第四章 リオネルの決意と新たな生活 39
雪に覆われ、ますます荘厳で幻想的なベルリオーズ邸。
けれど、腕を組みながら、部屋を行ったり来たりするクレティアンは、落ちつかぬ様子だった。
リオネルが発って一週間が経ち、さらにジュストにあとを追わせたが、未だに音沙汰がない。デュノア伯爵からも、その後シャンティの捜索がどうなったかということについての連絡は一切来ていなかった。
「いったいどうなっている」
ひとりクレティアンのつぶやく声は、執事のオリヴィエの耳に届いたようだ。
「別の者をデュノア邸に派遣いたしましょうか」
オリヴィエの提案にクレティアンはうなった。それもひとつの手だが、騎士たちには、リオネル不在の理由を、アベラール邸を訪れているためだと説明してある。彼らに真実を告げるのは最終段階だろうと、クレティアンは考えていた。
もしデュノア邸でリオネルやアベルの身になにかあれば、ジュストはすぐに知らせてくるはずだ。なにもないということは、まだ見つからないか、あるいは無事に合流して共に過ごしているか、そのどちらかの可能性が高い。
――が、やはり憶測の域を出ない。
手を打つべきか、今しばらく様子を見守るべきか。
クレティアンが考え込んだとき、扉を叩く音があった。
オリヴィエの開けた扉から現れた人物に、クレティアンは軽く目を見開く。こうなっては、しばらく戻ってこないものと信じていたからだ。
「ただいま戻りました。遅くなり申しわけございませんでした」
深々と腰を折った青年は、旅から戻ったばかりという出で立ちだ。かろうじて外套は脱いでいるが、髪や長靴には雪が残っており、溶けかけて冷たい水滴をしたたらせていた。
「このような姿で申しわけございません。一刻も早く、公爵様にはリオネル様のご無事をお伝えしたく、無礼を承知で参りました」
「リオネルに会ったのか」
思わず問い返せば、ジュストは深くうなずいた。
「はい」
「アベルは」
「リオネル様と共におります」
リオネルとアベルが無事だったと聞いて、クレティアンは気が抜けたような心地で胸を撫で下ろす。一刻も早くリオネルの無事を知らせたかったというジュストを、叱るわけがない。
「ご苦労だった、ジュスト。なかに入りなさい」
「けれどこのような格好では――」
「かまわない、なかでゆっくり話が聞きたい。身体も冷えていることだろう、椅子に座ってなにか飲みなさい」
ジュストは少し考える面持ちになったものの、すぐに決断してクレティアンの書斎へ入った。
「失礼いたします」
オリヴィエに案内されて暖炉に最も近い椅子に腰かけるジュストは、ひどく恐縮した様子だ。彼の向かいの長椅子に腰かけ、クレティアンは早速尋ねる。
「リオネルに会えたというのは、本当なのか」
「はい、お会いしたのは、セレイアック大聖堂においてです。アベル以外に、ディルク様、レオン殿下、デュノア家のカミーユ様もごいっしょでした」
「ディルク殿に、レオン殿下、デュノア家の嫡男殿まで?」
クレティアンは眉をひそめる。いったいどういうことなのか。するとジュストはこれまでの経緯をクレティアンに語りはじめた。
アベラール領内に入ってすぐに、シャンティを探しているというデュノア家の乳母に会い、彼女を送り届けるためにセレイアック大聖堂に向かったこと。そこでリオネルたちと会うことができたこと……。
加えてジュストは、アベルがベアトリスによってデュノア邸の地下牢に閉じこめられていた事実や、リオネルと共にディルクやレオン、そしてカミーユらがアベルと行動を共にしていたことを告げる。
「カミーユ殿は王宮にいるはずでは」
「行方不明になった乳母のエマ殿を探すために、デュノア領へ戻ってきたそうです。そこでアベルが閉じこめられていることを知り、ディルク様に助けを求めたと」
「なるほど」
これですべて繋がった。……だが。
「なぜ彼らはセレイアック大聖堂に留まっているのだ」
薄々答えはわかっていつつも、クレティアンが尋ねると、ジュストにしては珍しく躊躇う色を滲ませた。
「……ひとつには、アベルが衰弱しきっていたうえに、体調を崩しているためです。デュノア邸からセレイアックまでの移動で精一杯だったと思われます」
「〝シャンティ殿〟は無事なのか」
「ベアトリス様は、アベル……シャンティ様を、真冬の地下牢で凍死、あるいは餓死させるつもりだったようですが、ひそかに侍女が食糧を運んでいたようで、命は取り留めました。私が会ったころはまだ高熱や咳が出ていましたが、身体のほうは療養すれば治ると思われます」
「心の傷のほうが深いか」
