41
「アベルとセレイアックの街の片隅で、いっしょに暮らしたい」
意味が呑み込めず、アベルはリオネルの顔を見返した。
「父上から許しが出るまで、おれは戻らない。けれどずっとビザンテ殿やディルクの世話になるわけにはいかないから、アベルと二人……いや、ベルトランと三人か。いっしょに暮らそうと思う」
咄嗟に言葉を探すことができない。
ベルリオーズ家の嫡男であるリオネルが、アベルと、ベルトランと、三人でセレイアックの街で暮らす……?
そのようなことができるはずない。
「以前ジュストに告げたのは、このことだ。父上からの言葉を携えて大聖堂へ戻ってきたときのことを考えて、伝えておいた」
セレイアック大聖堂を発つジュストに、リオネルがなにやら密かに話していたことは、アベルも覚えている。
「……ジュストさんは納得を?」
「さあ、納得したかどうかはわからないけれど、反対はしなかった。……彼の立場では反対できなかっただけかもしれないが」
「街で暮らすなんて――そんなこと、リオネル様にさせるわけにはいきません」
「父上からの許しが出るまでだ」
クレティアンがすぐに許しを出すとは思えない。そもそも、永遠に許可が下りることはないのではないだろうか。
「何年も許されなかったら?」
「何年だってアベルと暮らす」
「……政務は?」
「この際しかたがない。父上にすべてやってもらう以外にない」
「貴族の方々とのおつきあいは?」
「ベルリオーズ家嫡男は当面、行方不明だ」
アベルはだんだん気が遠くなってきた。
「……街での暮らしは?」
先立つものがなければ、街で生活するのは厳しい。
リオネルを見るかぎり、なんの準備もなくベルリオーズ邸を飛び出してきたように思われたが。
「家を借りるくらいのお金はあるし、この先の生活費はおれが働いて稼ぐ。アベルには苦労かけないから」
生活費は稼ぐ、苦労はかけないって……。
まるで市井の者の求婚の言葉だ。
ふわっと身体が浮き上がるような心地がする。
――いや、けれど今は、浮かれている場合ではない。アベルは首を横に振る。
「だめです、リオネル様のような方が、護衛もいない民家で寝泊まりし、そとへ働きに出るなんて」
「惚れた相手のために家を用意し、働くことはおかしいことか?」
惚れた相手。
その言葉に再びアベルは胸が熱くなりかけるが、もう一度アベルは大きく首を振った。
「リオネル様は前国王様の直系で、ベルリオーズ家のご嫡男様ですよ」
互いに同等の身分で、なんの障害もなく出会えていたなら、ただリオネルの言葉を素直に喜ぶことができただろう。けれど、現実はそうではない。
「前国王の直系でベルリオーズ家の嫡男は、愛する女性のために生きられないと?」
「リオネル様……」
そんなふうに問われれば答えられなくなる。弱り果ててベルトランへ視線をやっても、彼は肩をすくめるばかりだ。おれの手には負えないから二人で決めてくれ、とでも言いたげなベルトランは、いかなる結果であれリオネルのそばから離れないことだけを心に定めているようだった。
たとえリオネルが生涯セレイアックの街の片隅で暮らそうとも、ベルトランは死ぬまでそばにいるに違いない。
いや、そんなことを想像するまえに、街でリオネルが生涯を終えるなどという結果を導いてはならないのだ。そんな結果になれば、クレティアンは――ベルリオーズ家は、王弟派の諸侯らは、どうなってしまうだろう。
「明日にでも、借りる家を探しにいこうと思っている。せめて住む家が決まるまで、アベルにはここでゆっくり過ごしていてほしい」
「明日?」
リオネルの計画はアベルが思ったよりはるかに性急だった。
「手紙をジュストさんに託されたのでしょう? 行動を起こすにしても、公爵様からのお返事を待ってからでも遅くないのではありませんか」
穏やかなリオネルの表情が、わずかに苦みを帯びる。
「父上から返事はきた」
「……そうだったのですか」
いつ届いたのだろう。そんな話は聞いていなかった。
「公爵様はなんと……?」
リオネルのこれまでの言動から考えれば、クレティアンの反応はだいたい想像がついたが、聞かずにはおれない。
「許さないそうだ」
……そうだろう。
きっとこの先も許しは出ない。
けれど、リオネルがアベルと街で暮らすなどという強硬な手段に出れば、クレティアンはどうするだろうか。アベルは気がかりだった。
