42
雪が止み、二月の太陽の薄明かりが、雲を透かして見える昼下がり。
青白い雪景色に染まる王宮は、春の訪れを言葉少なに待っていた。
叔母からの返事を受けとったフィデールは、雪明りの差しこむ窓辺でそれを開く。背後には従者エフセイが控えていた。
カミーユがエマを探すためにデュノア領へ戻ったという知らせをやってから、はじめてベアトリスから受けとる手紙である。
「地下牢に、監禁……」
手紙には、シャンティの息の根を止めるため、ベルリオーズ家から呼び戻して地下牢に監禁したが逃げられということと、カミーユには一度も会わなかったということの、二点について記されていた。
自らの出自の秘密を知ったシャンティは、侍女と共に逃亡したようだ。その侍女とカミーユが接触した可能性があり、カミーユもアベルと共に行動しているかもしれない。だからこそ、カミーユはデュノア邸に顔を見せなかったのではないか、とベアトリスは綴っている。
〝……カミーユが王宮に戻ったら、それとなくなにがあったか聞いてみてもらえますか。もしあの子がシャンティに惑わされているようだったら、あなたから諭してもらえると助かります。
逃亡したシャンティは、リオネル・ベルリオーズ様のもとにいる可能性もあります。探れるようならシャンティの居場所もカミーユから聞き出してください。
シャンティにはこの世で最も残酷な死に方を、リオネル・ベルリオーズ様にはこの世で最も深い後悔を与えてさしあげたいと思っています。そのために、またあなたの力を借りることになるかもしれません。
場合によってはお兄様にも協力していただくことになるでしょう……〟
手紙を読み終えると、フィデールはおもむろにそれを暖炉の火にくべる。だれかに手紙を見られては困るからだ。
たちまち黒い影と化していく手紙を見つめながら、フィデールはつぶやいた。
「シャンティはまた死に損なったか」
感情を見せないエフセイが、わずかに表情を動かす。そのかすかな変化をフィデールは見逃さなかった。
「気になるか、エフセイ」
「いえ……」
「叔母上はデュノア伯爵を通じてベルリオーズ家に対し、シャンティの返還を願い出たそうだ。戻ってきたシャンティを地下牢に閉じこめたが、侍女と逃亡したとのこと」
相手の表情をうかがうようにしてフィデールが言う。が、エフセイは表情を変えず、無言を貫いた。
エフセイの反応に微笑してフィデールは続ける。
「シャンティに関しては、叔母上も苦労されているようだ。三年前に野垂れ死にしたものと思っていたが、運が強い」
すでに手紙は跡かたもなく燃え尽きていた。
「シャンティは果たしてリオネル・ベルリオーズ殿のもとへ逃げたのだろうか。あるいは、侍女とともにどこかで身を潜めているか」
「シャンティ様が、自らリオネル様のもとに戻ることはないのでは」
「そう思うか」
はい、とエフセイは返事したものの理由を口にしないので、フィデールから尋ねた。
「見つかれば、デュノア家に戻される可能性が高い――だからか」
「いえ……自分の心配よりも、リオネル様やベルリオーズ家に迷惑がかかることを恐れるだろうからです」
静かな口調でエフセイが言うと、フィデールはふっと笑う。
「シャンティはそういう娘だと?」
問いには答えず、エフセイはただ瞼を伏せた。
「なるほど、だがシャンティがそのつもりでも、あのときのリオネル殿の様子だと、このまま離れ離れというわけにはいかないはずだ。おまえならはっきりと気づいているだろう」
エフセイは無言だったが、フィデールは質問を畳みかける。
「リオネル殿はシャンティに心底惚れている。違うか」
ややあってからエフセイは答えた。
「おそらく、そうでしょう」
「あの男が女に心を奪われることがあるとはな。それも相手がシャンティだというなら、なおさら傑作だ」
夢にも思わなかったとフィデールは冷笑する。
「……世のなか、なにが起きるかわからないものだ」
フィデールは楽しげだ。
「リオネル殿は、シャンティの過去をすべて知っているようだったか?」
「私は少しばかり気を読むことができるだけです。人の心のなかまで見透かせるわけではありません」
