30
いつもは遠くから聞こえてくる鐘の音が、近くで響いている。
大聖堂の鐘の音で覚醒したものの、アベルは目を閉じたまま、鐘の音に耳を傾けていた。
瞼を透かして、部屋の明るさは感じられる。もう朝……、いや昼ごろだろう。
夜中に悪夢を見て目覚め、リオネルにしっかりと抱き締められてから再び眠りについたアベルは、それから夢も見ずに深い眠りを貪っていたようだ。
まだ熱はあるらしく、身体も顔も熱い。
鐘の音が止むと、アベルはゆっくりと目を開いた。すると、窓際の椅子に腰かけるカミーユとトゥーサン、さらになにやら忙しそうに立ち働くカトリーヌの姿が視界に映る。
まるで時を超え、三年前のデュノア邸での日々に戻ったような気がして、アベルは心が揺さぶられた。
もう二度と取り戻せない時間。
過ぎ去った幸福な時が、ほんの少しだけアベルに会いにきてくれたような……そんな気がした。
しばらくこの幻想に甘えていたいと思った。
「シャンティ様、お目覚めになられましたか」
真っ先に気がついたのはトゥーサンだ。カミーユがはっとアベルのほうを振り返り、駆け寄ってくる。
「姉さん」
傍らにしゃがみ込んだカミーユは、両手でアベルの手を取った。
「おはよう、姉さん。具合はどう?」
「だいぶいいわ。……でも、おはようと言っても、もうお昼でしょう?」
「さっき昼食が終わったところだ。お腹空いたでしょ。姉さんの食事も運んでくるから」
ありがとう、とアベルは弟にほほえみかける。母親が違うとわかっても、カミーユは以前となんら変わることなく、かわいい弟だった。
「お食事はわたしがご用意してまいります」
カトリーヌがカミーユにそう告げて、ぱたぱたと部屋を出ていく。
「お腹は空いてる?」
尋ねてきたカミーユへ、アベルはうなずいた。さほど空腹感はないが、しっかり食べて早く元気になりたい。これからどうなるかわからないのだから、体調くらいは整えておかなければ……。
そういえば、リオネルたちはどうしたのだろう。
「……リオネル様やディルク様は?」
「別の部屋でなにか話しこんでいるよ。呼んでこようか?」
アベルは首を横に振る。
「お話を邪魔したらいけないから」
カミーユは少し視線を伏せて、なにか考えこむような顔つきになった。
「どうかしたの?」
「え、ううん、なんでもないよ」
そう答えたもののカミーユは微妙な面持ちで沈黙している。その弟へ、アベルは語りかけた。
「あなたには三年前から心配ばかりかけて、ごめんね。今回もカミーユがディルク様に知らせてくれたのでしょう?」
「ねえ、姉さん」
カミーユがまっすぐにアベルを見つめた。
「おれもすべて聞いたよ」
「…………」
「おれと姉さんは母親が違う。半分しか血がつながってない。でも、おれは姉さんのことをだれよりも大切に思ってる。いっそ全部血がつながってなかったら、おれが姉さんをお嫁さんにできたのに」
カミーユのかわいい発言に、アベルはそっとほほえむ。
「ありがとう」
「もう、姉さんが辛い目に遭うのを見たくない」
「大丈夫よ、あなたが思うよりずっとわたしは強いから」
「……嘘だ、姉さんは強いけど、でもそうじゃない。辛いのに、辛いって言わない……だからおれは――おれは」
言葉が続かないカミーユの髪を、アベルは優しく撫でた。
「本当にわたしはあなたに心配ばかりかけているのね」
「…………」
「でも、わたしはあなたがいて、トゥーサンやカトリーヌ、リオネル様やディルク様、数えきれないくらいの大切な人たちがいて、心から幸せだと思っているのよ」
納得したようなしておらぬような面持ちで、カミーユは再び沈黙する。そこへ扉をノックする音が聞こえてきた。食事の用意ができたのだろう。
トゥーサンが扉を開けにいけば、予想に反して現れたのは、ディルクとレオン、そしてマチアスだった。
