第五章 ベルリオーズ公爵の決断、そして〝シャンティ・デュノア〟の死 52
「あああああ~」
おかしな声が部屋に響く。
「なんですかその声は」
マチアスが呆れた様子で言った。
「退屈で死にそうだ!」
「処理する政務は山のようにありますよ」
マチアスがどんと書類の束を机に置く。
「気が狂いそうだ!」
「ずっとぶらぶらしていましたからね。ツケです」
「ツケって……」
ディルクが顔を引きつらせた。
「ひどいな。命をかけてユスターと戦い、アベラール家の嫡男として王宮の新年祭に参加し、常に影からリオネルを支えているおれに言う台詞か?」
「それもひとつの真実です。けれど、ベルリオーズ邸でのんびり過ごす時間が長いのも事実でしょう?」
「それは、まあ、友人たちと交流を深める時間も大切ということで……」
「ほら」
「口うるさい従者は嫌われるぞ」
「けっこうですよ。むしろ嫌っていただければ幸いです」
「は?」
椅子に座って頬杖をついたままディルクは怪訝な面持ちになる。
「なんだそれは」
「私を守らないでくださいという意味です」
「おれがいつおまえを守った?」
ディルクは頬杖を外して、背もたれに身体を預けた。
「十年以上前のことか?」
ヴェルナ侯爵がマチアスを叩こうとしたことかと、ディルクはあえて尋ねる。けれどマチアスは淡々と言った。
「ディルク様、もし貴方が軟禁されるときは私もいっしょに軟禁され、貴方が牢に繋がれるときはいっしょに繋がれ、貴方が命を落とすときには私もいっしょに命を落とします」
「なんだいきなり。人には嫌えと言っておいて、おまえのほうはおれのことが大好きのような言い方じゃないか。おれはレオンと違って、そういう趣味はないぞ」
ディルクの冗談を無視して、マチアスは真剣に続ける。
「私ひとりを守るなどということを、なさらないでください」
「守ってなんていないよ」
素っ気なく答えれば、マチアスは深く――わざとらしいほどの溜息をついた。その態度にディルクは顔を引きつらせる。
「あのなあ、おれとおまえじゃ立場が違うんだ。おれが見逃されることも、おまえが見逃されるとはかぎらないんだぞ」
「やはり守ってくださったのではありませんか」
「だから守ってないって。この話は終わりだ」
強引に話を打ち切ろうとするディルクに、マチアスは頭を下げた。
「ありがとうございました」
ディルクは頭をかく。
「終わりって言っただろう」
「ディルク様に守られ、ひとり助かるくらいなら、私は貴方に嫌われたほうがいいのですよ」
「わかった、わかった。嫌いだよ。口うるさくてたまらないからね。これでいいか?」
「けっこうです」
変わったやつだなとディルクは苦笑した。
むろんマチアスの考えは、わかっている。真面目なだけに、今回のことに不甲斐なさを感じてしまうのは容易に察せられた。けれど、マチアスがなんと言おうと、ディルクなりに彼を守る覚悟はあった。
家臣にとって主人が大事なように、主君にとっても家臣はかけがえのない存在なのだ。
ディルクの立場だからこそ、マチアスのためにできることがある。
……こんなことは口が裂けても本人のまえでは言えないが。
「レオンはどうしてる?」
「ひたすら哲学書を読んでおられます」
淡々と答えるマチアスは、いつもどおりだ。
「あちらへ行かないようにと言ってくれたんだろう?」
「はい」
「よかった。父上はおそらく、レオンがリオネルたちの居場所を知っていることを察してる。あとをつけられたら最後だ」
「アベル殿は大丈夫でしょうか」
「リオネルがいるから大丈夫だろうとは思うが」
この先どうなるのか、ディルクにもマチアスにも予測ができない。
クレティアンがどう動くかに、すべてかかっているだろう。このままいけばリオネルとアベルはいつまでも街で暮らすだろうが、クレティアンがそれを許すわけがない。
リオネルと引き離されたら、アベルはこの先、生きていけるのか。
生活面もさることながら、精神的なところがなにより心配だった。