意外な言葉だったのか、クレティアンの指摘にジュストは視線を上げる。
「ええ、ベアトリス様を実の母親と信じていたようですから。けれど――」
「けれど?」
言い淀む相手に続きを促すと、ジュストはわずかに視線を逸らして答えた。
「シャンティ様は、リオネル様の支えで心の傷も癒されていっているように、私には見受けられました」
言い淀んだのはそのためか。複雑な思いがして内心でため息をつけば、ジュストが思いきったように尋ねた。
「出過ぎたことと知りつつ、お尋ねいたします。公爵様は〝アベル〟をどうなさるおつもりでしょうか?」
「聞いてくるようにとリオネルに言われたか」
「けっしてそのような――」
「リオネルにとって、〝アベル〟が大切な相手であることは承知している」
ジュストの眼差しを静かに見返しながら、クレティアンは続けた。
「だが、〝シャンティ殿〟はリオネルに相応しい相手ではない」
はっとした表情になるジュストをまえに、クレティアンは苦い気持ちになる。
いかに残酷なことをしようとしているかはわかっているが、こればかりはベルリオーズ家の当主として譲れないことだった。
「デュノア伯爵とローブルグ人とのあいだの娘であることが問題なのではない。――ブレーズ家との因縁が深すぎる。まだ私たちの知らぬ事実もあろう。リオネルのそばに置いておけば、いずれ家同士の諍いのもととなる」
ジュストは視線をうつむけた。
「厳しい決断だと思うか。だが、リオネルを守るためだ。リオネルが愛した相手ならば受け入れたいと思う気持ちは山々だが、彼女を愛し続ければリオネルは極めて厳しい立場に立たされることになる」
無言になったジュストがゆっくりと一通の手紙を取り出し、クレティアンに差し出した。
「リオネル様からお預かりしたものです。……お渡しせずにすみましたら、よかったのですが」
クレティアンは嫌な予感と共にそれを受け取り、蜜蝋の封印を解く。見慣れた筆記体は、間違いなく息子のものだ。
〝親愛なる父上
この度は、無断で館を出たことをお赦しください。
アベルがデュノア邸へ向かう途中に行方不明になったことはオリヴィエから聞きました。
どうか彼を責めないでください。彼の行動はベルリオーズ家のことを考えた結果ですし、なにより、もしあのままなにも知らずにアベルになにかあれば、私は後悔してもしきれませんでした。私は彼に心から感謝しています。
父上が私にアベルのことを教えて下さらなかったのは、こうなることを恐れていたからでしょう。けれど父上のその選択が、私に決意させました。
私のもとからアベルを遠ざけようとなさるなら、私はベルリオーズ邸へは戻りません。
領主としての責任があることは重々承知しています。けれど、私は領主であるまえにひとりの人間です。
ひとりの人間として、譲れないものがあります。
私はアベルを愛しています。
彼女を失ったら、私は心を失うでしょう。
アベルの危機を教えてくださらなかったこと、私には未だに父上を赦すことができません。そのうえアベルを館から追い出すというなら、私はあなたのもとから去ってアベルと共に暮らすつもりです。
ひとつ、重大なことを父上には申しあげておかなければなりません。アベルはシャンティ・デュノア殿だったころ、義理の母親であるベアトリス殿に陥れられ、何者からか暴行を受けました。イシャスはそのときにできた子です。
すべての事実を知ったうえで、私はアベルを受け入れる覚悟です。なにがあってもアベルへの気持ちは変わりません。
もし父上がこれらの事実を踏まえたうえで、私たちが館で共に暮らすことを許可いただけるなら、そのときには彼女を連れて戻ります。
申しわけございませんが、今後のことが決まるまでイシャスのこと、どうかよろしくお願いいたします。
以後の連絡は手紙でお願いします。宛先は、セレイアック大聖堂のビザンテ殿で。
リオネル″
読み終えると、クレティアンは硬い表情で手紙を畳んだ。
オリヴィエやジュストが反応を待つなか、クレティアンは重い口調で告げる。
「……アベルを館に住まわす許可を出さねば、戻るつもりがないというリオネルの考えはわかった」
クレティアンの言葉を聞いたオリヴィエがうつむいた。自分が招いた結果だということを理解しているからだろう。リオネルの言うとおり、ベルリオーズ家のためにやったことだが、クレティアンに対する負い目はあった。
けれど彼を責めることなく、クレティアンは続ける。
「だが、話し合えばなにか互いに妥協できるところがあるかもしれない。ともかく一度会う必要がある。私からリオネルには、話し合いのためにいったん戻るようにと手紙を送る」
