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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
460/513

23








 その後のことも、すべて夢のなかの出来事のように、アベルには感じられた。


 リオネルの腕のなかで、半ば覚醒し……半ば意識を失い、いつからかディルクとトゥーサンの声がそばで聞こえてきて、淡々となにかアベルの把握できないところで彼らは行動し、さらにレオンや、慌てたようなカトリーヌの声まで聞こえてきた。


「熱が高い……」

「……シャンティ様の手や服にも血が……」

「……いや、怪我はないようだ……」

「……いったいだれの血……」

「……どうやって地下牢から……」

「……それよりも早くここから……」


 様々な人の声が入り乱れて、アベルは不思議に思う。

 リオネルの腕に抱かれ、大好きな人たちの声に囲まれて、安心しきっている自分がいた。


 きっとこれは夢だ。目覚めたら、自分はまだあの暗い地下牢にひとり閉じこめられているに違いない。

 ――それでも。


 今だけは、この幸福な夢に漂っていたかった。






+++






 思いも寄らないことが起きた夜。

 カトリーヌは不安な気持ちでトゥーサンらに従って歩いていた。


 夜中に眠っていたら突然トゥーサンと、シャンティの元婚約者であるディルク・アベラールが現れ、シャンティを救い出すからいっしょに来るようにと言われたのだ。

 わけもわからずついていけば、二重扉の向こうで、見知らぬ貴族の青年がシャンティを抱きかかえていた。


 それからカトリーヌは二重扉の奥――つまり秘密の地下通路へと誘導され、トゥーサンやディルク、それから熱の高いシャンティ、それに見知らぬ若者らと共に、今はもうひとつの出口へと向かっている。

 二重扉があることは知っていたが、その先がこのような地下通路になっているとは、カトリーヌも知らなかった。


 先を歩む青年が抱きかかえている主人を何度も見やっては、カトリーヌは不安の溜息をこぼす。


「……シャンティ様は、大丈夫でしょうか」


 今となっては、連れ出された理由を理解できる。

 シャンティに食べものを運んで命を助けたカトリーヌを、地下牢に閉じこめた犯人の手から救ってくれたのだろう。


 これから自分がどうなるのかという不安より、今はシャンティのことが心配だ。

 すぐ隣を歩むディルク・アベラールがカトリーヌの不安に答えた。


「怪我はないようだから、すぐに命に関わるようなことはないだろう。どこか暖かい場所で充分な食事と休息をとることが必要だけど」


 ちらとシャンティの元婚約者を見やってカトリーヌは複雑な気分になる。


「……なぜディルク・アベラール様がここへ?」

「シャンティ殿とは友人なんだ。カミーユに頼まれて助けにきた」

「ご友人?」


 意味がわからない。

 婚約を破棄した相手と、急に友情を結んだというのだろうか。一度も会っていないのに……。


「デュノア邸を追い出されて路頭に迷っていたシャンティを救ったのは、そこにいるおれの親友だ」


 シャンティを抱きかかえる、すらりと背の高い青年の後姿を見やって、カトリーヌは眉をひそめる。


「親友というと……」

「リオネル・ベルリオーズだよ」


 カトリーヌはその名を頭のなかで繰り返してから、その人がだれだったかを思い出して眩暈を覚える。

 三年前にシャンティを救ったのが、あの大貴族ベルリオーズ家の嫡男とは――現実のことなのだろうか。


 ベルリオーズ家というだけでも近寄りがたいというのに、リオネル・ベルリオーズといえば、前国王の血筋を引くのだから、カトリーヌのような下級貴族にとっては雲の上の存在だ。


「三年前にリオネルに助けられたとき、シャンティはすでに男として〝アベル〟と名乗っていた。だからおれもずっと元婚約者とは知らずに、アベルといっしょに過ごしてきたけど、最近きっかけがあってシャンティとわかったんだ。今では、元婚約者としてと同様に、かけがえのない仲間だと思っている」


