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早速、皆で食卓の準備をしながらアベルは尋ねる。
「お仕事のほうはどうでしたか?」
「ああ、いくつかいいのを見つけたよ。明日も回ってみて、絞り込んでいこうと思う」
「どのようなお仕事ですか?」
木の椀に料理をよそいながら尋ねると、リオネルの視線が一点に止まった。
「……その手は?」
無理をして柄杓を握るアベルの右手に、視線は注がれている。
「えっ、あ、これ……ぶつけたんです」
「ぶつけた? どこに?」
柄杓を取り上げて鍋に戻し、リオネルはアベルの右手に触れようとした。けれどアベルはそのまえに手をぱっと背中に隠してしまう。
「大丈夫です、なんともないので」
「いや、腫れていたよ。見せてごらん」
「まだ色々と慣れなくて、扉を閉めたときに、ぶつけただけなんです」
「だったらなおさら冷やしたほうがいい。見せて、アベル」
アベルは首を横に振った。リオネルに見せたら、きっとひと目でだれかと喧嘩したのだと見抜かれてしまう。
「アベル」
言うことを聞かない子供を諭すようなリオネルの声だ。
アベルはうつむいていた。すると、背後でだれかに手首を取られる。はっとして振り返れば、ベルトランがアベルの右手首を掴み上げていた。
「これは痛いだろう」
赤く腫れた指を見てベルトランが低く言う。
「痛くないです」
「来い」
ベルトランに腕を引かれた。
「アベルの手はおれが手当てしてくる。リオネル、それならいいだろう?」
リオネルは難しい顔をしたままだったが、ベルトランは二人分の上着をさっと取りアベルを連れて部屋の外へ出る。そのまま階段を下り、建物の裏庭にある井戸のところへ連れていかれた。
アベルなら重くて苦労する井戸水を、ベルトランは易々と汲み上げ、アベルの指先を浸す。凍りそうな水の冷たさに、アベルはぶるりと震えた。
それまで無言だったベルトランが、水のなかで揺れている腫れた指先を見てぼそりと尋ねてくる。
「殴り合いの喧嘩でもしたのか?」
「……していません」
「だれかを殴っただろう、こちらは平手打ちだ」
そう言いながらベルトランはアベルの手を返して、手のひらのほうを軽く触れる。ひり、とした。
「扉にぶつけたのです」
「手の両面を?」
「そうです、挟んだみたいな形になって」
「リオネルには言わないから、本当のことを言ってみろ」
「本当に扉にぶつけたのです」
ベルトランが呆れた眼差しをアベルへ向けた。
「たいがい、おまえも頑固だな」
「……だれかと喧嘩したかもしれないなんて、リオネル様には言わないでくださいね」
「リオネルは心配している」
「だからこそです。リオネル様が余計に心配症になって、ベルトランは本当に朝から晩までわたしのお守りになってしまいますよ」
黙ってベルトランはアベルの手を引き揚げ、携えていたハンカチを包帯代わりに巻きつける。
「お転婆は知っているが、リオネルのためにも、もう少しおとなしく過ごせ」
ベルトランの言うとおりだとは思う。けれど、マリナにも若い男にもあんなふうに言われて、黙って耐えるなどアベルにはできそうにもなかった。
街で暮らしていれば、あの二人が言っていたことなど他愛のないことなのかもれないが、やはりアベルには許容しがたかった。
部屋へ戻れば、リオネルが食事の準備を整えて待ってくれていた。
「怪我は?」
「たいしたことない」
それだけベルトランは答えると、食卓につく。リオネルは納得しておらぬ面持ちだ。
「扉にぶつけたって……」
「ああ、どうもそのようだ」
「本当に?」
アベルはそれ以上リオネルが追求するのを阻むために、頭を下げた。
「ご心配をおかけして、すみませんでした」
「…………」
「おかげさまで、すっかり平気です。ベルトラン、ありがとうございました」
礼を述べれば軽くベルトランが視線を下げて、「食べよう」と言う。
