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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
488/513

51








 閉まった扉の向こうで、リオネルとマリナがなにを話したのかはわからない。

 待っているあいだ、ベルトランはひと言も発しなかった。


 少し経つと、リオネルが部屋の扉を開ける重たい音が響く。椅子から立ちあがって、おかえりなさいと言いたいのに、アベルは顔さえ上げることができなかった。


 そばへ歩んでくる気配に、緊張する。

 どうしてだろう、相手はいつものリオネルなのに。


 アベルの座る椅子の横にしゃがんで、リオネルはアベルと目の高さを合わせた。


「アベル……」


 呼ばれて、アベルは小さくうなずいた。

 リオネルが悪くないことはわかっている。だから、怒ってもいないし、いじけてもいない。それなのに、うまく振る舞えない。


「ごめん」


 謝られたので、アベルは無言で首を横に振った。

 違う、怒っていない。

 素直に振る舞えない自分が哀しい。


「傷つけてごめん」


 ――傷つく……?

 だれが傷ついているというのだろう。


「アベルにあんな姿を見せて、ごめん」


 傷ついてなどいない。

 リオネルはきっと不可抗力だったのに、責めるような態度をとった自分が悪いのだ。リオネルが女性相手に強硬な手段に出られるわけがない。わかりきっている。

 だから、今後は大きく首を横に振ってみせた。


 リオネルはアベルに触れてこない。

 そうさせているのは自分だというのに、胸が潰れそうだった。


「そんな顔をさせるくらいなら、いっそ責められたほうがいい」


 リオネルの言葉の意味がわからない。


「どうしておれを責めない? 傷ついたのは、アベルのほうなのに」

「……わたしは」


 咄嗟に声を発したが、言葉が続かない。

 わたしは、なんなのだろう。

 自分は、平気……?

 平気、なのだろうか。


 リオネルの言葉の意味がようやくぼんやりとわかった気がして、アベルは胸が苦しくなる。自分は平気なんかではなかったのだろうかと、他人事のように思った。


 リオネルとマリナの姿に、頭では違うとわかっていても、心の底では深く傷ついていたのかもしれない。情けないことだが。


「もっと早く話しておくべきだった」


 リオネルの前置きに、アベルはこれから彼の話そうとしていることを悟る。それは聞きたくないことだった。


「実は彼女から告白された」


 ……そうだろう。

 マリナの気持ちはアベルもよく知っている。


「けれど、おれは少しも彼女に興味がない。そのことは、はっきりと本人にも伝えたし、ここでアベルにもきちんと知ってほしい」


 アベルはうなずいた。けれど、なんだか頭はぼんやりしている。


「それでもあんな状態になりかけたのは、おれに隙があったからだ。女性が、男に迫られるのとは違う。おれは男で、相手は女性で、押し返すことも容易にできたはずだった。だから――すまなかった」


 マリナを押し退ける力はあっても、女性に対して力づくで物ごとを運びたくないと思うリオネルの考えを、アベルは充分理解している。


「彼女にはさっき、もう一度はっきりと伝えてきた。もう彼女がおれにかまうことはない」


 アベルはうつむいたまま、もう一度うなずいた。

 リオネルの言葉を信じないわけではない。いや、真実だとわかっている。

 顔を上げなくては。

 リオネルに、大丈夫だと伝えなくては……。


「アベル?」


 リオネルは不安げに尋ねてくる。


「おれに怒ってくれてかまわないんだ。思いきりひっぱたいてくれてもかまわない。だから、なにか言ってくれないか」


 顔を上げたアベルは、頬に伝う、くすぐったい感触をぬぐった。

 手のひらを濡らすのは自分の涙なのだと、はじめて気づく。


 アベルの涙を目にしたリオネルは、苦しげな表情だ。けれど、リオネルはいつものようにアベルを抱きしめようとはしない。


「――ごめん、アベル。本当に」


 アベルは首を横に振った。


「ちが、違うのです。驚いただけなんです。リオネル様は悪くありません」


 ようやく声を発すれば、気持ちを自覚するより先に言葉が口をついた。


「怖かったんです」


 リオネルの視線を痛いほど感じる。


「マリナさんから、リオネル様を奪うと宣言されて。マリナさんはとても魅力的だし、わたしはこんなふうだから、すごく不安で……」


 躊躇いがちにリオネルの手がアベルの頬へと伸びる。

 伸ばされたリオネルの手に、今度こそアベルは身を引かない。


「触れても、かまわないか?」


 アベルは小さくうなずいた。


 包み込むように頬に触れるリオネルの大きな手。

 そのまま顔を上向かされれば、澄んだ紫色の瞳と視線が絡みあう。


「アベル以外におれを惹きつけるものは、この世界のどこを探したってひとつもないよ。アベルは自分の良さに、少しも気づいていない……おれが、本当はどれほど余裕がないかということにも」