するとジュストは遠慮がちに進言した。
「リオネル様に、話し合うおつもりはないと思われます」
「どういうことだ」
「話し合う余地もなく、アベルと共に暮らす以外の選択肢は、リオネル様にはないということです。その許可が下りるまでは、けっして戻られぬおつもりのようにお見受けいたしました」
「ならば」
とクレティアンは眉をひそめる。
「あちらが強硬な態度なら、こちらも強制的に連れ戻すだけだ。騎士らを大聖堂へ向かわせよう」
「公爵様」
やや驚いた様子でジュストが呼んだ。
「それでは、あまりにも――」
「しかたあるまい。大事なひとり息子だ。連れ戻さぬわけにはいかない」
振り返り、オリヴィエに告げる。
「先程言ったとおり、まずは手紙を書き送る。これが最後の勧告となるだろう」
オリヴィエは軽く頭を下げると、紙とインクを用意しはじめた。その様子を見ていたジュストが名乗りを上げる。
「では手紙は私がリオネル様のもとへお届けします」
未だ旅から戻った格好のままのジュストへ、クレティアンは視線をやった。
「ジュスト、そなたは戻ったばかりだ。手紙は伝書鳩で届けるから、館で休みなさい」
「どうか行かせてください」
「そなたには休息が必要だ。これは命令だ」
「……はい」
引き下がるジュストをまえに、クレティアンは内心でため息をつく。
ジュストがリオネルのことだけを心配しているのではないことは、クレティアンも気づいている。ジュストはリオネルのことも、そして――アベルのことも案じているのだ。
アベルに人望があることは承知している。
いや、アベルが優しい心の持ち主であり、まっすぐで、だれよりもリオネルのことを思っていることはクレティアンも認める。イシャスへの情もある、クレティアン個人としてはアベルを館に置いてやりたい。
だが、あまりに危険が大きかった。
ベルリオーズ邸に住まわせるだけでも、様々な軋轢を生じかねないのに、さらにリオネルの恋人となってしまっては失うものが多すぎる。
リオネルは十九歳――大切な時期である。
本来ならば婚約者を定め、領主となるための道筋を定めるこの時期に、結ばれる見込みのない娘に心を奪われていてはならないのだ。
ジュストが一礼して部屋を辞すと、クレティアンは窓際の机に向かい、オリヴィエの用意した紙に文字を連ねる。クレティアンとて辛いが、ここは心を鬼にしなければならないときだった。
文字を連ねれば、無邪気なイシャスの笑顔や、エレンの心配そうな眼差し、そして幸福そうに寄りそうリオネルとアベルの様子が思い出されて、ふと手が止まる。
アンリエットが第二子と共に天に召されてから、クレティアンは運命の残酷さを痛いほど知っていた。
再び文字を綴ろうとする指先は、ひどく重く感じられた。
+
一方、部屋を出たジュストはぼんやりと廊下を歩んでいる。
リオネルやアベルの力になれない自分の非力さを恨めしく思った。せめて手紙を届けることができたら、なにか状況を打開する方法を見つけることもできたかもしれないのに。
そしてこれまでのことを振り返って、ひとつ疑問に思ったことがある。
デュノア家の令嬢であったシャンティが連れてきた赤ん坊――イシャスは、いったい何者なのか。アベルの弟ということになっているが、ベアトリスの子でもなければ、アベルの実母の子供であるはずもない。
けれど、アベルにはよく似ているのだ。
ならば。
敏いジュストはすぐに思い至った。シャンティを恨んでいたベアトリスの残酷な仕打ち。
あまり考えたくないことだが、あるいはイシャスは……。
ベアトリスの残忍さを嫌悪したそのとき、廊下の先から見慣れた輪郭が現れる。
背が高く、細身ながらも筋肉質な身体と屈託のない表情は、従騎士としてジュストが師事している相手だ。
「クロード様」
そばへ駆け寄ってジュストは頭を下げる。
「長いこと館を離れて申しわけございませんでした」
「ジュスト、よく戻ったな。公爵様のご命令だったのだろう? ご苦労だった。しばらくは騎士館のほうで休むといい」
クロードは今回の事情を一切知らされていないが、アベルやリオネルに関することだということは薄々気づいているだろう。それなのに、なにも聞かずにジュストを労ってくれる。
「いえ、疲れてはいないので休まなくても平気です」
休んでいれば、考えても仕方のないことばかり考えてしまいそうだった。
「そうか、ならば明日の昼までは休みなさい。午後からは仕事をはじめていいから」
クロードの気遣いに、ジュストはもう一度深々と頭を下げた。