「ディルク」
カミーユが寝台のそばから立ち上がる。
「さっきカトリーヌから目が覚めたって聞いて、会いにきたんだ。ずっとカトリーヌやリオネルに独占されて、アベルと話せなかったからね。二人がいない今がチャンスだ」
そう言いながら、屈託なくディルクが笑った。
「申し訳ありません、こんな格好で」
熱があるので、アベルは寝台に横になったままディルクとレオンに詫びた。
「そのままでいい。気を使われたら、おれたちが会いにこられなくなる」
そばまで来たレオンは、アベルを気遣う様子だ。
「おれもずっとアベルと話せていなかったから、ひと言だけ挨拶にきたのだ」
様々な過去が判明しても、ディルクもレオンも〝アベル〟として――友人として接してくれる。それがアベルにはなにより嬉しい。
「少しアベルと話しても?」
ディルクはカミーユに承諾を求めた。
「もちろんいいよ」
「ありがとう、カミーユ」
ディルクはカミーユへ律儀に礼を述べてから、アベルへ視線を戻した。
「昨日はさ、カトリーヌ、カミーユ、それとリオネルの攻防戦がおもしろかったよ。皆がアベルといっしょの部屋で寝る権利を争って」
寝台の傍らに椅子を引き寄せ、そこへ座りながらディルクは言う。
「おれなんか、入る余地もなかった」
「勝者はリオネルだ。あの二人に勝てるのは、おそらくリオネルしかいないだろうな」
そう説明したのは、ディルクの座る椅子に軽くもたれかかるレオンだ。
「〝あの二人〟って、おれとカトリーヌのことですか」
憮然としてカミーユが尋ねた。
「あ、いや、なんでもない」
レオンは慌ててはぐらかす。皆の関係を見ていると、レオンがとても王子に見えなくなってくるから、なんだかおかしい。
「気分はどう?」
気さくなディルクの淡い茶色の瞳が、こちらをのぞきこんだ。
「おかげさまで、だいぶ良いです」
「まだ熱はあるようだね。咳は少し治まってきたかな?」
「……その、いろいろと本当にご迷惑をおかけしました」
「迷惑? だれもそんなふうに思ってないよ。なあ、レオン?」
ディルクに水を向けられたレオンが、生真面目に答える。
「当然だ。アベルには返しきれない借りがあるが、それがなくとも、アベルのためならどこへでも駆けつける」
なんと言っていいかわからない。
なにも持たない、なんの力もない、裏も表もただひとりの非力な人間であるアベルを、こうして慕い、友人として受け入れてくれる。
「よく頑張ったなあ」
アベルの頭にぽんと手を置き、ディルクがしみじみとつぶやいた。
「一週間ものあいだ、本当によく頑張った」
ディルクは真剣な眼差しだ。
「助けがくるかわからない、いつまで閉じこめられているかわからない地下牢で、本当によく耐えたよ」
思いやりに溢れた言葉に、アベルは胸がじんと熱くなる。
地下牢に閉じこめられていたときの感情は、言葉にならないものだ。
暗く、冷たく、孤独で、果てのない絶望が支配する場所。ただの地下牢ではなく、生家の地下牢で、親と信じていた相手に閉じこめられていたのだから、なおさらのこと。
そんなアベルの気持ちに、こうして思いを馳せてくれる人たちがいることに、アベルは涙があふれそうになった。
さりげなくそばに寄り、寝台の横に膝をついたのはマチアスだ。目線をあわせるようにして控えめに伝えてくれる。
「直接お役に立つことはできませんでしたが、私もディルク様と同じ思いです」
アベルは目を潤ませてうなずいた。
「マチアスさんはカミーユを守り、この場所まで連れてきてくれました。感謝しても、しきれません」
「貴女が無事で本当によかった」
ディルクやマチアスがしみじみと言うとおり、たしかに、アベルがあの地下牢から生還したのは奇跡に近いものだったのかもしれない。カトリーヌが運よくアベルを見つけてくれなければ、寒さと空腹と孤独のなか、三日ともたずに死んでいただろう。
