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ビザンテがアベルの診察をしているあいだ、別室で待つのは、リオネル、ベルトラン、ディルク、レオン、マチアス、カミーユ、それにトゥーサンである。カトリーヌは手伝いのためもあって、治療を受けるアベルに付き添うこととなった。
昨夜から丸一日近くかけて、ようやく目的地へ辿りつくことができた。
これで、休息と充分な食事、それに適切な治療をアベルが受けることができると思えば、ひとますリオネルは安心する。
けれど心のほうはどうだろうか。
身体は癒せても、心に負った傷は容易には癒やせない。
旅のあいだアベルはなにも語らなかったが、再会したときのアベルの泣き声は、まだリオネルの耳に残っている。
アベルは真実を知ったはずだ。ベアトリスが実母ではないということ、そして地下牢に自分を閉じこめ殺そうとしたのは、母と信じていた人だということを。
故郷の地下牢は、凍える寒さだったろう。夜の闇は果てしなかっただろう。終わりの見えぬ日々は恐ろしかっただろう。
真に心が癒えるまでには長い時間を要するはずだ。
今は一刻も早くアベルの身体が癒えることを祈るしかない。
「マチアス殿、カミーユ様をここまで無事に連れてきてくださったこと、誠に感謝いたします」
部屋の一角ではトゥーサンがマチアスに礼を述べている。
「いいえ、私のような者に大切な御主君を預けてくださり、こちらこそお礼申し上げます。トゥーサン殿の案内がなければ、アベル殿を円滑に救い出すことは難しかったでしょうから」
従者同士が律儀に挨拶を交わしあう傍らで、深刻な表情をしていたカミーユも、リオネルへと視線を移した。
「リオネル様」
呼ばれて思考を中断すると、リオネル以外にもベルトランやディルク、レオンまでもがカミーユを振り返る。やや居心地の悪そうな面持ちになったものの、カミーユはすぐに表情を引き締めて頭を下げた。
「姉を助けていただき、ありがとうございました。ディルクや、他の方々にも深く感謝します」
素直に感謝するカミーユへ、リオネルは目を細める。
「おれはカミーユ殿に謝らなければならない。アベルを守ると誓ったのに、あんな目に遭わせてしまった」
「姉をあんな目に遭わせたのは、私の父と母です。貴方のせいではありません」
「行かせなければよかったと後悔している」
「それがどれほど難しいことか、理解しているつもりです。こんな結末にならなければ、わからないこともありました。地下牢に閉じ込めたのは、私の肉親。そこから助け出してくれたのは、アベラール家やベルリオーズ家の人たちです。感謝しています」
リオネルは小さく息を吐きながら、首を横に振った。
「たしかにおれたちはアベルをここへ連れてきたが、地下牢から脱出したのはアベル自身だ」
「姉さんが自分で牢から?」
目を丸くするカミーユへ、リオネルは軽くうなずき返す。
「まだ本人から話を聞いていないのだけれど、どういうわけか、おれたちが行ったときアベルは独房から脱出して地下牢の通路にいた」
カミーユは腑に落ちない様子だ。
「地下牢の通路で再会したということですか?」
「そう」
「姉さんはどうやって独房から……」
「おれたちが到着したときすでに地下牢の入口の鍵は開いていて、そのまま入ることができた。もしかしたら、だれかが先にアベルのもとへ来ていたのかもしれない」
「だれかって……」
「わからないが、鍵を開けることができたということは、アベルを閉じこめた者だろう。地下牢の通路で再会したとき、アベルの手には返り血がついていて、ひどく混乱した様子だった。閉じこめた者とアベルは、おれたちが行く直前に顔を合わせていたのだろうと思う」
カミーユが表情を硬くする。
「じゃあ、姉さんの手についていた血は……」
「まだ犯人が決まったわけではないし、何者が地下牢を訪れ、なにがあったかは憶測の域をえない」
深刻な様子のカミーユへそう告げると、傍らで二人の会話を聞いていたトゥーサンが口を挟んだ。
「リオネル様、気を遣っていただきありがとうございます。けれどカミーユ様には、今ここですべてお伝えしたほうがいいと私は考えています」
皆の視線がトゥーサンへ集まる。
過酷な真実をカミーユに告げるべきか否か、リオネルは迷っていた。が、トゥーサンはカミーユにすべて知らせるつもりのようだった。
振り返ったカミーユへ、トゥーサンは言う。
「貴方にとって辛い事実だと思いますが、シャンティ様にとってはそれ以上のものでしょう。しっかりと真実を受け止めていただきたいのです」
「真実って――」
ひと息にトゥーサンは告げた。
「シャンティ様は、ベアトリス様のお子ではございませんでした」
眉をひそめ、意味がわからないという顔をするカミーユをまえに、トゥーサンは続ける。
