36
甥からの手紙を読みながら、ベアトリスは形のいい眉をひそめる。
「カミーユが、エマを探しにデュノア領へ……?」
シャンティを殺し損ね、地下牢から逃げられてから三日。
オラスは領内の視察へ出かけたまま戻ってこない。
苛立ちが募っていたころ、王宮にいるフィデールから手紙が届いた。
愛するひとり息子カミーユが、行方のわからないエマを探すために、王宮を抜けだしたというのだ。
「なんてこと」
カミーユが王宮を発ったのはもう二十日以上もまえのことと記されている。
ならば、とっくにデュノア領に着いているはずだ。いや、到着してさらに王宮への帰途についていてもおかしくない頃合いだった。
いったいどうなっているのか。
旅の途中で事故か事件に巻き込まれたか、すでにこちらに到着しているのに顔を見せないのか、あるいは別の場所でエマを探しているのか。
そもそもだれがカミーユにエマのことを伝えたのだろう。エマを案じてカミーユに伝えそうな者といえば……。
シャンティの逃亡と同時に姿を消した侍女を、ベアトリスはすぐに思い浮かべた。
最もエマの近くにいて世話をしていたカトリーヌなら、不思議ではない。だとすれば、幾重にも余計なことをしてくれたものだ。
カミーユにエマのことを知らせ、シャンティが監禁されていることに気づいて食糧を運び、共に逃亡し……。
それにしても。
「カミーユはいったいどこに?」
はっとしてベアトリスは手紙を持ったまま、視線を宙の一点で止めた。
知らせを受けてデュノア領へ戻ってきたカミーユ。
地下牢のシャンティへ食事を運んでいたカトリーヌ。
両者が接触すれば、すなわちシャンティのことがカミーユに伝わることとなる。
ならばカミーユは今、逃亡したシャンティとカトリーヌと共にいるのか。
……そういうことなのか。
もしそうだったなら、シャンティの身に起きたことを、カミーユは知ることになったに違いない。
すっとベアトリスは目を細めた。
だとすれば赦せない。
「あのローブルグの母娘は、わたしの子まで奪うつもり」
シャンティを敬愛していたカミーユは、ともすれば、実母である自分ではなく、あの少女の肩をもつかもしれない。
あの母娘は、ベアトリスからすべてを奪っていく。
感情で心を乱すことのないベアトリスだが、珍しく手元にあった空のグラスを、憎しみに任せて壁へ投げつけた。
破片が砕け、壁際に散らばる。
派手な音に気づいた侍女が、慌てて部屋の扉を叩いた。
「ベアトリス様、大丈夫ですか」
扉を開けたベアトリスは、侍女にはなにも告げずに廊下へ出る。向かった先は忠実な家臣の療養する部屋だった。
ノックもせずに入室すると、ベアトリスは寝台へ近づく。
苦しげな呼吸を繰り返す騎士は、先日シャンティに深手を負わされたブレーズ家の家臣ジムレだ。
「ベアトリス様……」
ジムレはベアトリスの来訪に気づき、身体を起こそうとした。
「そのままでいなさい、ジムレ」
「……申しわけございません」
腹部の傷は深く、ジムレは高熱が続いている。一命は取り留めたが、危険な状態が続いていた。
すべてあの忌々しい娘のやったことだ。
「安心しなさい、ジムレ。貴方は助かります」
傷は深かったが、たしかに急所は外してある。昔から剣の技量に優れたシャンティらしい一撃だった。けれど。
「私の家臣を傷つけたこと、あの小娘に必ず後悔させます。オラス様を惑わしたローブルグ女の娘……。あの母娘は、オラス様のみならず、カミーユまで惑わそうとしています。シャンティはすでに、リオネル・ベルリオーズ様のもとに逃げ込んでいるかもしれません。あの子にはこの世で最も残酷な死を――そしてあの子を匿うリオネル・ベルリオーズ様には深い後悔と絶望を、それぞれ与えましょう」
高熱に侵されたジムレは、応えることができずに、荒い呼吸を繰り返していた。
+++
扉を見やってカミーユはひとつため息をつく。
昨日の朝、リオネルのことが好きなのだと聞いて部屋を飛び出してから、カミーユは一度もシャンティと顔を合わせていなかった。
丸一日、いや、それ以上カミーユはアベルの部屋に行っていない。
せっかく再会できて、近くにいるのに、これではあまりに寂しかった。
拗ねているわけではないが、シャンティの部屋を訪れないのはリオネルとシャンティが仲良く二人で過ごしているところを見たくないからだ。
明日には王宮へ出立する予定なので、このままではろくに話せないうちに別れることになってしまう。会いにいくべきだということは、わかっている……けれど。
