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「アベラール侯爵様」
ディルクが出ていった直後、慌てた様子だったのはジュストだ。
アベラール侯爵がここまでするとは、ジュストも――おそらくクレティアンでさえ予測していなかっただろう。
「ディルク様にこのような――」
「あれはすべて知っているだろう。リオネル様がディルクに居場所を告げぬはずがない」
「けれど」
「そなたは疲れただろうから、休んでいなさい」
ぴしゃりと言われて、ジュストは口を閉ざさざるをえななかった。
「マチアス」
アベラール侯爵に呼ばれて一礼したものの、マチアスは顔を上げようとしない。
「ディルクに手荒なことはしない。安心しなさい」
今になってマチアスは気づく。なぜディルクが、リオネルの借りたセレイアックの部屋へマチアスを連れていこうとしなかったのか。
マチアスがリオネルの居場所を知っていて黙っていれば、アベラール侯爵やクレティアンを欺くことになるからだ。
ベルリオーズ家の嫡男の行方と命がかかっている。居場所を知っていて吐かないとなれば、王子であるレオンはともかく、マチアスなら罪を問われてもしかたのないことだ。
ディルクはひとりですべてを背負ったのだ。
「そなたは居場所を知らない。そうだろう?」
そのことはアベラール侯爵も理解しているようだった。さすがに息子の行動をよく読んでいる。
「……ディルク様は、私には過分な主です」
返事の代わりに、先程と同じ言葉をマチアスはぽつりとつぶやいた。ひとりだけ守られたのだとわかれば、不甲斐ない思いに襲われる。
「ディルクは自室に軟禁する。政務はこれまでどおり処理させるから、前後の処理は引き続きそなたがやるように」
マチアスは無言で頭を下げた。
つまり政務を行うときには、会うことができるのだろう。おそらく扉のそとには監視付きで。
けれどいかなる理由であれ、忠誠を誓った相手を軟禁されて、マチアスが侯爵に心を開くわけがなかった。
「ご配慮、ありがとうございます」
アベラール侯爵に礼を述べる声は、ひたすらに硬かった。
+
アベラール侯爵の部屋をマチアスと共に辞してから、レオンは頭をかいた。
「大変なことになったな」
マチアスは無言で視線を落としている。
「しかし、あれだ。ディルクが危害を加えられることはない。ここはアベラール邸なのだから」
我ながらつまらない慰めを口にしているとは承知しながら、レオンは他に適当な言葉も思い浮かばなかった。
「レオン殿下」
ひたすら平坦な声で名を呼ばれて、レオンはぎくりとする。マチアスをこれほど怖いと思ったことはない。
「な、なんだ」
「……おそらく殿下の行動はこれから見張られます。ディルク様以外で、唯一リオネル様の居場所を知りうる方だからです」
「な、なるほど」
「しばらくリオネル様のもとへは行かないほうが賢明でしょう」
「あとをつけられるということか」
「ディルク様のご意思は守りたく存じます」
アベルの様子を思い出して、レオンは軽く眉根を寄せる。
向かいに住む女の件も心配だったが、なにより、ディルクとレオンが来てアベルは心から喜んでいる様子だった。
これまで様々なことがあって、アベルが不安定になっているのだろうことは容易に察せられた。
リオネルとベルトランが、ぎりぎりの状態で精一杯やっていることもわかる。
加えてディルクとマチアスもこの状況だ。いったいどうしたら……。
レオンは内心で深く溜息をついた。
+++
扉を開ければ、瞬時に冷たい空気が入り込む。
その空気にあおられて、部屋を満たしていた暖炉の薪の香りが、ふわりと動いた。
「じゃあ、行ってくるね」
「お気をつけて」
アベルは背の高いリオネルを見上げる。
今日から家庭教師の仕事をはじめるリオネルを見送りながら、アベルはかつて迷い込んだこともない迷宮を彷徨っていた。
――恋人なら、相手が家を出ていくときくらい、自分から頬に口づけをするものだろうか。
