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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
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28







 疲れた心をアベルが横たえたころ、セレイアックよりはるか東方に位置する王都サン・オーヴァンにも冷たい夜が訪れていた。


「叔父上」


 仕事を終えて自室へ戻るノエルは、呼び止められて振り返る。甥であり、かつては自分の従騎士だった若者が、大回廊からこちらへ歩んでくるところだった。

 背後には、異国人と思しき従者を従えている。長身と、色素の薄い髪と目の色は、北方の出身だろう。


 フィデールは、遠目に見てもカミーユと容姿が似ている。むろん年上であるぶんフィデールのほうが背も高く洗練された印象だが、カミーユもあと数年すれば彼に匹敵する魅力を備えるはずだ。

 けれど、雰囲気はあまり似ていない。

 鋭利で隙のないフィデールに比べ、カミーユは明るく純粋でわかりやすかった。


「お仕事、お疲れ様でございました」

「ああ、ありがとう」


 正式な貴族の跡取りであるフィデールと違って、ノエルは公爵家の次男であるため、王や領主などの主君に仕えるか、あるいはどこかに所属したり役職を得るなどしたりして働かねばならない。むろん修道院に入れば、人ではなく神に仕えることもできる。

 ノエルは騎士になる道を選んだため、今は王家に使える家臣でもあり、シャルム王家近衛隊の副隊長でもあった。


「叔父上に従って、遅くまで近衛の仕事をしていたころを、懐かしく思います」


 歩み寄ってきたフィデールが言う。普段から冷めた印象のフィデールだから、懐かしいと言う口ぶりも淡々としている。

 それでもノエルは、少なくとも今回は、かつての従騎士の言葉を素直に受け止めた。


「たったの一年だったが、懐かしく思ってくれるか」

「ええ、これまでの生活のなかで、最も充実していた一年でしたから」


 そうか、とノエルは真顔でうなずく。ノエルがあまり感情を表に出さないのは、フィデールのように冷めているからではなく、また兄が笑顔の鉄面皮を被っている反動からでもなく、むしろブレーズ家の妾腹の子供であったことが大きく影響している。

 感情を表に出すことは、すなわち我が身の危険を意味したからだ。


 前ブレーズ公爵の死後、ブレーズ邸を出ようとした母クリスティアーヌは、ベアトリスによって呼び戻され、肩身の狭い思いをしながら精神的にも肉体的にも弱って死んでいった。


 母を死へと追いやったベアトリス、そして、妹のやることを黙って容認していた兄のアドルフを、ノエルがどうして恨まずにいられるだろうか。

 けれど、恨みや憎しみを抱いていれば、苦しむことになるのはノエル自身なのだと――そう教えてくれたのは、死に際の母クリスティアーヌだった。


 憎んではならない。けれど赦すのではなく、心を無にしなさいと、母は言った。


 人は感情の生き物だから、赦すことは難しい。

 けれど、心を無にして生きれば、憎まずにすむ。


 そう諭したのは、幼いノエルを救うためだったのだと今なら理解できる。憎しみを抱いていれば、ノエルもまた母クリスティアーヌと同じ運命を辿っていたに違いない。


 心を無にしていたからこそ――真に恨まなかったからこそ、ブレーズ公爵もベアトリスもノエルの存在を黙殺してくれたのだろうと思う。あるいは、物静かで感情を露わにしないノエルなど、いじめ抜く価値もないと判断したのかもしれない。


 ともかく真意は計り知れないが、二人の兄姉はそれぞれのひとり息子を託すくらい、最終的にはノエルを信頼したということになる。


 今ノエルのまえにいるのが、兄のほうの息子フィデールだ。

 教え子として可愛いという気持ちは当然あるが、ベアトリスに似てどこか計りしれぬところがあるので、常に心の隅で警戒心は働く。


 この歳になれば、長年培った無意識の感情抑制は変えることができないものの、心を無にすべきところと、そこまでしなくていいときの判断くらいはできるようになっていた。


「充実していたというが、フィデールは教えることもないくらいはじめから優秀だった」

「そんなことありません。私は叔父上に多くを学びました」


 どこまでが本気かわからないが、フィデールの言葉を疑う理由はない。ノエルは甥の青みがかった灰色の瞳へうなずいた。


「そう言ってもらえてよかった」

「……ところで、私と同じく、あなたの従騎士であるカミーユについては、叔母上からなにか連絡がありましたか?」


 どうもフィデールが切り出したかった本題はこのことのようだ。そう悟ったがノエルはこれまでどおりの表情で答える。


「いや、姉上には伝えていない」

「伝えていない?」


 フィデールにしては珍しく驚く様子で、少しばかり表情を変える。カミーユがデュノア領に戻ることがなにか重大なことに関わってくるのだろうかと、ノエルは内心で不思議に思った。