全員食卓につけば、それ以上手の話をすることなく各々はアベルの作った料理に手をつけた。けれど。
すぐに手が止まったのはベルトランだ。リオネルは、ひと口めこそわずかに動きを止めたが、すぐに食事を再開させた。
「どうですか?」
おそるおそる尋ねれば、リオネルが「おいしいよ」とほほえむ。
――が、いつもは黙々と食事をするベルトランの手の動きは止まったまま。
アベルが自分で食べてみても、やはりおいしいとは思えない。それでもアベルが平気で食べられるのは、かつて普通の人間がおよそ口にしないものまで食べて、命を繋いだことがあるからだ。家畜と共に夜を過ごし、家の主が残した野菜の皮や、残飯をもらって食べた。
それに比べれば、こんな食事だってご馳走だ。
けれど、やはりリオネルやベルトランには申しわけないことをしたと思う。
「もっと料理がんばりますね」
小さな声で言えば、ベルトランが重い手つきで匙を再び口に運びはじめる。
「あの、残ったのはわたしが食べるので、よかったら外の食堂へ――」
「いや、食べる」
ゆっくりだがベルトランは食事を再開させた。リオネルは平然とした顔で食べてくれている。今度エマに料理を教えてもらおうと、アベルは心に誓った。
変わった味の煮込み料理を皆で食べながら、仕事探しや、街の様子、家具の配置などの話をする。そんな日常の平凡な時間こそが、本当の幸せなのだろう。
わけもなく、アベルは泣き出したくなった。
先のことはわからない。
ベルリオーズ家の者たちが――いや、ベルリオーズ領のすべての民が、リオネルの戻りを待っている。ずっとこのままというわけにはいかないだろう。
だからこそ、今この瞬間が愛おしいのだ。
三人で過ごしたこの瞬間は、きっとアベルの宝物になるだろう。その記憶を、ずっと両手で抱きしめていたい。
食事が終わるころ、リオネルが遠慮がちにアベルに尋ねた。手は痛まないか、と。
心配をかけてしまったとアベルは思う。
「平気ですよ、これくらい。この部屋にも慣れてきたので、もう手を挟むような真似はしませんから」
笑ってみせたが、リオネルはやはり浮かぬ顔だった。
昼間の、マリナとの諍い。些細な出来事だったが、リオネルを奪うと宣言されたことで、アベルがまったく不安でないというわけではない。それは、このささやかな幸せの隅に、先の見えない不安定感とは別に、黒いインクの染みのように存在している。
アベルはちらりとリオネルを見やる。聞くか聞くまいが迷い、結局はどうしても気になり、なるべくさりげなく聞いてみた。
「リオネル様とベルトランは、向かいに住んでいる方を、ご存知ですか?」
「向かいってこの部屋の?」
リオネルが顔を傾げる。
「昨日すれ違ったよ。マリナさんという女性だ」
なにもないと分かっていても、リオネルの口からその名を聞くと、アベルの胸はわずかにざわついた。
「……上の階に住む方や、大家さんのご家族にもまだお会いしていませんし、挨拶しないといけませんね」
平静を装って言えば、リオネルがわずかに目を細める。
「ゆっくりでいいよ、アベルは頑張りすぎだ」
おそらく平静を装っているということは見抜かれている。
貴族社会から離れ、なんのしがらみもなく共に過ごすことのできる、束の間の幸せ。
いつもと変わらぬリオネルの優しさ。
彼が容易く心変わりなどするはずがない。わかっているのだ、そのようなことは。
あまりにも様々なことがあった。環境が大きく変わり、アベルも少し不安定なところがあるのかもしれない。
今日は仕方ないことだったが、明日からはなるべくおとなしくしていようとアベルは思った。
+
団らんの時を過ごし、夜になると寝台論争が再燃する。昨日に引き続いて寝台の譲り合いである。
「今日こそはリオネル、おまえは寝台で休め」
