25
寝台に横たえられると、カトリーヌがすかさずアベルの手をとった。
「シャンティ様、お身体をお拭きいたしましょうか、それともなにか召し上がりますか?なんでも命じてください」
カトリーヌにとって彼女自身はまだデュノア邸の侍女で、アベルはシャンティ・デュノアのままなのだろう。
けれどアベルとしては、三年前にデュノア邸を出たときから令嬢ではないのだし、今更、丁重に扱われるような身分でもない。
どう答えればいいのか判じかねていると、扉が開いて、馬を繋ぎ終えたディルクとレオン、それにトゥーサンが入室した。
外套を脱ぎながらディルクが説明する。
「宿の主に暖かい食事を頼んでおいたよ。すぐに用意できるみたいだから、皆で地下の食堂へ向かおう」
「わたしはシャンティ様のおそばにいます」
カトリーヌはアベルの手を握ったままきっぱりと言う。
ディルクは諭す口調で返した。
「いやさ、きみもひと晩じゅう飲まず食わずで旅していたんだから、ちゃんと食べて休んだほうがいいよ」
「いいえ、シャンティ様がこんな状態なのに、食事なんてできません」
「大丈夫だよ、アベルにはリオネルがついているから。アベルの食事は部屋に運んでもらうよう伝えてあるし」
「では、どなたがシャンティ様にお食事を?」
「だからリオネルが」
カトリーヌはアベルの傍らへ視線を向け、そこに高貴な貴族の青年がいることを確認すると、大きくまばたきして改めて意味が解らないという顔をした。
レオンが不自然に咳払いする。アベルもいっしょになって咳払いしたいような気持ちになった。
「ですが、このお方はベルリオーズ公爵家のご嫡男様で……」
混乱した様子でカトリーヌは尋ねる。貴族も貴族――王家の血を引く大公爵家の嫡男が、ひとりの少女を介抱するなどだれが想像できるだろう。
咳払いの代わりに、アベルは咳込んだ。気まずいからではなく、風邪のせいだと思う。
「そうだよ、リオネルはベルリオーズ家の跡取りだ」
平然と答えるディルクに代わって、トゥーサンが控えめに会話へ加わる。
「カトリーヌ、今はディルク様のおっしゃるとおりにしよう」
「でも……」
「いいから」
トゥーサンに言われ、カトリーヌは気がかりな様子でアベルを振り返りつつも、皆と部屋を後にした。
「アベル、ゆっくり休んで」
そばへ寄り、気づかうように軽く肩に触れてからディルクも部屋を出ていく。
「またあとでな」
遠慮がちに声をかけてくれたレオンも、その後に続いた。
部屋に残されたのはアベルとリオネル、それにベルトランだ。アベルが静かに過ごせるよう、ディルクたちは気を使ってくれたのだ。
ひたいに手を置いて熱を確かめながら、リオネルはアベルの瞳をのぞきこんだ。
「気分はどう?」
「……いいです、とても」
強がったように聞こえたのか、リオネルはなにか言いたげな表情になる。
信じているように見えなかったので、本当です、と付け加えようとしたが、すぐに咳き込む。リオネルが表情を曇らせて、アベルの背を撫でた。
「セレイアックに着いたらちゃんと休めるから。焦らなくていい」
地下牢では、リオネルに抱きしめられた途端に号泣したのだ。身体のことだけではなく、様々な意味で心配をしてくれているのだろう。
「リオネル様、わたしは……」
話しかければ、アベルのかすれた声を聞き逃さずに、リオネルが軽く耳を寄せる。けれど。
「その――」
なにを言おうとしたのか、自分でもわからない。
リオネルを安心させたくて、けれど、言葉はうまくつむぎだせない。
……自分を地下牢に閉じこめたのはおそらくベアトリスで……、地下牢での生活は凍えるように寒く辛く、それでも、心を保つことができたのはリオネルや仲間の存在があったからで……。
ベアトリスが自分の死を確かめにきたときの絶望。
けれど、直後にリオネルと再会できたときの思いは言い表せないくらいのもので。
伝えたいことはたくさんあり――たくさんありすぎて、うまく言葉にならない。
