43
暖炉で暖まった部屋の窓に映るのは、純白の雪景色。
黙々と政務を片づけるディルクを、レオンは本から目を離してちらりと見やる。幾度かその仕草を繰り返したあと、レオンは相手の名を呼んだ。
視線を上げたディルクは、いつもの呑気な表情ではなく、しっかりと領主の顔だ。
「なに? さっきからちらちら見られて、気が散るんだけど」
「リオネルは本当に駆け落ちする気だろうか」
集中して書類に目を通していたディルクは、その話かと、いったん姿勢を崩した。マチアスも仕事の手を止める。
「決まっているだろ。なにを今更」
「いや、だがリオネルはこれまで市井の生活をしたことがないはずだ」
「だから? それほどアベルに惚れてるんだろ」
「これまで貴族の子弟が市井の相手と駆け落ちして、うまくいった例を聞いたことがない」
「おまえの愛するフリートヘルムの、兄君の話とか?」
真顔で冷やかすディルクへ、レオンもまた平然と答えた。
「愛してはいないが、たしかに、あれも悲劇のひとつだ」
貴族と平民の男女が駆け落ちした場合、憤慨した親族が二人を強制的に連れ戻すか、駆け落ちの相手を捕らえるか――最悪の場合、駆け落ちした相手を殺してしまったり、あるいは二人がうまく逃げ延びても、貴族が市井で生活するとなると、環境があまりに違いすぎて順応できなかったりする。
「心配で読書に集中できない?」
「まあ、そういうことだ」
ふう、と小さくため息をつきディルクは執務机から離れて、レオンの斜めまえの椅子に腰かけた。マチアスも手に持っていた書類を机に戻す。
「あのリオネルだよ? うまくやらないほうが想像できない」
「そうはいっても、実際に駆け落ちとなると問題は色々と出てくるだろう。第一、叔父上が黙ってはいないはずだ」
「公爵様にどれだけ聞かれても、おれはしらを切る。絶対に居場所は知られないよ」
「もし連れ戻されずにすんだとしても、リオネルがずっと街で生活するとなれば、ベルリオーズ家の嫡男不在という状況に、兄上やフィデールあたりがまたなにを考えつくことか」
レオンは頭が痛い様子だ。どちらかといえば感覚的に行動するディルクとは違って、慎重さを併せ持つレオンだけに、様々な問題点が見えるのだろう。
「たしかにリオネルがいないとなると、レオンの兄上殿をはじめ国王派連中は飛びあがって喜ぶだろうね。当面は、不在だということをひた隠しにしよう」
あれこれ悩むことのないディルクを、レオンは心底うらやましそうに見やった。
「当面といっても、公爵様のお許しが出なければ、ずっと戻らぬつもりだろう? これはベルリオーズ家だけの問題ではないのではないか? とくにおまえたち王弟派の者たちにとっては」
「そのときには、おれも少し考えるよ」
「〝そのときには〟?」
やや呆れた声でレオンはディルクの台詞を繰り返す。が、ディルクはレオンの心境など気にも止めぬ様子だ。
「ずっととなると、アベラール家の当主を、リオネルとの協力なしでやるのはあまりにも寂しい。それにリオネルは、おれたちシャルム人の希望だからね。でも、まあ、しばらく刺客やら陰謀やらに巻き込まれず、好きな人と二人……いや、お邪魔虫と三人で暮らす生活も、リオネルにとっては悪くない時間になるんじゃないか? 少し羽根を休めるのもいいだろう」
レオンは頭をかいた。
「わかった。では、先のことはもう少し立ってから考えるとしよう。だが直近の問題として、リオネルのような立場の者が街で暮らすには、色々と不便や危険もあるだろう」
「あのさ、今更だけど、なんで本人に直接言わなかったんだ?」
「それは……言いにくいだろう」
声を小さくするレオンに、ディルクは肩をすくめる。
「……ひとつを選べば失うものもあるさ。それはもちろんリオネルのような立場の人間が、街で暮らしたら不便も危険もある。でも、リオネルはなにを失ってもアベルといっしょにいたいと思ったんだろ。それもひとつの選択だと思うし、おれは応援したいよ」
「応援したい気持ちはおれも同じだが」
レオンは本の表紙を指先でなぞる。