「そういうわけにはいかないよ。昨日も言ったけれど、今のベルトランは、おれの家臣でも用心棒でもない。ベルトランだけを床に寝かせることはできない」
「おれは頑丈にできている」
「関係ないよ。それなら毎日交代で寝台に寝るというのは?」
「一夜だって、リオネルを床で寝かせておれが寝台を使うなどありえない」
「困ったね」
二人はアベルが寝台を使うことを前提として、論争を繰り広げている様子だった。決着はつきそうにない。
ならばいっそ、アベルとリオネルがひとつの寝台を使えば、ベルトランも寝台で眠れるのではないか……と考えて、再びアベルは昼間のマリナとのやりとりを思い出した。
――あなた、彼に抱かれたことある? ないでしょ。魅力ないものね。
――それに、その貧弱な身体。骨と皮だけでできているんじゃないの? 試しに彼を誘ってみたらどう? 服を脱いだ瞬間に、幻滅させられるに違いないわ。
嫌がらせの言葉だとは分かっている。
だが、インクの染みは広がっていくばかりだ。
恋人であるならば、リオネルと同じ寝台で眠るということは、不自然なことではないのかもしれない。あるいは、寝台の共用を提案することは、すなわちそういう意味になってしまうのだろうか。
もしそうなれば、マリナの言うとおりリオネルはアベルを避けるのだろうか。
そういう関係を望んでいるわけではない。では、なにを自分は気にしているのか。考えはじめれば、よくわからなくなった。
マリナの発言の真意を確かめようと思ったわけではない。けれど、気が付けばアベルは口を開いていた。
「あの、リオネル様とわたしが、同じ寝台で寝ればいいのでは?」
論争を繰り広げていた二人が、瞬時に口を閉ざす。リオネルは固まり、ベルトランは手にしていた着替えを取り落としていた。
「アベル……」
珍しく動揺したリオネルを目の当たりにして、アベルは胸が潰れそうになった。マリナの眼差しが脳裏に浮かんだ。
「あ、えと、つまり、そうしたら全員寝台で眠れるかな、とか……」
顔が上げられなくて、うつむき、小さな声で言い訳した。
ベルトランがリオネルへ責めるような眼差しを送れば、固まっていたリオネルが、広い寝台に座るアベルへゆっくりと歩み寄った。
伸ばされたリオネルの手が、いつものようにアベルの髪に触れようとする。けれど、手前で指先は止まった。
「ごめん……」
リオネルの手が離れていく。アベルは胸に鋭い痛みを覚えた。
どうして。
なぜ謝るのだろう。なぜ触れてくれないのか。
顔を上げれば、苦しげなリオネルの表情。
「おれのせいだね」
――リオネルのせい……?
なんのことかわからなかった。
「昨日から調子に乗ってしまっていたおれが悪かった」
躊躇うように再び指先が近づき、軽く頬に触れた。指先の動きで顔をほんの少しだけ上向かされる。
「無理しなくていいから」
「無理とか、そういうのではなくて――」
「だって震えてる」
「え……?」
はじめてアベルは自分の手を見下ろした。細かく震えているのが、なぜなのかわからない。いや――きっと緊張したからだ。
「アベルを追い詰めるつもりはなかった。赦してほしい」
謝られるのは、切なかった。
リオネルの優しさなのだとわかっている。それなのに、魅力がないのだと、自分は穢れているのだと、さらに、床を共にすれば別れることになるというマリナの言葉が脳裏に浮かんで、情けなくなった。
手を見下ろしたままでいれば、リオネルが視線を合わせるようにしゃがみ込む。
「アベル」
「……ごめんなさい、わたしこそ」
「アベルが謝ることはなにもないよ」
こんな自分でも、身の程知らずにリオネルのことが大好きで。だから――。
だから、なんなのだろう。
のぞき込んでくるリオネルの心配そうな、それでいて優しい眼差し。
――ああそうだ、とアベルは思う。
どれほど見苦しくても、どれほど格好悪くても、リオネルをマリナなどにとられたくないのだ。
