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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
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34






 寝台のうえ、あたたかい布団のなかにいるのに、アベルは未だに膝かけを肌身離さず持っている。


「牢のなかで、この膝かけと、リオネル様からいただいた首飾りが救いだったんです。ずっと大切にします。――いけませんか?」

「いや、いけなくはないが……」


 いけなくはないが、なんなのだろう。アベルは続きを待ったが、ベルトランは顔を背けてそれ以上なにも言わなかった。


 話を終えたリオネルが部屋へ戻ってくる。ひとりで戻ってきたところからすると、ジュストはもうエマの部屋へ向かったらしい。

 ジュストになにを告げたのか、アベルは気になったが、教えてくれるつもりはなさそうだ。


 リオネルは、ベルトランの顔をのぞきこんで、なにかに気づいた様子で口を開いた。


「ベルトラン、どうかした?」

「いや、なにも」

「なんだか少しいつもと様子が違うようだけど」

「気のせいだろう」


 あらためてベルトランを見やったが、アベルの目にはいつもの仏頂面に見える。ベルトランの微妙な様子の変化を捉えることができるとは、さすが昼夜を分かたずそばにいるリオネルだ。


「そう? なにか心温まる話でもしていたのかと思った」


 心温まる話……。膝かけの話をしていたことを思い出し、アベルはふとベルトランの心情に思い至る。

 ――そういうことだったのか。


 胸がじんとなった。アベルはそばに立っていたベルトランの広い背中に、手を伸ばす。

 今なら甘えても許されるような気がした。


「アベル?」


 背中に手を触れてコツンとひたいを預ければ、ベルトランが驚いた様子で振り返る。


「……感謝の気持ちでいっぱいです」


 いつだってなんでもないという顔をして、実のところ感情表現が苦手な、愛想のないベルトランが愛おしかった。


 背中に触れられたベルトランが、不自然に咳払いする。リオネルは複雑な表情で苦笑した。


「なんだか妬けるね」

「いえ、別に変な意味ではなくて」


 珍しくリオネルがそんなことを言うので、アベルは慌ててベルトランから離れる。


「えっと……」

「ごめん、冗談だ」


 リオネルが微笑した。


「アベルにとってベルトランが師匠であるという以上に、兄のようでも、父のようでもあるということはわかっているから」

「兄はいいが、父は勘弁してくれ」


 ベルトランのひと言に、アベルは笑いながら相手を見やる。


「ベルトランが本当に、私の兄や父だったらよかったのに」

「……アベルにそう言われるのは嬉しいが、リオネルはああ見えて本当に妬いているだろうから、言動には気をつけたほうがいい」


 声をひそめて言うベルトランに、「なにか言った?」とリオネルが尋ねる。


「いや、なにも」


 短くベルトランは答えた。


〝妬いている〟という言葉で、そういえば、とアベルは思い至る。

 リオネルの想いはもちろん踊り子に扮した夜から知っていたが、デュノア邸を発つまえに、アベルもまた自分の気持ちをリオネルに打ち明けたのだ。


 様々なことがあったせいで、告白したその出来事がアベルのなかでは現実感を伴っていない。


 今、あらためてそのことを思えば、無性に照れくさいような気がした。デュノア邸からここへ来るまでのあいだにはずっと馬上で抱き締めてもらい、今も常にこんなにそばにいて、本当に今更だけれど。

 きっとこれまでは、地下牢での出来事や、高熱のせいでなにも考えられなかったからだ。


 身体が回復に向かい、気持ちも落ち着いてきた今、あらためてこれまでことや、今の状況を思い起こす。


 信じてきた両親の愛を失い、地下牢で苦しみを味わって砕けそうな心は、リオネルの存在によって救われつつある。

 けれどもしそれを失ったら、どうなるだろう。


 そう思えばアベルは不安だった。


 ベルリオーズ邸に住むことは難しい。リオネルはそばにいると言ってくれているが、今の状態がいつまでつづくかわからない。かといって、ベルリオーズ家の嫡男たるリオネルを、いつまでも自分のせいで振りまわすのも辛かった。


