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到着したその日のうちに、建て付けの甘かった扉を直し、鍋や食器、毛布など必要最低限のものはそろえてある。
遅めの朝食を済ませ、約束通りアベルの髪を綺麗に片側で結わえると、リオネルは早速出かける準備をはじめた。
「どちらへ行かれるのですか?」
尋ねれば、真白なシャツに腕を通しながらリオネルが振り返った。
「仕事を探しに」
アベルより先にベルトランが苦い声を発する。
「本当におまえが働く気か」
「何度もそう言っているはずだが」
「生活費ならおれが稼ぐ。おまえはアベルのそばにいればいい」
「それでは、あまりに男として情けないだろう」
「おまえがどうしても働きにいくというなら、おれがついていくのが条件だ」
アベルは大きくうなずいた。リオネルがひとり働きに行くなど、なにがあったらどうするのか。
「それは困るよ。アベルをひとり家に残していけない」
「家にいて危険なことなんてありません」
あまりの心配症にアベルは呆れるが、リオネルはきっぱりと首を横に振った。
「だめだ。アベルをひとり家に残していったら、心配で仕事なんてできない」
「では、こうしよう。一日のうち半分はおれが家にいる。もう半分はおまえのそばにいる」
「そもそもベルトランがそばにいたら働きづらい」
リオネルは一蹴したが、ベルトランも負けてはいない。
「仕事の邪魔はしない。室内でやる仕事なら、外で待っている」
小さくため息をついてから、リオネルは扉口へ向かった。
「とりあえず仕事を探しに行ってくるよ」
「おれも行く」
「お二人とも気をつけて。わたしは食事の準備をしておきますね」
従わないベルトランとアベルを、リオネルは困った顔で振り返る。
「……おれの話を聞いていたか?」
「おまえがすべての肩書きを捨てて自由に生きるなら、おれも自分の好きなように行動する。どこへ行こうとおれの勝手だ」
「頼む、アベルを守ってほしい、ベルトラン」
「だから、一日のうちの半分は守ると言っている。朝から晩まで張り付いていられたら、アベルも気が休まらないだろう」
アベルのためでもあると言われて、リオネルは再びため息をついた。
「……たしかに、今のおれには命令も強制もできない。だからこれは〝お願い〟だ。朝から晩までとは言わないが、できるかぎりおれではなくアベルのことを守ってくれないか」
「おれは、おまえとアベルのもとを行き来する。長い時間は家を空けない。どちらのことも守りたい」
ベルトランの返事を聞いて、リオネルはようやく――渋々うなずく。
「わかった」
肩書きを捨てたはずの二人だが、リオネルにはどこまでも主たる風格があるし、ベルトランからはどこまでも用心棒としての自覚が感じられた。そんな二人をアベルはうらやましくさえ思う。今の自分は、従騎士なのだか、恋人なのだか、よくわからない。
二人のやりとりを見守っていると、扉へ向かいかけていたリオネルがこちらへ戻ってくる。
「ベルトランと出かけるけれど、アベルはゆっくり過ごしていて」
目前まで来たリオネルの表情はやや険しい。
「わかりました」
安心させるためにアベルは笑ってみせる。
「食事は作らなくていいから」
「それくらいやります」
……苦手だけれど。
「無理しないで」
名残惜しそうにアベルの髪に触れてから、リオネルは踵を返した。
+
二人が部屋を出ていくと、アベルは急に静かに――そして広くなったように感じられる部屋に、ポツンと立ちつくす。
カミーユやエマ、カトリーヌ、トゥーサン、ディルク、マチアス、レオン……大勢の人たちと共に過ごした時間が、遠い昔に感じられた。
「ええと、食材を買いに行かなくちゃ」
我に返り、アベルはリオネルから預かっているいくらかのお金と、階下の小間物屋で入手した買い物籠を手に部屋を出る。