それくらいにリオネルのことが好きで、その気持ちに伴う、はじめて覚える感情の数々は、すでにアベルの対処できる範囲を超えていた。
それが苦しくてしかたがない。
人を好きになるということは、痛みを伴うことなのだとはじめて知る。
「アベルのことが好きだ」
リオネルがささやくように言う。
「大切で、大切で、触れるのが怖いほどに」
リオネルの言葉を完全には理解できなかったが、思いやってくれる気持ちがそこにあることは感じられる。アベルは泣き出したいような気持になる。
アベルの意志を確かめるように、リオネルの手が肩に触れた。軽く身体を預ければ、そっと抱きすくめられる。
抱きしめてくれるリオネルの温もりが、アベルを安堵させてくれる。
「本当にアベルの肩は薄いね。腕も、首も、こんなに細くて、なにもかも小さくて、不安でしかたなくなる」
不安なのはアベルのほうだ。ここへ越してから、幸せなのに、それなのにひどく情緒が不安定なことは自覚していた。
このような自分が、いつまでリオネルのそばにいられるだろう。
アベルはリオネルの服に軽く触れ、目を閉じた。
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久しぶりに晴れた二月末の昼下がり。
太陽が顔を出していても気温は低く、雪は解けずに人々のくるぶしのあたりまで積もったままだった。見上げるほど高い鉄柵門は、この国の力強さを象徴しているようだとあらためてカミーユは思う。
久しぶりに見る王宮は、最初の印象と変わらず、荘厳で、美しく、けれど、どこか冷たかった。
「……別れの日に見た姉さんのドレス姿、本当に素敵だったなあ」
ぽつりとカミーユはつぶやけば、馬上でトゥーサンがうなずいた。
「本当ですね」
「……姉さんは、おれと半分しか血がつながってなかったんだね。どうりで姉さんはシャルム人離れした容姿だったんだ」
過酷すぎる運命を生きる姉のことを思えば、カミーユはやりきれない気持ちになった。
「けれど、お二人はよく似ておられますよ」
「そうかな」
母やフィデールに似ているとはよく言われるが、シャンティに似ているとはあまり言われたことがない。
「まっすぐな性格が、そっくりです」
「ああ、性格ね」
「顔立ちも、どことなく似たところはありますよ。シャンティ様はオラス様にも似ていますから」
「父上に? よくわかんないや」
オラスはたしかに男前だが、シャンティが彼に似ているかというと、さてどうだろうか。
カミーユは、はるかセレイアックにいるだろう姉に思いを馳せる。
「姉さんは大丈夫かな。元気にしているかな」
ベアトリスがシャンティの居場所を突き止めたら大変なことだ。それなのにシャンティは、おそらくベルリオーズ邸には戻れない。
シャンティがこの先どうなるのか、カミーユは心配でならなかった。
「大丈夫ですよ、シャンティ様にはリオネル様もディルク様もついています」
デュノア家の家臣として、国王派の立場を厳格に守っているトゥーサンにしては、珍しく素直に二人を評価する発言だ。トゥーサンの声には、リオネルやディルクへの深い信頼が感じられた。
カミーユ自身も、複雑な思いが一切ないといえば嘘になるけれど、リオネルのことを信頼しているという点ではトゥーサンと同じだ。これまでシャンティを支え、救ってきたのはリオネルであり、これから先も本質的な意味ではリオネルしかいないのだと思う。
シャンティを守るには、自分が力不足であることをカミーユは承知している。
だからこそ、シャンティをリオネルやディルクに委ねるしかなかった。
そして彼らは、安心して委ねることができる、申し分のない相手だった。
話しながら、カミーユとトゥーサンは門番に身分を明かして正門をくぐる。その先にはさらに二重、三重に門が連なっていたが、それらは最も高貴な者しか通ることができないので、カミーユたちは脇の通路から厳重な警備のなかを王宮内へ入った。