 リオネルの顔が近づき視界が暗くなる。そして。


「ずっとこうしたかった」


 ――唇に柔らかいものが触れた。


 口づけを受けたのだと気づくまでに、時間がかかる。

 ジェルヴェーズにされたのとは違って、優しく唇が触れあうだけのキス。

 触れあう温度と感触。

 リオネルの唇なのだとあらためて思えば、胸が熱くなった。


「――――」


 離れていくと同時に、アベルはふわっと我に返ってたちまち顔が熱くなる。すぐにアベルはリオネルに引き寄せられ、抱きしめられた。


「うまく伝えられなくてごめん。嫌なものを見せてごめん。心配かけて、ごめん。不安にさせてごめん。……赦してほしい」


 アベルはリオネルの肩に頬を寄せて目をつむる。


「……はじめから赦しています」

「アベルのことが好きだ」

「ちっとも女性らしくないし、胸も大きくなくて、短気で不器用で、あんな過去があって、リオネル様に迷惑かけてばかりなのに……?」

「胸の大きさなんて気にしていたのか?」


 苦笑しながらも、リオネルは優しい声だった。


「どんな過去があったって、アベルが自分のことをどう思っていたって、それもすべてひっくるめてアベルのことが好きだ」


 またアベルは涙が出そうになる。


「わたしの身体、汚くないですか……」


 思い切って尋ねれば、リオネルの腕に力がこもった。


「そんなことを言うな。汚いわけがない」

「三年前、わたしは……」

「アベルのせいじゃない」

「わたしは穢れて――」

「穢れてなんかない」


 言いかけた言葉を、リオネルの強い口調に遮られる。


「むしろ、綺麗で、大切で、触れるのを躊躇うくらいだ」


 あふれる想いはとても言葉になりそうにない。こんな身体を、綺麗だと……。

 涙が込み上げてリオネルの肩にひたいを押しつける。

 言葉にならない想いや、感謝の気持ちを伝える代わりに、アベルは小さくつぶやいた。


「……マリナさんなんかにキスされそうになって、リオネル様の大馬鹿」


 アベルを強く抱きしめながらリオネルが笑う。


「やっと本音を言ってくれたね」


 ささやくように優しく言われ、泣きながらも、だんだんとアベルは腹が立ってきた。


「わたしは怒ってるのに、リオネル様はどうして笑っているんですか」


 するともう一度リオネルは小さく笑った。ごめん、と。

 結局笑っているではないかと思ったが、アベルの気持ちは落ちついていた。


「もう絶対にあんなことにはならないよ。約束する」


 アベルはうなずく。

 ベルトランはどこにいったかわからないくらい存在感を消している。あんなに大きな身体なのに。


 ベルトランの気遣いに甘えて、アベルは目を閉じ、髪を撫でてくれるリオネルの手をいつまでも感じていた。






+++






 セレイアックに再び舞いはじめた雪は、隣の領地であるデュノア領も、白く染めている。


 静まり返った食堂。

 オラスとベアトリスは時折話をするものの、だいたいは沈黙のうちに食事をとっていた。


 使用人やメイドたちは淡々とそれぞれの仕事をこなしていたが、デュノア邸に流れる緊張感にも似た空気は無視できないものだった。


 薪の爆ぜる向こう側に、雪の舞い落ちる音が混ざって聞こえてくるようだ。


 長年門番を務め、二年ほど前から館内の警備へ配置換えしたエリックは、警備の任務につきながら、食事をするデュノア伯爵夫妻の様子を見守っていた。

 すっかり変わってしまったこのデュノア邸の雰囲気に、エリックは戸惑いを覚えずにはおれない。


 今から思えば、変わりはじめたのは三年ほど前――シャンティが館からいなくなったころからだろう。

 館じゅうを走りまわる子供たちの姿、諌めるトゥーサンの声、エマやカトリーヌをはじめとする使用人らの明るい表情……それらが、シャンティがいなくなったその日から失われた。


 さらにカミーユとトゥーサンが王宮へ行き、デュノア邸は火が消えたようになった。

 それでも、オラスはベアトリスを気遣い、ベアトリスはオラスに絶えず話しかけ、仲睦まじい様子だったのだが。


 エマが行方不明になり、続いてカトリーヌまでが館から姿を消したその翌日からオラスは突然視察に出掛け、一週間近くも戻らず、帰館したときにはベアトリスとのあいだにわずかな距離が感じられるようになっていた。