「シャンティ様のもとへ、お話しにいかれてはいかがですか?」
カミーユの心情を察したトゥーサンが控えめに進言するが、カミーユは視線を伏せた。
「……姉さんのそばには、あの人がいる」
ディルクやレオンはアベラール邸からまだ戻っていない。カトリーヌは肺を患っているエマにかかりきりだし、アベルの部屋にはリオネルしかいなかった。
「意地を張っていては、あとで後悔することになるのはカミーユ様ですよ」
「意地を張っているんじゃない。二人がいっしょにいるところを見たくないだけだ」
そういうのを〝意地を張っている〟というのだと言われたら、それまでだが。
「リオネル様には席を外していただけるよう、お願いいたしましょうか」
「……いいよ、そこまで」
「〝そこまで〟とおっしゃいますが、明日別れたら、今度またいつ会えるかわかりませんよ」
そんなことわかっている。
だから焦っているのだ。思いどおりにならずに駄々をこねる子供みたいで、自分でも情けないけれど。
「これではシャンティ様も哀しみます」
「だって……」
だって姉さんが、リオネルを好きだなんて言うから。そう思ったが、あまりに子供っぽいので、さすがに言葉にはできなかった。
これまで二人がいっしょにいるのを見てきたが、それもリオネルの片想いだと信じていたから平静な気持ちでいることができたのだ。
両想いの二人なんて……。
と、ふと扉のほうに気配を感じたらしく、トゥーサンが立ち上がった。すぐにコンコンと叩く音がする。
「どなたでしょう」
トゥーサンの声に応えたのは、鈴の鳴るような声だった。
「わたしよ、トゥーサン」
「シャンティ様」
驚いたトゥーサンが扉を開ける。立っていたのは、夜着に上着を羽織っただけの、ほっそりとしたシャンティだった。
「姉さん」
思わず駈け寄って手をとれば、想像以上に熱い。
「まだ熱が……歩きまわったらだめじゃないか」
カミーユはシャンティを支えて自分の寝台へ導く。シャンティは大人しくカミーユの寝台に座った。
「どうして自分で来たの。リオネル様は?」
「明日、ここを発つと聞いたから。リオネル様は、別の部屋で寝支度を整えているわ」
立ったままのカミーユを、シャンティが見上げてくる。
蝋燭の灯りに透けて輝く金糸の髪、折れそうなほど華奢な手首や足首、白い首筋、そして薄い肩。三年前より少し大人びている。
こんなシャンティのそばに、常にリオネルがいると思えば、無性に腹立たしい気持ちになった。
「……そう、明日王宮にいく」
シャンティはなにも悪くないのに、つい不機嫌に答えてしまう。シャンティは少し哀しそうな顔をした。
「またお別れね」
カミーユはうつむく。
会いたいと思っていたのに、シャンティをまえにすると、やはりどうしていいかわからない。黙っていると、シャンティの手が伸びてきてカミーユの頬を包むように触れた。
「カミーユ……」
さっき触れたときと同じ、とても熱い手だ。
「ごめんね」
「……どうして謝るの」
「哀しい思いをさせて」
そう言っているシャンティのほうが、カミーユよりずっと哀しそうだった。カミーユはたまらない気持ちになる。
「そんなこと言わないでよ。一番辛いのは姉さんじゃないか」
シャンティが形のいい眉をわずかに寄せる。泣いてしまうのではないかと、カミーユは内心で慌てたが、いまさら下手にも出られない。
「あなたに辛い思いをさせてきたわ、たくさん」
シャンティは泣かなかった。けれど、とても辛そうだった。
彼女の謝罪の言葉には、三年前からの出来事のほかに、リオネルを好きになってしまったことも含まれているようだった。
そう考えると反抗期の子供のように、無性に腹が立つのはなぜだろう。
「謝らないでよ、おれは辛くないから」
明日には別れだというのに――、シャンティが無事だったらそれでいいと昨日は納得したはずなのに、どうしてこんな言い方をしてしまうのか、カミーユ自身にもわからない。
結局のところ、自分はシャンティに甘えているのだ。
こうして不機嫌になることで、シャンティの気を引こうとしている。
リオネル・ベルリオーズから姉を取り返そうとしている。
我ながら、なんとも稚拙だと、カミーユは思った。
「……もう、いいよ」
これ以上話しても、シャンティを傷つけるだけだ。
カミーユは顔を背けて、シャンティの熱い手から逃れた。
「明日、出発前にまた挨拶にいくから。姉さんは熱があるんだから、部屋に戻ったほうがいい」
言っていて、自分自身で泣きたい気持ちになる。もっとたくさん姉と話したいのに。
