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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
459/513

22








 再び訪れた長い夜。


 今夜は一段と冷えるような気がするのは、熱のせいだろうか。

 咳き込むとなかなか止まらず、浅い呼吸を繰り返して自分自身を落ちつかせる。


 地下牢は凍えるような寒さだ。ここに閉じこめられて、どれくらいが経つのだろう。


 体調が悪化していくのを自覚すれば、ふと、もうリオネルに会えないような気がして焦りにも似た不安を覚える。


 アベルは目を閉じ、不安を振り払うために軽く首を横に振った。

 先のことを考えるのはやめよう。今夜を乗り切ることだけを考えよう。

 一日、一日を生き抜いたら、きっとその先にリオネルとの再会がある……。

 静かに呼吸を繋いで浅い眠りに身を委ねた。


 ふわりと意識が離れていき、気づけばアベルはベルリオーズ邸にいる。夢を見ていることを、意識の隅でアベルは自覚していた。


 夢のなか、すぐそばにはイシャスがいて、新年祭のときにリオネルと選んで買った北方の人形で遊んでいる。夢中になって笑うイシャスの声に、アベルは幸福な気持ちになった。


 けれど、直後に聞き慣れぬ金属音が響いて、意識をわずかに現実のほうへ引き戻される。


 夢と現実のあいだで、アベルはわずかに目を開けた。

 この時間にカトリーヌではないだろう。

 風が入口の扉を揺らしたか、あるいは聞き間違えかもしれない。


 瞼を閉ざし、再び重い眠気に引きずり込まれようとしたとき、やはり牢の入口のほうからなにか物音がした。


 複数の足音。

 それに、松明の油が燃える匂いもする。

 瞼を透かして薄明かり。


 ……夢?


 とても現実のこととは思えず、また起きあがるのも辛いので、アベルは意識だけを気配へ集中させた。


「……こちらです」


 男の声がする。聞き覚えのある声は、ベルリオーズ邸からデュノア邸までアベルを連れてきて、地下牢へ閉じこめたあの使者のものではないか。


 衣擦れの音がした。

 松明が燃える匂いに、かすかに花のような香りが混ざる。その香りにアベルはひとりの女性を思い浮かべた。


 懐かしい香水の匂い。


 お母様……?


 足音は、アベルのいる牢のまえで止まり、鍵を開ける金属音が耳障りなほど鳴り響く。

 香水の匂いが強くなる。

 使者とベアトリスが、二人でここを訪れたのだろうか。確かめたくとも、怖くて瞼を開くことができない。


 二人の存在が怖いのではない。

 この二人がなにをするためにここへ来たのか、知ることが怖かった。


 ――ベアトリスの心が、怖かった。


 硬い長靴の音がアベルのそばで止まる。


「死んでいますか?」


 入口あたりから聞こえる冷ややかな声が、アベルの鼓膜を打った。

 まぎれもなくベアトリスの声。


 ――これは夢だ。

 残酷な悪夢。


 男の手が伸びてきてアベルの腕をとり、手首の脈を確かめる。それから驚くような気配が伝わった。


「生きています」

「――まさか」


 息を呑む空気の直度、ベアトリスはなにかに気づき、数歩進んでそのなにかを拾い上げたようだった。


「空き瓶……」

「だれかが食べ物を運んでいたようですね」


 アベルの心臓は跳ねる。

 カトリーヌが食糧を運んでいたことを勘付かれてはならない。

 なにか誤魔化す方法を、と必死に働かない頭を回転させた。


 どうすればいい……?


 目を開けてしまえば、自分の死を確かめにきたのが他でもない母ベアトリスだという事実が現実のものになってしまう。けれど。


「……持っていたんです」


 考えも定まらぬまま、アベルは目を開くと同時に、かすれた声を発した。

 口について出たのは適当な言い訳だ。適当すぎて、言い訳にもならなかっただろう。


 二人の視線がアベルへと吸い寄せられる。


 母の表情を見るのが怖かった。

 けれど開いた瞳に移りこんだのは、松明を持つ男と、紛れもなく感情に欠けたベアトリスの表情。


 アベルの意識があるのを知ってか、男は左手に持っていた松明を壁に取り付けた。

 両手を自由にしてなにをするつもりなのかは、なんとなくわかる。


「……お母様……」


 すがるような思いで母を呼べば、ベアトリスがそっと笑った。


「シャンティ」


 優しい声だった。

 夢と現実が錯綜する。


 ――これは夢? それとも現実?