 二人のあいだになにがあったのか。


 エマは――カトリーヌは、どこへ消えたのか。


 恋人とかそういうのではまったくないが、カトリーヌとは友人として交流があったので、エリックは彼女の安否が気になっていた。なにかとんでもないことに巻き込まれているような予感がする。


 シャンティの追放、エマとカトリーヌの失踪、十年以上前にオラスにすがっていた若い女、そしてオラスの辺境視察……。


 すべて繋がっているのか。


 考えにふけっていたエリックは、カタンと小さな音がして、視線を食卓へ向ける。と、オラスのグラスが倒れ、葡萄酒が絨毯にまで滴って濃い染みをつくっていた。

 布巾を持ったメイドが食卓へ駆け寄る。


「お召し物は汚れませんでしたか?」


 気遣う様子でベアトリスが尋ねた。

 デュノア邸においては様々なことが変わったが、ただひとり、ベアトリスだけはこれまでと変わらない。以前と変わらぬ落ち着きと美しさで、平然と過ごしているようだった。


「いや、大丈夫だ」


 オラスが短く答える。


「なにか気がかりでも?」


 ベアトリスに問われたオラスは微妙な面持ちになった。


「わたくしのしたことが、赦せない?」

「そうでは、ない」


 ベアトリスに対する態度にしては珍しく、不機嫌そうにオラスは答える。オラスはいつもブレーズ家の姫であるベアトリスを丁重に扱っているからだ。


 ベアトリスがしたこととはなんだろうと、エリックは密かに考えを巡らせる。オラスの態度が変わった時期を思い起こせば、カトリーヌの失踪に関わることだろうか。

 けれどいくら考えたところで、エリックにわかるはずもなかった。


「あれが元の場所に戻っていたら、いろいろと問題が生じるだろう」


 なにか言い訳するような口ぶりでオラスは言う。


「そのことならご心配なさらないでください。先方に伝えたことが真実となっただけのことですから」


 シャンティとベルリオーズ家の関係を二人は話しているのだが、この部分だけを聞いてもむろんエリックには意味がわからない。


「だが、経緯が知られる」

「すでにこの世にはいない者の話です。今更どこでだれが騒ぎたてようと、かまわないではございませんか。いざとなれば兄が動いてくれます」


 オラスは低く唸ってから、膝にかけていた布巾を完全に食卓のうえへ置いてしまった。料理はまだ残っているが、もう続ける気はないようだ。


「召し上がらないのですか?」


 静かにベアトリスが尋ねる。


「味付けが濃すぎる」

「……料理番に伝えておきましょう」

「そなたはゆっくり食べていてかまわない」


 そう言ってオラスは席を立とうとしたが、引き止めたのはベアトリスだ。


「オラス様がお立ちになるのなら、わたくしも」

「まだ途中ではないのか」

「かまいません」


 大公爵家の令嬢だったというのに、このような辺境の小さな領主に嫁ぎ、しかもオラスに対する態度は常に健気である。

 館にいるだれひとりとして、ベアトリスがシャンティやその母親に対して行った仕打ちを想像できる者はなかった。


 オラスはわずかに表情を動かし、一拍のを置いてベアトリスに言葉を向ける。


「――無理をするな」

「オラス様のおそばにいるのが、わたくしの務めでございます」

「ならば、そなたが食べ終わるまで待とう」

「そのような……」

「ちょうど蒸留酒オー・ド・ヴィーを飲みたいと思っていたのだ」

「こちらで?」

「どこでもかまわない」

「では、おつきあいいたします」

「あれは強いから、そなたは少しにしておいたほうがいい」


 結局はいつもベアトリスの勝ちだと、エリックは思う。

 普段からオラスはベアトリスに心底惚れているというふうでもないが、円満な関係を築いている――あるいは最終的にはベアトリスの思い通りに事が運ぶのは、ベアトリスがうまくやるからだろう。