シャンティはうつむいた。それからゆっくりと立ち上がる。
行ってしまう、それなのに止められない。
トゥーサンに支えられて部屋を出ていこうとするシャンティの後ろ姿へ、カミーユは思わず声を投げかけた。
「待って」
扉を開けたところで、シャンティとトゥーサンが振り返る。
「……デュノア邸の地下牢で、母上に会ったの?」
口を突いて出たのは、ずっと聞きたくても聞けなかったことだ。今なら、聞けるような気がした。
シャンティが沈んだ表情になる。
それから、静かに口を開いた。
「会わなかったわ」
「嘘だ」
自分を傷つけないための嘘だと、はっきりカミーユにはわかる。
「本当のことを教えてほしいんだ」
「本当のことよ」
「じゃあ、姉さんはどうやって地下牢から脱出したの。リオネル様は、地下牢に先にだれかが来ていて、姉さんは自分で牢から出てきたって――手は血まみれだったって、そう言ってた。姉さんのところへ来ていたのは、母上だったんじゃないのか」
「…………」
しばらく考える様子だったシャンティが、やがてなにか決意したように、ゆっくりと口を開いた。
「……血は、ベアトリス様ではないから安心して、カミーユ」
シャンティはうつむく。
「ベアトリス様は、ジムレという名の騎士といっしょに現れた。わたしが死んでいるかどうか、直接確かめにきたのよ」
カミーユは拳を握った。
やはり、ベアトリスは牢に現れたのだ。
自ら死を確かめにいくほどに、ベアトリスはシャンティを憎んでいた。
「……母上は、どんな様子だった? 姉さんになにをしたの」
視線を伏せてシャンティは首を横に振った。語るつもりはないようだ。けれどカミーユは食い下がった。
「聞きたい。――聞かせてほしい」
カミーユの強い口調に、シャンティは沈痛な面持ちになる。追い詰めていることはわかっているが、どうしても知りたかった。
自分の母親が持つ、もうひとつの顔を。
「カミーユ様」
トゥーサンは苦い表情だったが、カミーユは応えずにじっとシャンティを見つめた。
「すべて、ひとつの残らず、一字一句たがわず、母上がなにをしたのか、なにを言ったのか聞きたいんだ。おれは、あの人の子供として、聞かなければならないんだ」
しばらく黙ったままだったシャンティが、ついに口を開いたとき、その声はとても小さくて聞き逃してしまいそうなほどだった。
「……ベアトリス様は、わたしが生きていると知って、ジムレに殺すよう命じたわ。ただ殺すだけではなく、まずは両目をえぐり抜くようにと」
カミーユの心臓に重い痛みが走る。
――両目をえぐり抜く?
あの優しい母が、そんなことを言ったのか。
まさか。
「本当、なの……?」
シャンティは哀しげにカミーユを見返しただけだった。
「母上は、他になんて言ったの?」
諦めたようにシャンティは語りだす。
「……あのローブルグ女と同じ水色の瞳が、本当に憎らしい、オラス様をたらしこんだ忌まわしいローブルグ女の娘が切り刻まれて死んでいけば少しは気が晴れる、両目をえぐり出したら今度は内臓をひとつずつ引きずり出すように、と」
カミーユは耳をふさぎたくなる。いっそ聞かなければよかったのかもしれない。
けれど、聞かなければならないと思った。真実を知ることが、あの人の子供として生まれてきた自分の責任。
「他には?」
「……わたしはずっとベアトリス様を母として愛していたと告げたら、〝わたくしはずっとあなたを憎く思っていたのに、幸せな子ですね〟――と。嵐の日、ユリの花がほしいと言ったのは嘘だったのかと聞いたら、今度はこう答えたわ」
――ええ、そうですよ。一番惨めな形であなたをオラス様から遠ざけるために。
カミーユは片手で頭を抱えた。
けれど、視線の先でぐっと感情を堪える表情だったのはシャンティだった。
そばにはいつのまにか寄りそうようにリオネルの姿。
辛いことを話させたのだと自覚したときカミーユは、リオネルの存在など気に止まらないほどの罪悪感に襲われた。
「姉さん――」
駆け寄ってカミーユはシャンティを抱きしめる。
「ごめん」
「あなたが謝る必要なんてないでしょ」
「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん……」
抱き締めた身体の細さに愕然とする。かつては背が高く見えた姉は、いつの間にかこんなにも小さくなっていた。
「おれ、どうかしてた。本当にごめん」
抱き締めているシャンティが、目を閉ざした気がした。
