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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第二部 ~男装の伯爵令嬢は、元婚約者の親友の用心棒になる~
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 皆、雨に打たれる無数の死屍のなかにしばし立ちつくしていたが、リオネルだけはすぐにアベルのもとに駆け寄った。


「アベル、本当に怪我はないのか」

「ありません。ご心配をおかけしました」


 リオネルは矢に裂かれたアベルの脇腹あたりに視線を落とす。するとその視線を追って、アベルが答えた。


「切れたのは服だけです」


 たしかに服の合間からは血が出ておらず、わずかに白い肌が露わになっているだけだ。

 リオネルはなんとなく気まずい心地でそこから視線を外し、アベルの目を覗き込む。


「なぜあんな無茶をするんだ」


 このときリオネルの声が含む響きは、だれが聞いてもわかるほど、はっきり心配から怒りに変わっていた。リオネルの静かな怒気に、五人のあいだに流れる空気が、上空を覆う雲ほどに重たくなる。

 アベルはやや面食らった顔をしたが、みるみるうちにリオネルに負けないほど険しい表情になった。


「私の役目は、あなたをお守りすることです」


 憮然として答えるアベルに、リオネルがさらに声音を厳しくする。


「怪我でもしたらどうするんだ」

「あのとき、矢を切り落とす余裕はありませんでした。身を呈してお守りするしか方法はなかったのです」

「それを無茶というんだ」

「あなたをお守りするためなら、命も惜しくはありません」


 リオネルは形の良い眉を深く寄せて、目を閉じる。想いが溢れて唇から漏れ出そうになるのを、どうにか抑えた。


 ――アベルが傷つくくらいなら、自分が百万回死にかけたほうがいい。


 それほどまでに大切に思っているのに、それは伝えられない気持ちだった。堰を切ったように想いが流れ出てしまわぬよう、リオネルは最小限の言葉しか紡げない。


「おれは、きみの命と引きかえに助かることなんて望んでいない。――命を粗末にしたら許さない。自分を守ることを最優先に考えるんだ」



 いつになく強い語調で告げられたリオネルの言葉に、アベルは唇を噛む。


 なにか反論しようと思ったが、すぐに言葉が出てこなかった。リオネルに向かって矢が飛んだ瞬間の恐怖が、未だにアベルの心臓の片隅を凍らせている。

 自分には、この人を守る以外に生きる道がないというのに、この人を失ったら生きていけないというのに、それなのに、リオネルがそれを許さないとは。


 正しいことだったと信じている。

 命をもかけてリオネルを守ることが、自分の役目なのに。

 泣くまい。泣いてはいけない。

 そう思って、先ほどより強く唇を噛みしめたけれど、悔しいような、不甲斐ないような……なんとも形容しがたい思いが、言葉にならず、アベルの水色の瞳から一粒だけこぼれ落ち、雨水に混ざって消えた。


