48
リオネルとベルトランがいなくなったあとの部屋は寂しい。
ひとりで行動することは平気だが、あの二人がいたはずの部屋でひとり過ごすのは切なかった。
それに周りが静かになると、否応なしにデュノア邸の地下牢で過ごした時間や、母と信じていた相手から向けられた殺意、今後のベルリオーズ家のこと、さらには昨日のマリナの言葉を思い出してしまう。こんなに自分は情緒不安定で、寂しがりだっただろうかと思う。
いや、そうではなかったはずだ。
甘えっ子でもなかったし、昔からひとりで過ごすことは苦ではなかった。
デュノア邸の暗く冷たい監獄で過ごした絶望的な時間が、アベルの意識の奥深くに巣食い、未だに心を脅かしているのか。あるいはリオネルのことが好きすぎて、そばにいない時間が辛いのか。あるいは、昨日の出来事がアベルを不安にさせているのか。
なんにせよ、このままではいけないと思った。
自分らしさを取り戻さなければ。
アベルは痛む手で拳を握り、気持ちを引き締める。
もう自分はデュノア邸の地下牢にはいない。明るい光の射す場所にいるのだ。
そして、リオネルはこんなにもアベルのことを気遣い、大切にしてくれているのだから、あれこれ不安な気持ちになる必要はないのだと自分に言い聞かせる。
「大丈夫、大丈夫よ、アベル。さあ、洗濯もしなくちゃいけないし、買物、食事の用意、仕事は色々あるんだから!」
気持ちを切り替えるために、まずは洗濯物を持ってそとへ出ることにする。街外れには小川が流れていて、その近くに共同洗濯場があるはずだった。
洗濯は自分がやるからしなくていいとリオネルは言ってくれたが、そこまで甘えるわけにはいかない。
共同洗濯場など、女性しか集まらない場所だ。仕事を終えたリオネルにそんな場所へ行かせるなど、できるはずなかった。
建物の外へ出れば、積雪はあるものの空からは薄日が差していて、寒いながらも心地いい。
通りで深く息を吸い込めば、背後から肩を叩かれた。
振り返ればマリナがいる。まさか、宿を出てすぐにこの女性にまた会うとは。アベルは眉をひそめた。
「なんですか」
「昨日は彼を誘ってみた?」
台詞とは裏腹に、マリナはあどけない笑みで尋ねてくる。アベルは頭に鈍い痛みを覚えた。
「もうあなたとは話したくありません」
そう言い放って、アベルはマリナのまえを歩き去ろうとする。けれどマリナはあとからついてきた。
「今朝、彼、あたしにへんな男がつきまとってきたら、助けてくれるって約束してくれたわ」
「リュシアンは優しいですから」
「どうせ昨日の夜は、誘ってふられたんでしょ?」
「もう話しかけないでもらえます?」
「図星ね」
マリナの声が笑っている。
「いい加減にしてください」
「恋愛は自由よね?」
「え?」
「彼をあたしに夢中にさせても、文句なしということでいい?」
アベルは足を止めた。聞き捨てならない台詞だった。
「恋人を取られたら、だれだって嫌ですよね?」
睨み上げれば、マリナは挑発するようにまっすぐ見返してくる。
「束縛する女は嫌われるわよ」
「あなたみたいな強引な人は、もっと嫌われると思いますけど」
「そうかしら? 見ていてごらんなさい。今にどっちが選ばれるかわかるから」
「あなたじゃないことだけはたしかだわ」
マリナは少し意外そうな顔をする。
「あら、見た目以上に気が強いのね。でも、そんなに強がっていても、愛する彼を失って立ち直れなくなる日はすぐにくるわよ」
「リュシアンに相手にされなかったからって、わたしに八つ当たりするのはお門違いですから」
冷たく言ってやれば、はじめてマリナの顔に不愉快そうな色が浮かんだ。痛いところを突かれたのかもしれない。黙ったのをこれ幸いと歩きだせば、背後から頭に衝撃がある。
後頭部に投げつけられたのは雪の塊だ。
「なにするんですか」
「昨日のお礼よ、愚図の子猫ちゃん」
相手にするのも疲れるので、アベルは無視する。
けれど再び頭に衝撃があって、今度は先程よりも痛かった。振り返れば、続けざまに雪の塊が顔めがけて飛んでくる。避けきれずにそれは顔面を直撃した。
