31
真っ先に声を上げたのは、カミーユだ。
「エマ!」
同時にエマのもとへ駆け寄ったのはカトリーヌで、エマの手をとり、涙をあふれさせた。
「エマ様、まさかどうしてこんなところに」
「母さん……」
トゥーサンもまたそばへ寄ったが、エマがひたと見つめていたのはただ一点――アベルの姿だけだった。
「シャンティ様……」
幽霊にでも会ったかのような表情は、喜びというよりも、衝撃という言葉のほうが近い。
「シャンティ様……本当に、シャンティ様なのですね……」
呆然とアベルの寝台へ歩み寄ったエマは、震える手をこちらへと伸ばす。アベルはマチアスに支えられて半身を起こし、その手を握り返した。
「エマ、こんなところで会えるなんて――。そうよ、あなたに育てられた、あなたのシャンティよ」
「ああ、シャンティ様……生きて、こうして再びお会いできるなんて、夢を見ているようです」
感動に身体を震わせるエマを、アベルは腕を伸ばして抱き締めた。
「たくさん心配かけてごめんなさい」
「謝らなければならないのはわたしのほうです、シャンティ様」
アベルに抱きしめられたエマはぼろぼろと涙を流す。アベルもまたたくまに視界がぼやけた。
アベルは注意を向ける余裕がなかったものの、エマのあとからはジュストも入室し、ドレス姿のアベルに一瞬気を取られてから、すぐに我に返って丁寧な仕種でリオネルに一礼する。二人は視線を交わしてから、アベルとエマのやりとりを黙って見守った。
「ジュスト様からお話はうかがいました。シャンティ様が生きておられたのはまさに神のご慈悲……。今こそ、わたしは罪を告白しなくてはなりません。どうぞ聞いてくださいまし。そしてわたしをお恨みください。わたしはけっして赦されない過ちを犯したのです」
「エマ、なにを言うの。あなたはなにも悪くない」
「すべてわたしが悪いのですよ、シャンティ様。わたしの罪はすべて、コルネリア様と、天の神々がご存知です」
エマの口から出た名に、アベルは目を見開く。
「母を……知っているの?」
はっとしてエマは息を呑んだ。
「シャンティ様は……もしや、ご自身のことを……」
「いろいろあって」
力なくアベルは笑った。
「わたしとカミーユの母親は違うのでしょう? わたしの母はローブルグ人で、伯爵夫人の代わりに子供を産むために連れてこられた。けれど、お母様……ベアトリス様と呼ぶべきね。ベアトリス様がカミーユを宿したときに、わたしの母は館を追い出された。そうでしょう?」
エマは幾度もうなずく。
「ええ、ええ、そのとおりです。コルネリア様の存在を知っていたのは、館に住めるよう計らった前伯爵夫人と、オラス様、ベアトリス様、そしてわたしだけだったのです。そこでわたしは大変な罪を犯したのです」
なにか罪を負い、自責の念に苛まれているらしいエマの肩をアベルは撫でた。
扉口には、いつのまにビザンテの姿はなくなっている。気を使ってくれたのだろう。
「なにがあったかはわからないけれど、過去のことはいいわ。今は再会を喜びましょう」
「いけません、シャンティ様……わたしは悪魔の手先です。神はわたしをお赦しにならない」
穏やかならぬ言葉に、アベルは困惑の色を浮かべる。
エマは涙を流しながら告白した。
「わたしはコルネリア様を陥れる手助けをして、まだ幼いシャンティ様をコルネリア様の手から奪い、水の張られた桶に放りこんだのですよ。このような悪行を告白せずして、どうして素知らぬ顔でシャンティ様との再会を喜べるでしょう」
室内に漂う空気が重く張りつめる。トゥーサンが信じられないという声音で、エマを呼んだ。
「母さん、いったいなんの話だ?」
けれどエマが再び口を開くまえに、割りこむ声がある。
「ちょっと待って、ちょっと待って。話を進めるまえに、まずは落ちついたほうがいい。ほら、アベルも戸惑ってる」
これでも飲んで、とディルクが水の入った杯を差し出すが、エマは相手の顔をまじまじと見つめただけで、首を横に振る。
「ここにディルク・アベラール様がいらっしゃるようにお見受けしましたが、あるいは、わたしの見間違いでしょうか。ともかく、わたしは今こそ、シャンティ様にすべてをお話ししなければならないのです」
「……見間違いではないけどさ」
苦笑するディルクにかまうことなく、また水を受けとることもなく、エマはアベルに向きなおった。一刻でも早く自らの罪を告白しなければ、息さえつけないかのように。
「――すべてベアトリス様の命令でした」
三年ぶりの再会だというのに、エマはなにか必死に伝えようとしている。時折、咳をする様子に、アベルは不安を覚えた。
「少し落ち着いてから話しましょう、エマ」
「いいえ、もっと早くにお伝えしておくべきだったのです。こうして生きて会えた今、もう悪魔の手にシャンティ様を委ねないため、すぐに話さなければなりません」
鬼気迫るエマの訴えに、アベルは口を噤む。
エマはアベルの両手を強く握りしめた。
