38
「出発まであと少しですから、早くカミーユ様のところへ行きましょう!」
「そ、そうね」
カトリーヌの勢いに押されてアベルは部屋を出る。
ずっとベルリオーズ家の従騎士として男社会のなかで過ごしてきたアベルには、カトリーヌの調子にまだついていけていない。
カトリーヌが扉を叩いたのは、エマの休む部屋だ。顔を出したトゥーサンは、前方に立っていたカトリーヌに気づき、それからアベルへ視線を移して目を丸くした。
「シャンティ様」
名を呼ばれてアベルは引きつった笑顔を浮かべた。
「おかしいでしょう?」
「いえ、おかしいなど、とんでもありません。なんと言うか――」
言葉が続かぬ様子のトゥーサンは、助けを求めるように背後を振り返る。カミーユがちょうど駆けてくるところだった。
「姉さん!」
カミーユの目がきらきらしている……ような気がするのは、気のせいだろうか。
「昨日はごめん」
「あなたが謝ることなんてないわよ」
しばしアベルを見つめてから、カミーユは気持ちを切り替えたように、笑みをひらめかせた。
「……服、着てくれたんだね! 驚いた。思ったとおり、いや、思った以上に似合ってるよ。すごく綺麗だ」
わあ、と素直に喜ぶカミーユは子供のようだった。
「どうして姉さんはそんなに綺麗なんだろう」
ため息交じりに言うカミーユは、貴婦人にそうするようにアベルの手を引いて部屋のなかへ導く。寝台で半身を起こしたエマが、大きく見開いた瞳を潤ませた。
「コルネリア様……」
エマの心情を察してアベルはほほえむ。
「こうすると、本当のお母さんに似ている?」
「ええ、ええ、もうそっくりですよ」
涙をあふれさせるエマへ、カトリーヌがハンカチを手渡す。すすり泣くエマの肩を、アベルはそっとさすってやった。
「姉さんの熱が下がったって聞いて驚いた。出立の朝に下がるなんて。こんな嬉しいことがあるとは思ってもみなかったよ」
本当によかったと言うカミーユの目は、まだきらきらしている。
「それにしても姉さんは、間違いなくシャルム女性のなかで一番の美人さんだ」
「あまり褒めないで」
照れくささもあってアベルは苦笑した。弟の欲目というものが含まれているだろうが、そんなに褒められると気恥ずかしい。
カミーユは目をまたたかせてから、なぜか小さく笑った。笑った意味もアベルには理解できぬまま、カミーユは話題を変える。
「本当に熱は下がったの?」
「ええ、おかげさまで。ありがとう、皆のおかげよ」
カミーユがアベルの手を取った。
「……本当だ、もうおれより冷たい」
どうやら手の温度のことを言っているらしい。
「慣れない服を着て、緊張したのかも」
冗談を言えばカミーユが笑った。
「でも、似合ってる。ごめん、褒めないでほしいと言われたけど、やっぱり無理かも。ねえ、エマ」
話を振られたエマは目頭をぬぐいながら、しみじみとうなずく。
「本当に、三年のあいだに見違えるように大人っぽくなられました」
「わたしの言ったとおりでしたでしょ、シャンティ様。そのドレスは、とてもシャンティ様にお似合いなんですよ」
「褒め殺しね、みんな」
一同に笑いが広がる。
久しぶりに、この面子で笑いあった気がした。
カミーユがいて、トゥーサンがいて、エマがいて、カトリーヌがいて……三年前までの日々が戻ったような気がする。
それも、もうすぐ終わりだけれど。
アベルは腕を伸ばして、三年前よりずっとしっかりとしたカミーユを抱き締める。もう抱き締めるというよりは、抱きついているといったほうが近いが、それでも気持ちはいつでもカミーユを抱き締めている。
「またしばらく会えないのね」
別れはあまりにも寂しい。
カミーユの長い腕が、アベルを抱きしめ返した。
「おれ、姉さんといっしょにいたい。昔みたいに、あたりまえのように毎日いっしょにいたい」
カミーユの言葉に、アベルは目の奥が熱くなるのを感じる。哀しみを経験するたびに、アベルは自分が涙もろくなっていっているような気がした。
哀しみや痛みを知るほどに、人は大切なものを知るようになるからだろうか。
「……でもおれは、王宮で従騎士として修業して、きちんと騎士の叙勲を受けて戻るよ。デュノア邸に戻って、領主としての仕事を覚えて、そしていつか爵位を継いで姉さんを呼び戻すから。その日のために頑張るから」
アベルはほほえんでうなずく。