加えて皆の存在と、ベルトランからもらった膝かけ、リオネルへの気持ちがあったから、絶望せずに生き抜くことができた。
「皆様の存在に支えられました。それと、カトリーヌがいてくれたから」
食糧を運んでくれたことだけではなく、一日にたった一度だけでもカトリーヌと話せたことは、アベルの孤独を癒した。
「カトリーヌがいなければ、わたしはきっと死んでいました」
「そうだね、彼女に感謝しなければ。な、リオネル」
振り返ったディルクの視線を辿れば、開かれたままの扉口に、いつのまにかリオネルとベルトランの姿がある。
「そうだね、言葉では言い尽くせないくらい感謝している」
答えたリオネルへ、遠慮がちに告げる声があった。
「……わたしは、侍女として当然のことをしたというだけです」
食事の盆を両手に持ったカトリーヌが、ちょうど廊下に現れる。重そうな盆をベルトランが引き受けようとすれば、
「ありがとうございます。けれどこれくらい運べますので、お気遣いなく」
とカトリーヌは控えめながらも、きっちりと謝絶した。
どうもカトリーヌはアベルの侍女として、リオネルたちの存在を警戒しているようだ。ともすれば、世話焼きのリオネルや、気の利くマチアス、あるいはベルトランに、カトリーヌの仕事をすべて奪われてしまいそうだからかもしれない。
「さあ、お食事が用意できました」
トゥーサンが小卓をアベルの寝台の脇に移動させると、カトリーヌはそこへ盆を置く。
「ありがとう、カトリーヌ」
香りのよいスープと、丸パン、鶉肉の煮込み、そして梨のコンポートが並んでいた。
「梨……」
「シャンティ様、お好きだったでしょう?」
たくさんの人がアベルの好物をきちんと覚えてくれている。またもアベルは胸が熱くなった。
母コルネリアが好きだったという梨。
特別な思いでコンポートを見つめる。
「さあ、召し上がってください」
匙でスープをすくってくれるカトリーヌに、自分で食べられるから大丈夫とアベルは告げる。
「こんなに大勢に囲まれていては食べづらいだろう」
気をつかって部屋を出ようとするレオンを、アベルは呼び止めた。
「あの……もし、ご迷惑でなければ、ここにいていただけませんか?」
レオンが不思議そうに振り返る。
「皆さんといっしょにいると安心するのです。あと少しだけでいいので……」
アベルのような者がレオンたちを引き留めるなど、身の程知らずにも程がある。
けれど。
今だけは、〝友だち〟として甘えることが、許されたら。
ひとりじゃない、たくさんの友人がいる。その思いが、今はボロボロになったアベルの心を支えてくれている。
「もちろん、アベルがいいなら、おれたちはそばにいる」
レオンがなんでもないように言って、ディルクを見やった。彼は立場のことなど、微塵も考えていないようだった。
「そうだろう?」
「当然。頼まれても出ていかないよ」
ディルクの台詞に少し笑ってから、アベルはスープを口に運んだ。優しい味がした。
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ちょうどそのころ、セレイアック大聖堂の門前に、奇妙な組み合わせの二人連れが到着するところだった。若い騎士と年配の婦人は、毛並みのよい馬に二人乗りしている。
デュノア家の乳母エマに出会ったせいで、ジュストは大幅に当初の予定と異なる経路を辿ることになってしまっていた。
早くデュノア邸へ向かわなければ入れ違いになってしまう。
いや、救出が成功しているならば、もはやリオネルもアベルもデュノア邸にはいないだろう。どこかですれ違えばいいが、こうなってくるとその可能性も低い。