「……つまらないことで意地を張って、姉さんを苦しめて。本当に子供でごめん。リオネル様に姉さんを取られた気がして、でもこんなに傷ついた姉さんを支えてきたのはリオネル様だったんだ。おれはリオネル様に感謝しなくちゃならないのに、ずっと子供みたいに……」
腕の中でシャンティが首を横に振る。小さく笑ったようだった。
「……最近、色々な人に謝られるから、困っているのよ。カミーユまで謝らないで」
色々な人とは、かつてシャンティやコルネリアを裏切ったエマや、助けに行くのが遅くなったリオネルやディルクのことだろうか。
「ごめんね、姉さん」
「ねえ。カミーユ。ひとつお願いがあるの」
「……なに?」
尋ねれば、ややあってからシャンティが答えた。
「ベアトリス様は、カミーユのことを心から愛していると言っていたわ」
「…………」
「実の母親を恨むこと以上に、不幸なことはないと思う」
「……でも赦せないよ」
「あなたはベアトリス様を憎んではならないわ」
「愛しているよ、ずっと愛していたけど――」
カミーユの返事に、シャンティはそっと力を抜いた。
「そのままでいいのよ、あなたは」
母ベアトリスを愛していた。
けれど彼女は、カミーユが知るかぎりもっとも残忍な人間だった。それは、ある意味においては、王宮のジェルヴェーズを超えるほどに。
自分を母親として愛してくれた娘を、罠にはめて男に犯させ、館から追い出し、そして生きていると知ったら殺そうとしたのだ。それも、目をえぐり、内臓をひきずり出すなどという方法で。――人間のやることではない。
「おれ、どうしたらいいかわからないよ」
「わたしのために心を乱す必要はないわ。ベアトリス様はあなたのお母様で、そして、あなたを心から愛している」
「愛してる、でも同じくらい母上が憎い」
「憎しみからは、なにも生まれない」
「だったら、姉さんは母上を許せるの?」
しばしの沈黙のすえに、シャンティは息を吐くように言った。
「……母と信じてきた、大切な存在だったわ」
過去のものとなった言葉。
けれどシャンティは続けた。
「だから、もう忘れようと思うの。憎むのではなく、忘れる。もしあの人を憎み続ければ、わたしはデュノア家令嬢という束縛から逃れられないと思うから」
シャンティの言葉に、カミーユは胸を突かれた。
愛の対極にあるのは、憎しみではなく忘却。もう、シャンティはベアトリスを愛していない。だからこそ、忘れようとしているのだ。
そして姉のなかで、すでに〝シャンティ〟は死に、〝アベル〟としての命を生きはじめているのだと思い知った。
そしてそれがきっと、シャンティの救い。
「――――」
カミーユは硬く目を閉じた。
これで、いいのだという気がした。
シャンティが救われるなら、これでいい。
どんな名前だろうと、かけがえのない姉には変わりなかった。ただひとつだけ、どうしても気になることがある。それは。
「ねえ、母上のことは忘れても、おれたちがデュノア邸で過ごした楽しい時間は忘れないでいてくれる?」
腕の中で、シャンティが震えた気がした。
小さくすすり泣く音と共に、かすれた声が漏れる。
「……もちろんよ、カミーユ」
カミーユは胸を押しつぶされるような気がして、シャンティを抱きしめる腕に力を込めた。
「姉さん……」
「……もちろん忘れないわ、カミーユ。あなたやトゥーサンと過ごした日々は、わたしの宝物だから」
気づけばカミーユの視界も歪んでいる。
強く、強く抱きしめることで、この人の哀しみを少しでも癒すことができたらいいのにと、カミーユは思った。
その後、すっかり疲れ切ったシャンティを部屋に連れていったのは、ずっと黙ってそばについていたリオネルだ。
もうカミーユは、悔しいとか、腹立たしいとか、そんな気持ちは起きなかった。
むしろ、どこかほっとした気持ちでいた。
シャンティを救えるのは、あの人しかいない。
勝手かもしれないけれど、今更だけれど、シャンティのそばにリオネルがいることが、カミーユにはとても心強く思えた。
「明日はご出立できそうですか」
トゥーサンに確認されて、カミーユは視線を伏せつつうなずく。
「出立するよ」
シャンティのことはリオネルに任せて、カミーユは明日出立する。
カミーユは負けを認めるしかなかった。
けれど、負けは認めても、永遠の別れではない。
「いつか、おれが姉さんを支えられるようになるまで、預けておくだけだ」
ひとりつぶやくカミーユの言葉に、トゥーサンはそっと瞼を伏せたようだった。