 本当のベアトリスはいったいどこにいるのだろう。


「久しぶりですね」

「お母様……」


 アベルは胸が押しつぶされるような心地がした。

 紛れもなく、自分の母親が目のまえにいて、笑いかけてくれている。腕を突っ張り、重たい身体を起こそうとした。


 ゆったりとした歩調でベアトリスがアベルのほうへ歩み寄る。


「ベアトリス様」


 制止するように、硬い声音で使者に名を呼ばれたが、ベアトリスはかまわずアベルのまえまで歩んだ。


「……かわいそうに、シャンティ。こんなに痩せて」


 ひたいに手をやり、熱もあるのね、とつぶやく。


 母の手のぬくもりに、目の奥が熱くなり涙がこみあげた。

 ……信じていいのだろうか。


 いや、信じたい。

 信じていたい。

 自分とカミーユが愛する母を。


 両手をベアトリスへと伸ばすと、軽く抱きしめられる。


「すぐにらくにしてあげますよ、シャンティ」


 優しい声音のあと、ベアトリスはアベルをそっとはがして使者の男を振り返った。


「ジムレ、かわいいシャンティに死を」


 無言で男は腰の長剣に手を伸ばす。冷たい金属音と共に、鋭い刃が壁にかけられた松明の火を反射した。

 夢見心地でアベルはそれを見つめる。


 やはりこれは夢だろうか。

 そうでなければ、心が砕け散ってしまう。

 目のまえでベアトリスが口にした言葉を、現実のものとして受け止められない。


 ジムレと呼ばれた男が剣を振り上げようとしたとき、なにかに思い至ったようにベアトリスが声を発した。


「ああ、そのまえに、生きたまま両目をえぐり抜いてもらいましょうか」


 ジムレがベアトリスを振り返る。


「両目を?」

「あの、ローブルグ女と同じ水色の瞳。――本当に憎らしい」


 心臓が凍てついてゆく。

 ベアトリスはなにを言っているのだろう。

 理解が追いついていかない。


「オラス様をたらしこんだ、あの忌まわしいローブルグ女の娘。おまえが切り刻まれて死んでいけば、少しは気が晴れるというものです」


 躊躇う様子もなく、ジムレがアベルのまえに膝をつき、長剣を鞘に収めて短剣に握り替える。

 アベルの長い金糸の髪を手荒に掴み、上向かせると、短剣の切っ先を右目へと近づけた。


「両目をえぐり出したら、今度は内臓をひとつずつ引きずり出しなさい」


 ――これは夢だ。

 息もつけないほどの悪夢。


 うっすらと開いたままの瞳に映る刃が、現実のものであるはずない。

 嘘だと言ってほしい。

 すべて夢だと。

 いつかは覚める悪夢だと。


 そうして夢から覚めたら、あの人がきっと目のまえでほほえんでいてくれる。

 深い紫色の瞳の、優しいあの人が。


 それだけが、アベルの現実…………。


 すっと脳裏にひらめく衝動があって、アベルは身体が勝手に動くのを感じた。

 気づけばアベルはジムレの手から短剣を奪い取っている。


 隙を突かれて、はっとした相手の腹部に、アベルは躊躇なく短剣を突き立てた。

 うめき声をもらしながらジムレがアベルに掴みかかってきたが、次の瞬間には、アベルは再び引き抜いた短剣でその腕を払っていた。


 痛みと苦しさにうずくまるジムレから、這うようにして逃れて立ち上がると、ベアトリスが一歩後ずさりする。たかが小娘であるアベルが、反撃に出るとは夢にも思わなかったのだろう。