いや、無理はしなくていいと言っていたし……本当はきちんと形で気持ちを伝えたいのだけれど……と、アベルはひとり悶々と悩んでいる。
ちなみに今朝も、リオネルが髪を結ってくれていた。両脇に大きく作った三つ編みを、左側で全体の髪と共にひとつに束ね、さらに束ねたそれを形よく編み込んでいる。とてもアベルにはできない術だ。
「難しい顔で、なにを考えこんでいるの?」
「なっ、なにも」
途端に顔が熱くなった。慌てて頬に手をやれば、軽く抱き寄せられる。
「アベルはなにも心配せず、昼寝でもして待っていて」
「……昼寝をしていれば、すぐにリオネル様がお戻りになりますか?」
切ない気持ちで尋ねれば、抱き寄せる腕に力が入る。
「そんなことを言われると、初日から仕事へ行けなくなりそうだ」
力強いリオネルの腕に包まれているときだけは、自分の出自も、辛い出来事の数々も、クレティアンのことも……なにもかもを忘れていられるような気がした。
けれどアベルは分かっている。
これが泡沫の夢であることを。
ベルトランがごほんと咳払いをした。
「ああ、また時間を忘れそうだった」
リオネルは名残惜しそうにゆっくりとアベルを解放する。
「最初から遅刻では解雇されてしまうね」
冗談を言うリオネルに、アベルは小さく笑い返した。
リオネルとベルトランを見送り、扉を閉めると、アベルはしばらくぼんやりと立ちつくしたまま、格子戸の開け放たれた窓を眺める。
穏やかな時間、何気ない日常。
だれもが経験するような恋人としての関係。
――普通の幸せ。
嵐の日から失われたはずのものたち。
けれど、幸福と隣り合わせに存在する不安。
それは、多くの犠牲のうえにある、束の間の儚い幸福だから。
アベルは立ちつくしたまま、不意にマリナの顔が脳裏をかすめて首を横に振った。
犠牲のうえにある幸福だからこそ、アベル自身のなかに、ある種の焦りが存在することを感じる。
それを象徴するのが、マリナの残像のようだった。
この生活を選んでくれたリオネルは今、幸せだろうか。
恋人になったのに、特に恋人らしいこともしていない。リオネルが思う〝恋人〟とはいったいなんなのだろう。
この生活はいつまで続けられるのだろう。
未来を描くことは、とても難しかった。
あれこれ考えたが、結局答えは出ないので、アベルは今夜の食事の買い出しに出かけることにした。もともとあれこれ悩むのも、じっとしているのも苦手だ。
籠を手にして、朝食の香りが残る部屋をアベルは後にした。
+
ひとり街に出ると、空は低く雲が立ち込めていた。
雪は止んでいる。
人々の行き交う活気ある通りを歩けば、アベルはあちらこちらから声をかけられた。
「かわいい子ちゃん、安くしておくから靴を買っていかないか?」
「新しい絹のリボンが店に並んでるよ。見においで」
と、お店の呼び込みもあれば、
「ね、ひとり?」
「今から遊びにいこうよ。おごるからいっしょに食事でもどう?」
と、誘ってくる者もいる。気づけば何人かの若者にアベルにつきまとわれていた。
こんなに声をかけられるというのは、きっと自分に隙があるということだろうとアベルは思う。アベルは気を引き締めた。
「ごめんなさい、忙しいので」
きっぱり断って足早に歩き出すと、幾人かは諦めたが、残りの若者はまだしつこくついいてくる。
「綺麗な金髪だけど、ローブルグ人?」
アベラール領はローブルグに近いためか、近頃よく聞かれる質問だ。
「シャルム人です」
……半分はローブルグ人らしいが、面倒なのでシャルム人だと答えておく。
「どこに住んでるの? 名前は? 恋人はいるの?」
一度にあれこれ聞かれて、アベルは最後の問いにだけ答えた。
「大切な恋人がいます」
「こんなに綺麗じゃ男がほうっておかないもんなあ。大切って言ったって、気は変わるもんだよ? おれのほうが絶対に優しいって。今の彼とは別れて、おれとつきあおうよ」
「遠慮しておきます」
即答したが相手は動じない。
「そういう態度もそそるね」
「おい、おまえばっか口説いて卑怯だぞ。なあ、お嬢さん、おれとも話そうよ」