今、自分がリオネルのそばにいることさえ、時折まだ信じられなくなる。
これまでの苦しみや、再会の喜び、未だ逃れきれない不安……それらの気持ちをうまく言葉にできない代わりに、アベルは胸の奥がつかえたようになって、気づけば視界が潤んでいく。
泣くな、とアベルは自分自身を叱咤した。泣いてはだめだ。
「……いいよ、アベル」
リオネルがアベルの頬に触れながら、優しく告げる。
「話したいことがあるなら、いつでも聞く。ゆっくり、ひとつずつ教えてくれればいい。もう二度とアベルの手を離したりはしない。いつだってそばにいるから、アベルの好きなときに話せばいいよ」
それに、とリオネルは続けた。
「泣きたいときは泣いてかまわない。アベルの胸にあるものすべて受け止めるくらいの甲斐性はあるつもりだ」
リオネルの言葉が嬉しくて、温かくて、アベルは目に涙をためたまま小さくうなずく。リオネルはアベルにそっとほほえみ、しっかりと手を握ってくれた。
+++
雪が降り積もる。
尽きることのない雪は、デュノア邸に交錯する愛憎など素知らぬ風情で、館や庭園を白く染め尽くしていた。
昨夜までひとりの少女が閉じこめられていた地下牢は、しんと冷え切っている。
すでに、そこに人の姿はなく、血痕と、蜂蜜酒の入っていた小瓶が転がっているだけだった。
目覚めたとき、ベアトリスは直前まで見ていた忌々しい夢から、すぐには現実へ戻ることができなかった。
「気がついたか?」
夢のなか、コルネリアが静かに笑っていた。
あの、すました完璧なまでの美しさで、コルネリアはオラスの肩にもたれかかり、笑いながらベアトリスを小馬鹿にしたように見据えていた。殺してやりたいと思い、けれど身体が動かず、ベアトリスには成す術がない――。
「……ベアトリス?」
目前にいるのがオラスで、声をかけられているのだと気づくまでに、時間がかかった。
「あ……」
悪夢から現実に引き戻されるにつれて、ベアトリスは自分のいる場所を認識する。
「……オラス様」
ベアトリスは寝台に横たわり、傍らにはデュノア伯爵オラスが立ってこちらを見下ろしていた。
「気分は?」
「わたくしは――」
「姿が見当たらないから、館じゅうを探させた。貴女は地下牢で倒れていたのだ」
ベアトリスは倒れる直前の記憶を瞬時に取りもどして、苦い心地になる。感情は表に出なかったはずだが、ベアトリスの様子をうかがうようにオラスはじっと見つめていた。
「そばにはブレーズ家の騎士も倒れていた」
「……ジムレは無事ですか」
「命はとりとめた」
「そうですか」
忠実な家臣はどうやら死なずにすんだらしいと知る。
「なにがあった?」
「…………」
「あの地下牢でなにをやっていた?」
こうなれば、密かにシャンティを殺すことに完全に失敗したのだと、受け入れざるをえない。
「そなたの騎士ジムレ殿はシャンティを迎えにいき、ここへ戻る途中、馬車と共に行方知れずになったはずだ。それがなぜ、地下牢でそなたと共に倒れていたのだ?」
軽く瞼を伏せ、ベアトリスは勿忘草の刺繍の施された布団を見つめる。
「あの牢からは、小瓶がいくつか見つかった。だが、ジムレ殿の身体には監禁されていた形跡はなかった。では、いったいだれがあの牢で小瓶の中身を口にして、命を繋いでいたのだ?」
ベアトリスは黙って布団の刺繍を見つめ続けた。
すでにオラスのなかで答えが出ていることはわかっている。下手な嘘をつく必要はない。
「……シャンティか」
表情ひとつ、ベアトリスは動かさなかった。
「ベアトリス、そなたは私を欺いたのか」
オラスの声は低い。
けれど静かな表情を崩さぬまま、冷たいほどの眼差しでベアトリスは視線を上げた。
「オラス様には、おできにならないと思ったからです」
「できないとは」
「あの子を殺すことです」
狼狽とも動揺ともつかぬ複雑な色が、ほんのわずかにオラスの表情によぎったように見えた。
「シャンティを殺すと、だれが言った?」
