29
あたりは真っ暗で、わずかな光さえなく、目を開けているのかどうかもわからない。
気が狂いそうなほどの闇。
耐えきれず悲鳴を上げそうになる衝動を堪え、手を伸ばした。
――ない。
ない……ない、ない、ない。
ベルトランからもらった膝かけが、ない。
がむしゃらに暗闇のなかを手探りし、ついにアベルの手は柔らかいものに触れる。
「あった……」
胸を締めつけられるような思いで膝かけを手繰り寄せる。けれど。
……なにかが、おかしい。
重い。ひざ掛けが、とても重いのだ。
苦労して手繰り寄せて、けれどその先にあったものに触れた瞬間、アベルは愕然とする。
膝かけではない。
やわらかくて、けれどぬるりと濡れている。人の身体の感触。
漆黒の闇のなか、鉄錆の匂いが漂う。
「シャンティ……」
うめき声がアベルを呼んだ。――この声は。
「……お母様……」
震える手を掴まれる。
「シャンティ、シャンティ……」
アベルは後ずさりしようとする。けれど、後ろは冷たい石の壁。気づけばアベルの手には短剣が握られている。
「あ……」
血まみれの母。
刺したのはアベルなのか。母を刺したのは、この手なのか。
闇の先で、母と信じていた者が笑った気がした。
悪魔の子、と。
「やはりあなたは悪魔の子」
恐怖ではない。
哀しみでもない。
――――狂気だった。
なにかが壊れ、叫び声を上げようとして……。
「はぁ、は……、は……」
アベルは布団から飛び起きた。呼吸は荒く、夜着が汗で身体に張り付いている。
目覚めても夢と同じ、あたりは漆黒の闇。
――ここは、まだ夢の中なのか。
乱れる呼吸が苦しく、けれどそれに気づかぬくらい混乱して、その場から逃れようとする。
どこかから声がしたが、今のアベルには聞こえない。咳き込みながらどこにあるとも知れぬ出口を目指す。
夢の続きが背後の闇から迫ってきて、アベルを捕らえようとしている気がした。
どこでもいい、ただ安心できる場所へ。
突如、進んでいた先がなくなり、がくんと下へ落ちかける。そのとき。
「――アベル」
再び声が響いて、落ちかけたアベルの身体は、強い力で捕えられる。
何が起きたかわからずアベルは悲鳴を上げそうになる。が、耳元で囁く声がした。
「アベル、おれだ」
心地よく響く声。
よく知るこの声は。
「……あ」
ふわりと意識が浮上し、アベルは動きを止めた。
次の瞬間、視界が明るくなる。燭台に火を灯していたのは赤毛の騎士。
焦点を合わせてようやく間近にいる相手を確認する。
寝台の下。落ちかけたアベルを抱きとめ、揺るぎない眼差しをこちらへ注いでいたのは、よく知る青年だった。
「リオネル様……」
長い指に頬をぬぐわれる。
自分は泣いていたのだと知った。
「ここはセレイアック大聖堂の一室で、ベルトランもいる。別の部屋には、ディルクやカミーユたちもいるし、なにも心配しなくていい」
「膝かけ……」
「え?」
「ベルトランから、もらった膝かけが……ないんです」
アベルの探しているものを理解したリオネルが、すまなそうに説明した。
「あれは洗ってもらっているんだ。明日、暖炉のまえで一日乾かしたら使えるはずだよ」
ひざ掛けはなくなっていない。明日になれば、触れることができる。
力が抜けたせいか再び咳き込むと、リオネルがアベルの身体を黙って抱きよせ、背中を撫でてくれる。アベルはリオネルの胸にひたいを押しつけた。
リオネルの鼓動がすぐそば。
力強く脈を打つ鼓動を感じていると、徐々に現実感を取り戻していく。
「……夢……」
夢を、見ていた。
アベルはリオネルに身体を預けたまま、自らの両手を見つめる。燭台の薄明かりに浮き上がって見えるほどに青白いその手は、ひどく汚れているようにアベルの目には映った。
「わたし、だれを……」
夢と現実の境界線はあいまいで、記憶が混ざりあう。
この手で傷つけたのは、だれ、
アベルを迎えにきた使者だったか、あるいは母と信じていたあの女性だったか。