「再会したばかりではありますが、どうぞお聞きくださいまし。シャンティ様をお守りするためでございます。コルネリア様もシャンティ様も、陥れられたのですから」
アベルの手を握るエマの手は、激しく震えていた。
「十三年前のことです、ベアトリス様は、オラス様にご寵愛されていたコルネリア様を疎ましく思っておられました。ベアトリス様は自らの子を宿すと、コルネリア様を排除するために姦計を練りました」
ベアトリス自らの子――それが、カミーユだろう。
「わたしにシャンティ様を盥に入れるようお命じになり、さらに、シャンティ様を救いたければ、お腹に宿る子はオラス様ではなく、他の男と通じてできた子だと手紙につづるようにと、コルネリア様を脅されました」
皆が言葉を失っているなか、エマはまくしたてるかのように、過去を明らかにしていく。
「コルネリア様はシャンティ様を救うため、偽りの手紙を書き、館を出ていきました。コルネリア様を愛されていたオラス様は、館にお戻りになってから手紙を読み、コルネリア様が出ていかれたことを知ってひどくお心を乱されました。すべてベアトリス様の思い通りになったのです」
アベルは少なからぬ衝撃をもって、エマの話を聞いた。
十三年前、そんなことが――。
盥の水に放りこまれた自分を救うために、無実の罪を手紙で告白し、館を出ていかなければならなかった母コルネリアのことを思えばアベルはどうしようもなく苦しくなった。
自分のせいで……。
コルネリアは、アベルを愛していてくれたのだ。
アベルは少しも覚えていないというのに。
けれど、ぐっと涙をこらえたのはエマのためだけではない。自分たちの母の過去を知ったトゥーサンとカミーユもまた、だれより辛いはずだからだ。
「エマはデュノア家に仕える乳母だったのだから逆らえなかった。自分を責めることはないわ」
「違うのです。ベアトリス様の命令だから、従ったのではありません。シャンティ様を冷たい水のなかに放りこむなど、命じられてもわたしはいたしません。わたしはコルネリア様やシャンティ様より、トゥーサンの未来を選んだのですよ」
アベルは首をかしげる。どういうことなのか。
「トゥーサンは当時、デュノア領の片隅にある別邸に住まい、デュノア邸で暮らすことを許されていませんでした。言うことを聞かなければ、以降、生涯トゥーサンとは会わせない。けれど、もし命令に黙って従えば、トゥーサンをデュノア邸に呼んで再び親子として共に暮らせるように計らい、相応の教育も施すとベアトリス様はおっしゃったのです」
視界の片隅で、トゥーサンが拳を握ったのがわかった。
「わたしはトゥーサンとの未来を選びました。自分のかわいい子供のために、コルネリア様を陥れ、シャンティ様を冷たい水に放りこんだのです。この罪深さを、いったいだれが赦すことができるでしょう……」
うなだれたエマが、アベルの寝台に顔を伏して嗚咽を殺す。
「エマ……もう終わったことよ」
実の母は、卑劣な方法で陥れられた。その事実を聞けば、悔しさや哀しさで目の奥が熱くなるが、エマがそのために苦しんできたことは、痛いほど伝わってくる。
もう充分ではないのか。
「それより今は、エマと再会できたことが、わたしにとってはなにより嬉しい」
「いいえ、シャンティ様、なにも終わっておりません」
はっきりと言いながらエマは顔を上げた。再会してすぐに、アベルに真実を――自らの罪を告白したのは、良心の呵責からだったのだろうか。
「すべてを知っていたのはわたしだけ――、ベアトリス様からシャンティ様をお救いできるのは、わたしだけだったのです。わかっていたのです、ベアトリス様がいずれシャンティ様を、コルネリア様と同じ目に遭わせるだろうということは。それなのにわたしは三年前、シャンティ様をお助けできなかった。シャンティ様の身に起きていたことにも気づかず、伯爵様に館から追い出されるのを止めることもできず、長いこと、シャンティ様が本当に池でお亡くなりになったのだと信じていました」
「エマのせいではないわ」
「わたしにしか、シャンティ様を救うことができなかったのですよ。シャンティ様に起こった不幸は、ディルク・アベラール様の婚約破棄などのせいではございません。ベアトリス様からシャンティ様をお守りするのは、わたしの役目でした。それこそが、十三年前の罪の償いのはずだった……それなのに」
「だれもあなたを責めたりしない。きっとわたしの母もすべてわかっている」
自分を責め続けて生きてきたエマの苦悩。
偽りの手紙を書かされ、館を追い出された母コルネリアの口惜しさ。
そして、突然母親を失った幼いころのアベルの哀しみと、嵐の日から壊された日常。
アベルは胸が苦しくなった。
「どうか――どうか、わたしを罰して下さいまし。ただ、シャンティ様。そのまえにどうしてもお聞きしたいことがあるのですが、お許しくださいますか」
「もちろんよ」
「シャンティ様が館を追い出されてからのことは、ジュスト様からうかがいました。ベルリオーズ家の方々には、感謝してもしきれません。けれど、またもベアトリス様はシャンティ様を見つけ出し、呼び戻したと……。デュノア邸に向う途中に行方不明になったとうかがいましたが、いったいなにが?」