 けれど、アベルが視線を上げてベアトリスを見上げると、想像以上に冷静な声が向けられた。


「悪魔のような娘ですね」


 アベルの手には、ジムレの血に濡れた短剣が握られている。


「虫も殺さぬような顔と細腕で、平気で剣を振るうとは、見上げたものです。わたくしのことも殺すつもりですか?」


 一度も剣など握ったことがないだろうベアトリスは、ひっそりとほほえんだ。

 これがブレーズ家の血筋なのか。

 この状況で少しも動じない、まるで氷のような眼差し。


「わたしは……」


 ……わたしは、あなたの子供ではないのですか。


 そう尋ねようとする喉が焼けついたようで、最後まで言葉が続かない。


 ベアトリスがこちらへ一歩、一歩と近づいてくる。ジムレが刺された腹を押さえながらも、ベアトリスをかばってまえへ出ようとする。が、出血のせいだろう。すぐにジムレは力尽きてその場に倒れ込んだ。


「無理をすると、命を失いますよ、ジムレ」


 淡々とそう忠告してから、ベアトリスは両手を開いてみせた。


「ええ、あなたはわたくしの子ではありません。オラス様と、どこの骨の馬ともわからぬローブルグ女のあいだの忌まわしい子供。あなたを愛したことなど一瞬たりともありませんよ。さあ、わたしを殺しなさい、シャンティ」


 なぜだろう。熱があるとはいえ、武器を持つアベルのほうが今は圧倒的に有利なはずなのに、動くことができない。金縛りに遭ったように動けぬ代わりに、両目から涙があふれて伝った。