「――〝悪魔のような、子〟」
アベルをそう呼んだのは、現実のベアトリスか、あるいは夢のなかのベアトリスか。
背中を撫でていたリオネルの手が離れて、代わりに、アベルが眺めていた手をとる。そっと引き寄せ、リオネルはアベルの指先に柔らかく口づけを落とした。
「アベルの手は綺麗だ」
血にまみれているはずのアベルの冷たい手は、リオネルの口づけによって温度を取り戻す。
――ああ、そうだ。
アベルが刺したのは、ベアトリスではない。
憎まれ、悪魔の子と罵られようとも、たとえ殺されかけようとも、やはりベアトリスは十六年間アベルが母として愛した人。そして、まぎれもなくカミーユの実の母。
「怖い夢を見たのか」
アベルはうなずいた。
暖炉の火は消えていて室内は寒いが、リオネルの腕のなかは暖かい。
「……わたしはデュノア邸の地下牢にいて、ベルトランからもらった膝かけがなくて……探して、探して、ようやく見つけたら……」
ひとりで取り残されるには、あまりにも辛い夢の残像。
血に濡れた手。
気がつけばアベルは短剣を握っていて……目前にいたのは、母と信じていた人だった。
その女性は、アベルを悪魔の子だと笑った。
「アベルが悪魔であるわけがない」
リオネルのきっぱりとした声が、夢の残像を断ち切る。
「アベルはもっとずっと明るい光が差すところにいる」
明るい光がさすところ。
暗い夢と、リオネルの光が、混ざり合っていく。
「……知って、いるのでしょう?」
なにを、とは、リオネルは聞き返さなかった。
少し考え込むような顔をしてから、リオネルは不意に口を開く。
「おれは、アベルの実の母君に会ったことがあるみたいなんだ」
信じられぬ言葉に、アベルは顔を上げた。
すべて分かっていて、リオネルは〝実の母親〟と言った。それも、彼はその女性に会ったことがあるなんて。
「本当だよ。でも、残念なことに記憶があいまいだ。父の話をオリヴィエ経由で聞くまで、忘れていたくらいだから。けれど、少しだけ思い出したことがある」
リオネルを見つめると、優しい表情が返ってくる。
「彼女は梨が好きだった」
「梨……」
「アベルも好きだろう?」
好きだ。一番好きな果物。
「ベルリオーズ邸の果樹園に母と三人で行ったことを、本当にかすかな記憶だけど、思い出したんだ。果樹園でいっしょに梨を取った」
「果樹園……」
果樹園といえば、かつてサミュエルと共に行く約束をした場所であり、また、リオネルと出会ったばかりのころ訪れたのも王都別邸の果樹園だった。
「彼女はどこか思いつめたような、それでいて寂しげな……そんな顔をしていたような気がする」
「本当に……会ったことが」
「ああ、ずっと昔にね」
アベル自身でさえ覚えていないのに、リオネルが知っているということが、不思議で仕方がなかった。
思いつめ、寂しげだったという母。
彼女は、そのときなにを考え、どんな気持ちだったのか。
「……どんな人でしたか?」
「印象としてしか残っていないけれど、儚げな雰囲気なのに、芯の強そうな女性だった気がする。ごめん、〝気がする〟ばかりで」
アベルは首を横に振った。
リオネルの言葉を頼りに、アベルは実の母親の姿を思い浮かべる。
「……母は、なにか言っていましたか?」
「なにか話をしたかもしれない。けれど、思い出せない」
真夜中の大聖堂は静かで、雪が舞い落ちる音さえ聞こえてきそうだった。
ベルトランが影のごとく二人の様子を見守っている。
「おれの母親となにか話していたようだった、内容まではもちろんわからないけれど」
アベルの母とリオネルの母であるベルリオーズ公爵夫人が、いったいなにを話していたのだろう。リオネルは、わからないと言いつつ、なにか気づいているようにも見えた。
「そう、大事なことを伝えていなかったね。きみの母君の名はコルネリアだ」
「コルネリア……」
知らぬはずの名。
けれど、その名をつぶやけば、不思議と胸に込み上げてくる感情がある。自分はずっと昔からその名を知っていたような気がした。