目のなかにまで雪の粒が入りこみ、沁みる。マリナの高い笑い声が聞こえてきて、アベルは雪を投げ返してやろうと拳を握った。
と、そのとき。
「あーあ」と呑気に響く声が聞こえてきた。マリナの笑い声も同時に止む。
顔の雪を払いのけようとする手をとられ、そっと目の周りの雪を払ってくれる指先があった。
「どうしてこんなにかわいい子に雪なんて投げるかな」
痛くて目が開けられないが、この声はよく知る人のものだ。
「雪合戦をやるのはいいが、目を狙うのは反則だぞ」
今度は、別の声。
「おい、どこへいくのだ。ここは謝るところだろう。聞こえていないのか?」
呼び止めたらしいが、マリナは去っていったようだった。
「アベル、大丈夫?」
優しい手つきでハンカチを目に当てられる。
「ディルク様?」
「そう、おれだよ。レオンもいる。マチアスに政務の後処理を任せて、遊びにきた」
アベルは笑った。ディルクやレオンの声を聞いて、ほっとした。なぜだかとても懐かしかった。
「目、開けられる?」
問われてそっと開けてみると、あたりがやけに眩しく感じた。
「少し赤くなっているな。目を狙うのは悪質だ。なんだ今の女は」
レオンが憤慨した様子で言う。自分のために怒り、心配してくれるということが、嬉しいやら申しわけないやら。
「すみません、ご迷惑をおかけして。あの人はご近所さんです」
「迷惑なんてちっとも。ちなみに、雪合戦してた……わけないよね?」
今度はディルクに問われ、アベルはひと言「喧嘩です」と正直に答えた。
ディルクが吹きだす。
「笑わないでください」
「いや、あいかわらず短気なんだなと思って」
「短気は向こうです」
「そう? あちらは頬が腫れていたみたいだけど」
ディルクはまだ腫れの引いていないアベルの右手に視線をやる。アベルはさっと手をドレスに隠した。
「とりあえず部屋に入ろうか」
「……洗濯をしないと」
「洗濯? この寒いのに?」
「昨日着た服を洗ってしまいたいのです」
「そんなのリオネルとベルトランにやらせればいいよ。そうそう、来る途中に揚げ菓子を買ってきたんだ。部屋入って温まりながら食べよう」
不安や苛立ちで気持ちがささくれ立っていたのが、ディルクやレオンの優しさに救われた気がした。
+
部屋へ戻り、暖炉に火を熾しなおす。
ディルクの買ってきたベーニェを皿に乗せて食卓に置けば、香ばしい匂いが部屋じゅうに広がった。
「うん、だいぶ赤みは引いてきたね。よかった」
アベルの目をのぞきこんでディルクが言う。
「もう痛みもほとんどありません」
「それにしても、目を狙うのはひどい」
レオンはまだ怒ってくれている。
「いいんです、最初に手を上げたのはわたしですから」
「新しい生活早々に、ご近所さんと喧嘩とは穏やかじゃないね」
ディルクは不思議そうに言う。
「なにがあったんだ?」
「……わたしにもよくわからないのですが、どうも気に入られていないようで」
「気に入らない、ねえ。まあ、夜の商売をしているようだったから、アベルみたいに、すれてない子を見ると、いじめたくなるのかもしれない。それにしても、セレイアックの住人がアベルにちょっかいを出すなんて、領主として恥ずかしいかぎりだよ」
「そんな、ディルク様とは関係ありません」
「このことをリオネルは知ってるのか?」
アベルは首を横に振る。
「少なくとも今日のことはリオネルに話したほうがいいよ。これくらいの怪我ですんだけど、万が一目に傷がついていたら大変なことだった」
「大丈夫ですよ、これくらい」
「いや大袈裟ではなくて。顔に投げるのは悪意を感じる」
正直なところ、リオネルに話すのは気が進まなかった。喧嘩の経緯も説明しなければならないだろうからだ。
マリナがリオネルに惚れているだなんて、アベルは自分の口から言いたくなかった。
「おれが話そうか?」
雰囲気を察したのか、ディルクが提案してくれる。
「リオネル様は先程お出かけになったばかりなので」
「そうか、しばらく戻らないか」