アベルはしなやかで強いが、触れるだけで壊れそうなほど脆い一面があることを、二人はよくわかっている。過酷すぎる運命を背負い、この先リオネルの支えなくしては精神が壊れていくような気がした。
「まあ、いざとなったらおれがお嫁にもらおうかな」
「それもいいですね」
「……おまえ、密かにそれを狙っていないか?」
「そんなことはありませんよ。様々な状況を想定しておくべきということです」
たしかにアベラール家なら、ブレーズ家とは対等な立場にはないので、シャンティを迎え入れても、さほど軋轢が生じることもなければ、もともと婚約者だったのだからだれも文句は言えない。
「リオネルと立場を変わってやりたいなあ」
ディルクの独り言に、マチアスが平らな声で評する。
「お人好しなことですね」
どう受けとっていいかわからず、ディルクは困惑の面持ちになった。
「たまにおまえの考えがわからなくなるよ」
「そうですか? 私の考えは常に一貫しているのですけれど」
――ディルクを支え、守り、彼が幸福であることを願うだけ。
けれどディルクはそんなマチアスの事情を察する由もなく。
「へえ?」
「ディルク様が理解するには百年早いですね」
乾いた笑い声をもらしてから、ディルクは椅子の背もたれに大きく背を逸らせた。
「あ~~~~~~外出たい」
「春になるまで待ったらいかがです?」
「冬眠する熊か、蛙か、リスか!」
「リスというほどかわいいものでもありませんし、蛙あたりではありませんか」
「蛙ね……」
「まだ大人になりきれていらっしゃいませんから、中途半端なオタマジャクシというところでしょう」
それが主人に言う台詞か、という小言を呑みこみ、ディルクは窓の外へ視線をやる。
……春には、外へ出られるのかどうか。
疲れた顔で、ディルクは書類の束に頭を突っ伏した。
+++
目覚めた瞬間から、身震いするほど寒い朝。
雪の降りしきる外の景色が、いっそう白く霞んで見えるのは、窓に張りついた霜のせいだ。
「アベル、おはよう」
アベルが目覚めたとき、珍しくリオネルたちはまだ支度をしている最中だった。リオネルたちが遅かったのではなく、アベルが早かったのだ。
「もう起きたんだ?」
「……おはようございます」
「眠たそうだね」
「……眠いというより、寒くて布団から出にくいです」
主人であるリオネルや師匠であるベルトランが先に起きているのに、自分だけまだ布団でもそもそしているなど、ベルリオーズ邸にいたころには考えられないことだ。
それだけアベルはこの生活で、リオネルに甘えるということができるようになったということだろう。
本当はそれではいけない気がしたが、リオネルが甘やかすので、アベルもつい気が緩んでしまう。
顔を洗い終えたリオネルが、アベルの眠る寝台のそばまできた。
さすがにこのままではまずいと思って身体を起こそうとすれば、リオネルに軽く押し戻される。
「朝ご飯はまだしばらくできないから、アベルは寝ていて」
「そういうわけには……」
起きあがろうと寝台に手をつくアベルの前髪に、リオネルはそっと手を触れ、少し乱れたそれを耳にかけてくれた。そうしながら、おかしそうに尋ねてくる。
「いつもはぐっすり寝てるのに?」
「そ、それは、行動が気持ちについていかなくて――」
アベルが慌てると、リオネルは笑った。寝台に戻れば髪はどうせ乱れるのに、リオネルはアベルの長い髪を指先で梳いて整える。その仕草が愛おしげで、こちらはなんとも照れくさくなった。
「暖炉の火も熾していないんだ。せめて部屋があたたまるまで、布団に入っていて。アベルはまだ病み上がりなんだから」
リオネルの言葉よりも、リオネルの髪を梳く仕種に、アベルは抵抗する意欲をそがれてしまう。
おとなしく半身を寝台に戻せば、リオネルの口づけがひたいへ降ってきた。
少し長めの口づけ。
リオネルの温度を感じて、アベルは不思議な心地になる。
「温まった?」
アベルの顔が真っ赤になったのを見て、リオネルがくすりと笑った。
「な……」
からかわれた!