 母として愛していたベアトリスに剣を向けたくない。

 これほどまでに憎まれていたとしても、十六年間愛しつづけた相手だった。


「カミーユは……」


 意識せぬうちにぽつりとこぼれた声に、ベアトリスがすっと眼差しを和らげる。


「ええ、カミーユはわたくしの愛しい子ですよ。まぎれもなくわたくしが腹を痛めて産んだ、オラス様とのあいだの子」


 絶望の片隅で、ベアトリスの言葉にアベルは安堵していた。

 カミーユがこの苦しみを味わわずにすむ。

 それだけでも救いがある。


「憎いのはあなただけ。わたしを殺せないなら、あなたが消えてしまいなさい」


 アベルは短剣を握りしめ、先端をベアトリスへ向けた。


「……ずっと、あなたを母として愛していました」

「わたくしはずっとあなたを憎く思っていたのに、幸せな子ですね」

「嵐の日……ユリの花がほしいと言ったのは嘘だったのですか? ……その後に、起きた出来事はすべてあなたの仕組んだこと……?」

「ええ、そうですよ。一番惨めな形で、あなたをオラス様から遠ざけるために」


 平然と告げることのできる唇を持つこの人こそが、きっと本物の悪魔だ。


 けれど、その悪魔はアベルがこれまで愛してきた相手で……そして、カミーユの実母。

 迷いが隙を作る。


 ベアトリスが右手を振り上げ、アベルの頬を打った。

 高い音と同時に鋭い痛みが走った直後、こちらの短剣を掴みにきたベアトリスを、けれどアベルは力いっぱい押し返した。


 その後は反射的に動いたとしか言いようがない。アベルは身体を翻して、ベアトリスの鳩尾を肘で強く突いた。

 目のまえで、ベアトリスの意識が途切れていく。


 崩れ落ちるようにベアトリスは地面に倒れた。


 たいして動いたわけではないのに、苦しいほどに息が切れるのは熱のせいか、あるいは心が憔悴しきっているせいか。


 見渡せば、血まみれのジムレと、意識を失ったベアトリスを、松明の灯りが照らしている。

 喉元までせり上がった吐き気を、アベルは必死に抑え込んだ。

 眩暈がして、叫び出したいような衝動を覚える。

 おかしいくらいにただ涙がこぼれて止まらない。けれど。


 ……行かなくては。


 生きなくては――。

 生きて、リオネルのもとへ戻るのだ。

 暖かいあの場所へ。


 短剣を握り直し、激しく咳こみながらも、アベルは地下牢の扉を出ようとした。

 けれどすぐに思いなおしてジムレのそばまで戻る。拾いあげたのは、ベルトランからもらった膝かけだ。

 水宝玉の首飾りと、ベルトランの膝かけだけが、今はアベルの正気を繋ぎとめてくれている。


 長剣を振るう体力は残されていないので、得物は短剣だけでいい。


 右手に短剣、左手に膝かけを握りしめ、壁に寄りかかるようにしてアベルは地下牢の出口へと向かう。が、扉に近づいたとき、先から人の気配がした。


 それも単独ではなく、複数いるようだ。

 他にもベアトリスの手の者がいたらしい。


 アベルは咳込みそうになるのを堪えて、息を詰める。息を殺そうとしても、緊張のせいか、荒い呼吸になってしまう。

 眩暈は熱のせいだろう。

 先手を打たなければ、相手に気配を気づかれる。

 ここで殺されるわけにはいかない。

 リオネルのもとに帰るのだから。


 松明の灯りはここまで届かないので目視はできないものの、近づく気配との間合いを計り、今だ、と決死の覚悟で彼らのふところへ飛びこみ、短剣を突き出した。


 けれど手ごたえはなく、キン、と高い音を鳴り響かせて短剣は弾き飛ばされる。

 得物を失っては戦えない。それでも負けるわけにはいかない。


 直後にアベルは相手の手元を狙って掴みかかった。そのとき。


「アベル!」


 幻聴のように声が響く。

 アベルは動きを止める。


 と、またたくまに身体を強い力で抱きすくめられた。


「アベル、おれだ」


 再び重い眩暈に襲われる。

 これも、夢の続きなのだろうか?


「手荒なことをしてすまない。アベル、無事か」

「あ……」


 なにかがアベルのなかで込み上げて、そして大きな感情の波となって襲いかかる。


「アベル、わかるか? ベルトランもいる。遅くなってごめん」


 本当に?


「アベル……会えてよかった、アベル」

「―――――」


 ああ、そうだ。


 リオネルの声。

 リオネルの腕の強さ。

 リオネルのぬくもり。


 なにも考えられなくなり、その胸にすがりつく。

 気づけばリオネルの腕のなかで、アベルは泣きじゃくっていた。


 泣いている場合ではないというのに、涙が止まらない。これ以上力を入れられないというほどにリオネルにしがみつく。

 無言で抱きしめ返してくれるリオネルの腕に、アベルは胸が張り裂けそうになった。


 言葉は見つからなかった。

 ただ、哀しくて、苦しくて、でもリオネルの腕のなかだけは温かくて。


 この人がいなかったら、きっと自分は狂っていただろう。

 光を失って、生きていくことさえできなかったはずだ。


 激しい感情の波を止めることができないでいるあいまに、ベルトランの声を聞いた気がした。

 二人がなにか確認しあった雰囲気を感じたあと、アベルはリオネルに軽々と抱き上げられる。そのままリオネルは出口へと歩き出した。


 歩きながら、リオネルは泣きじゃくるアベルの頭に手をそえ、そっと力を入れて自分の胸に押しつける。


「ごめん、アベル」


 泣き声が漏れれば、人に気づかれる心配があるということはすぐに理解できた。アベルは顔をリオネルの胸に押しつけ、呼吸を整えようとする。

 咳こみながら泣くのを堪えるアベルの頭を、そっとリオネルが撫でた。


「大丈夫だよ、アベル。なにも心配いらない」


 小さな声で励ましてくれるリオネルの言葉を聞きながら、アベルは呼吸が落ちついてくるのを感じる。まだ夢を見ているような気がした。

 いつから夢を見ていたのだろう。


 リオネルと別れ、デュノア邸の地下牢に閉じこめられたのも、すべて長い長い悪夢だったのだろうか。

 それとも自分は、まだあの冷たく暗い地下牢にいて、今だけ、束の間の幸福な夢を見ているのかもしれない。


「……リオネル、様?」


 不安になってリオネルに呼びかけると、ささやくように小さく、けれど優しい声が返ってくる。


「アベル」


 その声に安堵して、すうっと息を吸い込んだ。呼吸が深くなっていく。

 徐々に心が落ち着きを取り戻しはじめる。


 目を閉じ、すべての思考を止めて、アベルはリオネルに身を委ねた。











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