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「そうか、デュノア邸の地下牢でそんなことがあったのか」
ディルクらがアベラール邸から大聖堂へ戻ってきたのは、夜も更けたころのこと。話を聞いたディルクは深いため息をついた。
「ひどいね……」
修道院内に用意されたディルクの部屋で、リオネル、レオン、そしてマチアスは集まり、葡萄酒の杯の並んだ小卓を囲んでいる。
葡萄酒の表面がかすかに揺れるのを見つめながら、リオネルは思う。
アベルの空色の瞳をえぐるなど、どうしたらそんなことを考えつくのだろう。そのうえ、内臓をひとつずつ引きずりだすとは。
アベルが反撃に出ていなかったら、と思うとリオネルはぞっとする。
レオンもまた低い調子で言った。
「母と信じていた相手からそのようなことをされたら、心の強い者でも耐えられないに違いない」
「アベルはどんな様子だった?」
大丈夫だったのかとディルクに問われると、リオネルは視線を伏せた。
「今は落ち着いて眠っているよ」
「ひとりで抱え込んでいるほうが、きっと辛かったはずだよ。ある意味では話せてよかったのかもしれない」
「……そうだね、きっと」
「今はベルトランがついているのか?」
「ああ、話し終えたら戻るつもりだけど」
「そうしたほうがいいね」
珍しくベルトランがリオネルのそばを離れたのは、リオネルのそばにはディルクたちがいるからだろうが、と同時に、彼なりにアベルを案じているからに違いない。でなければ、いくらディルクらがいるからといって、ベルトランがリオネルのそばを安易に離れるはずがなかった。
「ブレーズ家の人間はおそろしいな」
しみじみとレオンが言う。
「血は繋がっていないとはいえ母と信じる娘に、そこまでのことができることが信じられない」
「ベアトリス殿の兄であるブレーズ公爵や、フィデール殿だって、そこまで冷酷ではないんじゃないか?」
ディルクの問いにレオンは首をひねる。
「いや、ブレーズ公爵はいざとなればおそらく冷徹な判断を下す男だと思う。それにフィデールは得体が知れないぶん、ベアトリス殿に似通った残虐さを秘めていても不思議ではない。なにしろ、あの兄上に気に入られているのだからな」
ふうむ、と思い出す様子でディルクは顎に手をあてた。ディルクらは五月祭の折りにフィデールに会っている。
「たしかにフィデール殿は得体が知れないな」
「だが、あの男の底知れなさよりも、個人的には女の嫉妬のほうが怖い」
レオンが言う女の嫉妬とは、ベアトリスがローブルグ出身の母娘にむけた憎しみのことを指しているらしい。
「そうか!」
妙に納得した様子でディルクがうなずいた。
「だからレオンは男を選んだのか。そうか、そういうことだったのか……ってえッ!」
ディルクの脛を思いきり蹴りつけたのは、レオンではなくマチアスだ。
「この暴力従者!」
「真面目な話をしているのです。天罰ですよ」
「いつもすまないな、マチアス。感謝する」
足を押さえてもだえ苦しむディルクにかまわず、レオンはマチアスに礼を述べてからリオネルへ視線を向けた。
「あちらは、デュノア邸から逃がれたアベルが、再びリオネルのもとへ戻ったと考えるかもしれない。気をつけなければ、再び狙われる可能性があるな」
「そう、おれもそのことを懸念している。けれど、伯爵夫妻はシャンティ殿がアベルと名乗り、従騎士としておれのそばにいることまでは知らないはずだ。身を隠すことは難しくないと思う」
未だに痛そうな顔をしつつも、ディルクが会話に再び加わった。
「そうだね、まあ、気をつけるに超したことはないけれど」
「アベル殿の安全の確保に加え、リオネル様のことも心配です」
指摘したのはマチアスだ。
「もしレオン殿下のおっしゃるとおり、アベル殿がベルリオーズ家に戻っているとベアトリス様が考えたなら、今回のことでリオネル様は深い恨みを買うことになります」
「なるほど、そうかもしれない」
レオンが唸った。
「ベアトリス殿の意志を汲んで、ブレーズ公爵やフィデールがなにか行動を起こさないともかぎらない」
「すぐにはなにもないとは思うけど、たしかに不穏だね。実際にアベルがリオネルの庇護のもとにあるからなおさらに」
難しい表情の面々へ、リオネルは軽く言ってみせる。