セレイアックに向かう途中、リオネルは自らが見た夢の話をアベルに語ってくれた。優しげな女性がアベルを抱いていたと。
アベルは愛されていたのだと。
――コルネリア。
母の名をもう一度つぶやけば、心が震えた。
自分を愛していてくれた、実の母がいる。
その人はベルリオーズ邸を出てから、身重の身体でどこへ向かったのだろう。彼女と、腹の子が辿った運命を思えば、アベルは苦しくなった。
アベルの気持ちを汲み取ったように、リオネルが言う。
「アベルの母君も、そのお腹にいた子も、きっとどこかで元気に暮らしているよ。落ちついたら探しにいこう」
「……探しに?」
アベルは目を丸くした。
「ああ、彼女はとてもアベルに似ていたような気がするんだ。きっと会えばすぐにわかるから」
「……似ていたとしても、年月が経っていますし……」
「おれが会ったとき、彼女は若いようだった。二十歳前後だったとして、あれから十三年経ったから三十代半ばというところかな」
リオネルが柔らかい眼差しでアベルを見下ろしている。彼の深い紫色の瞳には、幾分か落ち着きを取り戻したアベルの姿が映り込んでいた。
「だから、早く元気になろう。母君を探しにいけるように」
膝裏にリオネルの腕がまわったかと思えば、ふわりと景色が反転している。
「まだ熱がある。寝台で休んでいなければ」
お姫様のように抱き上げられ、丁寧に横たわらされたのはリオネルの寝台だ。
「汗をかいたみたいだから、アベルの寝台はシーツをとり替えよう。ベルトラン、着替えも頼む」
着替え……ベルトランが、アベルの着替えを用意するのだろうか。
「……カトリーヌは?」
「頼んで今夜は交代してもらったんだ。しばらく彼女がアベルの身の回りの世話をしてくれていたから、今夜はおれがそばにいさせてほしいと」
そういうことか、と納得しかけてからふと疑問に思う。
「……カトリーヌは、すぐに承諾しましたか?」
「いや、反対された」
リオネルが軽く苦笑する。
「アベルを他の人に任せるのは心配だし、やはり女性が世話をするべきで、ましてや公爵家の跡取りにやらせるわけにはいかないと言われたよ」
真面目なカトリーヌのことだ。そう考えるのは、容易に想像できる。
「なんだか申しわけない気がしたけれど、今夜は譲らなかった」
寝台の傍らに膝をつくリオネルをアベルは視線で追った。
「そばにいたかったんだ」
リオネルの言葉に心臓が小さく跳ねる。それから、じんわりと沁みるように、胸の奥が温かくなった。
少しばかりうつむいてアベルも告げる。
「……リオネル様がいてくださって、よかったです」
むろんカトリーヌには感謝してもしきれない。
けれど、出口のない悪夢からアベルを救ったのは、リオネルの力強い腕。
暗闇に差し込むひと筋の光。
目覚めたとき、リオネルがこの世界にいてくれてよかった。
「本当に?」
アベルは小さくうなずきを返す。頭を撫でてくれるリオネルの手の温もりが心地よく、瞼が重くなる。
けれど眠りたくない。
眠ればリオネルと離れてしまうから。
悪夢はもう見たくない。
不安に押しつぶされそうになる。リオネルが空いているほうの手でアベルのひたいに触れた。
「大丈夫だよ」
リオネルの瞳が細められる。
「アベルが望むかぎり、おれはそばにいるから」
……望むかぎりそばにいてくれる。けれど。
きっと、ブレーズ家に関わるいわくつきの娘を、クレティアンは館に住まわせることを承諾しないだろう。
リオネルとは、別れなければならない。
不安に押しつぶされそうになる。
アベルの帰る場所は、もうないのだろう。
「話しているときに悪いが」
早く着替えないと風邪をひく、とベルトランが温かそうな夜着を差し出した。
「……ありがとうございます、ベルトラン」
綺麗に畳んである夜着に、アベルは頬を寄せる。夜着の温かさに、胸の奥にある不安を預けた。
目をつむったアベルの髪を、リオネルが軽く触れる仕種で梳く。