「リオネル様、お願いです。一度だけでいいので、ベルリオーズ邸に行って公爵様とお会いし、話してくださいませんか。必要ならばわたしもいっしょに行きます」
どうしていいかわからないが、とりあえずリオネルとクレティアンは会って話をするべきだとアベルは思う。それはきっと、クレティアンも同じ思いに違いない。
けれどリオネルは重たい口調でアベルの名を呼んだ。
「アベル、話し合う余地はないよ。父上は妥協案を出してくるだろうけれど、おれはベルリオーズ邸にアベルが住めるという許可が下りなければ戻らない。それ以外の選択肢は、おれのなかには一切ないし、妥協するつもりもない。アベルといっしょに館に住むか、あるいはアベルといっしょに館の外で暮らすか、そのどちらかだ」
「…………」
「アベルが、おれの立場やベルリオーズ家のことを心配してくれているのだということは、充分理解している。気苦労をかけてすまない。――けれど」
リオネルはアベルのほっそりとした手を、壊れものに触れるかのようにそっとすくい上げる。
「おれにも、きみを愛する覚悟というものがある。ベルリオーズ家の嫡男であるよりも、今はアベルを愛するひとりの人間としての思いを貫きたい。許してくれ」
アベルは瞼を伏せた。
下げた視線をとらえるのは、アベルの手を取るリオネルのしなやかな手。こんなにも自分たちの手の大きさは違うのだと、アベルはぼんやり思った。
リオネルを、この世界のどんなものからも守りたい
――それだけがアベルの思いだ。
気づけば、考えるより先に言葉は口をついている。
「わたしの存在が、リオネル様を追い詰めることが怖いです」
「追い詰める? とんでもないよ。おれはきみに生かされている。アベルのいない世界なんて想像もできない」
アベルは瞼を伏せたまま、複雑な気持ちながらもかすかな笑みで応える。と、触れあう手はそのままで、もう片方のリオネルの手に頬を包まれた。
「おれを見てくれないか」
うながされるままにアベルは視線を上げる。
紫水晶の瞳が目のまえ。
優しい眼差しは、出会ったころと少しも変わらず、アベルをたしかな力強さでこの世界に繋ぎとめている。
「きみの手を放したくない」
揺るぎない声音のなかに、リオネルが滅多に見せることのない、わずかな不安が感じられた。
「これはおれの我儘だ。おれのために、いっしょに街で暮らしてくれないか」
懇願、だった。
紫色のリオネルの両目を見つめ返しながら、気づけばアベルはうなずいている。この瞳に見つめられて首を横に振れるはずがなかった。なによりこの事態を避けなければならないと思っていたのに。
抗うことができないのは、リオネルへの想いのため。
「ありがとう、アベル」
リオネルの逞しい腕に抱きすくめられて、アベルは目を閉じる。
……アベルは覚悟を決めた。
リオネルを守る覚悟ではない。
おこがましいことを承知であえて言葉にするならば、リオネルに愛される覚悟である。この人のために生きるという決意だった。
「アベルのこと、なにがあってもおれは守り抜くから」
音もなく雪が舞い落ちるように、アベルの心のうちに言葉にならぬ感情が降り積もる。
静かな夜が更けていった。
+++
昼前のセレイアックの街には、粉雪が舞っている。
気温は低いが、中心街の商店には多くの人が集まっていた。
人々は日用品やパンを買い求めながら、政治の話題や、近所の噂話に花を咲かせ、あちこちの通りでは、馬車が降り積もった雪に車輪の跡を残しながら走りぬける。
アベラール領の最大都市セレイアックは、雪景色にあっても季節を感じさせぬ賑わいを見せていた。
「そうか、ついに駆け落ちか」
行き交う人々のなかに、目深に外套のフードを被った長身の二人――いや、その背後に影のように従う男を含めれば三人が、若い女性らの視線を引きながら歩いていた。
そろって背が高く垢抜けた風情の三人は、言うまでもなくリオネルとディルク、そしてベルトランである。当然、セレイアックの人々は、領主らがこんなところを歩いているとは夢にも思っていない。
白い息を吐きながら、ディルクがしみじみと言った。
「市井の娘と恋に落ちた領主の息子に、駆け落ちはつきものだ。きみたちの将来を思うと心配だが、まあ、ある意味では念願の新婚生活だね」
こんなときに呑気な発言をするディルクへ、リオネルは苦笑を返す。
「〝駆け落ち〟や〝新婚生活〟なんて、どちらの言葉もアベルに叱られるよ」
「どうして? 好きだと言ってもらえたんだろう」