 情報を整理するためには少し時間が必要だった。なにか想像を絶することが、この三年間にカトリーヌの知らないところで起きていたようだ。


 これまでの経緯を想像すると気が遠くなるので、ともかく今は現在の状況を整理することにする。


「あの……、なぜシャンティ様はデュノア邸の地下牢に?」

「おれも詳しくは知らないが、ベルリオーズ家にアベルがいるということがデュノア家に知られ、返還を求められたらしい」

「地下牢に閉じこめるために、伯爵様は返還を求めたということですか?」

「まあ、これまでの経緯を振り返れば、そういうことなんだろうな」

「そこまでして、伯爵様はシャンティ様を……。ご自身の子供だというのに」


 ディルクが押し黙ると、前方を歩いていたリオネルがわずかに振り返り、短く告げた。


「伯爵はアベルの父君だが、ベアトリス殿はアベルの本当の母君ではないらしい」

「え――」

「アベルは、伯爵と恋仲にあったローブルグ人女性とのあいだの子だそうだ」

「ローブルグ人女性……?」

「子供が生まれぬベアトリス殿のために、館に密かに住まわされていたという話だ」


 リオネルの説明を聞いて、カトリーヌはくらりとした。


「シャンティ様が、ベアトリス様のお子ではない……」

「それは本当の話ですか」


 先頭を歩んでいたトゥーサンが、リオネルを振り返る。普段は冷静な彼の表情に、少なからぬ動揺が見て取れた。


「トゥーサン殿も知らなかったか」

「……まったく」

「アベルの母親はベアトリス殿に陥れられ、腹の子供と共に館を追い出されている」

「もしかして三年前にシャンティ様が追い出されたのも、ベアトリス様が……」


 思わずカトリーヌはつぶやく。


「わからない。けれど……」


 続く言葉をリオネルは発しなかったが、〝けれど〟の先には〝その可能性は否定できない〟という台詞が続くような気がした。


「そして、アベルの母親や、そのお腹にいた子がどうなったかも、おれにはわからない」


 リオネル・ベルリオーズと話をすることに緊張しながらも、カトリーヌはなんとか勇気を振り絞って尋ねた。


「シャンティ様は、ご自身の出自のことを?」

「知らないようだったが」


 リオネルが言葉を濁した意味を、カトリーヌだけではなく皆が理解しただろう。

 もしかしたら今回のことでシャンティが真実を知った可能性がある、ということだ。


 シャンティは意識があるのかないのか、リオネルに抱きかかえられて、時折咳き込みながら浅い呼吸を繰り返している。身体が辛いようだった。あるいは心も……。


「カミーユ様は、ベアトリス様のお子なのでしょうか」


 硬い声音で尋ねたのはトゥーサンだ。


「おそらく」


 カトリーヌはリオネルの返答に安堵したが、トゥーサンはなおさらだっただろう。


 たしかに容姿からしても、カミーユはベアトリスによく似ているが、金色の髪以外シャンティは似ているところが見つけられない。金色の髪にしても、銀糸に近いアベルの金髪と、ところどころ茶色がかったベアトリスやカミーユの暗めの金髪とは系統が異なる。


「リオネル様は、どこでその話を?」


 トゥーサンに問われると、リオネルはややあってから低い調子で説明した。


「十数年前、我が父のもとへ、アベルの実の母親が訪ねてきたらしい」

「ベルリオーズ公爵のもとへ? いったいなぜ」

「彼女は父上に、デュノア邸からベアトリス殿を追い出してほしいと懇願したそうだ」

「…………」

「父はできないと答えたそうだが、今から思えば、彼女の真の目的はアベルを守ることだったのではないかと思う」

「ということは、今回のことは、シャンティ様の存在を疎んだベアトリス様が――」


 思い至る様子のトゥーサンは苦い口調だ。


「可能性は高いと思う」


 シャンティの気持ちを思えば、カトリーヌは胸が痛んだ。

 母と信じていた相手に、冷たい地下牢へ閉じ込められ死へと追い詰められたのだから。真実を知れば、傷つかぬはずない。


 リオネルとトゥーサンの話を聞き、あれこれ考えながら地下通路を歩いていたカトリーヌは、ふと疑問を抱いた。


「あの……」


 おずおずとディルクへ視線を向けると、柔らかい茶色の目がこちらを向く。


「なに?」

「失礼ながら、リオネル・ベルリオーズ様の隣にいらっしゃるのは……」


 先程からほとんど言葉を発しないが、カトリーヌの知らぬ若者が二人、一行のなかにいる。こんな深刻な事情を聞かせてよいのかと、カトリーヌは気がかりだった。


「ああ、あれはベルトラン・ルブロー。ルブロー伯爵家の三男で、リオネルの無敵の用心棒だよ。信頼できる男だから安心して」


 ディルクが説明する。どうも高貴な者ばかりに囲まれているようだと知って、カトリーヌは気後れした。聞くのも怖い気がしたが、続けておそるおそる口を開く。


「ではディルク様のお隣を歩まれているのは?」

「ああ、こいつ? シャルム第二王子のレオン殿下。みんなアベルの友人だ――って、おい」


 ……王子殿下!