リオネルが大きな犠牲を払って、アベルのために用意してくれた場所だ。寂しがってなどいられない。強くならなければ。
部屋を出ると、ちょうど真向いの扉が開き、人が現れた。
若い女性だ。
アベルに気づくと、相手は「あら」と首を傾げた。
「新しいお隣さん?」
「こんにちは、昨日からこの部屋に住みはじめた者です」
品定めするように、アベルの頭の天辺からつま先まで見つめる隣人は、そこらで買物している女性とはだいぶ雰囲気が違った。
ディルクのような淡くしなやかな茶色い髪に、やはり柔らかい茶色い瞳。広く襟もとの開いたドレスからは、真白な肩や首筋、豊満な胸の谷間がはっきりと見えた。
やや派手な服装とは対照的に、すっきりとした美しい目鼻立ちだ。けれどアベルの目を引いたのは容姿よりも、彼女から醸し出される艶っぽさである。
「あなたが〝彼〟の恋人?」
「彼って……」
「昨日、扉を直していた茶色い髪の素敵な人」
「あ……はい」
おそらくリオネルのことだろう。初対面にしては遠慮のない質問だった。
ふぅん、と女性はアベルの顔を見やる。
眼差しだろうか、口元だろうか、あるいは表情の作り方だろうか。幼くも見える顔立ちなのに、指先の動きや、わずかに首を傾げる仕種、微妙に変わる表情のひとつひとつに、なんともいえない色気がある。
「……では、急いでいるので失礼します」
居心地の悪さを感じて立ち去ろうとすれば、再び声をかけられた。
「彼に恋人がいるって、ブリスに聞いたのよ」
ブリスとは、昨日挨拶した大家の名である。たしかにリオネルはアベルを恋人だと紹介していた。
「あの彼の恋人ならどんな女かと思っていれば、いまいち冴えない子」
投げつけられた言葉に、アベルはすぐには反応できなかった。
「は……?」
「顔はお人形さんみたいだけど、どこもかしこも色気がなくて、男の子みたい」
そのようなことを言われても、前日まで男として生きてきたのだからしかたがない。
「あの」
不快な思いをわずかに顔に出せば、向かいの部屋の女性は口端を吊り上げた。
「名前は?」
「……エステルですけど」
「あたしはマリナよ。素敵な彼と出会えて運がよかったのね、エステル。でも彼はあなたにはもったいないわ」
「どういう意味ですか」
「つまり、あたしが彼を気に入ったということよ」
「意味が分かりません」
「鈍感な子、本当に頭が悪そうだわ」
怒りが込み上げてきて、アベルは相手を睨みつける。
「さえないとか、気に入ったとか……あなたのほうが、よほど頭が悪そうです。初対面で人と話すときの礼儀も知らないんですね」
「礼儀って、あなたのようなぼんやりした女に礼儀なんて必要なの? お料理とか、お掃除とか、お片付けはできるのかしら子猫ちゃん?」
「礼儀に、料理とか掃除とか関係ありませんよね」
「あたしは本物の匂いはすぐにわかるのよ。だから、仕事以外では本物しか相手にしない。彼は本物、あなたは〝偽物〟だわ」
「偽物って――」
「あなた、彼に抱かれたことある? ないでしょ。魅力ないものね。顔が綺麗なだけで、そんなマヌケ面では、そこらの馬鹿な男ならともかく、昨日の彼は奪う気にもなれないでしょう。お気の毒なこと。それに、その貧弱な身体。骨と皮だけでできているのじゃないの? 試しに彼を誘ってみたらどう? 服を脱いだ瞬間に、幻滅させられるに違いないわ」
気づけばアベルは籠など放り投げて、右手を振り上げていた。
高い音が鳴り響く。
アベルはマリナの左頬をひっぱたいていた。
顔を背けたマリナが、眼差しだけをこちらへ向ける。
――その眼差しがぞくりとするほど鋭い。
「言い返せなくなると手が出るのは、なにより頭の悪い証拠」
「マリナさんが先に、ひどいことを言ったからです」
「あら、矜持だけは高いのね。一度あたしの店に来てごらんなさい? そんなプライド、一瞬でずたずたに引き裂いてやるから」
「なんの話ですか」