「別に話しているわけではないんですけど」
まともに答えるのがいけないのだろうか。けれど無視というのも、人としてやってはいけないことのような気がする。
と、すぐ近くで声がした。
「そいつはおれの女だから手を出すなよ」
聞き覚えのあるような声だが、むろんリオネルではない。リオネルではない男の〝女〟になった覚えはなかった。
かすかな苛立ちと共に振り返れば、先日、階段の下で失礼なことを言ってきたので殴りつけた相手だ。あのときの言葉を思い出して、アベルは嫌な気持ちになる。
「ジャックか、あいかわらず手が早いな」
アベルを取り囲んでいた若者のうちの数名は、彼と知り合いのようだった。
「というか、親父さんが部屋を貸してる、美人の娼婦はどうしたんだ?」
「マリナはなかなかやらせてくれねえから」
ジャックと呼ばれた若者が口端を吊り上げる。
娼婦のマリナとは、あのマリナのことだろうか。
「部屋を貸してるって……」
「ああ、自己紹介遅れたけど、おれ、あんたの大家だから」
思わずアベルは目を見開いた。
「え?」
「ブリス・レスコーの息子、ジャックだよ」
「家族全員から持て余されて、勘当寸前の駄目息子ね」
周囲はせせら笑っているが、ジャックは皮肉めいた笑みを浮かべるだけで相手にしていない。
「このあいだは思いのほか激しくて、驚いたよ。おとなしそうな顔して、そういうのが好きなのか、なあエステル」
殴りつけたことを言っているのだろうが、他の者は別の意味に捉えているようだ。むろんジャックがそう勘違いするように仕向けたからだ。
「へえ、名前、エステルっていうの」
「激しいんだ、いいね。そういうのに興味なさそうでいて、夜は積極的なのが一番いい」
「ちょっ……」
おかしな勘違いをされたうえに、変な目で見られてアベルは無性に腹が立つ。
「あなたの女なんて、冗談じゃありません。わたしはあなたとまったくの無関係ですから」
鼻で笑うジャックに背中を向けて歩き出す。が、背後から声が追ってきた。
「このあいだの礼をしようと思ってね」
追いつかれたかと認識したときには、腰を抱き寄せられ、背後から顎を捕われ振り向かされている。
顔が近づき唇が触れあいそうになるのを感じたそのとき、アベルは咄嗟に相手の足を渾身の力を込めて踏みつけた。
「いっってえな! このッ」
本気でこちらへ掴みかかってくるジャックに危険を感じ、アベルは咄嗟に相手の股間を蹴りつけた。
さすがのジャックも痛みに呻いて、言葉もなく身体を半分に折る。
ベルリオーズ家の従騎士ともあろう者が、訓練を受けた騎士相手ならいざしらず、こんなごろつきに負けてなどいられない。急所を狙うのは多少卑怯かもしれないが、襲いかかってきた相手が悪いのだから、そこはまあ、しかたがないとする。
なにより、こんなつまらないことで怪我でもして、リオネルに心配をかけたくなかった。
「すげえ、強いな」
周囲にいた男たちがたじろぐ。彼らとて、急所を狙われたらひとたまりもないからだろう。
「わたしに近づいたら、同じ目に遭いますよ」
そう言い放ってアベルは彼らのまえから立ち去った。さすがにもうだれもアベルについてはこない。
けれど、ずんずんと歩きながら、アベルはふと我に返った。
考えてみれば、大家の息子にあんなことをしてもよかったのだろうか。運が悪ければ、借りたばかりの部屋を追い出されることになるかもしれない。
そう思うとアベルはやや落ちこんだ。せっかくリオネルが見つけてくれたのに。
あの部屋を、アベルは気に入っていた。
けれど、いやしかし、とアベルは思いなおした。
まだそうと決まったわけではない。
なにより、あのまま口づけをされるよりは、追い出されたほうがまだましだ。そうだ、そうに決まっている。
過ぎたことにこだわるより、疲れて戻ってくるリオネルのために前回よりましな夕飯を作ろう。アベルは自分を納得させて、食材を探しに向かった。
+++
ちらちらと粉雪が舞う。
昼過ぎまで止んでいた雪が、再びセレイアックの街を白く染めはじめていた。
