32
同じようなシーンが続いているので、今週末はもう一話更新します。
「戻らないとは、どういう……」
うろたえるジュストへ、リオネルは静かに告げる。
「ジュストも今聞いたとおりだ。アベルは地下牢に長らく閉じこめられていた。体調が回復し、今後のことが決まるまでは戻れない」
「アベルを助け出すことができたら、いっしょに戻るようにと、公爵様はおっしゃっていました」
話を聞いているアベルをちらと見やってから、リオネルはジュストへ小声を向けた。
「この話はあとにしよう」
「…………」
リオネルがジュストに小声で告げた言葉は聞こえなかったものの、雰囲気でアベルは状況を察する。沈黙したジュストの代わりに、アベルは口を開いた。
「リオネル様。ここにはカミーユも、トゥーサンも、カトリーヌもいるので、わたしは平気です。公爵様がご心配なさっていると思うので、一度お戻りに……」
「いや、おれはここから離れない」
きっぱりとリオネルは告げる。先程からのリオネルの様子で、彼の考えはなんとなくわかっていた。
「――わたしは、ベルリオーズ邸には、もう住むことができないのですね」
クレティアンが、アベルを館に住まわせる許可を出さないだろうことは、アベル自身も感じていたことだ。
会話の途中で、マチアスがビザンテを連れて戻ってくる。
「お部屋が用意できました」
カトリーヌとビザンテが、咳き込むエマの背中をさすり、支える。
「エマをよろしくね、カトリーヌ」
「ええ、もちろんです。……シャンティ様は、ご心配なさらずにお休みになってください」
カトリーヌがついていてくれるなら安心だ。きっと落ちついたらトゥーサンもエマのそばに戻り、面倒をみてくれるだろう。
「なにも考えずに今は休んで、エマ。泣いているエマではなくて、笑っているエマの姿が見たいから」
エマが早く元気になるように、そして罪の意識から解放されるように、アベルは心から祈った。
アベルのそばからエマが離れ、カトリーヌらと共に部屋を出ていくと、リオネルがアベルの寝台へ寄る。
最後にアベルが発した質問を受けて、リオネルが真剣な様子で告げた。
「アベル、言ったはずだよ。必ずそばにいると」
リオネルの気持ちはとても嬉しいが、それに甘んじていいのかどうか。いや、本来ならいけないに決まっているのだ。ベルリオーズ家の跡取りたるリオネルを、アベルが引きとめていいわけがない。
けれど、リオネルの意志は固いうえに、アベル自身もリオネルにそばにいてほしい気持ちがあるので、すぐには彼を説得する言葉が思い浮かばない。
「たしかに〝シャンティ・デュノア殿〟を、ベルリオーズ邸に住まわせるわけにはいかない。けれど、ここにいるのはアベルだ。もうシャンティ殿じゃない。住まわせてはならないという道理はないはずだ」
リオネルの言うことはよくわかる。アベルも同じ気持ちだ。
けれど、クレティアンはそうは思わないだろう。
客観的事実として、アベルは紛れもなくシャンティ・デュノアであり、ブレーズ家とデュノア家のからむ〝いわくつき〟の娘だ。そんな娘を、クレティアンが受け入れるはずがない。ましてや、リオネルのそばになど。
「けれどこのままでは、リオネル様はいつまでもベルリオーズ邸に戻ることができません」
軽くうなずいてから、リオネルはジュストを振り返った。
「ジュストは父の指示で、おれとアベルを探し、ベルリオーズ邸へ連れ戻すためにきたのだろう?」
「はい」
なにを言われるのだろうと、わずかに警戒する様子でジュストが返事をする。
「ならば、館に戻って父上に伝えてくれ。アベルを館に住まわす許可をいただけるなら館へ戻ると」
「リオネル様」
少しばかり諌めるようにリオネルの名を呼んだのは、ジュストではなくアベルだ。
「もしそれで許されたとしても、問題の解決にはなりません」
「肩身の狭い思いはさせないから」
「わたしの存在は、ベルリオーズ家に災いをもたらすでしょう。なによりリオネル様と公爵様のご関係を悪くするようなことはしたくないのです」
「ならば、どうやったらおれたちがいっしょにいられると思う?」
「……とにかく一度、リオネル様だけお戻りなったほうがいいと思うのです」
「それでは、いっしょにいられなくなる」
アベルはぐっと言葉につまりながらも、答えを探す。
どうしたらいいかなんて、アベルにもわからない。だが、自分のせいでベルリオーズ家の平穏を乱すのも、クレティアンの意に沿わぬことをするのも、どちらも避けねばならないことだった。