アベルが表情を険しくするより先に、「冗談だよ」とリオネルが微笑する。
嘘、とアベルは思う。
絶対にリオネルはアベルの反応を楽しんでいる。
ぷいと顔を背けると、今度は頬に、髪に、瞼に、耳に、首筋に……キスの雨を降らされてくすぐったい。まだからかおうというのか。
「リオネル様!」
抗議の声をあげて振り返れば、ごめん、とリオネルがすぐに謝った。どこかバツの悪いその表情にアベルは、あれ、と思う。
「ご飯作ってくるから、待ってて」
どうしてそんな気まずい顔をするのだろう。
リオネルは立ち上がった。
怒りすぎただろうか。
すれ違った際にベルトランが、ちらとリオネルを見やったが、リオネルは視線を合わせずに居間へ向かった。
内心で首をかしげつつも、リオネルの言葉に甘えてあちらの部屋が暖まったころに起きだす。居間に顔を出せば、リオネルが顔を上げ、
「二度目のおはよう」
と笑った。
いつもと変わらぬリオネルの様子にアベルは安堵する。さっきの違和感は気のせいだったのかもしれない。
「ちょうどよかった。もうできるところだよ」
……早い。
料理の手際が良すぎる。はたしてリオネルはベルリオーズ邸の嫡男……ではなく料理人だっただろうか。ベルリオーズ邸の厨房で、密かに腕を振るっていたのだったりして。
「リオネル様は、これまで料理をされたことがあるのですか?」
「従騎士時代にディルクやレオンとひととおり基本は習ったよ」
「それだけですか?」
「他になにがあるの?」
「い、いえ」
まさかベルリオーズ邸で料理をしていたとは、アベルも本気で思ってはいないが。
「それにしても、従騎士時代にはレオン殿下までお料理を? そんな高貴な方々がやるなんて」
「戦場へ行けば、食事の用意をするのは従騎士だからね。立場なんて関係ないよ」
そうはいっても、実際の戦場でレオンやリオネルが炊事をすることはなかったのではないかと思う。そんなことになれば、他の騎士たちが恐縮してしまうはずだから。
「アベルはまだ教わっていないのだろう?」
山賊討伐やユスターとの戦い、王宮での五月祭や新年祭など、忙しかったため、従騎士としての教育を受ける時間がなかったというのはたしかに事実だが、料理が苦手で、他の仕事ばかり選んでやっていたというのもひとつの理由だ。
「仕事に慣れてきたら、夕飯もおれがつくるから」
「そういうことでしたら、今度はわたしが働きに出ます」
食事をよそっていたリオネルが手を止め、え、と目を丸くした。
「わたしが稼いで、リオネル様が家事をしたほうがいいような気がして」
配膳しながら話を聞いていたベルトランが笑う。
「たしかに」
「笑いごとじゃないよ、ベルトラン。アベルをそとで働かせるなんて」
苛立った口調でリオネルに言われ、ベルトランはすぐに笑いをひっこめた。
「そのほうが、私は性に合っていると思うのですが」
配膳を手伝いながらアベルは少し食い下がってみたが、きっぱりと却下される。
「アベルを働かせるなんてできないよ」
「力仕事とかではなく、給仕や売り子、踊りを教えるくらいならいいのでは」
「給仕や売り子に、踊り……」
リオネルは頭を押さえた。
「大丈夫ですか?」
「この話はやめよう。想像するだけで頭が痛くなってきた」
リオネルはまったく心配症すぎると思う。これまでのことがあるからなおさらなのかもしれないが、もともとアベルは家でじっとしている性分ではないのに。
それでもリオネルの意志に従うのは、彼の気持ちを受け入れているからだ。
アベルを愛してくれているからこそ、リオネルは心配している。
それを知った今、アベルは彼の意見を聞き入れる努力もするし、自分自身を大切にしようとも思っていた。
用意の整った食卓で料理に手をつけるまえに、アベルはリオネルへ視線を送る。
気づいたリオネルが顔を上げた。
「心配しないでください。リオネル様が不安に思われるうちは、勝手にそとへ働きに行ったりしませんから」
リオネルの表情がかすかに動く。
「この家で、慣れない家事をしてリオネル様のお帰りを待つのが、わたしの幸せです」
リオネルのしなやかな手がのびて、アベルの頬に触れた。言葉はなかったが、リオネルの気持ちはその温かい手から伝わってくる。
食事を終えると、リオネルはいつもどおりアベルの髪を器用に結わえてから、仕事へと向かった。