もう少し早く帰りたかったが、仕事の初日なのでしかたがない。アベルのことが気になって、ベルトランには今日も先に戻ってもらっていた。
髪と外套に白い雪をつけたままリオネルは建物に入り、階段を上る。すると、アベルの待つ部屋のまえに立っていたのはマリナだ。
彼女がいることは、わかっていた。
「ちょうど話があった」
リオネルは平らな声で告げる。が、返事はなく、マリナはじっとリオネルを見つめていた。
目を細めてリオネルはマリナを見返す。
「エステルの顔に雪を投げつけたそうだね」
マリナはしおらしい表情を作ってみせた。
「……あの子が先に叩いたんです。あなたは気づいたのでしょ?」
「先に言葉で彼女を傷つけたのは、そちらだ」
「そんな、わたしはなにも言ってなんか……」
哀しげな声で訴えられたが、リオネルは心動かされなかった。
「エステルを傷つけるなら、たとえ相手が女性であっても容赦しない。次は法的な手段で貴女を遠ざけるから、そのつもりでいてくれ」
沈黙したマリナに、「どいてくれないか」と告げる。と、次の瞬間には、返事の代わりにマリナが正面から抱きついてきた。リオネルは身を引いたが、今度はリオネルの腕に触れようとする。
「迷惑だ。離れてくれ」
「あなたのことが好きなの」
「手荒なことはしたくない」
「口づけをしてくれたら、離れます」
「いいかげんにしてくれ」
「娼婦は汚らわしくて触りたくもない?」
「相手がだれであっても同じ――エステル以外の女性に触れたいとは思わない」
近づこうとするマリナをかわせば、距離を取ったばかりの相手の腕が今後は首にまわり、顔を近づけられる。
咄嗟に身を引くが、そのまえに扉が開く音がした。
はっとしたときには、もう遅い。
柄杓を手にしたアベルが、呆然と二人を見ていた。
「あ……」
扉を開けたのは、たしかにリオネルの声がしたと思ったからだった。
そして目にしたのは、距離の近すぎるリオネルとマリナの姿。
頭を強く殴りつけられたような痛みを覚え、気づけば柄杓は手から滑り落ちていた。
背後にいたベルトランがそれを拾おうとする気配を感じて、アベルは我に返る。
「あ、え……っと、ごめんなさい……落としてしまって」
混乱してどんな反応をしていいかわからなかった。
こんなときになぜ自分が謝っているのかもわからない。
「拾わなきゃ……」
けれど、柄杓はすでにベルトランが拾っている。
今、自分はなにをしたらいいのか。
ただ胸が痛い。潰れるように。
「エステル」
マリナを押し退けたリオネルが、こちらに手を伸ばしたが、アベルは咄嗟に身を引いてしまう。リオネルの指先が行くあてを失い、ぴたりと宙で止まった。
重たく気まずい空気がその場を支配する。
ベルトランが背後で頭をかいたのがわかった。
すべて思い通りにいってマリナは喜んでいたかもしれないが、彼女がどんな顔をしているかなど、アベルの意識にはまったく入ってこない。
伸ばしかけて宙で止まっていたリオネルの指先が、ぎゅっと拳を握った。
「あ……、その、ごめんなさい」
とにかくこの場から離れたいとアベルは思った。
「ふ、二人ともふざけすぎなんですから――」
ふざけているとはとても思えなかったが、すべて冗談にして誤魔化して、ここから逃げ出してしまいたかった。
「話をしよう、エステル」
リオネルの苦い声。
「話……?」
「きっときみは誤解しているから」
――誤解……そうか、誤解。
誤解というのは、なんだっただろうか。
わかることは、自分がひどく混乱しているということだけだ。
「ごめんなさい、意味がよくわからなくて」
リオネルがベルトランに目配せした。
「なかへ入ろう」
ベルトランに肩を引かれ、アベルは素直に従った。
扉が再び閉ざされる音が遠くに聞こえる。この扉の向こうに、リオネルとマリナが二人きりなのだと思えば、息がつけないほど苦しくなった。
どうして自分はこんなに混乱しているのだろう。
リオネルが裏切るはずないことを知っている。それなのに。
――こんなにも苦しい。
リオネルを信じ切れない自分が、一番の裏切り者であるような気がした。