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雪は止んでいるが、風が強い。
カミーユと別れてから三日が経ち、二月も残すところあと十日。けれど春の気配は遠く、窓の外は雪が積もったまま土も砂利も凍てついていた。
暖かい室内。
話を聞きながら、そうなのですか、とエマがしみじみつぶやく。
「そんなことがあったのですね、大変なご苦労をなさってこられて……けれど、とてもよい方々に恵まれてお嬢様はお幸せですね」
少しずつ体調が良くなりつつあるエマに、アベルは望まれるまま、これまでの経緯を語って聞かせていた。
リオネルとの出会い、イシャスを産んだこと、ベルリオーズ邸での生活……なにを話してもエマは目を潤ませる。カトリーヌが手渡したハンカチは何枚目だろう。
「わたしはとても運がよかったのよ。きっとエマが祈っていてくれたおかげね」
「そのような……、わたしは自分の罪の赦しを希っていただけでございます」
「そのお祈りが、めぐりめぐってわたしを守ってくれていたのだと思う」
傍らで聞いていたカトリーヌが、「いいお話ですね」と目もとをぬぐった。
「ねえ、エマ。今度はあなたの話も聞かせてくれない?」
「わたしの話、とは?」
「わたしの、実のお母さんのことを聞きたくて」
「コルネリア様の……?」
「どんな人だったの」
少し考える顔になってから、ゆっくりとエマは口を開く。
「気の強い方でした」
「最初に思い浮かぶ特徴がそれ?」
アベルは苦笑する。どんな人だったかと聞かれてひと言〝気が強かった〟とは。
「いえ、少し言葉が違うかもしれません。気が強いというより、芯が強いというべきでしょう。しっかりしているのですよ。細かいことを気にしない明るく朗らかな性格で、心根が優しく、それでいて毅然とした方でした。シャンティ様のことを、それはもう可愛がっておられましたよ」
ベアトリスもまた、かなり気の強い性格なので、二人は衝突したに違いない。立場の弱いコルネリアは、我慢しなければならないことが多かったのではないだろうか。
「デュノア邸にいるときは、幸せそうだった?」
「ええ、公にできぬ関係ながらも、愛するオラス様と結ばれ、かわいいシャンティ様を授かり、幸福そうでいらっしゃいました」
「もともとはローブルグの国境でのんびりと生活していたのでしょう? 貴族の館で密かに暮らす生活なんて、堅苦しくなかったのかしら」
「薬師のお嬢さんでしたが、家系を辿ればローブルグの騎士の血筋だったようです。ラスドルフの領主様の館にも出入りしていたようで、貴族の生活には馴染みがあったのではないでしょうか」
ラスドルフといえば、どこかで聞いたことがあるような。
たしかローブルグの亡きアルノルト王子の遺児であるジークベルトが、フリートヘルムによって王宮に連れ戻されるまでのあいだ預けられていたのが、ラスドルフの領主の館ではなかったか。
もしかしたら遠い昔に二人はラスドルフの館ですれちがっていたとか……。
そんな可能性を考えると世間は狭い。
思い返してみれば、ニーシヒの街でアベルを呼び止めた路上の老人は、アベルとよく似た人物にラスドルフで会ったことがあるというようなことを言っていた。もしかしたら、それはコルネリアのことだったのだろうか。
「あれだけ美しかったのですから、ラスドルフの街でも評判だったはずですよ。求婚者はあとを絶たなかったようですが、コルネリア様が恋をしたのはオラス様だけでした」
ベアトリスといい、コルネリアといい、男性から人気のあった――けれど気の強い女性を、オラスは虜にしたようだ。
母の話を聞くのは嬉しいが、同時にベアトリスのことが思い起こされれば、アベルは少なからず気持ちが塞ぎそうになった。
エマを心配させたくないので、哀しい気持ちはどうにか心の底に押し沈めて尋ねる。
「お父様のなにがよかったのかしら」
「こんなことを申しあげてよいのかわかりませんが、伯爵様には特別な魅力がおありです。顔立ちやお姿がいいというだけではなく、なにか女性を惹きつけるものが」
