。
炎が照らし出す数歩先以外は、暗黒の――黄泉の世界である。
シュザンが足を進めると、シャルム王国代々の王族たちの棺が、すぐそばでほの暗い明りに次々と映し出された。シュザンは臆することなく、その脇を通りすぎる。
そしてシュザンは目にした。
……埃っぽい床に倒れている、ひとりの若者を。
両手足を縛られ、こちらに背を向けている後ろ姿へ駆け寄り、その肩に手を置こうとする。すると、先に声を発したのは若者のほうだった。
「……兄上、昨日は曾爺様がそこを歩いておられた……」
シュザンは一瞬、その手を止めて怪訝な面持ちになる。
「レオン……殿下?」
「…………」
静寂が、墓所内に広がる。
「――――シュザン?」
若者がはっとして振り返る。砂と埃に汚れ、少し痩せたように見えたが、まぎれもなくレオン王子その人だった。
「シュザン、おまえはまだあの世にいっていないはずだが……。おまえの身になにか起こったのか?」
わけのわからないことを言ってはいるが、ひとまず無事は確認できたので、シュザンの肩から緊張が抜けていく。
「レオン殿下、私は生きております。貴方をお探ししておりました」
そう言ってシュザンは短剣を抜き、レオンの手足を拘束する縄を断った。
「死霊ではないのか。そうか、よかった」
レオンは身体を動かそうとするが、長いこと同じ体勢でいたために、身体中に激痛が走り呻く。そんなレオンの身体を、シュザンは助け起こす。
「なにか起きたのは、殿下の御身です。いったい、どうなされたのですか」
レオンは床に座ったまま、立てた膝に肘をつき、その手に額を乗せて大きく溜息を吐いた。
「死霊になりかけていたのは、おれのほうか」
「シモンとクリストフは、殿下がディルクと共にアベラール領に向かったと申しておりましたが」
レオンは小さく鼻で笑った。
「そんな話になっているのか」
「お怪我などは?」
「大丈夫だ。昨日は、パンと肉の馳走もふるまわれて、腹も胸もいっぱいだ」
「いったい――」
「兄上だ」
シュザンは眉を寄せた。予想したとおりだった。
「なぜ、このようなことを」
シュザンの疑問に、レオンは視線を暗がりに向けて、小声で答える。
「……制裁、だ」
「制裁?」
「従騎士であるあいだに、あいつを殺せなかったことに対する制裁だ」
シュザンは眉間の皺を深くした。
「寝食を共にしていたおれなら、いつでも危害を加えることができたからな」
「まさか、貴方は――」
「それが、おれが従騎士になるときの、約束だった……リオネルを殺すことが」
「――――」
シュザンは苦い表情で、目の前の若者を見つめる。
疲れた顔をしていたが、レオンの口調は淡々としていた。
「殺せると思っていた。従兄弟といえども、一度も会ったことがなかったし、他人の命など、どうなろうが関心もなかった」
「……殿下」
「でも、あいつらと共に過ごしていたらできなくなってしまった」
レオンはうつむき、自嘲気味に笑う。
「楽しかったのだ。生まれてはじめて、だれかといっしょにいて楽しいと思った」
「私の目から見ても、とても仲のよい三人でした」
「……まあ、実行に移していたところで、ベルトランに返り討ちにあっていただけだっただろうけどな」
「けれど貴方は、実行に移さなかった」
「リオネルの心臓に剣を突き刺すなんて、今は想像もできない。正直、怖い。あいつがいつか兄上に殺されるのではないか。もうリオネルとディルクと三人で会える日が、二度と訪れないかもしれないと思うと、ぞっとする」
「殿下……リオネルのことは、ご心配には及びません。貴方がおっしゃったように、ベルトランもついています」
シュザンは自分自身にも同様の懸念があることは口にせず、青年を安心させるためだけに言葉をつむいだ。そのことに気づけないレオンではなかったので、レオンはシュザンの気遣いに「そうだな」とだけ返事をする。
「……それで、約束を違えた貴方を、ジェルヴェーズ殿下はこのようなところに監禁なさったのですね」
「兄上は容赦ない。目的を果たさずして戻ってきた刺客は、凄惨な拷問にかけられ、殺される」
「けれどレオン殿下に対して、ここまでなさるとは」
「食糧を持ってきてくれただけ感謝しなければな」
レオンは皮肉っぽく笑った。その様子は、今回の事態に驚いているようにも、傷ついているようにも、また怒りを覚えているようにも見えない。
レオンにとって兄の暴力など、幼少のころから日常的なことだった。今更、騒ぎたてるようなものでもない。
「まだおれを殺す気はなかったと見える」
「いつからここに?」
「あいつらが所領に向けて発った翌日だ。それから何日経った?」
太陽も月も昇らないこの地下は、外界と時間の経過の速度がまったく異なっていた。
一度だけジェルヴェーズが訪れた日が昨日だと信じているが、実際には、いつのことだかわからない。レオンにとっては数時間にも、もしくは数カ月にも感じられる異様な時間だった。
「三日です」
「三日……」
レオンは急になにかに気づいたようにシュザンを見た。
「シュザン、おそらく兄上はまたここに来る。おまえがここに足を運び、おれを助けようとしたと知れたら兄上は怒り狂う。おれはどのみち兄上の気がすむまでここにいなければならないから、おまえは早くここから出ろ」
「自国の王子を助けて、どうして咎められましょう」
「おまえもよく知っているだろうが、兄上にそんな理屈は通用しない」
「貴方をここに置いていくわけにはまいりません」
「心配はいらない。兄上は、おれを殺さないだろう」
「貴方は今、ディルクと馬車の旅をしているのです」
レオンはシュザンの言葉を頭のなかで反芻してから、首を傾げた。
「……は?」
「今すぐ王宮を出て、馬でアベラール領へ向かわれてください」
「なにを言っているんだ?」
「もとはといえば、ジェルヴェーズ殿下がおっしゃったことです。あなたが、ディルクと旅に出たと――。その貴方が、王宮に留まっているのもおかしな話です。ここは、兄殿下の顔を立てて、その話に乗ってさしあげましょう」
ぽかんとするレオンに向けられたシュザンの顔には、リオネルを思い起こさせるような温かい笑みが浮かんでいた。