「コルネリアが他の男と通じて産んだ娘など、オラス様はおそばに置きたくはないでしょう? けれど、愛した相手の娘を手にかけることも、おできにならない。ですから、わたくしが代わりに、と思ったのです」
「シャンティが私の子ではないという確証はないはずだ」
オラスの声にかすかな苛立ちが混じる。
「けれど、疑っていらっしゃいます。疑いを抱くことで、オラス様は苦しまれている。そうでしょう? だからこそ、三年前にあの子を館から追い出し、ご自身のなかで死んだものとしたのではありませんか」
――どこか自らの知らぬところで生きていてくれたら、という、オラス自らでさえ認めがたい思いと共に。
ベアトリスが尋ねれば、オラスは顔を背けた。その様子をベアトリスは静かな眼差しで見つめる。
そう、オラスのうちに疑念を植え付けたのは自分だ。
虚実の手紙を書かせてコルネリアを追い出したあと、愛した女に裏切られたと信じ込んで失望したオラスの耳元に、ベアトリスはささやいた。
この館に住まうようになった当初から、彼女が密かに館を抜け出して男に会っているところをしばしば見かけていたと。
コルネリアに書かせた〝不貞〟の手紙があったからこそ、オラスはベアトリスの言葉を一蹴できなかった。おそらくそのころからだろう、オラスが複雑な感情をもってシャンティに接するようになったのは。
コルネリアによく似たシャンティを、このうえなく愛しく感じながらも、不義の子であるかもしれぬという不安から憎くも思っていたに違いない。
たしかにシャンティにはオラスの面影があったのに、それさえ認めきれぬほどの不安をオラスが抱いたのは、おそらくそれほどまでにコルネリアに心を奪われていたからだ。
そして、そのような様子のオラスを見るにつけ、ベアトリスは思い通りにいった喜びより、どれほどオラスがコルネリアに惹かれていたかということを思い知らされた。
できるかぎりシャンティに優しく接したのは、自分を母親と信じ込ませるため。
いずれ陥れるためには信頼関係が必要だった。
昨日、真実を告げたときの、シャンティのあの表情。
信じていた者に裏切られたシャンティの絶望した様子は、実に愉快だった。
殺すことには失敗したが、あの小娘を深く傷つけることができただけでも今回は気が晴れた。見方を変えれば、充分な成果だ。
「……日頃からブレーズ家やそなたには世話になっている。だが勝手なことはするな」
「申しわけございません」
しおらしくベアトリスは視線を下げて謝罪する。
「シャンティはどこへ行った?」
「わかりません。あの娘は、様子を見にいったジムレを刺し、わたしの意識を奪ってどこかへ逃げていきました」
「シャンティがジムレを刺したと?」
「ええ、ジムレの持っていた短剣を奪い、ジムレを刺したあと、それを持ったまま逃げていきました」
オラスは考えこむ顔つきになった。
その顔を見つめていると、オラスは不意に視線をベアトリスへ戻す。
「……今回のことは咎めない。だが、今度勝手なことをしたら許さぬ」
「寛大なご処置、ありがとうございます」
ひたと相手を見つめたままベアトリスが答えると、オラスはややバツが悪そうに視線を逸らして背を向けた。
「ゆっくり休むといい」
オラスはかたい靴音を響かせて部屋を出ていく。その後ろ姿を、ベアトリスは見つめ続けていた。
+
ベアトリスのもとから去ったオラスは、書斎へ向かいながら考え込む。
この館の敷地内に――旧館の地下牢にシャンティが閉じこめられていたとは。
すでに何日もまえに到着し、すぐそばにいたのに、それに気づかずベルリオーズ公爵へ行方知れずだと書状を書き送った自分自身をオラスは滑稽に思った。
今更、シャンティは到着していたなどと公爵に告げられるはずもない。
おそらくベアトリスは、そのままシャンティが地下牢で死ぬのを待つつもりだったのだろう。だが、シャンティは死ななかった。
だれかが食糧を運んでいたのだ。
運んでいたのは、おそらく……。
考え込んでいるところへ、家臣が報告にきた。
「伯爵様、やはりカトリーヌの姿はありません」