「そうかなあ……」
「律儀なご性格で、女性や目上の者に対する礼節を欠かすことはありません。けれど完璧に見えるなかに、激しさを秘めている――その両者のあいだにある危うさが、女性を惹きつけるのではないでしょうか」
妙に詳しい分析だ。アベルは感心した。
「どうしてそんなことがわかるの?」
「わたくしも女だからですよ。もちろんわたしは乳母ですから、伯爵様に想いを寄せるなどということはございませんが、あの方の魅力はわからなくもありません」
「そういうものなの」
自分は娘だからよくわからない。女性に対して礼儀を欠かさないというが、オラスはいつだってアベルに厳しかった。
「けれど、コルネリア様が惹かれたのはおそらく別の理由でしょう」
「どういうこと?」
「オラス様は、コルネリア様のまえでは、普段の堅苦しさが抜けて楽しげなご様子でした。コルネリア様への気遣いは礼儀作法から出たものではなく、愛情からであったと思いますし、コルネリア様といっしょにおられるときのオラス様からは、激しさや危うさなどは感じられませんでした」
「そうなの」
「コルネリア様が手紙を書かされて出ていったあとから、オラス様は感情の起伏が以前より激しくなったように思われます。外では完璧な領主――けれど、館のなかでは不機嫌に、ときにはシャンティ様やカミーユ様、それに家臣たちに対して過分に厳しく振る舞うようになりました」
コルネリアが手紙を書かされて出ていったあとから……。
そう聞けば、アベルはひどく複雑な気持ちになった。
「――このようなお話をいたしまして、申しわけございません」
謝るエマに、アベルは静かに答えた。
「いいのよ。聞けてよかった」
「シャンティ様にお返しするものがあります」
なんのことかと目で問えば、エマは襟の詰まったドレスの首元から、金色に光る繊細な首飾りを引きだす。その先に揺れていたのは、見覚えのある石だった。
「これ――どうして」
アベルはそれを呆然と見つめる。
瑠璃の首飾り。
祖母の形見であるこの首飾りは、かつてアベルが無一文でデュノア邸を追い出されたときに、質屋に売り払ったものだ。
「詳しいことはお聞きしておりませんが、カミーユ様は偶然に見つけたとおっしゃってわたしに預けてくださったのですよ。あのときの言葉は鮮明に覚えております」
――姉さんが、いつかデュノア邸に戻ってくるような気がしてならない。池で死んでなんていないような気がする。だから姉さんが帰ってくるその日まで、エマが持っていてくれないかな。エマの手で、また姉さんにつけてあげてよ。
「どれほどカミーユ様の言葉とこの首飾りが、わたしの心の支えとなったでしょう」
首飾りを外してアベルに手渡しながらエマは言う。
「これは大奥様の形見であり――そしてコルネリア様のものでした」
「母の……?」
祖母の形見が、どうしてコルネリアのものでもあったのか。
「この首飾りは、大奥様がお亡くなりになるまえに、コルネリア様に渡されたものなのですよ」
「お祖母さまが母に?」
「大奥様は、コルネリア様を大変かわいがっておられました。オラス様が真に愛した相手だったからでしょう。ですので大奥様は、ベアトリス様ではなくコルネリア様にこれをお渡しになったのだと思います」
真に愛した相手。
それが、こんな結末を迎えるとは。
「この首飾りを、シャンティ様にお返しします」
瑠璃の首飾りを受けとり、アベルは手のうちにあるそれをまじまじと見つめた。
群青色の石は、間近で見るとわずかに赤みがかっていて、神秘的な色を秘めている。譲り受けてからマイエの街で売り払うまで肌身離さず身につけていた首飾りだ。
オラスの気持ちを知っていて、コルネリアを館に住まわせることを提案した祖母ジャクリーヌは、コルネリアの存在をだれより認めてくれていた人だったのかもしれない。
「ありがとう、エマ」
二歳のときに亡くなった祖母へ思いを馳せて、アベルはそれをぎゅっと握りしめた。その様子を見つめながらエマが言う。
「おつけいたしましょう」
「あっ」
「どうかいたしましたか?」