「シャンティ様は、伯爵様とローブルグ人女性のあいだのお子だそうです」
「それって、どういうこと」
カミーユが低く尋ねる。
「いったいだれがそんなこと」
「おれから説明したほうがいいかもしれない」
リオネルがいうと、カミーユが振り返った。お願いします、と頭を下げるトゥーサンにうなずき返し、リオネルは口を開く。
「十三年前、アベルの母親がベルリオーズ邸を訪れたんだ」
リオネルは十三年前に起きた出来事、コルネリアがベルリオーズ邸で語ったこと、すべて語って聞かせた。カミーユは大きく目を開いて話に聞き入っていた。
「身代わりの母親が、身重で追い出されたって……姉さんのときと、まったく状況が同じだ」
呆然とカミーユがつぶやく。
「まさか三年前のことも、母上が……」
「そこまでは今のところわからないが」
可能性が否定できないことは、カミーユにも予測できたようだった。
「ちょっと待ってください。その女性が館を追い出されたということは……おれは、母上の実の子?」
「そうだと思う」
カミーユの疑問にリオネルは短く答える。
「おれができたせいで、姉さんの母親は追い出されたってことか」
「事実としてはそうだけど、そこはカミーユが責任を感じるところじゃない」
すかさずディルクが言う。
「アベルに罪がないのと同じように、カミーユにも罪はない」
口をきゅっと引き結んでカミーユはうつむいた。
「まだ信じられないよ。母上は……身体が弱くて寝台に伏せていることが多かったけど、おれたちに優しくしてくれた。でも、そう思っていたのは、おれだけだったのかな。本当は姉さんに対してはそうじゃなかったのかな」
独り言のようにカミーユは整理しきれぬ思いを並べる。
「本当はずっと姉さんのことを憎く思っていたのかな。姉さんとおれが異母姉弟だったなんて……そんなこと……。それに……姉さんの母親や、そのお腹の子はどうなったんだろう」
「ベルリオーズ邸を訪れたあと、アベルの母親がどこへ向かったのかはわからない」
リオネルが説明した。
じっとカミーユは考え込んでいる。状況を整理し、気持ちを落ち着かせるためには、しばらく時間がかかりそうだ。
「なにか食べないか?」
これまで黙って話を聞いていたレオンが、遠慮がちにカミーユに声をかけた。
「色々と考えることはあるが、とりあえずしっかり食事をとらなければ、考える気力も湧いてこない。おれたちがアベルを支えなければならないのだから、診察が終わったときには笑顔で会えるように英気を養っておこう」
レオンのひとことに、カミーユは硬い表情のままうなずいた。
+
司祭ビザンテは、てきぱきとアベルの身体を診ていく。
リオネルらが部屋を出ていったあと、「お久しぶりですね」とだけ言って、あとはなにも聞かず黙々とアベルの診察を続けていた。
熱や脈を確かめたり、呼吸の音を聞いたり、喉を見たり、あとは身体のあちこちを押したりさすったりされ、アベルは大人しくなすがままになっていた。
傍らではカトリーヌが湯や着替えの準備をしている。
籠のなかに畳まれた新しい服は、今着ているのと同様に女性のものだ。
――それにしても。
淡い薔薇色の生地に、白いレースや橙色の小さな花の刺繍が施されているそのドレスを見て、アベルは気後れする。
こんな可憐なドレス、とてもではないが着られそうにない。
「あの……カトリーヌ?」
咳のあいまにアベルが呼びかけると、カトリーヌは作業の手を止めてすぐに駆け寄ってきた。
「どうなさいましたか?」
「……それ、ええと……着替えなんだけど」
「はい、司祭様が事前に用意してくださっていました」
「そう……」
アベルはなにやら薬草をすりつぶしている司祭ビザンテへ視線をやってから、彼には聞こえぬようかすれた声でカトリーヌへ耳打ちした。
できれば男性用の服がいいのだけれど、と。
「男性用!」
カトリーヌが声を上げる。
しっ、とやったが、すでにビザンテはこちらを振り返っていた。言い訳するより先に、そうでしたね、とビザンテがうなずく。
「けれど、今回はカミーユ様がお待ちになっているあいだに、セレイアックの街へ買いにいかれたのです。私はそれをお預かりしていただけなのですよ。弟君が選ばれたのですから、一度袖を通して差し上げたらいかがですか」
「…………」
カミーユが選んでくれたというドレスを見やって、アベルは少しどきりとした。
女性用の服なんて彼にはわからないと思っていたのに、籠のなかに置かれているのは洒落ていて、とても美しいものだ。
「男性として気を張って生きる貴女に、体調を崩している今だけは緊張を解き、女性として周囲に頼ってほしいと、そのような思いが込められているのではないでしょうか」
寝台に横たわったまま、アベルは軽く咳きこむ。カトリーヌが背中をさすってくれた。
「そうですよ、シャンティ様。男装し、〝アベル〟という名で従騎士をしてきたと皆様からうかがいましたが、こんなときくらいは気楽にして、たくさん甘えてください」