「なにも考えないでいいよ、アベル」
安心して眠ればいい、と静かに伝えてくれるリオネルは、出会ったころから変わることのない、どこまでも強く優しい人だった。
泣きたい気持ちになって、アベルは夜着に顔を押しつけるようにして、小さくうなずいた。
セレイアックの冬の夜は、雪と静けさに包まれている。
アベルが眠りにつくのを見届けたリオネルは、横になるまえに、ふと視線を用心棒兼友人へとやった。
「アベルは――」
燭台の灯りを消そうとしていたベルトランが、手を止めて振り返った。
「アベルは、冷たい地下牢に閉じこめられているあいだ、ベルトランからもらった膝かけに救われていたんだね」
ベルトランが視線を寝台の少女へ向ける。
「幾日も真冬の地下牢に閉じこめられていたんだ。精神的におかしくならなかったのが不思議なくらいだ」
リオネルが黙ってうなずくと、ベルトランは言葉を続けた。
「どんな思いでいたか想像すると、こちらが苦しくなる」
「膝かけがあってよかった。ありがとう、ベルトラン」
「もっと早くに助けにいけばよかったと後悔している」
「後悔、どころではないよ」
会話が途切れ、燭台の火を消そうとするベルトランへ、リオネルは再び声をかける。
「イシャスのことなんだけれど」
ベルトランがゆっくりと視線を向ける。ややためらいつつ、リオネルは口を開いた。
「……アベルがベアトリス殿の子ではないとわかったわけだが、やはりイシャスはカミーユ殿に似ている気がする。おれの考え過ぎだろうか」
リオネルの言葉にベルトランは沈黙している。この状況の不可解さを、ベルトランが理解しないわけがない。
ややあってから、ベルトランは言った。
「アベルもカミーユ殿も、デュノア伯爵の子ではある。カミーユ殿とイシャスは血が繋がっている部分もあるから、似ているところがあるのかもしれない」
「おれも一度はそう考えた。けれどイシャスの瞳は、カミーユ殿やフィデール殿の瞳の色と似通う。とすれば、ベアトリス殿の血筋であるわけで、やはり不可解だ」
リオネルもベルトランも口を閉ざして、しばし考え込んだ。
カミーユとフィデールに共通するのは、ブレーズ家の血筋。その二人に似ているとなると……。
「アベルか、あるいはイシャスには、ブレーズ家のだれかの血が流れているということか」
コルネリアの出自は謎だが、もし彼女がブレーズ家に連なる者であったならば事態は複雑だ。
あるいはアベルではなくイシャスだけがブレーズ家の血を受け継いでいるとすれば、父親――つまりアベルを襲った相手が、ブレーズ家に連なる者だったということになる。
リオネルと同様、底知れぬ迷宮にはまりかけたらしいベルトランは、苦い面持ちだ。
「……いくら考えても結論が出ることはない。ならば、可能性を論じるより、今夜は寝るぞ」
強引に話を打ち切られ、リオネルは沈黙していたが、燭台の灯りが吹き消されて部屋は暗くなった。
室内に闇と静寂が落ちると、アベルの熱に浮かされた荒い呼吸の音だけが聞こえる。
闇のなか、低く発せられたリオネルの声が静寂を切り取った。
「――もし、もしもアベルを襲った相手がわかったら、おれは平静でいられるかわからない」
闇のなかからベルトランの沈黙が返ってくる。それからしばらくして、「今は寝ろ」と短く声がした。
「アベルがおまえになにを望んでいるのか、よく考えることだ」
再び降り落ちた静寂のなか、いつかアベルが落ちた家畜小屋の上、大聖堂の尖塔、窓枠の隅、春を待ちわびる花壇に、音もなく粉雪が舞い積もっていく。まるで、眠りにつく人々のための子守歌のように。
いつもお読みくださっている読者様へ
今年最後の更新です。
今年も読者様のあたたかいお言葉や応援に支えられて、投稿を続けることができた一年でした。
一年間、ありがとうございました。
読者様にとってはどのような一年でしたでしょうか?
どうぞお体に気を付けて、良いお年をお迎えください。yuuHi