祖母が母に譲ったという首飾りだからこそ、なおさら身につけていたい。けれど首にはすでにリオネルからもらったものがかかっていた。
「実は、これ――」
すでにドレスを脱いで男性用の服をまとっていたアベルは、首もとから水宝玉の首飾りを取り出す。エマがじっとそれを見つめた。
「そういえば、シャンティ様はお会いしてからずっとその首飾りを身につけていらっしゃいますね。……もしやリオネル・ベルリオーズ様からの?」
言いあてられてアベルはたちまち赤面する。
「……どうしてわかったの」
「まえにも申しましたが、見ていればわかります」
そんなに自分はわかりやすかっただろうか。
「それに、わたしは、かつて夢を見たのです」
「夢?」
「ええ、少し大人っぽくなったように見えるシャンティ様が、見目麗しく優しげな青年に花冠をかぶせてもらい、恥ずかしそうに――けれど幸せそうに笑っている夢を」
「…………」
花冠といえば、実際にリオネルから五月祭の折りにもらっている。
「リオネル様は、まさにその夢のなかでシャンティ様といっしょにいらした男性なのです」
エマがほほえむと、カトリーヌが咳払いした。
「堅苦しいことを言わなくてもいいじゃないか、カトリーヌ」
「わたしは、なにも言っていませんよ?」
「わたしはリオネル・ベルリオーズ様に心より感謝している。シャンティ様をお救いし、赤ん坊の名付け親になって世話までしてくださっているんだ。夢のことがなくても、素晴らしい男性だということに違いない。あれほど懐の深い方はいないよ」
アベルはなんとなくうつむく。
「シャンティ様は愛されているのですね」
エマは嬉しそうだ。シャンティが生きていて、頼りがいのある男性に守られているということが、エマはなによりも嬉しいようだった。
アベルは気恥ずかしくてしかたがない。
「わたしごときがシャンティ様をお守りするには、ブレーズ家はあまりに強大で途方もありませんでした。ええ、ええ、リオネル様ならば、おそらくこのシャルム中でもっともお嬢様をお守りできる存在でしょう。こんな素晴らしいことはありません」
「あのね、エマ。わたしは守られるためではなく、リオネル様をお守りするためにいるのよ」
「お嬢様のお気持ちはわたしにも伝わっております。いいのですよ、お互いに支え合えば」
「そうはいっても、わたしはきっともうベルリオーズ邸には置いてもらえない」
本音をもらしてしまったあとで、アベルはしまったと思った。エマに心配をかけたくなかったのに。
案の定、エマは考え込む様子だった。慌ててアベルは明るく告げる。
「でも気にしないで、エマ。わたしはなんとかなるから、ね」
エマはうなずいた。
「このような状態では、わたしにはもうリオネル様を信じて、シャンティ様を委ねさせていただくことしかできません」
委ねるだなんて、自分で自分のことくらいなんとかするつもりだ。そう思って口を開きかけたとき、エマが表情を曇らせた。
「ベアトリス様は、本当に恐ろしい方です。あまり申しあげたくないのですが、大奥様の……」
「え?」
アベルが視線を上げるとエマは逡巡する色を見せてから、首を横に振った。
「いえ、やめておきましょう。事実かどうかわからないことを申しあげてシャンティ様のお心を乱すのは、けっして歓迎すべきことではありませんから」
「お祖母さまに関係があること?」
尋ねてもエマはうつむいていた。
悩む様子のエマをまえに、アベルはその腕にそっと手を置く。
「――無理に話さなくてもいいわ。わたしのことは大丈夫だから。エマが話したいと思ったら、話せばいいのよ」
「ありがとうございます、シャンティ様」
エマとの話を終えたのは、あたりがすっかり暗くなったころだった。
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暖炉の薪が爆ぜ、火の粉が散る。
この夜、ディルクとレオン、そしてマチアスはアベラール邸に留まっていたので、部屋にいるのはアベル以外にはリオネルとベルトランだけだった。
ここはセレイアック大聖堂。