どうしたものかと悩みつつ、ジュストはエマを馬から下ろした。
「着いたぞ」
「ありがとうございます、ジュスト様。ここでけっこうですよ、あとはわたしひとりで行きますから」
エマは積もった雪の上をよろよろと歩きはじめる。
愛馬の手綱を引きながら、待てとジュストはエマを呼び止めた。
「馬を繋いでくるから、ここで待っていてくれ。いちおう貴女がなかへ入るまで見届けたい。司祭殿とも一度話をしておこうと思う」
「そうですか」
エマはジュストの言葉に素直に従った。
ジュストが、とある事実に気づいたのは、馬を厩舎に繋いだときのこと。それは、見間違いかと思うほど、驚くべき光景だった。
ジュストは呆然とそれを見つめる。
見覚えのある名馬が並んでいるではないか。
リオネルの愛馬ヴァレールに、ベルトランの愛馬ユリウス、そしてディルクの愛馬シリル。我が目を疑ってから、試しにベルトランのユリウスに手を伸ばしてみれば、馬は警戒した様子で両耳を後ろへ伏せた。これ以上近づけば噛まれるか、蹴られるだろう。
ベルトラン以外にはけっして懐かない、警戒心の強いこの馬は、やはりユリウスだ。
間違いない。
大聖堂にリオネルたちが来ている。
「どうなさいましたか?」
呆然としているジュストへ、エマが不思議そうに尋ねた。
「……もしかしたら、貴女が探している相手は、すぐそこにいるかもしれない」
エマが目を丸くする。
「どういう意味ですか?」
「とにかく行こう。私たちはとんでもなく幸運かもしれない……」
大聖堂へ入るとすぐにジュストは司祭の部屋を訪れた。
+
皆が集まる部屋に来訪者があったのは、アベルがちょうど食事を終えたころのこと。
扉を叩く音があってカトリーヌが対応すれば、司祭のビザンテだった。
「皆様、この部屋に集まっておられたのですね」
ディルクらに向けて一礼してから、ビザンテは不思議そうな面持ちのカトリーヌへ、驚くべきことを告げた。
「ベルリオーズ家にお仕えになる若い騎士様と、先日までここで療養していた女性が、そろって面会したいと訪れています。お通ししてもよろしいでしょうか」
カトリーヌはリオネルのほうを振り返る。リオネルが立ち上がって、ビザンテのいる扉口へ近づいた。
「ベルリオーズ家に使える若い騎士とは?」
「ジュスト・オードラン様と名乗っておられます」
リオネルはベルトランと顔を見合わせる。ディルクはアベルのそばの椅子に腰かけたままビザンテに尋ねた。
「ここで養生していたという女性のほうは?」
「昨年の秋ごろ、体調を崩していたところを街の者たちに助けられ、ここへ連れてこられたものですから、修道院の者たちで世話をしていました。身元はわかりませんが、エマという名の五十歳前後の女性です」
今度はカミーユ、トゥーサン、そしてカトリーヌが顔を見合わせる番だった。
「もしかしたらエマ様……」
口元を押さえたのはカトリーヌで、ほぼ同時に腰を浮かしたのはトゥーサンだ。
なにか事情があると察したらしいビザンテは、ひとつうなずいた。
「お二人をお連れしましょう」
しばらくして扉口に現れたのは、ビザンテの言葉通り、ベルリオーズ家の忠実な家臣であるジュスト・オードランと、そしてアベルやカミーユの乳母であり、トゥーサンの実母であるエマだった。
いつもお読みくださっている読者様
明けましておめでとうございます。
年初から大きな災害が発生し、心を痛める年明けとまりました。
読者の皆さまはご無事でしょうか?被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げると同時に、ご自身とご家族のご無事をお祈りいたします。
この物語を読んでくださっているすべての読者様にとって、今年が素晴らしい一年になりますように。yuuHi