「アベル……」


 それを目にしたリオネルの紫色の瞳が、困惑と動揺で揺らぐ。

 アベルはリオネルの顔を見ずに踵を返し、ディルクとベルトランのあいだを無言ですり抜けて馬に跨る。

 ベルトランは、遠慮がちに口を開いてリオネルに言った。


「……どこかで着替えたほうがいいな。このままだと皆、風邪をひく」


 リオネルの視線はアベルの後ろ姿を追ったままだったが、しばらくしてからようやく睫毛を伏せてベルトランに頷き返した。


 ゆっくり馬車のほうへ歩みだしたリオネルが、ディルクの目前を通ったとき。


「気持ちはわかるけど、でも、あれではアベルがかわいそうだよ」


 ディルクから向けられた言葉に、リオネルは睫毛を伏せたままだった。


「おまえの怒ったところも初めて見たけど、アベルのあんな顔も珍しい」


 無言で前を通りすぎていくリオネルの後ろ姿に、ディルクは雨にかき消されぬよう、投げかけるように声を放った。


「さっき、おれがアベルのことをどう思うかって聞いたけど……おれの目には、アベルがおまえのそばで、おまえを守ることだけを望んでいるように見えるよ」


 その言葉に、リオネルは足を止める。


「サン・オーヴァンの街で、たったひとり手を差し伸べてくれたおまえを、失うことが怖いんじゃないか」


 リオネルは顔だけを背後へ向けた。

 雨に濡れた秀麗な顔が、ディルクを見据える。

 二人の視線がぶつかりあう。


「だからこそ、アベルは命をかけておまえを守ろうとしたんだよ。それを拒絶するのはこくだ」


 このとき、二年前のアベルの言葉が、リオネルの脳裏によみがえる。

 あれは、リオネルの寝室にアベルが突然訪れた夜、用心棒になりたいと言いだしたときのこと。


 ――あなたがいる場所が、わたしが帰る場所だからです。

 ――リオネル様にもしものことがあれば、この世界にわたしの居場所はありません。


 たしか、彼女はそう言った。

 リオネルはもう一度睫毛を伏せる。その表情は、けれど、先程より和らいでいた。


 五人全員が馬車の周りに集まったところで、リオネルは馬上のアベルに声をかけた。


「近くの町で、どこか服を着替えられる場所を探そうと思う。それまでアベルは馬車のなかにいてくれないか」

「…………」


 アベルはリオネルの顔を見ずに、うつむいている。


「さっきはごめん」


 その声に、アベルははっとして顔を上げ、リオネルを見た。


「さっきは、あんな言い方をして――すまなかった」


 アベルの宝石のような瞳が揺れる。

 リオネルの紫色の目に、微笑がたたえられた。


「ありがとう、アベル。おれを守ってくれて」


 アベルの青白いほどの顔に、ほんのりと赤みがさし、そしてかすかだが、ほほえみが広がった。

 リオネルは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 そうだった――――自分は、この笑顔をずっと見ていたいと思っていたのだ。

 涙なんて、けっして流させたくないはずだった。


「ただ……きみの服は切られているから、馬車のなかに入っていてほしいんだ」


 アベルは、リオネルの左右の瞳を交互に見つめ、そしてゆっくりうなずいた。





 ディルクの隣で、馬車の振動に揺られながら、けれどアベルは必ずしもすっきりした気持ちでいたわけではなかった。


 リオネルは謝ってくれた。彼の気遣いは心から嬉しい。――でも。

 アベルは、主人から謝罪の言葉を求めていたわけではないし、また同じようなことがあれば、リオネルは再びあのような反応をするのではないかと思った。

 病気も治り、今やリオネルの身辺を守る役目を負っているはずのアベルに、その役目を充分に果たさせてくれず、むしろ咎めるようなリオネルの数々の言動に困惑する。


 自分が間違っているのだろうかと、何度も考えた。

 けれど、たとえばトゥーサンだったら同じことをしたと思う。外で馬車を守るのも、狙われた主人を命がけで守るのも、仕える身としては当然のことだ。当然のはずなのに。

 それに対してリオネルから難色を示されるたびに、なにかアベルは間違ったことをしているような気持ちになる。

 そして、そのような心境をさらに複雑にさせているものがあった。


 考えに耽ったまま、アベルは窓の外に目を向け、全身を覆う寒さに耐えるように縮こまっていた。



 アベルの背中まで伸びた金糸の髪は、いつもは軽く束ねてあるが、今はさきほどの立ち回りでほどけてしまい、雨水に濡れ頬に張り付いている。

 寒さで白い頬は青ざめ、唇までが青紫色になっていた。

 細い身体の線を濡れた衣類がかたどり、切られて露わになった脇腹の肌が、その姿を艶っぽく見せている。それは官能的というより、触れることがためらわれるような、繊細な色香だった。


 リオネルは不思議な気持ちのざわめきを、口を開くことで押し殺した。


「アベル、これを羽織っていて」


 リオネルが差し出したのは、背もたれにかけてあった、厚い生地の毛布である。これは、汚れを防止するため、そして硬い座椅子を少しでも快適にするために置かれていたものだった。


「お気遣いありがとうございます。ですが、リオネル様のお背中が痛くなってしまいます、そのままお使いになっていてください」


 アベルは恐縮して彼の好意を断った。

 するとリオネルは困ったような顔をする。それは、どこか寂しげでもあった。

 その表情に、アベルの胸の奥は、つきりと痛みを覚える。


 ――リオネルは、優しい。


 アベルの心境を複雑にさせるのは、彼の優しさだった。

 リオネルは優しい。出会ったときから、今のこの瞬間まで、ずっと。

 この優しい人を守りたいと、思った。

 けれど一方で、リオネルの優しさはアベルを困惑させる。リオネルに優しくされるほど、自分の手で彼を守ることができなくなる。

 優しさに甘んじ、気を抜いてしまえば、あるとき突然、彼を失う日が訪れるような気がした。

 それは、幸せに対する恐怖でもあった。


 眩しいほどにきらめいていた日々が、突然終わりを告げたのは二年前のこと。

 幸せが、〈永遠〉ではないことを知った。

 自分の手で、自らの力で守り続けなければ、大切なものを再び失うような気がしてならない。

 幸せは、怖い。

 一度、手にすれば、あとは失うだけだから――。


「アベル、お願いだ。どうしても嫌でなければ、掛けていてくれないか」


 リオネルが静かな声音で言った。

 主人という立場で、しかもリオネルほどの身分の者が、これほど下手に出て家来の体調を案じるなど、通常では考えられないことだ。

 さすがのディルクも呆気にとられて言葉を発せず、二人の様子を見守る。


「……身に余るお心遣い、感謝いたします」


 主人がこのように頼むことを、聞き入れないわけにはいかない。堅苦しい謝辞を述べて、アベルはリオネルから毛布を受け取る。


 リオネルが旅のあいだずっと背中を持たせかけていた毛布は、リオネルの香りがする。

 透明感のある、どこか懐かしい香りだ。

 甘えてはいけないとわかっているのに……毛布にくるまると、ふんわり温かかった。


 まるで、リオネルの腕に包まれているように。







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