エマの瞳には不安と恐れが宿っている。その様子をまえに、少し迷ったものの、いずれは話さなければならないことだった。
アベルは真実をすべてエマに伝えた。
地下牢に監禁され、殺されかけたと知ったエマは、拳を握って震える。
「……なんてことでしょう。ああ、またわたしはシャンティ様を、お救いできなかったのですね」
「エマがこれだけわたしのことを思っていてくれた、それだけでもう充分よ。エマが感じている罪は、もうとっくに赦されているのだから」
アベルの言葉に、エマは涙を流した。
「シャンティ様はお優しい……コルネリア様と同じように。けれど、だれもわたしを責めないなら、どうやってこの罪を償えばいいのか。シャンティ様が生きておられたことだけが、唯一の救いでございます」
部屋の隅でだれかが動く気配がある。視線を向ければ、トゥーサンが立ち上がり、部屋を出ていこうとするところだった。
咄嗟にアベルはトゥーサンを呼び止めようとして、けれど思いなおしてやめる。
息子である自分の存在のために、母親が取り返しのつかない罪を犯したと、トゥーサンは知ったのだ。同じように、盾にとられてコルネリアを苦しい立場に追い込んだアベルだからこそ、トゥーサンの気持ちは理解できる。
「トゥーサン!」
代わりに呼び止めたのはカミーユだったが、トゥーサンは足を止めずにそのまま部屋を出ていく。追いかけようとするカミーユを、ディルクが腕を掴んで止めたが、カミーユはぱっとその手を払った。
「行かせてよ、トゥーサンはきっと自分を責めてる」
二人が出ていくのを黙って見送るしかなかったエマは、再び顔を伏せた。
「……トゥーサンは、わたしを赦すことはないでしょう。きっとあの子は、自分のためにシャンティ様を犠牲にすることなど、望んでいませんから」
「そんな判断を迫られたら、だれだって命令に従うはずよ。エマ、もう充分だから。自分を責めないで」
たとえ、優しさがエマを追い詰めるとわかっていても、彼女を責めることはできない。
アベルとて神ではないから、複雑な気持ちがまったくないとはいえば嘘になる。けれど、それでもやはり、エマは自分自身を責めることで、充分に罪を償ってきたと思うのだ。
「もういいのよ、エマ。自分で自分を赦せないなら、ひとつだけ気づいてほしいのだけど」
顔を伏せたままのエマにちゃんと伝わるよう、アベルは思いを込めて声を発した。
「わたしはエマがいてくれてよかった。どんな経緯だったとしても、トゥーサンがそばにいてくれて、幸せだった。エマや、トゥーサンや、カミーユや、カトリーヌの愛情があったからこそ、わたしは母親の愛がなくとも充分に幸せだったのよ。ねえ、エマ。心から愛してくれた人たちがいてくれて、わたしは救われた。それだけで、エマには返しきれない恩がわたしにはあるわ。きっと本当の母も、あなたに感謝すると思う」
エマは嗚咽をもらして泣き崩れる。
自らを責め続けるのは、長い、長い苦しみだったに違いない。
その苦しみからエマが解き放たれればいいと、アベルは願った。
「エマ様……」
そばに寄り添い、カトリーヌがハンカチを差し出す。それを受けとりながら、エマは幾度もうなずいた。
すると、ひとしきり話し終えたエマが咳込みはじめる。咳は激しく、かつて三年前にアベルが身体を悪くしたときの様子に似ていた。
「エマ殿は病気なのか」
尋ねるリオネルへ、ジュストが答えた。
「肺を病んでいるそうです。そのために、以前ここで治療を受けていたようで」
話を聞いていたディルクが、エマのほうへ寄る。
「少し休んだほうがいい。ビザンテに世話を頼むから、ここで待っていてくれ」
「いいえ、ディルク様。お世話はわたしが」
名乗り出たのはカトリーヌだ。
「わたしがエマ様のお世話をします」
「あ、そう? じゃあ、アベルの世話は、従来通りリオネルに任せてもいいかな」
確認するディルクをまえに、カトリーヌはやや困惑の面持ちになる。
「……ベルリオーズ公爵家のご嫡男様が、これからもシャンティ様のお世話を? それに、男性でいらっしゃいますし、シャンティ様は女性で……」
ぶつぶつ言うカトリーヌにディルクは笑う。
「わかった、わかった。とりあえずエマ殿の部屋を用意してもらってくるよ」
「では伝えてまいります」
ディルクに代わってマチアスが、ビザンテに話をするために部屋を出ていった。
デュノア家の話がひと段落すれば、今度はベルリオーズ家の事情が待っている。
「リオネル様、公爵様がお待ちです。アベルのことはご心配かと存じますが、私がそばにおりますので、今はどうかひとまず館へお戻りください」
無断で館を出てきたリオネルへジュストが言うと、返事は実にあっさりしたものだった。
「すまないが、父上には帰るつもりはないと伝えてほしい」
部屋に残っていたディルク、レオン、ベルトラン、カトリーヌ、そしてアベルの視線がリオネルに集まった。