「わかる範囲でいい」
「……リオネル様がなにをどこまでご存知かはわかりません。けれど、シャンティ様のすべてを受け入れているようには見受けられました」
意味ありげにフィデールは顎に手をあてる。
「けれど平和を望むベルリオーズ家の者にとって、ブレーズ家としがらみのある娘は災いのもとになることもたしかです」
「だから、ベルリオーズ家はシャンティを受け入れないと?」
「リオネル様とベルリオーズ家の意志が、必ずしも一致するとはかぎりません」
「あの男は少なくとも災いを恐れる類の人間ではない。おとなしいように見えて、強かだ。困難や障害に屈するようなら、とっくに心身ともに滅ぼされていただろう」
敵ながらも認めるかのようなフィデールの発言に、エフセイは再び無言になる。
「リオネル殿があくまでシャンティを匿うならば、それはブレーズ家への宣戦布告といえる。そうだろう?」
「シャンティ様に罪はありません。だとすれば、リオネル様にも」
心をけっして余人に垣間見せることのないエフセイの口元を、不意に本音がかすめる。無表情のままのエフセイに、フィデールが目を細めて微笑した。
「その考えを叔母上のまえで口にすれば、首が飛ぶぞ」
エフセイが瞼を伏せる。
「……お赦しください」
命が惜しいわけではない。主人の意に反することを口にしたがゆえの謝罪である。
「オラス殿がローブルグ女を愛して生まれた子だ。罪はなくとも、叔母上が憎んでおられれば、すなわち私の敵となる」
先程まで浮かんでいた微笑はすでに消えていて、フィデールの顔には冷ややかさだけが残っていた。
「どうかお赦しください」
再びエフセイは謝罪したが、感情表現に乏しい様子からは真意が読みとれない。
「おまえにとって、私のやることが本意ではないことはわかっている。まえにも言ったが、私のもとから去るのは自由だ。出ていって好きに生きたらいい」
引き止めるでもなく、制裁を加えるわけでもない。
愛も憎しみもない……無関心。
エフセイはフィデールの言葉に、ようやくかすかな表情の変化を見せた。
「私は貴方様がお許しになるかぎり、おそばにおります」
無関心の冷たさを受けてもなお、従いたいとエフセイは言う。
「好きにしろ」
そっけなく答えると、ちょうど礼拝堂の鐘が鳴る。
「昼食会の時間だ」
短くつぶやき、フィデールは部屋を出た。
+++
移り住む先は同じセレイアック内だというのに、エマもカトリーヌも心配そうだ。
「けれど、貴族の方々が市井で暮らすなんて……しかも、相手は男性ですし」
「お料理など、なにも教えてさしあげなかったことが、今更ながらに悔やまれます」
ディルクはアベラール邸に客人があって不在で、レオンはそのディルクと行動を共にしているためにセレイアック大聖堂にはいない。すでにディルクとレオン、それにマチアスとは先に挨拶を済ませており、今はエマやカトリーヌとの別れのときだった。
けれど別れといっても、さほど離れた場所に移るわけではない。
それなのに、エマもカトリーヌもなにやら気をもむ様子だった。そのうえ、二人の心配はそれぞれ違うようだ。
これまでリオネルやベルトランとは同じ部屋で散々過ごしてきたので、カトリーヌの心配は杞憂だ。それよりもエマの心配のほうが深刻だった。
家事のなかでも、料理が一番苦手だ。……掃除も、片付けもだが。
考えているうちに、徐々に街での生活に自信がなくなってくるが、アベルは二人に明るく笑ってみせる。
「大丈夫、なんとかなるから」
アベルもまた寂しいし、不安でいっぱいだった。けれど、二人にこれ以上心配をかけたくはない。
「なんとかなるとおっしゃっても、お嬢様は手先が不器用ですし」
「シャンティ様は、まるで男女のことについては幼いようですし」
……身内なのに、散々な言われようだ。
「それは、不器用だし世間知らずだけれど、セレイアックに住むのだし、困ったことがあれば相談するから」
「それはそうですけど……」
二人とも浮かない顔である。
「そんなに心配しないで。もう子供じゃないんだから」
「そうですね、いつまでもシャンティ様は小さな女の子のような気がしてしまいます」
エマは笑った。その笑顔に救われる。