皆の優しさが身に沁みる。普通の親子としての絆を得ることはできなかったが、それ以上にアベルは素晴らしい人たちに恵まれた。身に余る幸せだった。
「司祭様、もし診察が終わったのなら、シャンティ様の身体を拭き、お着替えをしたいのですが」
「ええ、そのとおりですね。まずは薬を飲んでからがいいと思うので、早く用意しましょう」
そう言って司祭は、薬草を調合する手を再開させる。この際、可憐なドレスもありがたく袖を通そうとアベルは思った。ただし、もう少し元気になってからだ。
「シャンティ様の具合はどうですか?」
問われると、手を動かしながらビザンテは説明する。
「あとで皆様にもお伝えしますが、栄養失調と疲労、寒さや寝不足のためにひどい風邪を召したというところですね。悪化すれば肺まで侵されることになるので、今が正念場です。薬の服用、栄養のある食事、暖かい場所での充分な休養、あとは精神的な安息がもっとも重要です。今私が申しあげたことを守っていれば、熱は続かないでしょう」
「すぐに下がりそうですか?」
心配そうにカトリーヌが確認する。
「安静にして、肺まで侵されるのを避けることができれば、二、三日のうちには下がると思います」
「咳はどうですか?」
「咳はしばらく残るかもしれません。薬を飲めば少しらくにはなるかと思いますが、熱が下がっても安静は必要です」
「だそうですよ、シャンティ様。お聞きになられていましたか?」
昔からお転婆のシャンティを、カトリーヌは諭す口調になる。耳に痛いような、けれど三年前に戻ったように懐かしいような、そんな思いでアベルは小さく答えた。
「……わかりました」
横になっているアベルの顔や手を拭きはじめるカトリーヌを見やりながら、なんとなく尋ねてみる。
「なにも、聞かないのね……」
「なにも?」
「……デュノア邸を出ていってなにをしていたかとか、なぜ〝アベル〟として生きてきたのかとか、その……お腹の子のことは知っているの?」
少し間を置いてカトリーヌはアベルの瞳を覗き込んだ。
「デュノア邸を追い出されたあとのことは、リオネル様にうかがいました。お腹の子のことは……シャンティ様が館を追い出された日に伯爵様の怒鳴り声でなんとなく……もちろん半信半疑でしたが……」
本当だったんですね、と呟くようにカトリーヌは言う。
「でも、男性と通じていたなんて、そんなこと絶対ないとわたしは知っていますから……なにが起きたかくらい想像できます。男性として生きてきたのはそのせいでしょう?」
さすがはアベルの侍女として最も身近にいただけあって、カトリーヌはアベルのことをよく理解してくれていた。
「あと、お腹の子がどうなったか……聞くのは少し怖いです」
少し怖い。
その気持ちは理解できるような気がした。
赤ん坊がもし死んでいたら哀しいし、かといって生まれていたら、未婚の貴族令嬢としてあるまじきことだし、どうしていいかわからない。そんな気持ちだろう。
「……イシャスという名前で、もう、二歳半になるのよ」
こらえきれぬ咳をしながらも、けれど躊躇いなくアベルは告げた。どう思われようが、アベルのなかでイシャスはすでに大切な家族として――ひとりの人間として、揺るぎない存在だからだ。
カトリーヌが大きく目を見開く。
「イシャス……」
「名前は、リオネル様がつけてくださったの」
余計な情報まで与えると、カトリーヌは我に返った様子でコホンと咳払いした。
「シャンティ様のお子なら、父親がだれであってもわたしは愛おしく思いますよ。聞くまではドキドキしていましたけど、実際に生まれたのだと知ればなんだかとても会いたくなってきました」
「ありがとう、カトリーヌ」
「……それにしても、シャンティ様とリオネル様は随分と仲がいいのですね」
指摘されて、アベルはふわっと顔が熱くなる。もともと熱が高かったのが、さらに上昇したような気がして、さらに咳き込んだ。
「あまり病人の心を乱すものではありませんよ」
いいタイミングで、ビザンテが口を挟んでくれる。カトリーヌはぱっと口元を押さえた。
「薬ができました」
ビザンテが調合してくれた薬酒を、アベルはカトリーヌに助け起こされながら、少しずつ飲み干す。苦いが、薬なのだからしかたがない。
「よく飲めましたね。これで咳が少しよくなりますよ。では、食事を用意しましょう。そのあいだにお着替えをなさってください」
「……ありがとうございました」
カトリーヌとそろって礼を言えば、ビザンテは柔らかい表情でうなずいた。
その後、寝るときに着るのはもったいないからと説明して、着替えはとりあえず変哲のない夜着をカトリーヌに用意しなおしてもらった。
身体を綺麗にし、服を着替え、栄養のある食事をとれば、アベルはリオネルたちの来訪も待たずに、いつのまにか深い眠りに落ちていた。