ディルクとレオンも夕方までここにいるわけにはいかないだろう。
「じゃあ、また来るからさ。そのときにおれから言うよ」
アベルはとりあえずうなずいておいた。
できれば伝えたくない。心配をかけたくないのだ。リオネルが安心して働くことができる環境を、可能なかぎり整えたかった。
「どうだ、三人の新しい生活は」
ひとまず話が落ちつくと、レオンが尋ねてくる。レオンはそれほど甘いものは好きではないらしく、ベーニェには手をつけていなかった。
「とても新鮮です」
「苦労も多いことだろう」
「料理が苦手で」
アベルが笑ってみせると、レオンは「ああ」と妙に納得する様子だ。
「たしかに苦手そうだな」
……どういう意味だろうか。
「アベルはなにもしないで、街での生活を楽しんでいたらいいんじゃないか? 料理も洗濯も掃除もリオネルとベルトランにやらせて、リオネルの稼いだお金で、新しいドレスを買って、宝石をそろえて、劇を見にいって、おいしいもの食べて」
ディルクの口ぶりについアベルは笑ってしまう。
「そんなことしたら、追い出されます」
「追い出す? リオネルがアベルを? まさか。今おれが言ったことをすべてやったって、リオネルのアベルへの気持ちは変わらないよ」
「そんなことありません」
「そんなことあるよ」
「……人間の気持ちというのは、きっと、とても脆いものです。お互いを尊重し、思いやり、自分のやれることを精一杯やって、それでも壊れてしまうことだってあると思うんです。すべてリオネル様に依存したら、この生活も終わりになってしまいます」
「アベルは謹厳だね。もうちょっとリオネルを信頼してやればいいのに」
「そうだな。だがアベルの言うことに真実もあると思う」
レオンが言った。
「人の心は脆いものだ」
「リオネルの本気は底なしだぞ」
やはりディルクの口ぶりがおかしくてアベルは小さく笑ったが、レオンは真剣だった。
「何事にも一生懸命なアベルだからこそ、リオネルはアベルを愛したということだ。平気で放縦な生活ができる人間だったら、はじめから恋もしなかっただろう」
ふうん、とディルクはレオンを見返す。
「なんだが逆説的だね。難しくてなんだかわからなくなってきた」
「あの……一生懸命とおっしゃいますが、わたしは洗濯も、食事も、掃除も、どれも苦手で。二人のために役に立ちたくて頑張っても、ちっとも役に立てません。それでもいっしょにいてくれるとお二人は言ってくださるので、できることを少しずつでも増やしていきたいのです」
「ああ、なんだか胸がじんとする」
ディルクがアベルの肩に手を置く。
「そんなに無理しなくていいんだよ、アベル。本当に、おれがお嫁にほしかった」
おい、とレオンが顔を引きつらせた。
「半分は冗談だよ」
「なんの言い訳にもなっていないぞ。もう半分はどこへいった?」
「リオネルのいないあいだに、連れ去っちゃおうかな」
「今の状況では犯罪だ」
「犯罪っていっても、ここはおれの治める街だし、だれも領主であるおれを捕らえることはできないけどね」
「悪質だな」
お嫁にほしかったと言ってくれるディルク、あれこれと軽口をはさむレオン。二人のやりとりをある種の気遣いと受けとって、アベルは頭を下げた。
「ありがとうございます」
二人は感謝される意味がわからないという顔になった。
「アベルは、ときとして行動が意味不明なところが、おもしろいねえ」
賑やかに話しつつディルクとレオンはしばらく滞在し、それから三人で街へ出かけて昼食を共にしてから帰っていった。
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昼間は薄日が射していた空も、徐々に夕闇に呑まれつつある。
木組みの建物の影は濃い闇に呑まれ、その暗さとは対照的に、家々の窓から漏れる灯りが街路の雪を黄金色に輝かせていた。
小間物屋の建物に辿りつき、階段を上ろうとしたところで、リオネルはそれを感じ取った。
人がいる気配に、香水の匂い。