「そんなに心配なら、リオネルたちの手伝いに行けば?」
「手伝い?」
「新居の掃除に、鍋やら食器やら布団やら生活に必要なものの買い出し、扉の修理、近所への挨拶回り、仕事探し……いくらでも手伝えることはあると思うぞ」
「……実に庶民的だな」
「ああ、王宮暮らしの殿下には想像できないかな?」
にやりと笑うディルクに、レオンはむっとした顔になる。
「おまえだって想像できないだろう。サミュエルの件で、アベルに庶民の現実を知らないと指摘されて落ちこんでいたではないか」
「その話を持ち出すか? ああ、ああ、そうとも。おれは一方的な男だからね」
すっかりディルクは投げやりな調子になった。
ディルクがあの一件をまだ気にしているのだと――しかもかなり気にしているのだと知ったレオンは、やや気まずそうな面持ちになった。
ちょうどアベラール邸の礼拝堂の鐘が鳴ったので、レオンは強引に話題を逸らす。
「もうリオネルたちは大聖堂を発っただろうか」
「たぶんね」
「二、三日したら様子を見にいくか」
「いいね、新婚生活をのぞきにいこう」
「おまえが言うと、なにかいやらしく聞こえる」
「いやらしい? 失礼だな。人の政務を邪魔しておいて、それでも色々と心配事に答えてやったのに、最後はその台詞か?」
「それとこれとは別の話だ」
「じゃあ、おれの仕事を代わってくれ」
「どうしてそんな話になる。〝じゃあ〟という接続詞が意味不明だ。ああ、リオネルやアベルがいないと、この男を御せる者が減って実に困る」
「なんでおれが御されなきゃならないんだ」
「おまえが野放しになったら、おれはもうどうしたらいいかわからなくなるだろう」
ディルクが言い返そうとするより先に、マチアスがレオンに言う。
「いつもご迷惑をおかけして申し訳ございません、レオン殿下。私が生きているかぎり、ディルク様の手綱は握っておりますから」
「ああ、頼む、マチアス。長生きしてくれ」
二人の会話を聞きながらディルクは顔を引きつらせた。
「人を制御できない暴れ馬のように言うな。おまえたち二人といると、まったく癒されないよ」
おれもリオネルやアベルといっしょに暮らそうかなあ、とディルクは遠い眼差しで窓の外を見やった。
+++
「ここですか?」
いい場所ですね、と粉雪のなか、建物を見上げるアベルを見やって、リオネルは嬉しそうな、けれど心配そうな眼差しになる。
馬の手綱を片手に足を止めたリオネルに従い、アベルとベルトランも新居をまえに立ち止まった。引かれてきた馬たちの吐く白い息が、セレイアックの街に霧散する。
「そう、ここの二階なんだが。アベル、やはりその格好は……」
ここまできて今更指摘されたので、アベルはやや動揺した。
「お、おかしいですか?」
「おかしくはないんだ。むしろ、すごく似合ってる。けれど」
言い淀むリオネルの代わりに、ベルトランが言う。
「さっきから人目を引いている。そうだろう?」
「そういうことだ」
「目立ちますか?」
「目立つというか……その格好をされると、アベルを一歩も外へ出したくなくなりそうだ」
アベルは目をまたたかせた。
三人はすでにセレイアック大聖堂を出て、借家のまえまで来ている。そこでリオネルにドレスのことを指摘され、アベルはあらためて考えこんだ。
リオネルはアベルのため、ベルリオーズ家嫡男という肩書きを捨てて街で生活することを決断してくれた。そのリオネルに、アベルはなにを返せるのか。
アベルが出した答えのうちのひとつは、リオネルの気持ちに素直に応えることだった。
リオネルがベルリオーズ家の肩書きを捨てるならば、アベルもまたこれまで自分を縛っていたものを捨てることにした。
すなわち女として生きることを拒否し、頑なに男であることにこだわっていた自分自身を、ここの生活においては脱ぎ去ろうと思ったのだ。
リオネルのまえでは――なににも縛られないここでの生活では、リオネルを愛するひとりの女性でありたい。そんなアベルの気持ちの表れが、男装をやめてドレスをまとうことだった。