 告白したことで、余計にリオネルを縛っているとすれば、アベルは責任を感じずにはおれない。

 あのときはもう会えないかもしれないと思ったので伝えたが、果たして伝えてよかったのだろうか。


「アベル、お腹は空かないか?」


 思いもかけぬ言葉を向けられて、アベルは我に返る。


「……そう言われてみれば、空いているかもしれません」


 アベルの口ぶりに、リオネルはかすかな憂いを帯びた笑みをたたえる。


「アベルは自分の痛みに鈍感だけれど、空腹にも鈍感なんだね。今朝はあまり食べなかったから、お腹は空いているはずだと思うけど」


 痛みに鈍感……そうだろうか。


「人の痛みには敏感なのに……ほうっておくと、アベルはいつまでも自分の痛みに気づかないから。空腹も同じとわかれば、さあ、食堂へ行って昼食を調達してこよう」


 自ら行こうとするリオネルを制し、自分が行くと言ってベルトランが部屋を出ていく。

 ベルトランがリオネルのそばを離れるのは、非常に珍しい。特に周囲にベルリオーズ家の家臣やディルクがいないときは、けっして離れようとしないのに。


 今は、自分しかリオネルを守る者がないと思えば、アベルは緊張した。熱のあるこの身では、どれだけの力を発揮できるかわからないというのに。

 それをわかっていてもベルトランが席を外したのは、ある種の気遣いがあったからだろう。


 二人きりになると、リオネルはアベルの寝台に浅く腰かけ、ひたいに手を添えた。


「……少し、下がったかな」

「だいぶ気分がいいです」

「そうか」


 よかった、とほほえむリオネルの眼差しは、どこまでも甘く優しい。

 その表情が、けっしてリオネルが他の者には見せぬものだと気づいてしまったからこそ、アベルはうろたえてしまう。


「咳も減ったね」


 アベルは黙ってうなずいた。


「思ったよりずっと回復が早くて安心している。もちろん、まだまだ油断はできないけど。……アベル、どうかした?」


 え、とアベルは顔を上げる。


「さっきより顔が赤い」


 再び近づいてくるリオネルのしなやかな手が、アベルの頬に触れた。包みこまれるその感覚に、心臓が早鐘を打つ。


「熱が上がった?」


 不思議そうに、そして心配そうにひたいへ手を移そうとするリオネルから、アベルは思わず咄嗟に身を引いてしまう。

 ぴたりとリオネルが動きを止めた。


「あっ、す、すみません、その――」


 リオネルの瞳が細められる。


「ごめん」

「違うんです。その、つまり……」


 ――つまり。


 言葉を探せなくて、けれどリオネルが立ち上がってそばから離れていってしまうような気がして、アベルは引きとめるように相手の腕に手を伸ばしだ。


「アベル?」


 見上げたアベルと、腕を掴まれたリオネルの顔が間近。至近距離で見つめあえば、リオネルが苦笑した。


「そんな顔で見られると、どうしたらいいかわからなくなってしまうから」


 どんな顔だっただろう。


「触れていいのか、触れてはいけないのか、その判断さえおれにはつかない」


 そう、これまでは深く考えずにそばにいて、自然とリオネルと触れあってきた。

 けれど、今はその意味合いが異なる。

 アベルだって、どうしたらいいかわからない。


 リオネルの腕を必死で掴んだはいいものの、アベルは硬直して動けないでいた。

 アベルが手を離さないので、腕を掴まれたリオネルもそのまま動けず、黙って待っていてくれている。


 とても長く感じられる不自然な時間が経過し、ついにリオネルのほうが、落ちつかせるような優しい声音で言った。


「アベルの嫌がることをしたくはない。嫌だったらいつでもそう言ってほしい」

「違います――、嫌とか、そういうのではないんです」


 知らず知らずのうちに、リオネルの腕を掴む手に力が加わる。

 あのとき身体を引いたのは……そう。


「……もっと、顔が赤くなると思ったから、です」


 思い切って告げれば、リオネルが目を軽く見開いた。


