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一番大きな問題は、アベルがベルリオーズ邸に戻れないだろうことだ。
リオネルのそばに、禍の火種となるアベルが寄りそうことを、クレティアンが許すわけがない。
気持ちが沈みそうになるのをアベルは堪えた。
「カミーユがいないのはそういうことなので……えっと、ディルク様は館に戻られたのですよね。アベラール侯爵様は、ご心配なさっていたのではありませんか?」
「心配、というより苛立っていたかな。でも大丈夫、ちゃんと館を出るときは言い訳をしてきたし、今日だってたいしていつもと変わらなかったよ。アベルが気に病む必要はないから」
そうは言っても、嫡男たるディルクが突然館を離れ、幾日かぶりに戻ったのだから、心配していたに決まっている。
たくさんの人に迷惑をかけた。
「いずれ直接お会いして謝罪したいのですが」
「気にしなくていいよ、アベル。きっと父上も〝シャンティ〟が無事だったと知って安心している。アベルが生き抜いてきてくれたおかげで、おれも父上も救われたんだから」
え、とアベルは顔を上げる。
「……すべて侯爵様にお話しされたのですか?」
「話さずには、納得してもらえなかったからね。でも話したからといってなにかが変わるわけじゃない。父上が言いふらすはずもないし、これまでどおりでいいよ」
なんとも言えぬ気持ちでアベルは考え込む。
アベラール侯爵にまで素性を知られたことは、もはやしかたのないことだ。こうなっては遅かれ早かれ知られていただろう。
ディルクの言うとおり、アベルは生き抜いてきた。たしかにそうだが、生きていたせいで、迷惑もかけている。
特に、王弟派にとっての〝希望〟であり、ベルリオーズ家の嫡男であるリオネルのことを思えば、クレティアンやアベラール侯爵にとっては、アベルは災厄の元であり、邪魔な存在なのではないだろうか。
そんなふうに思ってしまうが、それはおよそ現実からかけ離れた懸念ではないはずだった。
「ああ、そうだ。父上の話で思い出したよ。カミーユを説得するように言われていたんだ」
「説得?」
「一年目の従騎士が、王宮を離れることは許されてない。すぐに王宮に戻るようにとね」
「カミーユは、許可をとって戻ってきているのではないのですか?」
「どうも師匠であるノエル殿には許可をとったようだけど、国王やデュノア伯爵には無断で来ているようだ」
つまり正式な許可は得ていないということだ。このことが明るみになれば、許可を出したノエルも罰せられることになる。
「……わたしから言います」
「おれたちで説得できなかったら、お願いするよ」
「おれたち?」
尋ねたのはレオンだ。
「そうそう、おれたち」
「複数形なのが気になるが」
「そうそう、おれとおまえ」
「おまえとは?」
「レオン以外にいる?」
指し示され、レオンは困惑の表情になった。
「おれにはカミーユを説得できる自信がないのだが。それに、説得するよう指示されたのはおまえだろう?」
「カミーユのことを思えば、説得するのが当然だろ。それでも年長者か?」
言い合いをはじめる二人のあいだに、アベルは割って入る。
「すみません……最初からわたしが言います」
「アベルはまだ熱があるんだから、休んでいたほうがいいよ」
そう言ってディルクは気乗りしない様子のレオンと共に、昼前から部屋にこもって出てこないカミーユのもとへ向かった。
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扉を叩けば、しばらくしてトゥーサンが顔を出す。
「ディルク様、レオン殿下」
意外そうにトゥーサンは二人の名を呼んだ。
「ああ、館から戻ってきたんだ。カミーユが部屋にいると聞いたけど?」
「お帰りなさいませ。カミーユ様は奥におります。どうぞお入りください」
通された部屋では、カミーユが肘掛け椅子に座ってなにやら考え込んでいる。トゥーサンに声をかけられると、はっと顔を上げた。今の今まで、ディルクらの来訪に気づかなかったらしい。
カミーユは立ち上がって二人を迎えた。
「戻ってきたの?」
「政務をある程度片づけてね」
「ごめん、おれが突然連れだしたせいで。侯爵様は怒ってなかった?」
「事情を話したら納得してくれたよ」
「話したの」
カミーユが驚きの声を上げた。
「すまないけれど」
気がかりげにうつむくカミーユに、ディルクは説明する。