すぐにその人の顔が思い浮かんだが、リオネルはかまわずに階段を上った。案の定、部屋のまえで立っていたのはマリナである。
「おかえりなさい」
マリナの屈託のない笑顔。
彼女の色気は、好みかどうかは別にして、多くの男性が感じとるものだろう。
さらりとした顔の造作に、派手すぎない化粧はあどけないくらいだが、ふくよかな胸や、しっとりとした動作には大人びた女性らしさがある。自らの表情や仕種が相手に――特に男に対して、どういった印象を与えるのか、知りつくしている女の魅力だった。
けれど、リオネルにとってアベル以外の女性は、どれほどの美人でも、あるいは逆に顔の造作が整っていなくとも、まったく同じ位置づけだった。つまり、女性としては敬意を払うが、心を動かされることはない。
「どうも」
そっけなく挨拶だけを返して、視線を逸らす。
先に戻ったベルトランとアベルが待つ部屋の扉に手をかけようとすれば、その手を掴まれた。
振り返れば、マリナがにっこり笑う。
「離してくれないか」
リオネルは平坦な声で告げたが、マリナはまっすぐに見つめてきた。
「ずっとあなたのことを考えていました」
「すまないが、おれは貴女に興味がない」
はっきりとした拒絶を示せば、マリナは手を離して哀しげな表情を作る。懇願するように見上げてくる瞳はわずかに潤んでいるようだった。
「……あなたがエステルさんを大事にしていることは、知っています。それでもいいんです。あたしはあなたのことを想っています」
「おれの気持ちが変わることはない」
マリナの芝居につきあっている暇はない。
相手に背を向ければ、今度は後ろから柔らかい身体を押しつけられた。ぎゅっと腕を身体にまわされ、胸のふくらみを背中に感じる。
リオネルが言葉を発するより先に、なにか言われる気配を察したのか、マリナは小鳥が飛ぶようにぱっと離れる。
「リュシアンさん、また明日」
妖艶にほほえんでマリナは自分の部屋へ戻っていった。
身体の感覚だけを残され、リオネルは眉をひそめて息を吐きながら今度こそ扉を開ける。
すると、食卓を挟んでベルトランとカードゲームをしているアベルの姿が目に入った。
真剣に手元のカードを睨みつけていたアベルが、顔を上げてリオネルのほうを向く。
「リオネル様、おかえりなさい」
カードを放りだして駆け寄ってくるアベルは、普段は猫のようにふらふらとどこかへ消えてしまいそうなのに、今だけは子犬のようだ。
思わず小柄なアベルの身体をすっぽりと抱きしめる。
全身でアベルの骨の細さまで感じ取れば、いつまでこうやってそばにいられるのだろうと普段は抱かぬ根拠のない不安に襲われた。
「ただいま」
素直に抱かれてくれているのをいいことに、リオネルはしばらくそのままでいる。
「家にいるあいだ、なにもなかった?」
「ディルク様とレオン殿下がいらっしゃいました」
「ディルクとレオンが?」
そっと腕の力を弱めれば、少し顔を赤くしたアベルが顔を上げた。
「早い時間にいらしたので、お昼すぎくらいまでご一緒しました」
「そうだったのか」
家を空けているあいだ、彼らがいてくれたと聞いてリオネルは安堵する。
「リオネル様に会いたがっていましたよ」
「話せなくておれも残念だった。昼はいっしょに食べたのか?」
「はい、街の食堂でご馳走になりました」
「それはよかった」
毎日来てくれたらいいのにと思いながら、リオネルはアベルの頭を撫でる。空色の瞳を見つめ、
「アベルに会いたかった」
と気持ちを口にすれば、ふわりとアベルの頬が朱に染まった。
「わ、わたしも……」
うつむきつつも、懸命に応えてくれるアベルをもう一度抱きしめたい衝動に駆られ、けれどどうにかリオネルは自制する。
あまり抱きしめたら、嫌がられるかもしれない。
アベルの髪に軽く頬を寄せ、目をつむると、名残惜しい気持ちで離れた。
暖炉のまえに洗濯物が干されているのを見て、リオネルはアベルに尋ねる。
「洗濯してくれたのか?」
「ベルトランといっしょに、洗濯場ではなく川のほうで」
今日はアベルのことが心配で、ベルトランには早めに戻ってもらっていた。