 男に惚れた女は、とことん相手に尽くすものだとエリックは思う。

 そのとき、ふとカトリーヌの顔が脳裏に蘇り、エリックは慌ててかぶりを振った。なぜ今ここで彼女を思い出すのだ。


 カトリーヌはいつもシャンティやエマのことで頭がいっぱいで、だれにも惚れそうにないなとエリックは心のなかで苦笑する。


 けれど苦笑もすぐに消えてしまうのは、どこにいるのか――無事でいるのか、安否が気がかりだったからだ。






+++






 小間物屋のあるセルヴァント通りを一本入った裏道に、ひそひそと話す声がある。

 積まれた酒樽の影に立っているのは、ひと組の男女だ。


「へえ、気に入らないのは、自分より美人だからか?」


 意地悪く口端を吊り上げる男は、身なりをある程度整えてはいるものの、街のごろつきといった風情である。


「お黙りなさい、ジャック」


 きっと睨み上げたのは、小間物屋の二階に住むマリナだ。


「ああ、それとも相手の男に惚れたか? 振り向いてもらえない腹いせとか」

「その唇を、釘と麻糸で縫い付けてやるわよ」

「図星か」


 にやにやするジャックの頬を、マリナはパシンと平手で叩く。


「いってえな……」


 ジャックの瞳に険悪な色が滲んだ。けれどマリナは慣れた様子で、ふんと鼻を鳴らす。


「あの子に拳で殴られたよりは痛くないでしょ。あなたは黙ってわたしの言うことを聞いていればいいのよ」

「黙って言うことを聞く? なんでおれがおまえの言うことを聞かなきゃならないんだ。他を当たれよ」


 立ち去ろうとするジャックの腕を掴んで引き寄せ、マリナは耳元にささやいた。


「無償で相手をしてあげる」


 振り返ったジャックの口元を、薄く笑みがかすめる。


「どこで」

「わたしの部屋」

「いつ」

「夜は仕事だから、陽が明るいうちならいつでも」

「一回だけ?」

「すぐに実行してくれるなら、お礼として何回か相手してあげてもかまわないわ」


 返事の代わりにジャックはマリナの腰を引き寄せ、強引な仕種で唇を塞ぐ。マリナはジャックの腕のなかで暴れた。

 頭を左右に振って唇を離すと、小声ながらも苛立った様子で怒鳴る。


「離れなさいよ!」

「いいんだろう?」

「きっちり交渉が成立するまでは、キスだってさせないわ」

「交渉とやらは成立した」

「引き受けるということでいいのね」

「いいぜ」

「わかったわ」


 マリナは斜めからジャックを見上げた。


「一回目はいつがいいの?」

「いますぐだ」


 片眉を吊り上げてから、マリナは無言で踵を返す。そのマリナのあとを、やはり無言でジャックが歩み、二人は小間物屋の二階へ消えた。









 ただいま、とリオネルが帰ってくる。その瞬間が好きだ。

 狭い部屋なのに、やっていたことを放りだしてアベルは出迎えにいく。


「おかえりなさい、リオネル様」


 あの日からリオネルは家に帰ると必ずアベルを抱きしめ、ひたいに軽く口づけしてくれるようになった。


 洗濯に、買物に、料理に、掃除に……毎日慣れない家事で大忙しだが、この瞬間があるから頑張ることができる。大切な人たちのために努力するのは、アベルの喜びだった。


「今日はなにか困ったこととかなかった?」

「大丈夫ですよ」


 毎日、帰ってくるたびにリオネルは聞いてくる。マリナの一件から得た教訓で、気になることはお互いに話しておくべきだと考えたようだった。


「ディルクたちは今日もこなかった?」

「はい」

「そうか、忙しいのかな」


 少し残念そうにリオネルが言う。


「リオネル様のお仕事は、いかがですか?」

「子供たちは二人ともかわいいよ」


 十歳と十二歳の男の子を教育しているリオネルの姿を思い浮かべて、アベルはそっとほほえむ。


 ベルリオーズ家の嫡男が、セレイアックで家庭教師をしているというのも不思議な話だが、リオネルならきっと上手に教えるのだろう。今リオネルから教育を受けている子供たちは、とても幸運なのではないだろうか。