「持ち物は?」
「すべて残されています。襲われたような形跡もなく、けれど、手紙なども見つかっていません」
やはり、と思う。
シャンティに食べ物を運んでいたのは、カトリーヌだったのだ。カトリーヌがどれほどシャンティを主として慕っていたかということを思えば、なんら不思議なことではない。
なんらかのきっかけで、カトリーヌは地下牢にシャンティが監禁されていることを知り、助けようとした。
ベアトリスとジムレが訪れたのをきっかけに、シャンティは地下牢を逃げ出し、カトリーヌと共に館を脱出したと考えるのが自然だ。
二人はデュノア邸を出てどこへ向かったのか。
「門番はカトリーヌが出ていくところを確認していないそうですが、館のなかをもう一度探しますか?」
「もういい」
長年デュノア邸に住まっていたシャンティとカトリーヌが密かに逃げ出そうと思えば、いくらでも方法はある。二人がここにいないことは明白だ。
「よろしいのですか?」
「エマも行方知れずだ。カトリーヌはおそらく彼女を探しにいったのだろう」
「……なるほど」
納得したようなしないような面持ちで兵士が引き下がる。
オラスは顎に指を添えて考え込んだ。シャンティとカトリーヌはこの館を出て、いったいどこへ向かったのか。他に頼る場所も行く当てもなければ、ベルリオーズ邸へ向かった可能性は高い。
とすれば、どうするべきか。
オラスが指示したことではないとはいえ、地下牢に何日も閉じこめられ、殺されかけたのだ。探し出して連れ戻そうとすれば、二人は抵抗するだろう。
かといって放っておいて、シャンティが自らの身に起こったことをベルリオーズ邸で語れば、デュノア家としてはまずい。
だが、今回のことが大きな騒ぎになることはないだろうとも、オラスは確信していた。
こちらにはベアトリスがいる。ベルリオーズ家も慎重に行動するだろうし、いくら正統な王家の血筋を引く大公爵家といっても、現王家とは敵対関係にある。むしろ現王家は、ブレーズ家とのつながりのほうが深い。
ベルリオーズ公爵やリオネルが国王に訴えたところで、ブレーズ家に――ひいてはデュノア家に不利な状況にはならないはずだった。
「出掛ける。出立の準備をしろ」
「ご出立ですか? どこへ」
「領内の視察だ」
兵士が目を丸くするのを見やって、オラスは溜息をつきたくなる。
しばらくこの館から離れ、ベアトリスとも距離をおいて、ひとりになりたかった。あるいは、どこかで逃げ隠れているシャンティとカトリーヌを探し出せるような、そんな気がした。
けれど本当に探し出したとしたら、いったいどうすればいいのか。
なにより理解できないのは自分自身の心だ。
ベアトリスが言うように、自分はシャンティを殺したかったのだろうか。
三年前、激した感情にまかせてシャンティを館から追い出したのは、いずれ我が手でコルネリアの娘を殺す日がくることを、密かに恐れていたからかもしれない。
自分を裏切った母娘。
心を許していたからこそ、コルネリアの裏切りを赦せなかった。
愛しているからこそ、近くに在るシャンティの存在が苦しかった。
オラスは早く娘がアベラール家へ嫁いで自分の目の届かぬ場所へ行くことを望んだ。そうしなければ、いずれ自らの手で、かけがえのないものを壊す日がくるだろうと感じていたからだ。
けれどシャンティは母親と同じ過ちを犯した。オラスの知らぬところで男と通じ、子を宿したのだ。怒りと絶望で身体じゅうの血が沸騰する思いだった。
けれど、自らの手で殺すよりは、館から追放する道をオラスは選んだ。
この手であの娘を殺すことはできなかった。
追放したことは後悔していない。認めがたい感情のなかには、生きていてほしいという願いが潜んでいた。
ベルリオーズ家からこの館に連れ戻してどうするつもりだったのか、自分でもわからない。けれど、地下牢で殺されかけていたと知れば、納得できない感情が残る。
自らのうちに潜むシャンティへの愛憎に、オラスは戸惑うのだった。