「そのときには、リオネル様のいるベルリオーズ邸と、あなたのいるデュノア邸を行き来するわ」
「え」
カミーユがむっとした様子で聞き返すのと、扉口から声がするのが同時だった。
「行き来する途中で、もちろんおれのいるアベラール邸にも寄ってくれるんだろう?」
驚いて振り返ったカミーユとアベルの目に飛び込んできたのは……。
「ディルク!」
それにリオネルやレオンたちもいる。振り返ったアベルを見て、ディルクが感嘆の声を洩らした。
「アベル……綺麗だなあ。どうしたんだ、そのドレス?」
「カミーユにもらいました」
皆の注目を浴びて、たちまちアベルは居心地悪くなる。リオネルの視線がこちらへ向けられているのを感じれば、ふわりと顔が赤くなった。
そんなアベルにかまわずディルクが言う。
「カミーユが選んだのか? 趣味がいいね、よく似合ってる。なあ、リオネル。惚れなおすだろう?」
視線を向けられたリオネルは、扉に軽くもたれかかったまま無言だった。
「リオネル?」
片手で髪をかき上げたリオネルは、うつむいてから、少しだけ顔を背ける。
「かわいすぎる?」
ディルクに問われると、リオネルはそのままの体勢でかすかにうなずいた。
――――。
アベルはたちまち顔がこれまで以上に熱くなるのを感じる。リオネルの十倍くらいは赤くなっていたはずだ。
けれど、真っ赤になるアベルより、少しでも赤面するリオネルの方が珍しい。
「こんなリオネル、はじめて見たよ」
ディルクはにやにや顔だ。
「かわいいところもあるんだなあ、天下のベルリオーズ家の嫡男殿にも。ほら、もっと近くにきたら?」
まえにも、山賊討伐で囮になったときや、踊り子に扮したときにもドレスらしきものは着たはずだが、リオネルのこのような反応は初めてだ。
リオネルが平然としていたら、アベルも動じなかったが、このような反応をされると無駄に緊張する。
「……いや、おれはここでいい」
「どうして?」
「わかっていて聞いているだろう?」
聞き返されるとディルクは不敵に笑った。
「考えてみれば、平和なときにアベルのこんな姿を見ることはなかったもんなあ。あらためて好きな相手のこんな姿を見れば、そりゃ平静じゃいられないね」
ディルクがリオネルの心境を説明するので、余計に恥ずかしい。
が、アベルはそれで少しばかり事情がわかった。リオネルの反応は、つまりそういうことだったのだ。
これまで女性の格好をしたときは非常事態ばかりだったが、今回は他に気をとられるものがない。リオネルはアベルのこの姿だけを見てくれているということだ。
どのような顔をすればよいかわからない。
早くこの状態を終わらせたくて、アベルは話題を元に戻そうとした。
「ええっと、〝途中で立ち寄る〟のではなく、もし許されるなら、きちんとディルク様のもとへもお伺いさせていただけましたら嬉しいです」
え、という顔をしてからすぐにディルクは思い至ったようだった。
「ああ、さっきの話か。わざわざおれのところにも会いにきてくれるなんて、ありがとう、アベル」
待っているよ、とわざとアベルの手を両手で握るディルクに、リオネルがちらと視線を向ける。悔しいならこっちへ来て同じようにやってみれば、とでも言いたげにディルクはいたずらっぽく笑ってリオネルをちらと見やった。
さすがのリオネルも片眉を上げる。が、彼が反応するまえに、意外なところから声が発せられた。
「ディルクさ」
どこか冷ややかな声はカミーユだ。
「リオネル様と姉さんをくっつけようとしてない?」
「えっ」
「ディルクが姉さんと仲良くするのは嬉しいけど、リオネル様を挑発するためにやるのは、なしね」
「…………」
黙りこんだディルクの代わりにレオンが笑った。
「すっかり見透かされているな」
「……笑ってる場合じゃないよ。いつのまにカミーユは、こんなに大人の事情に通じるようになったんだ?」
「やっぱりそうなんだ」
「いやいやいや……」
言い訳しながらディルクはアベルの手をそっと離す。
「……今日はいい天気だな。さあ、朝ごはんでも食べに行くか」
「今朝は雪がちらついていますし、朝ごはんは先程召しあがったはずです」
淡々と指摘したのはマチアスだ。
「そうだったかな」
悪びれもせずに言いながら、ディルクは席を立った。