 カトリーヌは眩暈を覚えて、ふらりとした。


「大丈夫か」

「……す、すみません」


 ディルクに腕を支えられて、カトリーヌは踏みとどまる。


「驚いた?」

「……はい」

「でもシャルムの王子って言ったって、けっこう普通だろう? ほら、どこにでもいそうな、平凡な顔だ」


 なんと答えていいかわからないでいると、レオンがディルクの脛を蹴った。


「いってえ!」

「平凡な顔つきの、普通の人間で悪かったな」

「状況を考えろ、暴力王子! こんなときに人の足を蹴るか?」

「マチアスがいないと、こいつの暴走を止める者がいなくて困る」


 どうも仲が良いのか悪いのか判じかねる二人は、この状況で賑やかに言い合いをはじめる。カトリーヌは意識して思考を元に戻した。


「それで……カミーユ様はどちらにいらっしゃるのですか?」


 トゥーサンがいるのに、カミーユがいないというのはおかしい。


「体調を考慮して、カミーユ様にはマチアス殿と先にセレイアックへ向かっていただいている」


 答えたのはトゥーサンだが、思わずカトリーヌは聞き返した。


「セレイアック?」

「私たちはこれからセレイアックに向かうところだ」


 長年過ごしたデュノア領を出て、アベラール領の最大都市へ向かうのだと知ったカトリーヌは、再び気が遠くなるような気がした。






+++






 …………。


 疲れ果てた心が、眠ることも、覚醒することも拒否する。


 規則的に揺られる感覚に身をゆだねながら、アベルはただリオネルの体温を感じていた。


 地下牢でリオネルと再会してから、一度も眠ってはいない。

 意識は朦朧としていたけれど、皆が話していることはすべて聞こえていた。

 自分はベアトリスの子ではないのだと、あらためて知る。


 父オラスと、ローブルグ人の女性とのあいだに生まれた子供。

 カミーユとは異母兄弟で、もし生きていれば、この世界のどこかに実の母と、父母を同じくする妹か弟がいる。


 本当なのだろうか。


 ……気が遠くなるような話も、朦朧とした意識のうちに聞けば、なんだか他人事のような気がした。思考はぼんやりと流れるままに、すべての神経はリオネルと触れているところだけに集中させる。


 リオネルの体温だけが、アベルをこの世界に繋ぎとめていた。


「平気?」


 アベルの意識があることに気づいているのか、時折リオネルが聞いてくる。そのたびに、アベルは小さくうなずき返した。


 自分のために、こんなに大勢の人を巻き込み、迷惑をかけているという意識はある。

 せめて自分の足で歩きたいと思ったが、咳のために呼吸することさえ辛く、あるいは熱のためか身体は思いどおりに動かず、アベルはリオネルにぐったり身体を預けているしかない。


 そして、今はそうしていることが皆にとってもいいのだろうという気もした。

 下手に動きまわって迷惑をかけたくない。


 咳きこむたびに、リオネルが背中をさすってくれた。


 地下の抜け道から地上へ出ると、しばらく一同はそのまま雪のなかを歩み、途中で繋いであった馬に跨る。カトリーヌはトゥーサンが乗せていくようだ。

 アベルはむろん、リオネルに抱きかかえられたまま。


「少し寒いけど、頑張れる?」


 アベルはうなずいた。

 リオネルの腕のなかにいれば、少しも寒くはない。


「これからセレイアックへ行くよ。カミーユやマチアスがそこで待っている。暖かい部屋で休ませてあげるから、あと少しだけ耐えてくれるか」


 リオネルが馬の腹を軽く蹴り、軽快に駆けだす。


 安心感と、適度な揺れに、アベルは意識を手放しそうになった。

 けれど、リオネルの服を掴む手に力を入れて、アベルは必死に意識を保とうとする。


 眠ってしまえば、目覚めたとき、自分はあの暗い地下牢にまだひとり閉じこめられているのではないかという気がした。

 眠りたくない。

 夢か現実か定かではないこの瞬間に、すがっていたい。


 と、リオネルの声が、触れあっている身体から直接伝わるように響いた。


「昨夜、夢を見たんだ」


 ……夢?


「水色の瞳の優しげな女性が、ほっそりとした腕で小さなかわいい女の子を抱き上げ、歌を口ずさんでいた」

「…………」

「きっとあればローブルグの子守唄だ。女性の腕のなかで幸せそうに目を閉じていたのは、幼いころのアベルだと思う」


 ――わたし……?


「アベルは愛されていたんだよ」


 ――――。


 心が震えて、ぎゅっと目を閉じる。

 込み上げる涙をこらえるために、アベルは顔をリオネルの胸に押しつけた。


「そして今も、たくさんの人がきみを愛している」


 アベルを抱きしめるリオネルの手に力が加わった。


「おれもそのうちのひとりだ」


 泣き声が漏れそうになってアベルは息を詰める。


「泣いていいよ。さっきは我慢させてしまったから」


 リオネルの言葉のひとつひとつが、砕け散った心に優しい雨を降らす。


 そして今、自分のいる場所にはじめて気づかされる。

 自らの過酷な運命を呪うより、こんなにも暖かい場所にいる幸運に感謝しなければ。


 溢れる感情の種類を把握できないまま、アベルはリオネルの胸に顔を押しつけ、声を殺して泣いた。








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