「……そう言ってくださるリオネル様のお気持ちだけで、わたしは充分に幸せです」
「言葉だけで充分だから、離れてもいいと?」
「そういうわけでは……」
「でも、そう言っているように聞こえる」
……たしかにそうかもしれない。
リオネルの指摘通り、アベルの言うとおりにすれば、離れる道を選ぶことになる。
本当はアベルだって離れたくはない。離れたくないけれど。
泣きだしたいような気持ちになって、アベルはうつむく。こんなところで涙を見せたくないので、代わりにぐっと両手で拳を握った。
「ごめん、アベル」
力の入ったアベルの肩を、リオネルは軽く抱きしめてくれる。
「……責めるつもりは、なかったんだ。アベルの気持ちも理解しているつもりだ。おれが強硬な態度に出れば、アベルが辛い気持ちになることはわかっている。すまない……けれど、アベルを守るためには、今はこれしか方法が思いつかない。もっといいやり方が見つかるかもしれないけれど、思いつくまでは、そばにいさせてくれないか」
結局アベルはうなずくしかなかった。
この先どうなるかはわからないが、リオネルの決意を変えることはできそうにない。その決意は、アベルの願いの一端でもあるからこれ以上抗いようがなかった。
「リオネルは、アベルに心底惚れているんだね。ごちそうさま。見ているこちらは、すっかり満腹だ」
と、にやにやするディルク。
「やはりディルクが言っていたことは本当だったのだな……」
と、遠い目でしみじみとつぶやくレオン。
「野暮用を思い出したので、我々は退室いたしましょうか」
と、気を使うマチアス。
口々に言うなか、ジュストだけがどうしていいかわからないという顔をしていた。そんなジュストの肩にベルトランが手を置く。
「今日はここでゆっくりしていけ。明日以降、ベルリオーズ邸に向かうなり、手紙を書くなりして、公爵様にリオネルの意志を伝えればいい」
「……公爵様が、ご納得なされるはずありません」
「そうだろうな。だが、それはおまえの責任ではない。リオネルに指示されたとおりにしただけのことだ」
「連れて戻るようにと命じられています」
「今の時点でそれは難しい」
二人の会話を聞いていたリオネルが振り返った。
「すまない、ジュスト。おれが手紙をしたためるから、父上に届けてくれないか。以降は直接ここへ来なくてもいいように、やりとりが必要なときは手紙をしたためてほしいと記しておくから」
「……私がベルリオーズ邸とセレイアックを往復することは、まったく問題ではありません。むしろ、この目でリオネル様とアベルの無事を確かめることができたほうが、安心いたします」
ジュストの言葉にリオネルはほほえむ。
「ありがとう。苦労をかけてすまない」
「苦労だなどと、とんでもありません」
恐縮した様子でジュストは答えた。
「では、お言葉通りリオネル様の手紙を公爵様にお届けします」
「わかった。明日までには書くから、今夜はここで身体を休めてくれ」
かしこまりましたと一礼するジュストを、マチアスが促す。おそらく部屋へ案内して、温かい食事を出すつもりだろう。
けれどジュストはいったんアベルのもとへと歩み寄り、視線を合わせるように屈んだ。
「少しアベルと話してもよろしいでしょうか」
「もちろん」
リオネルの承諾を得て、ジュストがアベルへ向き直る。
「過去のことは公爵様から話は聞いた。それに……今回も大変な目に遭ったのだな。無事で、本当によかった」
ベルリオーズ家にこれだけ迷惑をかけているアベルに、ジュストは優しく言葉をかけてくれる。ありがたいし、申しわけなくもあった。
「ジュストさん、本当に色々とごめんなさい」
「アベルが謝ることはなにもない。事情は聞いたけれど、〝シャンティ様〟とは、あえて呼ばないでおこうと思う。どんな過去があっても、アベルはベルリオーズ家の大切な家臣で、おれの後輩で、そして、リオネル様の大切な人だ」
最後のひと言に、アベルはふわっと顔が熱くなるのを感じる。
ジュストにまで気づかれているのか。シャンティ・デュノアであることだけでなく、リオネルが想っていてくれていることまで……。
従来どおりアベルと呼んでもらえるのは嬉しいが、リオネルの大切な人だなど、畏れ多くて、身の程知らずで、自分自身でもどう反応していいかわからない。