「じゃあ、デュノア家の別れの場にずっといては無粋だから、おれたちはこれでひとまず部屋を出るよ。出立するときには声をかけてくれ、カミーユ。見送りにいくから」
だれもなにも言えぬままに、ディルクはリオネルとレオンの腕を引いて部屋を出ていった。
「……ディルク様方がいらっしゃると、なんだか賑やかですね」
カトリーヌがつぶやく。
「本当にディルク様は明るくて良い方です」
寝台のエマがしみじみと言うと、カミーユが目を輝かせた。
「そうだよね、エマ。姉さんにはぴったりだと思わない?」
「カミーユ……」
少し困った声をアベルが発すれば、カミーユは表情を曇らせる。
「そう思っただけだよ」
カミーユの拗ねた口調に、エマが小さく笑った。
「シャンティ様の夢は、カミーユ様の夢でもあったのですね。ええ、ええ、それでいいのです。夢は夢として、いずれ現実を祝福できるようになる日が来ますから」
「……エマは気づいているの?」
「これまでのお二人の様子を見ていれば、それはもう……」
そっか、とカミーユがうつむく。そのカミーユのまえまで来て、アベルは相手の両手で頬を包みこんだ。
「ねえ、カミーユ。……きっとわたしはだれとも結ばれない。だって、わたしは身分を失い、今はただリオネル様に仕える家臣だもの。けれど、それがわたしの望みであり、一番いい形でもあるはずだから」
返す言葉の見つけられないらしいカミーユは、少しうつむく。
「でも、どんなことがあったって、あなたが弟であることに変わりはないわ。わたしがどこでだれといようとも、いつだってあなたのことを思ってる」
カミーユはうつむいたまま、そっか、とかすかに笑った。
「変わることなく姉弟でいられるのは、嬉しいな。姉さんがだれとも結ばれないなら、おれには好都合だ。姉さんを取り返せるからね」
辛い現実を明るく捉えてくれるカミーユに、アベルも微笑する。
「これからわたしたちはまた離れ離れになってしまうけれど、わたしはあなたのたったひとりの姉だから」
こくんとカミーユがうなずいた。
「ねえ、あともう少しだけ話さない?」
「時間は大丈夫なの?」
問われてカミーユはトゥーサンを振り返った。
「次の鐘が鳴るまでなら」
トゥーサンの返事に二人は顔を見合わせる。そして、残された時間になにを語ろうか、互いに言葉を探した。こんなときに語るべき言葉を探すのは、案外難しかった。
+
昼前に、カミーユとトゥーサンがアベラール領セレイアックの大聖堂を発った。
まだ布団から起き上がれないエマ以外の者――つまり、カトリーヌ、ディルク、マチアス、レオン、リオネル、ベルトラン、そしてアベルに見送られて二人は旅路についた。
まだまだ寒さの厳しい二月。
雪は深く、アベルは弟とその従者の身を案じた。
「風邪をひかないようにね、カミーユ」
「姉さんこそ」
「ちゃんと食べるのよ」
「姉さんこそ」
すべてこちらへ返してくるので、アベルは声を尖らせる。
「あなたに言っているのよ、カミーユ」
「わかっているよ。でも本当にそう思ったから」
笑いながらも、カミーユは真面目な口調だった。どうもふざけていたわけではないらしい。
「わたしのことは心配しなくていいから、あなたは自分のことだけ考えていなさい」
「そっくりそのまま、その言葉を姉さんに返すって言ったら、姉さんはまた怒るかな」
「…………」
「いっそ全部繋がっていなければお嫁にできたのにって思ったけど、やっぱり姉さんは姉さんでよかった気がする。恋人とか、友達とかではなく、さっき話したみたいに、姉弟として姉さんと死ぬまで繋がっていられるなら、それもいいかな」
かわいいことを言ってくれるものだと思う。
「どんなに身体が大きくなっても、あなたはいつまでもわたしの小さなかわいい弟よ」
「〝かわいい〟かあ。〝かっこいい〟って言ってほしかったけど、まあいいか」
アベルとカミーユは笑い合ってから抱擁を交わした。それからカミーユは、ディルクやレオン、そしてリオネルと別れの挨拶をして、最後にカトリーヌに言葉をかける。
その間に、トゥーサンが控えめにアベルのもとへ挨拶にきた。
「シャンティ様、どうか、どうかお身体に気をつけて」
「ええ、ありがとう。トゥーサンも。それと、カミーユをよろしくね」
「この命に代えましても」
アベルとトゥーサンは別れを惜しむように笑顔を交わす。
またしばらくの別離だった。