 いや、それを言うなら、恋人である自分が一番の幸せ者かもしれない。


 幸せだった。

 久しぶりに得た安らかな日々。


 剣も握らず、人も斬らない。

 リオネルの命が狙われることに神経を尖らせなくともいい生活。

 マリナもあれ以来アベルに話しかけてこない。リオネルの顔を見ても、ぷいとそっぽを向くようになった。


 それでも完全に幸福に浸りきれないのは、リオネルが戻るのを待っている人たちがいるからだ。

 クレティアンの心配はいかばかりだろう。

 ベルリオーズ家の騎士たちは……ディルクやレオンとて、本当はリオネルに戻ってもらいたいと思っているはずだ。


 それに自分にはイシャスがいる。

 彼がエレンを母親と信じていたとしても、アベルにとってイシャスが大切な存在だということに変わりはない。会って、抱きしめて、大好きだと伝えたかった。


 そして、アベルの心を時折ひどく不安定にさせるのは、幸福への恐怖だ。

 周囲の優しさが――リオネルの愛が、アベルには怖かった。


 運命のいたずらで手に入れた幸運を、いずれ失うだろうと予感する恐怖は、かつて味わったことがないくらいにアベルを苛む。

 かつて味わった苦しみが、永遠に外れぬ重い足枷となって、アベルに絡みついているようだった。


「なにを考えてるんだ?」


 顔をのぞきこまれて、はっとする。


「な、なんでも……」

「難しいことは考えない」

「そんな難しい顔をしていましたか?」

「おでこに書いてあったよ。難しいことを考えていますって」


 アベルは咄嗟にひたいへ手をやる。


「よっ、読んだらだめだと言ったはずです」

「書いてあるから、つい」

「だめです」


 あいかわらず二人の冗談のような会話に、ベルトランは黙って鍋をかきまわしている。


「アベル」


 リオネルに名前を呼ばれ、アベルはひたいに手をあてたまま顔を上げた。

 すっとリオネルの顔が近づいてきて、不意打ちのようにリオネルの唇がアベルの口元をかすめる。


「はい、難しいことを考えるのは終わり」


 ひたいに置いていた手を、思わずアベルは自分の唇にやった。


「顔が赤いよ。どうしたの」


 涼しい顔で尋ねてくるリオネルに、アベルはまなじりを吊り上げる。


「リ、リオネル様のせいです!」

「考え込んだり、照れたり、怒ったりと忙しいね」

「リオネル様がからかうからです!」

「からかってなんていないよ。おれはいつでも本気でアベルに口づけしてる」

「…………」


 まったくリオネルはどこからどこまでが本気なのか冗談なのかわからない。自分のペースを取り戻さなければとアベルは深呼吸する。


「リオネル様は戻られたばかりなんですから、先に服を着替えて、暖炉のまえで暖まってください。そのあいだに、わたしはベルトランと夕飯の支度をしますから」

「おれも手伝うよ」

「いいんです、リオネル様は休んでいてください」


 きっぱりアベルが言うとリオネルが笑った。


「な、なんで笑うんですか?」

「なんでもない」

「気になります」

「教えてあげない」


 アベルは片方の頬を膨らませる。とリオネルがさらに笑った。


「怒らないで、アベル」


 やはり、すっかりリオネルのペースだ。

 こちらとしては、からかわれてばかりいるとしか思えない。


 頬を膨らませたまま無言で料理場に立つと、「ごめん」と、背後から抱きすくめられた。

 耳元で低くささやかれた言葉は――。


「……笑ったのは、アベルと結婚したらこんな感じなのかなと、ふと思ったから」



 ――け、結婚。



 アベルは硬直する。

 またたくまに顔の温度が上昇して、顔から耳まで発火してしまうのではないかと思った。


「リオネル、いい加減にしておけ」


 ついにベルトランが口を挟む。


「ごめん、つい、かわいくて」

「アベル、大丈夫か」


 ベルトランが声をかけてくれる。


「か、顔洗ってきます」


 水で温度を下げなければ、本当に火が出そうだ。


「ちょっと待ってて、洗面器に水を用意してくるから」


 甲斐甲斐しく世話をしてくれるリオネルに、だれのせいだと思っているのだと心のなかで文句を言いかけたとき、あれ、と気づいた。

 いつのまにか悩み込んでいたことは、頭から離れている。


 難しい顔をしていたアベルを、リオネルは元気づけてくれたのだと、はじめて気づいた。


 …………。

 自分はなんて子供なんだろう。


 水を用意してくれているリオネルの広い背中が、無性に愛おしい。

 リオネルの背後に近づくと、背中にぽすっと抱きつき、腕をまわす。


「アベル?」

「……ありがとうございます」


 少しばかり戸惑う様子が、リオネルには珍しい。


「いいよ、これくらい。おれのせいだから」


 そうではなくて、と思ったが、あえて言わない。リオネルはきっとすべてわかっているだろうから。

 好きだ――リオネルのことが好きで好きで、どうしようもない。


 言葉に出して素直に伝えられるようになるためには、あとどれくらい距離を縮めればいいだろう。

 背後から抱きつくアベルの手に、リオネルは黙って手を重ねてくれた。












誤字脱字報告ありがとうございます!



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