「……そうだけど」
「そうだけど?」
「アベルはおれとの駆け落ちや新婚生活なんて望んでいないから」
ディルクがリオネルの顔を見やった。
「主従関係を望んでいると?」
小さくリオネルはうなずく。
「彼女は、おれが父上と和解し、ベルリオーズ邸に戻ることをなにより望んでいる。アベルはおれを異性として好きだと言ってくれたけれど、あくまでおれが主人で、アベルはその家臣という認識からは抜けだしてはくれないだろう」
「まあ、それも事実だからしかたないんじゃないか」
「わかってる。それでも望んでしまう。主従であるまえに、人間同士の関係でいたいと」
「人間同士、か……」
リオネルは瞼を伏せた。
「……アベルといっしょにいられるだけでかまわないという気持ちに、変わりはないよ。恋人という関係を無理強いするつもりはない。どんな関係であっても、いっしょにいられるだけで幸せだ。それでも、あまりおれがベルリオーズ家の嫡男であることを強調されると、少し寂しくもなる」
ディルクは軽く笑う。リオネルは少しも笑えなかったので、軽く非難の目を向ければディルクがごめんと謝った。
「いやさ、あんまりアベルらしいからさ、ちょっと笑えた。だって、あの子は真面目だろう? あれこれ考えてしまうのは容易く想像できるし、しかたないと思うよ。まあでも、今回のことはいい機会になるんじゃないか? 立場や境遇、貴族らしい生活からも少し離れて、ひとつ屋根の下で二人だけで暮らしてみれば、アベルだっておまえをひとりの人間としてあらためて認識しなおすかもしれない。さすがに、愛しあう男女がこの状況でなにもないということもないだろうし」
「……おれはアベルに手を出すつもりはないよ」
「なにもしないって? ああ、そうか。あとひとりお邪魔虫がついくるんだっけ」
ちらとディルクが背後を振り返れば、フードを被ったひときわ長身の影のような男と目が合う。
「いや、そういうことではなくて、アベルは……」
リオネルが言い終えるより先にベルトランが低く声を発した。
「だれが邪魔だって?」
ディルクは顔を引きつらせる。
「その雰囲気で言われるとますます怖いよ。なあ、リオネル。あんなのに新婚生活を邪魔されていいのか? ああ、でも、おまえを護衛する必要もあるか」
言いたい放題のディルクに、ベルトランが青筋を浮かべる。リオネルは少しベルトランを振り返りながら答えた。
「ベルトランにはつきあわせて申しわけないと思っているよ。おれが働きに出るあいだ、彼にはアベルを守ってもらわないとならないから」
「は? おまえが働きに出る?」
「そう」
「なんでまた」
「でなければ、だれが生活費を稼ぐんだ? おれはほとんど手ぶらで館を出てきた」
「おまえたちが生活するくらいの金なら、おれが用意するよ。おまえがひとりで働きに行くって、冗談だろう? 前国王様の孫だぞ? おかしいだろ。そもそも、なにかあったらどうするんだ」
「言ったはずだよ。ベルリオーズ邸を出て街で生活するからには、おれは貴族ではなくただの町人だ。自分の手でアベルを養いたい」
「なら、せめて働きに行くときは、ベルトランを連れていけば?」
「ひとり置いていってアベルの身になにかあったら、取り返しがつかない」
「アベルは男装したままで生活するんだから、大丈夫だろう」
「男装していてもアベルの容姿は目立つ」
「……なんだか話していると、甘い新婚生活どころか、色々と不安になってくるな」
微妙な表情のディルクをよそに、ちょうど目的の小間物屋へ着いたリオネルは、周辺を見回して「治安はよさそうだね」とつぶやいた。
「ああ、このあたりは悪くないよ。家賃もそこそこすると思うけどね」
ディルクの言葉にひとつうなずくと、リオネルは店に立つ四十台ほどの男に声をかける。
「いらっしゃいませ、お探しのものがあればおっしゃってくださいまし」
「いや、探しているのは部屋なんだ。この建物の上階に空きがあると聞いたのだが」
「ええ、ええ、ありますよ。ご覧になりますか?」
こうしてリオネルは部屋を確認し、それから大家と話をしたが、結局は検討すると告げて店をあとにした。
「なにが気に入らなかったんだ?」
「玄関の扉のたてつけが甘かった。あれでは鍵がついていても、破るのは簡単だ」
「細かいな……」
「アベルが住むのだから、安全の確保はなにより重要だよ」
「まあ……そうか」