そろそろ行かなければならない時間だった。リオネルたちが部屋で待っていてくれているだろう。
「もう出立されるのですね」
カトリーヌは寂しそうな表情になった。
「そんな顔をしないで、カトリーヌ」
アベルも精一杯のところで耐えていた。カミーユやトゥーサン、そして家族のような存在のエマやカトリーヌと過ごせたこの数日は、神様がくれた贈り物のように感じられた。
三年前に突如失ったものを、少しだけ取り戻せたような気がする。
「ええ、わかっています」
無理してほほえむカトリーヌを、アベルは抱きしめた。
「ありがとう、カトリーヌ」
「お礼なんて……」
「ずっと言いそびれていたけれど、あなたのおかげで私は命を救われた。カトリーヌは私の命の恩人よ」
ぐすっと鼻をすすりながらカトリーヌが首を横に振る。
「いいえ、わたし、ずっと後悔しているんです。もっと早くシャンティ様が幽霊ではないと気づいて、たくさんお食事を運び、助けを呼んでいたら、シャンティ様をあんなに弱らせずにすんだのに。あとになって気づいたんです。幽霊とおっしゃったのは、わたしを守るためだったのだと」
「幽霊と言ったのは、わたし流の諧謔よ。感謝してもしきれないのだから、カトリーヌは自分を責めたりしないで」
「ユーモアって……」
もう一度カトリーヌはぐすっと鼻をすする。
「エマをどうかよろしくね」
「もちろんです」
エマの体調はだいぶ回復してきているが、まだ完全ではない。
「あの、シャンティ様」
エマが遠慮がちに声をかけてくる。
「なあに?」
「少しのあいだでよいのです、リオネル・ベルリオーズ様と二人きりで、お話をさせていただけないでしょうか」
少し驚いてから、アベルは笑ってうなずいた。
「きっと大丈夫だと思う。でも、なんの話?」
「これまでの感謝と、これからもお嬢様をお願いしたいという気持ちを、お伝えしたいのです」
「なんだか恥ずかしいのだけど」
「乳母としての親心です。いけませんか?」
懇願するように言われては、アベルもうなずかざるをえない。
「呼んでくるわね」
「いえいえ、わたしのほうからうかがいます」
「そんな、動いたらだめよ」
「もう元気なのですよ。ただ、カトリーヌが心配症なもので、寝台から出させてもらえないだけです」
まあ、とカトリーヌが頬を膨らませる。
「わたしはエマ様を心配して――」
「エマはちゃんとわかっているから大丈夫よ、カトリーヌ。エマの看病をしてくれて、わたしも本当に感謝しているわ」
「いえ、わたしはなにも……」
少し照れるカトリーヌにアベルは笑いかけた。
+
この三年間、深い闇のなかにいるようだった。失ったものの大きさに、犯した罪の大きさに、自らの非力さに、ただ絶望するだけの毎日。
そこへ、生きる意味のすべてをエマに取り戻させてくれたのは、シャンティの無事な姿だった。
そしてシャンティが無事だったのは、ひとえにこの青年のおかげだということをエマは知っている。
「ご婦人の寝室へ入る無礼を、許してほしい」
目のまえに立つのは、しなやかな長身に涼やかで秀麗な容姿、さらに柔らかな物腰と優しげな声の、まるでお伽の夢を現実に描いたような青年だ。
エマが挨拶に来ると聞いたリオネルは、先んじて病室を訪れていた。
「〝ご婦人〟など……お気遣いは無用です。わたしからお伺いするつもりでしたのに、申しわけございません」
半身を起こしながらエマが言うと、そのまま寝ているようにとリオネルにうながされる。
けれど、シャンティの恩人であり、ベルリオーズ家の嫡男のまえで横になったままなど、エマが自分自身に許せるはずがない。起きあがったエマは、逆にリオネルに椅子へ腰かけるよう勧めた。
すでにカトリーヌとシャンティは、リオネルと入れ違いで部屋から出ている。
この場にいるのは、エマとリオネル、そして赤毛の用心棒だけだ。
「横になっていなくていいのか」
立って歩くエマを見て、リオネルが気がかりげに言った。
「ええ、シャンティ様にも申しあげましたが、もう体調はいいのです」
「そうか、よかった」
心から安堵する様子のリオネルは、おそらくシャンティの心情を思っているのだろう。その様子ひとつをとっても、心からシャンティを愛しているのだということがわかる。