「はじめは西方視察で通そうとしたけど、父上はカミーユの来訪に気づいていたし、その後何日か留守にして、大聖堂にこの面子で滞在していては、やっぱり話さないわけにはいかなかった。……悪い」
ううん、とカミーユは首を横に振る。
「むしろ、よかったような気もする。ただ、姉さんやデュノア家がこれからどうなるかということだけが心配だ」
「……父上が、今回のことを他言することはないはずだ。アベルはこのままここで療養する必要があるし、ベアトリス殿がやろうとしたことが外部に広まることもない。心配することはないよ」
「母上の犯した罪は?」
「そもそも、アベルを殺そうとした犯人だという証拠がない。仮にアベルが地下牢でなにがあったか話してくれて、それが証言になったとしても、ブレーズ家の権力ですべてもみ消されるだろう」
国王と親しいブレーズ公爵ならば、ベアトリスを守るためにどのような手段でも講じることができるはずだ。
「第一、シャンティは死んだことになっている。〝デュノア家令嬢〟ならともかく、どこのだれともわからない少女を殺そうとしたところで、ベアトリス殿の身分では罪にはならない」
母親が罰せられることはないと知ったカミーユは、複雑な表情だ。
「母上はひどい罪を犯したのに」
「ああ、でも、カミーユの気持ちは、ひと言で片づけられるほど単純なものではないだろう?」
「でも、姉さんを殺そうとしたことは赦されることじゃない。――いや、おれが赦せないんだ」
「……そうか」
「ねえ、ディルク。ディルクの言ったとおり、この気持ちは、とても言葉では言い表せないよ」
きっとそうだろう。ディルクは言葉を探せずに、カミーユの頭に手を置き、くしゃくしゃと撫でた。
「聞いて悪かったな」
カミーユはフィデールによく似た青みがかった灰色の瞳を伏せる。
「そういえば、乳母殿の具合はどうだ?」
あえて話題を変えれば、少しほっとした様子でカミーユが答えた。
「落ち着いているよ」
「よかった」
「侍女殿がそばにいるのか?」
尋ねたのは、この部屋へ強制的に連れてこられたレオンだ。
「はい、カトリーヌが看病しています」
「それは安心だな」
「でも、そのせいで姉さんのところにはリオネル様が……」
不満げにつぶやくカミーユをまえに、レオンは〝まずい〟という顔になった。今は、アベルとリオネルに繋がる話はカミーユのまえでは禁句だ。知らぬ間に、踏み入ってはならないところに突入してしまったようだ。
ディルクは軽く非難の眼差しをレオンへ注ぐ。そのディルクへ、カミーユは視線を移した。
「……ねえ、ディルクも聞いたんでしょ」
「えっ」
ディルクはなんのことかわかっているものの、咄嗟に反応できない。
「姉さんとリオネル様のこと」
「あ? ああ、まあ……」
カミーユの思いも知っているからこそ、ディルクは歯切れが悪くなった。
「わかっているよ。リオネル様は、素晴らしい人だ。高貴な血筋なのに偉ぶらなくて、優しくて、腕が立って、容姿まで整っていて、本当にかっこいい……」
「そうだな」
ここは事実として素直にうなずく以外にないところだ。
「でも、姉さんの相手はディルクしかいないって、おれは今でも思ってる」
「……でもな、カミーユ」
「わかってる。ディルクにも姉さんにも、お互いにそんな気持ちはないんでしょ。……わかってるよ、そんなことくらい」
わかっていても納得できない。
そんな気持ちは、ディルクにも理解できるような気がした。
「おれの手で幸せにしてやれなくて、すまなかった」
「……謝らなくていいよ。きっと、ディルクが婚約破棄をしていなくても、姉さんがディルクに嫁ぐことはなかった」
ベアトリスの手引きで穢され、子を宿したアベルが、ディルクと結婚できたはずがない。
仮に妊娠がなくとも、あらゆる手段を講じてベアトリスはアベルを破滅へと陥れていただろう。
「全部わかってるんだ。でも」
カミーユはうまく伝えられない気持ちに拳を握る。
「ディルクとの結婚を夢見ていたころの、姉さんの幸せそうな、きらきらした顔が忘れられない。きっと……それはおれの夢でもあったんだ」
そんなことを言われては、ディルクのほうが切なくなる。ディルクは視線を伏せて押し黙った。
「ごめん、本当に、今更どうにもならないことなのに」
「……人間なのだから、割りきれないときもある」
励ましてくれるレオンに、カミーユはかすかに笑ってみせる。