次の物件は、階下が居酒屋だから酔っぱらいが多くて危険だと理由で――、その次は建物が古く、さらにその次は部屋が手狭、また最後の一軒は中年の大家が好色そうな顔をしているとディルクが決めつけたために、最後まで決まらなかった。
「なかなかいい物件がないねえ」
ディルクは腕を組む。すると、意見を口にしたのはこれまで黙っていたベルトランだった。
「最初に見た物件を借りて、扉をおれたちで直すというのはどうだ。扉ごと作り変えなくとも、蝶番を取り替えればしっかりつくだろう」
しばらく考えてから、リオネルはうなずいた。
「いい案かもしれない」
「たしかに、あれが全体的に一番よかったかもね。たしかお向かいの部屋も女性がひとりで住んでいると言っていたし」
クレティアンが強硬な手段に出るまえに、街に移り住みたい。そのためにはなるべく早く家を探す必要がある。リオネルの決断は早かった。
「扉の問題がなくなれば懸念はない。最初の物件でいこう」
「じゃ、決まりだね。小間物屋に戻る?」
「いや、今日はそろそろ暗くなるし、念のためひと晩検討してまた明日出なおすよ。アベルのことも心配だから」
「アベルならマチアスとレオンがついてるから平気だよ」
「つまるところ、早く会いたいんだ」
平然と言ってのけたリオネルに、ディルクは苦笑した。
「べた惚れだね」
「そうかな」
「幸せそうだよ」
そう言って笑うディルクは、リオネルが不在では困ることもあるだろうに、自身の不安を微塵も顔に出さない。
とくに、エストラダが勢力を増して南下している今、すべての諸侯と正騎士隊が力を合わせて対抗しなければならないときが迫っていた。
むろんリオネルもそのことはわかっている。無責任だと言われれば反論のしようがないし、ディルクにはすまないと思っていた。
けれど、立場のことを考えはじめたら、アベルを守り抜くことなどできなかった。ベルリオーズ家や領民のことだけを考えてこれまで生きてきたが、生まれてはじめて、すべてを投げ打ってでも、ひとりの人間として生きたいと願った。
想いを貫くことは罪だろうか。
――たとえ罪だとしてもかまわない。
アベルのためなら悪魔に魂をも売り渡すだろう。
すでに心は定まっている。
「すまない、ディルク」
謝ると、リオネルの心情を察したディルクがほほえんだ。
「他国が攻めてきたときには戻ってこいよ。そのときには、ベルリオーズ家の騎士を率いて戦うことが、結果的にはアベルを守ることになる」
「わかっている」
実現するかどうかもわからぬ返答に、ディルクは小さく笑う。
「生きてみろよ、リオネル。ひとりの男として。おまえがはじめて見せた、素直な人間らしさだ」
リオネルはディルクに無言でうなずき返した。
+
くしゅんっ、とくしゃみをすればマチアスが心配そうに声をかける。
「大丈夫ですか」
「すみません、平気です」
今日はなぜだかくしゃみがよく出る。熱は下がり、咳も出なくなって、風邪という感じでもないのだが。
「リオネルとディルクあたりが、アベルの話をしているのではないか?」
レオンの冗談にアベルは笑った。一方、マチアスは浮かぬ様子だ。
「お戻りが遅いですね。やはり私もついていったほうがよかったかもしれません」
家を探すリオネルにディルクがついていったのは、セレイアックのことなら領主である彼が一番よくわかっているはずだからだ。
けれど、領主といっても街で生活したことがあるわけでも、実際にすべての場所を歩いてまわったことがあるわけでもない。従者であるマチアスのほうが、たしかに詳しいかもしれなかった。
「まあ、あれだ。ディルクだって、あちこちほっつき歩いて遊びまわっていたのだろうから、よくわかっているはずだ。それにリオネルなら、マチアスがいなくてもうまくディルクを扱うだろう」
マチアスが乾いた笑い声を洩らしたころ、リオネルと共に家探しをしていたディルクがくしゃみをしていた。
「風邪か?」
ベルトランに問われてディルクは首をひねる。
「いや、レオンやマチアスあたりがおれの悪口を言ってるんじゃないか?」
なるほど、と妙にベルトランが納得すれば、同じころセレイアック大聖堂ではレオンがくしゃみをしていた。
「ディルクのやつ、今度はおれの話をしているな」
まさか、と笑ったアベルは、家探しをしているリオネルらに思いを馳せながら、来たるべき新たな生活に対する大きな不安と、小さな希望を胸に押しこめた。
今回からまた週1話ずつの更新に戻ると思います。。m(_ _)m