「もとからブレーズ家には憎まれている。今更、憎しみが増したところでそんなに違いはないよ」
「そう言ってしまえば、そうかもしれないけどさ」
ディルクが顔を引きつらせた。
「なんか呑気だね」
「今はアベルのことのほうが気がかりだから」
「ああ、おまえらしい意見だな、リオネル」
ディルクが呆れたように苦笑した。
「リオネルがアベルのことばかり心配しているぶん、おれたちがおまえの心配もしなくちゃ。なあ、レオン?」
「そうだな、本当に」
「私も、心よりお二人をお守りしたく存じます」
生真面目に言うマチアスへ、ディルクは冷めた眼差しを送った。
「どうせおまえは、おれよりもアベルやリオネルを守るんだろ?」
「ディルク様のお命を狙う相手に見当がつきませんので、当面はそのほうがよろしいかと」
「正直すぎて、返す言葉もないよ」
二人の会話を聞いていたレオンが吹きだす。
「おもしろすぎる」
「喜劇をやってるんじゃないんだ、笑うな」
「普段は、世のなかに迷惑ばかりかけているのだ。たまにはそうやって役に立つのもいいだろう」
「いつおれが世のなかに迷惑をかけた?」
「自覚がないのが一番、質が悪い」
むしろディルクとレオンが喜劇をやっているようだとも思いながら、リオネルはそろそろこの場を離れようと腰を浮かす。すると、ディルクに声をかけられた。
「アベルが回復したら、どうするつもりだ?」
リオネルは親友を振り返る。
「公爵様は今のところ、アベルが館に住むことをお許しになっていないんだろう? おまえのことだから、許しが出るまでは戻らないつもりなんじゃないのか」
「ああ、そのとおりだよ」
やはり、とディルクは口端を吊り上げる。
「……まあ、こちらはいつまで滞在していてもかまわないし、もしおまえが一度館に戻ってクレティアン様と話すならアベルの面倒はこちらで見るし、好きにしたらいいよ」
「ありがとう、ディルク」
親友へ笑みを向け、皆には就寝の挨拶をしてから、リオネルは部屋を出た。
アベルの眠る部屋へ向かいながら、リオネルは地下牢で再会したときのアベルの様子を思い出す。紫色の双眸を閉じ、アベルの痛みに思いを馳せる。
辿りついた部屋に入ると、薄闇のなかでベルトランと目が合った。
「ありがとう、ベルトラン。アベルは?」
「眠ってはいるが、たまにうわごとを言う。いい夢は見ていないだろう」
ひたいに手を置けば、熱のせいか夢のせいか、じんわりと汗ばんでいる。傍らの綿布でそっと拭いてやれば、アベルが荒い呼吸のなかでうっすらと瞳を開いた。
「アベル?」
起こしてしまっただろうかと思ったが、アベルはリオネルの姿をぼんやり見つめただけで、なにも言わずに再び両目を閉ざす。
アベルの呼吸がすうっと深くなった。
「今度こそ、いい夢を見られるといいな」
ベルトランの言葉を聞きながら、リオネルはいつまでもアベルの寝顔を見つめていた。
+++
……水音は、リオネルかベルトランが顔を洗っている音だろうか。
眠りの淵から意識が浮上したアベルは、人の気配に安心した。目を開けて、少しばかり身体を起こすと声がする。
「起きたか」
こちらへ歩み寄ってきたのはベルトランだ。
半身を起こしきると、顔を洗っていたリオネルが、綿布を手にこちらを振り返った。
「おはよう、アベル」
とても長いこと眠っていたような気がするのはなぜだろう。昨日の夜に会ったはずなのに、リオネルとベルトランが懐かしく感じられる。
夢を見た記憶もないので、ぐっすり眠っていたのかもしれない。
「よく眠れた?」
「はい、よく寝たせいか、昨日より身体が軽いような気がします」
そう答えると、リオネルはなにか思い至る面持ちになってアベルのそばへきた。
「ちょっといい?」
アベルの額に手をあてる仕種があまりに自然で、こちらは顔を赤くする余地もない。温度をたしかめていたリオネルが、嬉しそうに笑った。
「ああ、下がっている」
「本当ですか?」
「本当だ。不思議だね、ずっと続いていたのに、今朝になってすとんと下がるなんて」
よかった、とリオネルは安堵の表情だ。ベルトランもアベルの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「よく頑張ったな」
「咳もだいぶ減ったし、これで熱も下がって安心した」
二人に言われてアベルはくすぐったいような気持ちになった。