「男のまえで足を開く仕事に決まってるでしょ、純情ぶって馬鹿じゃないの」
もしかしたらとは思っていたが、あらためてアベルはマリナの服装へ視線をやった。
「あたしはあなたのように男に守られて生きているんじゃないのよ、この顔と身体を張って稼いで、自分の足で立っているの。あたしの顔と身体は財産よ、商売道具よ、わかる? それをあなたのような子は簡単に傷つけるのね」
そう言われてしまえば、なにか自分が悪いことをしたような気持ちになったが、釈然とはしない。
「わたしは謝りません。あなたがどんなお仕事であっても、もう一度同じことを言われたら、ためらわずにひっぱたきます」
「奪ってやるから」
マリナのひと言に、アベルは耳を疑った。
言葉もなくマリナを見やれば、残忍な薄笑いが浮かんでいた。
「あなたより先に、彼に抱かれてみせるわ」
「……頭がおかしいんじゃないですか?」
「少なくともあなたよりは冴えている自信があるわ。男を落とす術はしっかりわかっているから」
そう言いながら、マリナは階段を下りはじめる。
「彼を盗られたくなければ、せいぜい骨と皮だけの足を、慌てて今夜にでも彼のまえで開いてみることね。でも、そうしたら明日の朝にはまたお引っ越しかしら?」
もちろん別々の場所にね、とマリナはくすりと笑う。
あまりに頭に血が上って、咄嗟にアベルは言い返す言葉が思いつかない。その間にマリナは階段を下りきって、通りへ消えていた。
限りなく不愉快であるのと、彼女に植え付けられた不安の火種で、アベルはどうしたらいいかわからない。それなのに、相手がいなくなってしまったので感情の持って行き場を失ってしまった。
リオネルを盗るとは……先に抱かれてみせるとは……。
頭は混乱状態だ。
マリナに言われてはじめて気づく。アベルとリオネルは〝恋人〟になったのだ。恋人というのは、世間一般ではどのような関係を具体的に意味するのか。マリナの口ぶりでは、当然そういったこともあるようだった。
アベルにとっては、まずそこからだった。
嵐の日に襲われた経験で、男女がどんなことをするのかは知っている。そのときの言い知れぬ痛みも。
恋人どうしがそういう関係であるならば、あるいはリオネルとなら、あの日のことを思い出さずに恋人らしいことができるのだろうか。
いや、結婚できぬ相手にリオネルが手を出すはずがない。
それ以前に、穢れたアベルなどに、リオネルは手を触れたくないのでは……。
すでに他の男に抱かれているのだ。それも見知らぬ男に。だれよりもこの身体を汚いと思っているのは、アベル自身だった。こんな身体をリオネルに触れさせたくない。
あのマリナという女性は、娼婦なのだろう。
リオネルを奪うとは、いったいなにをするつもりなのか。なんの恨みがあってそんなことを……と思ってから、アベルの脳裏にふとフェリシエの顔が思い浮かんだ。
そうか、リオネルのことが好きなのか。
思い至ってアベルは苦い気持ちになった。あの綺麗な人からリオネルを奪った罰かもしれないと思う。今ならフェリシエの気持ちが少しわかる。在りもしない金剛石の指輪を蒼の森へ探しに行かせた理由も。
負の感情に流されかけて、アベルは胸に手をやる。わずかな眩暈と胸の苦しさ、そして軽い吐き気を覚えるのは、病み上がりのせいだろうか。
……買物へ、行かなくては。
ゆっくりと階段を下りはじめれば、若い男が店のほうから出てきてこちらを見上げた。
あ、と男が口を動かし、アベルが下りてくるのを待っている。
背が高く、身なりに気を使っているようではあるが、どこか軽薄な雰囲気の若者だった。無視して通りすぎようと思えば、声をかけられる。
「……へえ、かわいいなあ。シャルム人? やっぱりローブルグのほう?」
ここに住んで初めての外出だというのに、不運続きだった。やはり慣れないドレスなどを着ているせいだろうか。考えてみれば、市井でドレスを着て女性として生活するのは初めてのことだ。