「ありがとうございます。――リオネル様の気持ちはわかっていたけど、姉さんまでがリオネル様を好きだなんて、なんだかおれだけがひとり置いていかれた気分で」
「無理に割り切ろうとしなくてもいいのではないか? おまえがどのような気持ちであっても、アベルのことが大事な姉だという事実に変わりがなければ、今はそれで充分ではないか」
レオンの言葉に、カミーユはかすかに表情を和らげた。
「……そうですね、これまで姉が無事だったことだけでも、感謝しなければならないですから」
たまにはいいことを言うじゃないかと、ディルクはレオンへ無言で視線を送る。レオンもまた無言で片眉を上げて返した。
「そして、悔しいことに、いつだって姉を助けてきたのはリオネル様なんです」
「本当にそうだな」
努力や気持ちではどうにもならないことだったが、カミーユの言うとおりアベルが苦しんでいるとき、危機にあるとき、そばにいたのはリオネルだ。三年前にリオネルがアベルをサン・オーヴァンの街で救ったときから、すべては始まっていた。
もしアベルを救っていたのが、自分だったら……。
そんなことを考えても、もう今更どうにもならない。
ディルクにとって二人の幸福を願う気持ちは真実であり、カミーユのために時間を巻き戻してすべてやり直すことなどできるはずないのだから。
姉シャンティを救ってきたのが、リオネルだったということを、カミーユもわかっている。二人の絆の深さを理解しているからこそ、納得しなければならないのが余計に悔しいのかもしれない。
「まだすんなり受け入れることはできないけど、少し自分なりに色々考えてみる」
そう言うカミーユの背中を、ぽんぽんとディルクは叩いた。
「ひとまず気持ちが落ち着いたところで悪いんだけど、話があるんだ」
「話?」
なんのこと、とカミーユが視線を上げる。
「父上からの指示だ。〝従騎士一年目で王宮を離れているカミーユ殿を、すぐに帰るよう説得するように〟と」
「…………」
「国王陛下や官僚たちに知られるとまずい。最悪の場合、叙勲する資格を奪われたら騎士になれなくなる。周囲が気づくまえに、早く戻ったほうがいい」
「でも、姉さんやエマの体調がまだ戻ってない。せめて二人が回復するまで、そばにいたいんだ」
訴えるカミーユは必死の様子だった。けれど、ここは父侯爵に厳しく言われているため、ディルクも引き下がるわけにはいかない。
「二人の回復を待っていたらいつになるかわからない。カミーユはひとまず王宮に戻って、二人が元気になったら、こちらから手紙を書いて知らせるから」
「心配なんだよ。姉さんも、エマも、カトリーヌも、これからどうなるのか、まだなにも決まってないだろう?」
エマもカトリーヌも、もうおそらくデュノア邸には戻れない。アベルもまた、リオネルが頑張ってはいるものの、ベルリオーズ邸に戻れる可能性は限りなく低い。
カミーユの懸念はもっともだった。けれど。
「おまえが騎士になれなかったら、だれよりもアベルとエマが哀しむ。そう思わないか?」
ぐっと考え込むカミーユをまえに、あとひと押しと、ディルクはレオンへ視線をやった。
レオンは虚を疲れた面持ちで、〝おれ?〟と自分自身を指差す。ディルクは大きくうなずいた。
渋い表情になったレオンは、うつむいてなにやら悩み、それから視線を上げて、カミーユへ向けて口を開く。
「本来、一年目の従騎士が王宮を離れることは許されていない。そのことは知っているな」
レオンに問われると、カミーユはぎこちなくうなずいた。
「ならば、今回、本来はけっして許されることではないのに、カミーユがデュノア領へ戻ることを密かに許可してくれたのはだれだ?」
「……ノエル叔父上です」
「どうして許可してくれたと思う」
「おれが、行方不明のエマをどうしても探しにいきたいと申し出たから」
レオンはカミーユの回答を聞きながら質問を重ねる。
「それで、エマはどうなった?」
「……見つかりました」
カミーユが答えたあと、しばらくレオンは相手に考える時間を与えるかのように沈黙する。すでに答えを見つけかけている様子のカミーユへ、レオンは淡々とした口調で言った。
「アベルやエマのことはたしかに心配だが、それでも、デュノア伯爵夫妻や国王陛下を欺いてまで、特別に帰郷を許可してれくれたノエルに、今度はおまえが応える番ではないのか。それが、人としてのけじめではないのか」
カミーユが顔を上げてレオンを見つめる。
それからすっと目を伏せ、ひとつうなずいた。レオン、ディルク、トゥーサンの視線が集まるなか、カミーユは溜息をはくように声を発する。