リオネルもベルトランもベルリオーズ邸にいるときは、政務や鍛錬、騎士たちとのやりとりや賓客の対応をはじめとする諸々の仕事で忙しいが、今は特にやることもないので、ゆっくりと修道院の蔵書などを読んでいる。
そんな二人の様子を見やって、アベルは考えこんだ。
このままではいけない。熱が下がった今、これ以上セレイアック大聖堂に併設されたこの修道院に長く留まることはできないだろう。
ディルクはかまわないと言ってくれるかもしれないけれど、甘えるわけにはいかない。そろそろ出なければならないときが近づいている。
ベルリオーズ邸でやらなければならないことは、山のごとくあるはずのリオネルとベルトランを、いつまでも自分のためにこの場所に留めておくわけにもいかなかった。
けれど、アベルに行くあてはない。
さて、どうするべきなのか。
リオネルはベルリオーズ邸に戻らず、ずっとアベルのそばにいると言ってくれているが、そんなことが許されるはずないのだ。
きっと、リオネルのため、そしてベルリオーズ家の者たちのためには、なにも告げずにひとり出ていくのがいいのだろう。けれど、そんなことをすれば、リオネルがどれほど心を痛めるか。
リオネルのためならどんなに辛い選択も躊躇わないアベルだが、今回はきちんと話し合い、互いに納得したうえでこの事態を解決しなければならないと思った。
床板の木目をぼんやりと見つめて考え込んでいたアベルは、視界に影が差すのを感じて我に返る。
顔を上げれば、いつのまに読書を終えていたリオネルが、アベルの腰掛ける長椅子のまえまできていて、目線を合わせるようにしゃがみ込んでいた。
「アベル」
こちらの顔を見つめるリオネルの瞳には、優しさと愛おしさが滲んでいる。そのリオネルにただ名前を呼ばれたそれだけで、アベルは胸が締めつけられた。
「ごめんなさい、気づかなくて」
悩んでいたことを見透かされたくなくて、アベルは明るく笑ってみせる。
「そろそろお休みになりますか?」
尋ねれば、リオネルがアベルの髪に軽く触れた。
「なにを考えてた?」
「え?」
優しく尋ねる声に、アベルはどきりとする。リオネルはアベルの考えていることなど、すべてお見通しなのではないかと、つい思ってしまう。
「な、なにも――」
「熱が下がってから、アベルはよく考え込んでいる」
「そ、そんなことありませんよ」
「おれたちになにも告げず、ひとりでここを出ていくことなんて考えてなかっただろうね」
「ま、まさか」
一瞬頭を過ぎった考えを言いあてられて、アベルはたじろぐ。あれこれ注意を受けるかと思ったが、リオネルは柔らかい表情のままだった。
「気をもませてすまない。おれに、父上を説得する力があれば、アベルをこんなに悩ませずにすんだのに」
「そんな……公爵様のお考えは正しいと思います」
説得など、はじめからするべきことではないのだ。
「父上は大切なことを見失っている。きみはすでにシャンティ・デュノア殿ではなく、ベルリオーズ家の一員で、従騎士のアベルだ。アベルはおれだけではなく、ベルリオーズ邸にいる多くの者たちにとって必要な存在だ」
「とても嬉しいお言葉ですが、わたしはリオネル様の思っているような人気者ではありませんよ」
アベルは冗談めかして言ったが、それはおそらく真実だ。トマ・カントルーブやオクタヴィアン・バルト、そしてその仲間たちは、アベルがいなくなったら歓喜することだろう。
「アベルは自分の価値に気づいていないんだね」
そんなことを言われると、どんな顔をしていいかわからない。リオネルはアベルのことをかいかぶりすぎだと思う。
「ずっと考えてきたことがあるんだ」
「考えてきたこと、ですか?」
目のまえにある透き通った紫色の瞳を、アベルは正面から見つめる。
「本当はもう少しアベルがここで体調を整えてからにしようと思っていたのだけれど……もう時間がない」
なにか重大なことのようなので、アベルはリオネルの言葉へ神経を集中させた。するとリオネルの口から発せられたのは、信じられない言葉――。
「アベルとセレイアックの街の片隅で、いっしょに暮らしたい」
意味が呑み込めず、アベルはリオネルの顔を見返した。