「アベルがベルリオーズ邸に戻れるように、おれもいっしょに努力するから」
温かいジュストの言葉に、アベルは心から感謝しながらうなずいた。
一方、先程部屋を出たトゥーサンを追いかけるカミーユは、その背中に声をかけていた。
「待って、トゥーサン」
修道院の長い回廊を、トゥーサンは歩き続けている。そうして歩きながら、地面に落とすように言葉を発した。
「母が、シャンティ様を水のなかに放りこんだとは……それも私のために」
「それを、自分自身のせいとトゥーサンが責めるなら、一番罪深いのはおれだよ」
トゥーサンは足を止めた。ゆっくりとカミーユを振り返り、背が伸びたとはいえ、まだ身長差のある相手を見下ろす。
「カミーユ様に罪はございません」
「でも、指示したのはまぎれもなくおれの母親だ。姉さんの母親を卑劣な手段で陥れたのも、姉さんを地下牢に閉じこめて殺そうとしたのも、おれの母親。母上をそんな残酷な行動に駆り立てたのは、おれが母上のお腹に宿ったから。そうだろう?」
そう言うカミーユは、泣くのをぐっとこらえる様子だ。
「……申しわけありません。カミーユ様にそのようなことを言わせるつもりはなかったのです。カミーユ様は、ただこの世に生を受けただけで、なんの咎もあるはずありません」
「だったら、トゥーサンもそうでしょう?」
考える面持ちになってから、ややあってトゥーサンは瞼を伏せた。
「――そうですね。けれど、どうしてもやりきれないのです」
「気持ちはおれも同じだよ。でも、きっと姉さんは、少しもおれたちのことをそんなふうに責めたりしない。むしろ、そんなふうに考えたら哀しむと思うんだ。だって、おれたちはすごく仲がよかっただろう?」
「シャンティ様と母君のことを思えば、手に入れた幸運を素直に受け止めることができません」
「幸運って、デュノア邸でエマと暮らせて、教育を受けられたこと?」
「ええ、母と暮らし、さらには正式な教育を受けて騎士の身分を得て、カミーユ様の従者にしていただけたことです。多くの犠牲のもとで、私はここにいる」
「おれは嬉しいよ」
「え?」
「他のだれかなんて嫌だ。おれはトゥーサンが従者でいてくれて嬉しい。きっと姉さんもそう思ってる。だからさ……」
カミーユはトゥーサンの服を掴んだ。
「ねえ、おれだってどうしていいかわからない。姉さんとおれは半分しか血が繋がってなくて、そして、母上がこんなにも残酷なことをしている。考えたくないけど、三年前のことだって母上が……」
いったん言葉を切ったカミーユだが、小声になりながらも話を続けた。
「姉さんや姉さんの母君にどう謝っていいかわからないし、いっそ叫び出したい気分だけどさ、でも、今一番辛いのは姉さんだろう? 姉さんの気持ちに寄りそっていたいんだ。おれたちが自分を責めても、きっと姉さんは喜ばない。おれも自分を責めることはやめるから、トゥーサンもやめよう?」
「…………」
服をカミーユに掴まれたまま、トゥーサンはうつむいた。
「おれたちが落ち込んでいたら、このまま本当に姉さんはベルリオーズ家に取られちゃうよ?」
「……すみません」
トゥーサンの謝罪に、カミーユは顔を上げる。
「私よりカミーユ様のほうがよほど大人ですね。自分のことしか頭になかった私は、まだまだ未熟です。本当に、カミーユ様のおっしゃるとおりです」
小さくカミーユは笑った。
「〝まだ知らないことはたくさんあるし、見誤ることもあれば、失敗だってするけれど、そうやって経験を重ねていく〟んだろう?」
「そんなことを言いましたね、私は」
トゥーサンが苦笑する。そんな会話を交わしたのは、王都サン・オーヴァンからデュノア領へ向かう途中のことだ。
「おれはただ単に、他のだれかに姉さんを取られたくないだけだよ」
「そうですか」
硬かった表情を、トゥーサンは和らげた。
「おれたちがしっかりして、姉さんを支えなくちゃ」
「そのとおりですね」
トゥーサンを見上げてカミーユはにっと笑う。
「トゥーサンを説得するつもりが、自分自身を説得していたみたいで、なんだか少し吹っ切れたよ。おれだって母上がしたことは赦せないし、辛いけど……今は、姉さんに心も身体も元気になってもらうことだけを考えようよ」
「ええ」
二人は視線を交わして互いの意思を確認し合うと、もとの回廊をゆっくりと戻りはじめた。
誤字脱字報告、ありがとうございます。
教えて頂き、とても助かっています。