普通の少女らと同じような、すこしばかりお洒落に気を使った、けれど簡素なドレス。その上に、今は冬用の外套をまとっている。
目立つとすれば、子供のように無造作に背中に流した長い髪だろうか。いや、実際に注目を集めているのはむしろ、街の人たちのような格好をしても貴公子然としているリオネルのほうで、アベルはそのついでのようなものだった。
「では、わたしもリオネル様を一歩も外へ出せなくなりますね」
冗談で返せば、リオネルが苦笑する。
「おれのことはどうでもいいんだ」
「よくないですよ、さっきから女の子たちがずっと見ています」
通りを歩けば年頃の娘からご婦人がたまで、すらりとした美形のリオネルを振り返る。現にこうして雪のなかに立っていても、すぐ近くで二、三人の娘らが頬を染めてちらちらとリオネルを見ている。
アベルの視線を追ってリオネルがちらと振り返れば、娘たちがあたふたし始めた。
「わたしも彼女たちのように、ここで暮らすあいだだけでも、リオネル様のことが好きな普通の女の子でいたいのです」
まっすぐに見上げて告げれば、リオネルがわずかに眉根を寄せる。
迷惑だっただろうかと思った次の瞬間には、長い腕に抱きすくめられていた。
「アベル――」
一瞬なにが起きたかわからなかったが、気が付けばリオネルの腕のなか。とても温かい。
「言葉にならない気持ちだ」
リオネルの声はかすれていた。
アベルは胸が熱くなるのを感じる。この腕のなかにいれば、苦しい過去も、自らの出自も、時間の経過も、すべて忘れてただリオネルの存在だけを感じていられる気がした。
どれくらい経ったかわからない。長かったような気もする。
「ごめん……苦しくなかった?」
問われてアベルは顔を赤らめて首を横に振った。
ようやくリオネルの腕から解放されたときには、娘たちの姿はすでになく、ベルトランは粉雪の舞う空を仰ぎ見ている。リオネルの愛馬ヴァレールも、手綱を放され、手持ち無沙汰な様子でそっぽを向いていた。
ベルトランもヴァレールもよく辛抱強く待っていたと思う。
「アベル」
優しく名を呼ばれて、アベルが顔を上げれば、リオネルがうなずく。
「行こうか」
ドレスのままでいいということだろうか。
とりあえずそう解釈して、アベルはリオネルらと共に馬を裏の厩舎に繋いでから、小間物屋に入っていった。
+
小物屋の店主――つまり、借りる部屋の大家はにこにこと笑ってリオネルたちを出迎える。それから大家はアベルに気づいて目をみはり、最後に長身で厳つい表情のベルトランに一歩後ずさりした。
「ええと、ごいっしょに住まわれる方々で?」
「ああ、同居する友人だ」
ご友人ですか、と言いながら大家はアベルをまじまじと見つめる。
「彼女は、おれの恋人だ」
さらりとリオネルが言ってのけたので、アベルはふわりと顔が熱くなるのを感じた。
恋人……だったのか、と思う。
考えてみれば、両思いなのだから恋人といってもおかしくないのかもしれない。けれど、両想いであるのと恋人では、少し違うような……。
「なるほど、貴方様によくお似合いの美しい方で」
「ありがとう」
笑顔でリオネルが答えるので、アベルはますます顔が熱くなる。
「彼女はエステル、彼はベルナール」
あらかじめ考えておいた偽名だった。ちなみにリオネルは、リュシアンと名乗っている。
「私はこの建物を所有するブリス・レスコーです。妻と息子、それに娘もおりますが、今は皆出ていますので、また後ほど」
握手を交わしてから、アベルはリオネルらと共に部屋へ向かった。
部屋に入り、鍵をかけるとリオネルがアベルに声をかける。
「ごめん、恋人なんて言って」
「えっ、あ、いえ……」
謝られるのも、それはそれで寂しいような気がした。
「恋人と言っておいたほうが、なにかと安心だから」
「安心?」
「大家にそう説明しておけば彼が周囲に伝えて、きみに変な虫が寄ってこない……といいなと思って」
そんな意図があったとは気づかず、ひとり赤くなっていたことがアベルは恥ずかしくなる。
「だれも寄ってきませんよ」