「リオネル様に触れられると、ふわっとした気持ちになって……たぶん、それはきっと、リオネルの様のことが好きだから……だから――」

「…………」


 沈黙に耐えかねてうつむけば、躊躇うように伸ばされた手が、アベルの髪に触れる。

 今度こそ身を引かず、アベルは目を閉じてその手のぬくもりにすべての神経を集中させた。きっと顔は赤くなっているだろうけれど。


 アベルが身を引かないと知ると、切なげな声と共に、抱きすくめられる。


「嫌われたかと思った」

「嫌いになるなんて、そんなこと絶対にありません」

「……不安なんだ。ずっと、あの日の告白は夢のことのような気がしていた」


〝あの日の告白〟とは、きっと、ベルリオーズ邸を発った夜のこと。アベルはリオネルに恋をしていると告げた。


「わたしも、そんな気がしていました」


 自分で告白して、自分で夢だと思っているのだから世話ない。


「……けれど、夢ではありません。あのとき言ったことは本当です」


 アベルは両手をリオネルの背中に回す。

 広く逞しい背中に安堵した。


「ベルトランの膝かけと、リオネル様への想いが、地下牢でわたしを死から救ってくれました」

「あの夜」


 リオネルの声がすぐ耳元。


「アベルを行かせなければよかったと後悔している。あのまま抱き締めて、離さなければよかった」

「行かなければ、わからなかったこともあります」

「……アベル」


 抱き締める腕に力がこもる。すらりとした痩身なのに、こうして抱き締められると、いつだって想像以上に逞しくて力強い。


 リオネルの腕にすべて預けてしまいたくなる。

 自分の運命も、不安も、哀しみも、この先の未来も……。


 頼りきってしまいそうで、なんだか無性に不安な気持ちになり、わずかに顔を上げた。

 先程よりも近くで、リオネルと視線が交わる。唇はあと少しで触れあいそうなほど。ふっと顔が熱くなっていくのを感じた瞬間、扉が開いた。


 あまりに混乱していて、リオネルの腕から離れることさえ、アベルは咄嗟に思いつかない。扉口に立っていたのは、弟のカミーユだった。







「……リオネル様」


 低い声と共に、殺気が満ちる。カミーユがトゥーサンを扉口に残し、大股でこちらへ歩んでくると、アベルは我に返ってリオネルの腕からそっと離れた。


 離れたばかりの二人の目前に立ったカミーユは、苛立った様子で言い放つ。


「助けてくださったことに感謝はしていますが、傷ついた状態につけこんで姉に近づくのはずるいです。そんなふうに姉に触れるなら、私はなにがなんでも貴方を遠ざけます」


 強い口調を向けられたリオネルは、静かに答えた。


「傷ついたアベルのそばにいたいと思ってはいるが、そこにつけこんだつもりはないよ」

「貴方は姉のことを女性として愛しているかもしれませんが、姉のほうは違います。けれど、傷ついているときに、貴方のような相手から言い寄られたら、だれだって突き放すことはできないでしょう?」

「あ、あのね、カミーユ」


 怒り冷めやらぬらしいカミーユを、アベルは遠慮気味に遮る。


「今のは違うの、別にへんな意味じゃなくて」


 青みがかった灰色の瞳が、こちらへ向けられた。


「どうしてリオネル様をかばうの?」

「本当のことだから」

「姉さんは危機感がなさすぎるんだ」


 三年前のようなことが起きたらどうするつもりかと、カミーユは言いたいようだ。危機感がないという意味では、たしかに彼の心配はもっともなのかもしれないが。


「姉に触れないでもらえますか」


 不機嫌に言うカミーユに、リオネルは平然と返す。


「アベルが嫌がることはしないよ」

「私が言いたいのは、貴方が相手では、姉も逆らえないということです」


 アベルの嫌がることを、リオネルが無理矢理しているかのようなカミーユの口ぶりに、アベルは慌てる。言うつもりなどまったくなかったというのに、咄嗟に口に出てしまったのは、リオネルの立場を守るためだった。