からかわれているのがわかって、まともに答える気にもならない。
「二人きりで楽しめそうな場所知ってるんだけど、いっしょに行かない?」
「こんにちは、さようなら」
「冷てぇ。ああ、そうか恋人がいたんだっけ。美形の」
リオネルの言っていたとおり、大家に言えば噂が広まるのは早いようだった。
「もうひとり背の高い男がいっしょなんだって? 夜は二人を同時に相手にしてるわけ? 小柄でおとなしそうなのに、なかなかやるんだね。ついでにおれの相手もしてよ」
アベルは足を止めた。
振り返り、拳を握る。
さすがにこの男の顔が商売道具ということはないだろうから、渾身の力を込めて相手の顔を殴りつけた。
思わぬ攻撃を受けた若者は、倒れることこそなかったが、よろけて呻く。
「ぅう、いってえな! なにすんだよ、ちょっとふざけて言っただけじゃないか!」
なんて日だろう、一日で二人も殴るなんて。
短気なのは、たしかに頭が悪い証拠かもしれない。けれど、アベルのことのみならず、リオネルやベルトランも侮辱され、とても容認できなかった。
具合の悪さと、殴りつけた手の痛みに気づかぬふりをして、アベルは振り返らずに歩き去っていった。
+++
「…………っ」
無理して曲げようとすると指が悲鳴を上げる。
自らの失態に気づいたのは、指が痛み、ナイフが握れないと気づいたときだ。
細い指で成人男性を殴りつけたのだ。おそらく、相手よりもアベルの被った損傷のほうが大きかっただろう。時間が経つにつれて、指は赤く腫れて痛みを伴ってきた。
馬鹿なことをしたと思う。
けれど、黙って聞き流すことはできなかった。後悔はしていない。
しかたないので左手でナイフを握り、肉や野菜を切っていく。もともと不器用なのに、左手でナイフを握ればさらにひどいことになった。
料理ができないとマリナに見抜かれたことを思い出して、腹が立つやら、惨めな気持ちになるやらで、アベルはため息をつく。
とにかく具を鍋に入れ、今朝ベルトランが汲んできてくれた井戸水で煮込む。味付けなどわからないので、塩と、さらに適当な香辛料を放りこんだ。従騎士時代に、もっとジュストに料理を教えてもらっておくのだったと今更ながらに後悔しても遅い。
アベルはかつて究極的に貧乏な生活を経験したことがあるので、どんなものでも食べることができるが、リオネルとベルトランは違う。
二人が戻ってきたのは、アベルが食事を作り終えた直後だった。
部屋に入った瞬間、ベルトランが微妙な顔をした理由はなんとなくわかる。
「アベル、ただいま」
寒さで頬を白くしたリオネルは、アベルの顔を見て嬉しそうに笑った。その笑顔にアベルのもやもやとしていた気持ちが、わずかに和らぐ。
「おかえりなさい、リオネル様」
「よかった、無事で」
リオネルが軽く髪を撫でてくるので、アベルは笑った。
「家にいただけですから」
撫でてくれるリオネルの手に、ふと切なくなる。マリナに言われたことが胸の奥に小さな棘のように刺さっていた。
「家にいたって心配なんだ。お昼御飯はちゃんと食べた?」
リオネルは優しい。だから余計に辛い。
「はい、朝食の残りを」
「そうか、おいしいパンでも買ってきておけばよかったね」
「充分おいしかったですよ」
外套を暖炉の脇にかけながら、リオネルが調理場を見やる。
「ご飯、作ってくれたの?」
「あ、はい、いちおう……」
「ありがとう」
リオネルはやはり嬉しそうだ。
「アベルの作ってくれた料理を食べるのは初めてだから」
「あの……あまりうまくできなくて」
「かまわないよ、アベルが作ってくれたならなんだっていい」
明るくリオネルは言ったが、ベルトランの顔色はいまいち冴えない。
「食べようか」
リオネルが言うと、ベルトランの肩がぎくりと揺れる。
「え、もうですか?」
まだ夕方の鐘も鳴っていないので驚くと、リオネルは「お腹空いたんだ」と笑った。