「……帰ります」
と。
皆の顔に安堵の色が広がった。
決断を下したカミーユに、ディルクは告げる。
「エマ殿とカトリーヌは生活に困らないようにこちらで面倒を見る。アベルのことは、おれが守りたいところだけれど、もっと頼りがいのあるやつがついているから大丈夫だ。もちろん、リオネルが頼りにならないときは、おれが命に代えても守るから」
最後の言葉に、カミーユは少し嬉しそうな顔になる。
「ありがとう、ディルク」
そんなカミーユの様子をまえに、ディルクは無性にすまない気持ちになった。
「……悪かったな、カミーユ」
「なんで? ディルクが謝ることなんてないよ」
「その――、……いや、なんでもない」
大切な友人であるアベルを――かけがえのない婚約者であったシャンティを、リオネルが愛して幸せにしてくれるなら、ディルクはなにも言うことはない。そう思っていたけれど。
カミーユの気持ちを知ると、ディルクはアベルを自分の手で幸福にしてあげることができればよかったという気持ちになった。
それは、もはやシャンティへの気持ちというより、実の弟のようにかわいいカミーユへの情といったほうがいいだろう。
カミーユの部屋を出たディルクは、レオンへ「ありがとう」と礼を述べる。
「いや、おれはなにもしていないが……どうした?」
「え?」
「なんだか、おまえらしくないが」
「そうかな」
「そんな顔をされると調子が狂うから、いつもの能天気なディルクに戻ってくれ」
レオンの口ぶりにディルクは苦笑する。
「カミーユに対してはあんなに言葉を選ぶのに、少しはおれにも気遣ってくれたらどうだ?」
「おれに気遣われたら、立ち直れないだろう?」
レオンに指摘されて、ははは、とディルクは笑う。
「そうかもしれないね」
「きっと、カミーユ様はディルク様のことが大好きなんですよ。だからこそなおさら姉君の相手はディルク様であってほしかったのでしょう」
これまでずっと黙っていたマチアスが、静かに言った。
「気遣われると立ち直れないって、今話していたばかりだけど、マチアス」
「気遣ったわけではありません。感じたことを述べたまでです。さらに言うなら、ディルク様のお気持ち次第では、まだ遅くはないと思います」
マチアスが意味するところを理解したレオンが、顔を引きつらせる。
「……ときに従者殿は、だれよりもおそろしく思える」
「リオネルからアベルを奪ったら、修羅場だろう」
呆れてディルクが言うと、淡々とマチアスが答えた。
「単に、アベル殿を守る義務が、貴方にはあるという意味です」
「おまえと話していると気が遠くなる」
そう言いながらアベルの部屋のまえを通れば、ちょうどなかからリオネルが出てくる。
「あれ、アベルは?」
「眠ったよ。熱があるから、身体を起こしているだけで体力を使うのだろう。……カミーユ殿は?」
「王宮に戻ると言ってくれた」
「そうか」
ほっとした様子のリオネルの横顔へ、ディルクは眼差しを注ぐ。
「どうかした?」
視線に気づいたリオネルが、ディルクを振り向いた。
「おれが婚約破棄していなければ、どうなっていただろうと思って」
え、とリオネルが目を見開く。
「カミーユと話していたら、ふとね。そんなことを思った」
「…………」
「――そんな顔するなよ、深い意味はないから」
軽くディルクが笑えば、リオネルは困惑の表情ながらもはっきりと言った。
「すまないが、たとえ相手がディルクであっても、もうおれはアベルを諦めない」
「深い意味はないって言っているだろう?」
ディルクが片手を振ってリオネルのまえから立ち去ると、レオンがリオネルに耳打ちする。
「敵は意外な場所にいるかもしれないから、気をつけたほうがいい」
レオンの助言にリオネルは瞳をまたたかせた。
修道院の回廊を歩きながら、ディルクは小さくうつむく。
婚約破棄をしたことは深く後悔しているが、リオネルとアベルのことを祝福する気持ちは真実だ。
アベルに対し、元婚約者としての親しみや、友人としての情はだれにも負けぬくらい抱いている。けれど、それは恋心ではない。
婚約者として出会っていたら、きっとアベルを心から愛していただろう。けれど、今はリオネルとアベル二人の幸福が自分の望みだ。
それでも、あえてあんなことをリオネルに対して言ったのは……。
「これで、少しくらいはカミーユの気持ちに応えることができたかな」
いや、全然だめか――、と、ディルクはひとりつぶやいた。