 伝えなかった理由は単純だ。


「本来、一年目の従騎士が王宮を離れるのは禁じられている。目的は人探しだというし、デュノア邸には立ち寄らない可能性もある。余計な心配をかけないために、手紙は送らなかった」

「……そう、ですか」


 なにやらフィデールは考え込む面持ちだ。


「知らせたほうがいいなら、これから手紙をしたためるが」


 申し出れば、フィデールが笑顔を作った。


「いえ、大丈夫です。必要があれば私から伝えますので」


 男女問わず魅了するだろうそつのない完璧な笑みを、ノエルは静かに見返す。


「もし私がやるべきことがあれば言ってくれ」

「ありがとうございます」


 別れの気配を漂わせてフィデールが淡い色の瞳をこちらへ向ける。


「お疲れのところ、すみませんでした。夜は冷えますので、どうぞ暖かくしてお休みになってください」

「フィデールも」


 当たり障りなく挨拶を交わしてノエルとフィデールは別れた。

 遠ざかっていく気配を感じながら、ノエルは考える。カミーユがデュノア領周辺へ戻ることを、異母姉ベアトリスに伝える必要がどこかにあっただろうか。


 ベアトリスに手紙を書き送って、万が一デュノア伯爵にカミーユが王宮を離れたことが知られたら大事おおごとになる。そのことも懸念してノエルは知らせなかったのだが。


 ふと、今年はじめに会ったカミーユの姉シャンティのことを思い出す。


 デュノア家にまつわる秘密。

 ……話を聞いたわけではないが、ノエルはシャンティの出自について勘付いていた。


 第一子であるシャンティが生まれたときと、第二子であるカミーユが生まれたときでは、出産前の緊迫感も、無事に生まれたときのベアトリスの喜びようも、ブレーズ公爵の祝しようも、まったく違った。

 ようやくできた第一子のときには、不思議なほど淡々としていたが、カミーユのときには華やかな雰囲気が流れていたのだ。それは男女の違いでは片づけられないほどに。


 間近でベアトリスを見てきたからこそわかる。

 そもそも、病弱だったベアトリスが二人も子供を産めるはずがない。

 そして、カミーユはベアトリスに似ているが、先日会ったシャンティは似ているところが見つけられない。


 ――そう、おそらくシャンティは、ベアトリスの子ではない。


 そして、三年前のシャンティの〝死〟。

 ベアトリスが忌まわしく思う相手をどう扱うか、ノエルは自らの母の死をもって知っている。だから、直感した。


 ノエルは自室へ向かいながら考え込む。

 ベアトリスに知らせていないと聞いて、フィデールが表情を動かしたのは、なぜだったのか。


 シャンティはベルリオーズ領へ。

 カミーユはデュノア領へ。

 そして、デュノア領には、あのベアトリスがいる。


 あちらでなにか起きているのだろうか。けれど疑ってみても、なにも情報がないなかでは、考えたところで結論が出るはずもない。

 ノエルは、自らの母の境遇をシャンティに重ね合わせ、その無事を祈った。








 ノエルと別れたフィデールは、傍らを歩む従者エフセイへは視線を向けずに尋ねる。


「叔父上の語ったことに偽りはないか?」

「ノエル様が語ったことは真実でしょう」


 エフセイは人の心を読むことに長けていた。実際のところは、〝気〟や〝気配〟のようなものを読んでいるようだから、相手の考えている内容まではわからないが、こうしてフィデールが尋ねれば、嘘をついていたかどうかくらいはわかる。


 エフセイの回答を聞いて、そうだろうなとフィデールは思った。ノエルがなにか知っているとは考えにくい。

 ノエルが潔白であると判断すると、フィデールは次なる思考へ移った。


 カミーユが王宮を出てデュノア領へ向かったという知らせを、ベアトリスは受けていないということになるが、よほどの事情がないかぎりすでにカミーユは現地に到着しているだろう。

 伝書鳩に届けさせても数日はかかるし、今更フィデールからベアトリスに知らせる必要はあるのか。


 けれど、もしカミーユがあちらでベアトリスに会わないとすれば、ベアトリスはなにも知らぬまま過ごすことになる。単に事実として、カミーユが行っているはずだということだけでも伝えておくほうが懸命かもしれない。