「わたしも、好きなの」


 カミーユは意味がわからないという顔をした。リオネルが意外そうにこちら振り向く。扉口に立つトゥーサンは、驚く様子もなく、ただ黙って瞼を伏せた。


 他のだれにも伝える気はなかったが、この状況ではしかたがない。軽くうつむき、小声でアベルは繰り返す。


「つまり……わたしも、リオネル様のことが好きなのよ」

「仕える相手として、でしょ」


 硬い声音で尋ねるカミーユへ、アベルは首を横に振った。カミーユが眉をひそめる。


「友達として?」


 再びアベルは首を横に振る。


「人間として?」


 同じしぐさをアベルは繰り返した。ついにカミーユが唖然と尋ねる。


「……男性として?」


 わずかにアベルは視線を上げ、そしてうなずいた。

 またたくまにカミーユの顔が曇っていく。トゥーサンが気がかりげにカミーユを見やった。


 うつむいたカミーユは、突如くるりと踵を返して再び扉口のほうへ歩み出す。


「カミーユ!」


 呼び止めたが、カミーユはそのまま廊下へ出ていった。ちょうどベルトランが昼食を持ってきたところで、ぶつかりそうになりながらすれ違う。

 アベルに一礼してから、トゥーサンがカミーユのあとを追いかけていった。


「なんだ?」


 部屋に現れたベルトランが眉をひそめる。

 アベルとリオネルは、複雑な表情で顔を見合わせた。






+++






 ディルクとレオンがセレイアック大聖堂に戻ってきたのは、夕餉の時間も過ぎたころのことである。


「あれ、カミーユはいないのか?」


 そう尋ねるディルクへ、アベルはおおまかに経緯を説明した。

 話を聞いたディルクは、なぜかしみじみとリオネルの肩を抱いて、幾度もうなずく。


「そうか、ついにリオネルは片想いではなくなったのか。よかったな、本当によかったな」

「話の論点はそこではないんだけど」

「幸せだな、リオネル。恋愛に疎いアベルじゃ、リオネルは生涯片想いかと思ったけど、ついに気持ちが通じ合ったわけだ……そうか、おれは親友として心から祝福するよ」

「聞いているのか?」


 ディルクがあまり感動しているので、アベルは恥ずかしくなってくる。

 元婚約者として、複雑な思いが互いにないわけではないはずの二人だが、不思議なほど、アベルも、ディルクも、自然に今の状態を受け入れることができていた。


「えっと……」

「ああ、そうそう、カミーユの話だったね」


 思い出した様子でディルクが言った。


「大好きなお姉さんをとられて、妬いているのか」

「いや、きっとそれだけじゃない。きっとカミーユにとって、アベルの相手として許せるのはディルクだけなのだろう」


 淡々とリオネルが言えば、ディルクが困ったような顔になった。


「もしかしてリオネル、ちょっと拗ねてる?」

「いや、しかたのないことだと思っているよ。もちろん、そのことで身を引くつもりもないし」


 アベルがシャンティだと知った当初は、アベルやディルクの気持ちを慮って身を引こうとしたリオネルだが、今や迷いはないようだ。


 リオネルの言葉にアベルは安堵する。離れなければならない運命は半ば承知しているが、あんなふうに突き放されるくらいならば、いっそリオネルの手でこの息の根を止めてくれたほうがましだ。

 リオネルに拒絶されたら、息さえつけない。


「アベルの弟に嫌われるのは辛いけれど、今は耐えるしかない」

「すみません、カミーユが」


 謝るアベルへ、リオネルは首を横に振る。


「心配する気持ちは痛いほどわかるから、逆にカミーユ殿には申しわけない気がしている」

「まあ、時間が立てばカミーユも納得すると思うけどね」


 ディルクが苦笑交じりに言った。


「相手がリオネルなら、納得せざるをえないだろう。それより問題は……」


 言いかけてディルクは言葉を止める。


「いや、なんでもない」


 おそらくアベルを気遣ってくれたのだろう。けれど聞かなくともわかる。

 一番大きな問題は――。







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