そうかな、と納得しない様子のリオネルは、ゆっくりとアベルの目前まできて視線を合わせた。
「もしアベルが受け入れてくれるのなら、おれは本当にきみと恋人になりたい」
「恋人、ですか?」
動揺して声が上ずりそうになる。
「いやだったらかまわないよ」
「い、嫌ではないです。けれど、怖れ多いです」
慌てて首を横に振り、おそるおそる聞いてみる。
「いいのでしょうか、わたしのような者が、リオネル様の恋人なんて……」
すると返事の代わりに抱きしめられる。今日、抱擁されるのは二度目だ。
リオネルの香りに包まれると、本当に自分がこの人の恋人になるなんて許されるのだろうかと、再び怖気づく。
「おれにはもったいないくらいの恋人だよ」
ありがとう、と耳元でささやかれ、アベルは目を閉じた。
きっと……きっと、リオネルの言う〝恋人〟は、この新しい生活――街での暮らしにおいて、恋人でいられるということだ。
リオネルが立場を捨て、アベルが過去を捨てて生きられる今だけ、二人は普通の恋人でいられる。もしも奇跡が起きてベルリオーズ邸に戻れたとしても、従騎士のアベルが恋人でいられるはずがないのだから。
リオネルが腕の力を抜くと、空気と化していたベルトランがようやく咳払いした。
「……ああ、そうだ。ここが新しい部屋」
今更ながらリオネルが説明する。
「す、素敵なお部屋ですね」
こちらも今更ながら答えた。部屋に入ってすでにそれなりの時間が経っていた。
「ここは見てのとおり調理場と食卓のある居間で、あちらが寝室だ。そこの扉は部屋ではなく簡単な物置になっている」
壁際には竈と調理具。三人使うには充分な大きさの食卓には、長椅子が両側に置かれている。寝室の扉は開いていて、奥に寝台の一部と、こぢんまりした暖炉が見える。
部屋数は少ないが、それぞれが広く、清潔感がある。家具もある程度備わっていて、使いやすそうだ。
「素敵な部屋を探してくださり、ありがとうございます」
「気に入ってくれた?」
「もちろんです」
大通りからは外れているが、周囲に商店があるので、窓からは適度な喧騒が聞こえてくる。通りを挟んで向かいに面した木組みの家の窓辺で、猫が昼寝しているのが見えた。
窓の外の景色に目を細めるリオネルの横顔を盗み見て、アベルはあらためて思う。
リオネルがアベルのために選んでくれた生き方。
いつベルリオーズ邸に戻れるかわからないというのに、彼が下した重大な決断。
愛されていると思えば、切なくなった。
幸福すぎて胸が苦しい。
怖いくらいだった。
嵐の日の悲劇、デュノア邸を追い出されたこと、辛いサン・オーヴァンまでの道のり、リオネルとの出会い、ディルクをはじめとした仲間との交流、乗り越えてきた様々な困難、そして母と信じていた女性から向けられた殺意……。
様々なことがあった。
今、手にある幸せの、なんと儚いことか。
なぜだか無性に泣きだしたい気持ちになって、アベルは唇を引き結んだ。
幸福と隣り合わせの恐怖に足がすくみそうになる。幸福であれば幸福であるほど、アベルは不安だった。
いつか失う日がくることに怯えながら、逃げ出したいほどの恐怖に駆られながら、それでも前を向いているほかない。ひたすら、大丈夫だと自分に言い聞かせて。
「アベル?」
思いつめた表情のアベルを、心配そうにリオネルがのぞきこむ。我に返ってアベルは咄嗟に笑ってみせた。
「なんでもありません」
「少し疲れた?」
「大丈夫です、必要なものを買い出しにいきましょう」
明るく言うアベルの髪に、リオネルが軽く触れる。
「そのまえにお昼ご飯を食べよう」
「……そうですね」
髪を撫でるリオネルの手は、なにも心配いらないと言ってくれているようで、笑っていたはずなのに余計に泣きそうになる。
そして実際に、瞳に涙がたまって、どうしようもなくて顔を背ける。
リオネルが静かに言った。
「辛い思いをしてきたんだ。すべて、ゆっくりでいいから」
リオネルの胸のなかでそっと目を閉じる。
その日リオネルに抱擁されるのは三度目だった。