昨夜は、けっして語るまいと思っていた地下牢での出来事を、カミーユやリオネルらに告げることになった。語ることであの日の出来事を再体験し、気持ちは深く落ち込んだが、そのあと眠るまでリオネルがそばにいて手を繋いでいてくれたのがよかったのだろうか。
「アベル、熱は下がったけど、気分のほうはどう?」
「気分?」
「話すのは辛かっただろう」
気遣ってくれるリオネルへ、アベルは首を横に振ってみせた。
「きっとだれより辛かったのは、カミーユですから」
束の間アベルを見つめてから、リオネルはアベルの手をとる。
「カミーユ殿は、アベルが思っているより、ずっとしっかりしているよ」
「そうでしょうか?」
身体は大きくなったけれど、アベルのなかでカミーユはまだ、父オラスに叱られて布団にもぐりこんできた小さな男の子のままだ。
「アベルを守るという意味では、おれとカミーユ殿は〝同志〟、アベルと共に生きたいという意味では〝好敵手〟だ」
「そんな、リオネル様の同志や好敵手なんて、カミーユはまだほんの子供で」
謙遜などではなく率直にそう言えば、リオネルは笑った。
「子供だと思っているのは、案外家族だけかもしれないよ」
そうなのだろうかと、アベルは内心で首をかしげる。
「今日は、カミーユ殿とトゥーサン殿が出立する日だから、最後にアベルの熱が下がったとわかれば、彼らも安心して旅に出られるはずだ」
――出立の日。
今日別れれば、また次いつ会えるかわからない。
「あの……リオネル様」
「ん?」
「えっと、熱が下がったついでというわけではないのですが」
「ついでではないけれど?」
「……その……、服」
「……服」
リオネルは考え込む面持ちになった。
そうか、とアベルは思い至る。リオネルはカミーユが用意した服のことを知らないのだ。
あの服はどこへ行ったのだろうか。
「あ、なんでもないんです。……その、もしできれば、今すぐではなくてもいいので、カトリーヌかビザンテ様と話がしたいのですが」
アベルがそう言えば、リオネルはうなずく。
「わかった、待っていて」
自分が行くというベルトランを制して、リオネルが部屋を出ていった。
しばらくのち、アベルは鏡のまえに座り、おとなしく髪を結われていた。
「シャンティ様、本当にお綺麗です」
嬉しそうに髪を結うのはカトリーヌだ。
「これだけおめかしすれば、だれだってそれなりに見えるものよ」
「そんなことありません。この淡い金色の髪は蜂蜜のように甘く溶けてしまいそうですし、シャンティ様のような白く滑らかな綺麗な肌はほかに見たことありません」
「珍しいだけでしょ」
「本当にシャンティ様は、ご自身のことに無頓着なんですから」
呆れた様子ながらもカトリーヌは上機嫌だ。
「この季節は花がありませんからね、代わりに花をかたどった髪飾りなどがあればいいのですが、なにせ修道院では……」
「いいわよ、これだけ綺麗に結ってくれたのだから」
なにをどうやったかアベルにはさっぱりわからないが、編み込まれた髪は後頭部で綺麗にまとまっていた。
それなりに見えるのは、この華やかで美しい衣装と、カトリーヌの技量によるところが大きいとアベルは確信している。
「こんなお姿をご覧になってしまっては、カミーユ様はますます王都に向かいにくくなってしまうかもしれませんね」
「そんなことはないと思うけど、もう少し地味にしてくれない?」
「地味にとおっしゃられても、決して派手にしたつもりはありません。お化粧もしていませんし、髪を結っただけですよ?」
「きっとドレスのせいね」
カミーユの用意してくれたドレスを、あらためて鏡越しに眺める。
きゅっとしぼったウェストに、逆にふんわりとした腰から下のスカート部分。胸元はさほど開いていないが、淡い薔薇色の生地はとても女性らしいし、白いレースや橙色の小さな花の刺繍がいっそうドレスを可憐に仕上げていた。
「カミーユ様は、武術や馬術はそれほどお上手でいらっしゃいませんけれど、勉強はよくおできになるし、手先も器用で、服の趣向も素晴らしいですね」
自分とは対照的なような……。いや、勉強はそれほど苦手ではなかったはずと、アベルは自分自身に言い訳する。
「武術や馬術はそれほどでもないなんて、カミーユがいじけるわよ」
「さあ、できました!」
アベルの発言を無視して、カトリーヌが明るく言い放った。