「そうか、ありがとう。二人とも寒かっただろう?」
「今日は少し日差しがありましたから」
ベルトランは黙って暖かい葡萄酒を用意してくれた。
三人は食卓のまわりに座り、遊びかけのカードと温かい飲み物をまえに話をする。
「お仕事は?」
「ああ、決めてきたよ」
「本当に?」
アベルが目を丸くする。
「商家の子弟の家庭教師だ」
「家庭教師ですか?」
「十歳と十二歳の男の子に、剣と勉学を教えることになった」
「二人も」
「報酬は悪くないよ」
いたずらっぽく言えば、アベルは小さく笑ったが、あまり報酬については関心がないようだった。
「雇い主はよさそうな方ですか?」
「ああ、とても親切な人だ」
アベルは安堵する表情になる。彼女の関心は、リオネルの働く環境のほうにあるらしい。
「時間は長いのですか?」
「日にもよるけれど、子供たちを相手にするからね。遅くはならないよ」
「お昼ご飯は?」
「出してもらえる」
「それはよかったですね」
昼を食べるのはリオネルなのに、アベルのほうが嬉しそうだ。
「その商家はここから遠いのですか?」
「方面的にはセレイアック大聖堂のほうだけど、馬を駆けていけばすぐだよ」
言いかえれば、歩いていくにはやや遠い場所だった。
「暗くなってからお戻りになるときは、気をつけてくださいね」
まだまだ日は短いので、夕方近くになればもうかなり暗い。アベルがいろいろと心配してくれているようなので、リオネルは笑ってみせた。
「ありがとう。おれは大丈夫だから」
アベルもそっと笑い返してくる。視線が合うと、照れたようにすぐに視線を外してから、アベルは立ち上がった。
「あ、そろそろ洗濯物、乾いてるかも……」
そう言って暖炉のほうへ向かう。その隙にベルトランがぼぞりとリオネルにだけ聞こえる声で告げた。
「リオネル、おまえ、あの女の匂いがする」
え、とリオネルは軽く息を吸い込んでみる。言われてみればそうかもしれない。
「アベルもそのうち気づくかもしれないぞ」
「…………」
「もうあの女に近づかせるな」
「……わかってる」
わかっているが、相手もしつこい。女性相手に手荒なことをできるはずもなく。
「昼間、アベルはあの女に雪を投げつけられたそうだ」
リオネルは眉をひそめる。
「戻ってくるときに、たまたまアベルと別れたばかりのディルクたちとすれ違った。ちらと耳打ちされたのだが、向かいに住む女がアベルの顔めがけて雪を投げたらしい。目に入ったものの、怪我はなかったようだ」
ちょうどベルトランが話し終えたところで、アベルが戻ってきた。
「まだちょっと濡れていました。お二人でひそひそと、なんのお話ですか?」
アベルが地獄耳でなくてよかったと、つくづくリオネルは思う。
「なんでもないよ」
ふうん、とアベルがいたずらっぽく笑うので、リオネルは苦笑した。
リオネルが見るかぎり、アベルはマリナの匂いに気づいてはいない。アベルが嗅覚に鈍感というより、護衛としての訓練を受けてきたベルトランがとりわけ鋭いのだろう。
リオネルは立ち上がり、アベルのそばへ行く。不思議そうに見上げるアベルの瞳を、じっと見つめた。
赤くなってはいないし、顔に傷などもない。リオネルはとりあえず安堵した。
こうなっては、これ以上マリナがアベルに手を出さぬように、こちらからなにか手を打たなければならなかった。
「どうしたのですか?」
顔を見つめたまま考え込むリオネルに、アベルが含み笑いで尋ねる。
「え、ああ、なんでもない」
「わたしの顔になにか書いてありました?」
「そういえば、ここに書いてある」
リオネルがアベルのひたいに触れると、アベルは両手でそこを押さえた。
「読んだら、だめです」
どこまで本気かわからないアベルの様子にリオネルは笑う。
「読ませて」
「だめです、これは秘密の言葉なんです」
「ちょっとでいいから」
ひたいから手をはがそうとするリオネルと、逃げまわるアベル。
楽しげな二人をまえに、ベルトランは闇に染まりつつある外の景色のその果てへ、ひとり視線を彷徨わせた。