 シャンティのことがある今、丁寧に物事を進めるべきだ。


「部屋へ戻ったら叔母上に手紙をしたためる。明日の早朝には、伝書鳩を飛ばせるように計らっておけ」

「かしこまりました」


 エフセイは一礼してフィデールのそばから離れた。


 この寒く暗い夜にも、あちこちに灯る燭台によって王宮の廊下は充分な明るさに満ちている。ベアトリスに書き送る手紙の内容を考えながら、煌びやかな廊下を歩んでいると、フィデールに声をかける者があった。


「色男が、真冬の夜にひとりきりか?」


 廊下の先へ視線を向ければ、商売女と思しき派手な衣装の娘を連れたジェルヴェーズだ。

 娘は酔っているようで、甘えるようにジェルヴェーズに腕を絡ませていた。


「ジェルヴェーズ殿下。私のほうから気がつかず、大変失礼しました」


 一見ジェルヴェーズは素面しらふに見えるが、目を見ればわかる。顔色には現れていないものの、彼もかなりの酒精分を摂取しているようだ。


「フィデール、そなたは女を抱いたことがあったのだったな」


 酔っ払いを相手にフィデールが困惑の表情になれば、ジェルヴェーズは愉快そうに続けた。


「最初の女はだれだ? あまりに具合がよくて、他の女を抱く気にならなくなったか?」

「だれもそのようなことを申してはおりませんが」


 冷静なフィデールの言葉にも、ジェルヴェーズはなにがおかしいのか、笑い声を上げる。


「私もそんな女に出会いたい。さあ、白状しろ。いったいだれだ。その女の名前を言え、フィデール」

「もう忘れました」

「忘れたなら、そなたも今夜は女を抱け」


 酔って脈絡なく戯言を並べるジェルヴェーズは、腕にまとわりついていた娘をフィデールのほうへ突き飛ばす。

 しかたなく相手を受け止めれば、きゃあと悲鳴を上げながらもフィデールを見上げる娘は、まんざらでもない目つきだ。


「お気遣い感謝いたしますが、今夜はやらなければならないことがありますので」

「これは命令だ、フィデール。父親も堅物、息子も堅物ではブレーズ家の血が途絶えるぞ」

「…………」


 試すような眼差しをこちらへ向けながら、ジェルヴェーズは口端を吊り上げる。


「私は別の娘を見つけてくるゆえ、この女はそなたにやる。好きにしろ」


 そう言ってジェルヴェーズは機嫌よく片手を上げて歩き去っていった。

 残されたのは、見知らぬ商売女だけだ。


 フィデールに身体を寄せてくる娘はまだ若く、白い肌に、朱色の髪、淡い色の瞳はあの一件の少女を思い起こさせる。

 好みであるという以上に、ジェルヴェーズは〝レナーテ〟の面影を求めて選んだのだろうが、フィデールに譲ったのはやはり決定的に違ったからだろう。


 たしかにこの商売女もなかなかのものだが、朝露のひとしずくのように澄んだ〝レナーテ〟に比べれば、なにもかもが見劣りする。今宵、ジェルヴェーズは黒眼黒髪の、彼女とはまったく似通わない娘を選ぶような気がした。


 抱けと命令された娘をしかたなく部屋まで連れていく。

 期待のこもった眼差しを不愉快に思いながら、フィデールは娘に寝台で先に休んでいるように伝えた。そのまま娘をほうっておいて、フィデールは机へ向かい、紙とインクを取り出す。


 ベアトリスに手紙を書き送るまえに、他愛のない事務的な書状を片づけてしまう。

 すると、娘はいつのまにか寝台で寝息を立てていた。あれだけ酔っ払っていたのだから、寝台に横になればすぐに意識を手放すことは端からわかっていた。


 ノックの音が響いてエフセイが入室する。

 主人の広い寝台で眠る小柄な娘を見やって、エフセイは平坦な声で尋ねた。


「この娘は」

「商売女だろう。ジェルヴェーズ殿下より抱くようにと命じられた。私はいいから、もしおまえの趣向に沿うなら、連れていって好きにしてもかまわない」

「……けっこうです」

「ならば邪魔なだけだ。どこか別室に運んでおけ」

「かしこまりました」


 ひょろりと長身のエフセイは、娘を肩に抱きかかえようとする。そこへフィデールは重ねて命じた。


「娘が触れた布団はすべて、新しいものに取り換えておけ」

「かしこまりました」


 エフセイが答えると、ようやくフィデールはベアトリスへの手紙に着手することができた。









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