エマにも腰掛けるよう促すリオネルのまえで、エマは深々と腰を折った。
「リオネル様、お嬢様をお救いくださったこと、言葉にならないほど感謝しております」
「エマ殿」
「貴方がいなければ、シャンティ様はどうなっていたことでしょう。シャンティ様が生きていると知って、わたしも、カミーユ様も、トゥーサンも、カトリーヌも、新たな人生を与えられたも同然です。なぜならシャンティ様を失った世界に、喜びはなかったからです」
少し困ったような顔で、リオネルは腰を折るエマの腕に手を添えた。
「顔を上げてくれ。感謝するのは私のほうだ。アベルを愛し、育ててくれたこと、心から感謝している、エマ殿」
エマは胸が熱くなった。
「貴方は本当に素晴らしい方です、リオネル様」
リオネルの台詞は、心からシャンティを愛していなければ出てこない。
シャンティを心から愛している男性がいる。それも、こんなに頼りがいのある、素晴らしい男性が。
この事実がどれほどエマを安堵させることか。
「私は〝素晴らしく〟なんてない。街に住まえばベルリオーズ家の嫡男でも貴族でもなく、ただアベルを想うだけの平凡な男だ」
「充分でございます。それ以上のことを望むことは罰当たりでございます。けれども、あとひとつだけリオネル様にお願いしたいことがございまして」
「それは?」
「絶望のなかにあったシャンティ様を救ってくださったあなた様だけが、シャンティ様を再び絶望の淵に突き落とすことがおできになります」
エマの言葉に、リオネルがわずかに目を細める。
「シャンティ様は、あなた様の存在によって生かされておられます。シャンティ様にとってあなた様はおそらく、この世界のすべてなのです。だからこそお嬢様を生かすも殺すも、あなた様の、その手にかかっているということでございます。どうか――どうか、シャンティ様の手を離さないでくださいまし」
リオネルは、命だけではなく、シャンティの心をも救った。
この先、どれほどシャンティが傷ついたとしても、救うことができるのはリオネルだけであろうし、逆にシャンティの心を永遠に殺すことができるのもリオネルだけだ。
それは、リオネルにシャンティを託すうえでただひとつの不安。
だが、はっきりとリオネルは告げる。
「心配しないでほしい、エマ殿。アベルの手を離したら、息をつけないのは私のほうだから」
「リオネル様は、シャンティ様より先に死なないでいただけますか」
わずかに驚いた面持ちになってから、すぐになにか理解したようにリオネルは答えた。とても真剣に。
「わかった、約束する。いつかアベルに安らかな眠りが訪れるときには、必ず私があの子を腕に強く抱きしめていると」
表情を崩したエマは、たちまち涙をあふれさせた。
「エマ殿……」
涙に震えるエマにリオネルがハンカチを差し出す。
「――そのお言葉を聞き、心より安心いたしました。あなたは、わたしの神様です」
「神だなど、そんなことを言わないでくれ。さっきも言ったとおり、私はアベルを愛さずにはいられないだけだ」
「もうなにも――、なにも、言うことはございません……」
「貴女は自分の身体を治すことだけを考えてほしい。貴女が元気でいることが、アベルにとってなにより嬉しいことだろうから」
「ありがとうございます、ありがとうございます……」
リオネルのハンカチを借りて泣いていると、扉が開いた。
「……エマ、泣いているの?」
顔を出したのは、このごろ涙腺の弱いエマに、心配半分、呆れ半分という雰囲気のアベルだ。
「エマは心からアベルを愛しているんだね」
「え?」
唐突なリオネルの言葉にアベルが目を丸くする。そんなアベルをまえに、エマはリオネルから借りたハンカチで目元をぬぐった。
「泣くのはこれが最後でございますよ、シャンティ様。これからは、シャンティ様とカミーユ様の幸福を祈りながら、カトリーヌと笑って暮らします」
「エマ……」
「お約束しますよ。わたしは幸せ者だと気づきましたから」
「エマの幸せは、わたしの幸せよ」
細い腕で抱きしめてくれるアベルを、エマはそっと抱きしめ返した。