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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
458/513

21








 咳きこむ音が静寂に響く。


 ようやく小窓からうっすらと明りが漏れはじめていた。

 硬く冷たい石の地面に横たわり、ベルトランからもらった膝かけをかぶって、アベルは視線だけを小窓へ向ける。

 少しでも牢内が明るくなったことが嬉しかった。

 冬の夜は長い。


 仮眠をとっては身体が冷え切らぬように起きて、また仮眠をとる。その繰り返しのなかで、浅い眠りから目覚めたとき辺りが真の暗闇だと、アベルは言い知れぬ心地になった。

 自分自身の手すらも見ることができず、この世界から〝アベル〟という人間が消えてなくなってしまったような気持ちになるのだ。


 それが、少しでも明りがあり、細く頼りない指先であってもこの目でみとめることができると安心する。

 まだ生きている。

 アベルという人間は生きていて、まだリオネルに会える望みがある。

 そう感じるだけで、アベルはまた一日がんばれるような気がした。


 これまではすんなり起きあがれていたのが、今朝はどうも身体が重い。熱が上がっていることに、遅ればせながら気づいた。


 水宝玉アクアマリンの首飾りを握りしめて、ゆっくり起きあがる。

 大丈夫、と自分自身に言い聞かせる。


 ここからどうやって出るかとか、悪化していく風邪が治るかどうかとか、余計なことは考えないようにする。考えてしまえば、きっとその先には絶望しかないから。

 思い悩むより、今を生き抜くことを考えなければ。

 信じていなければ息さえつけない。


 大丈夫……大丈夫。

 きっとまた会える。

 あの人の腕のなかに戻れる。


 その瞬間のために、今を生き抜くのだ。


 その想いだけが、アベルをこの世界に繋ぎとめていた。






+++






 空からは尽きることなく大粒の雪が降り注ぐ。

 視界を埋め尽くす雪景色も、束の間の光を失い、再び闇に沈もうとしていた。


「くそ、もう暗くなってきた」


 馬を駆けながら舌打ちしたのはディルクだ。

 暗くなってからこの大雪のなかを、さらにカミーユを連れて駆け続けるのは賢明とは言い難い。


 すでにデュノア領に入っている。マイエまではあと少しだというのに。


「近くの街に寄りますか」


 ディルクの心情を察したマチアスが尋ねてきたものの、応えられずにいる。と、カミーユが口元を覆う布越しに言う。


「おれは平気だから、このまま行こうよ」


 馬を駆けながら逡巡したが、結局ディルクは危険を承知で次のように答えるしかなかった。


「もう少し頑張れるか」

「うん、大丈夫」


 馬上の旅に慣れていないカミーユには、過酷なはずだ。そもそも、ディルクたちは今朝出発しているが、カミーユは王都からデュノア邸へ旅を続け、さらにデュノア邸からアベラール邸まで駆けて、もう一度デュノア邸へ戻ろうとしているのだからなおさらのこと。


「いえ、一度休まなければ、お身体を壊します。ディルク様方は先に行かれてください。カミーユ様、我々はあとから追いつきましょう」


 トゥーサンは、カミーユの疲労の程度をはっきりと把握しているので、そう言い諭す。


「でも、おれたちが行かなければ抜け道の出入り口がわからないよ」


 カミーユに指摘されるとトゥーサンは沈黙した。たしかに抜け道の場所は、口頭で伝えたくらいではけっして伝わらないだろうからだ。


「わかった、じゃあ速度を落として移動しよう」


 ディルクの提案にカミーユがうなずきかけたとき、一行のすぐ脇を目にも止まらぬ速さで駆け抜ける二騎があった。

 この雪のなかを、この速さで駆けるとは尋常ではない。


 驚いてディルクが視線をやったとき、ほんの一瞬だけ映りこんだのは見覚えのある赤毛だった。


「ベルトラン!」


 頭で考えるよりも先に、叫んでいる。

 と、二騎はあれほどの速さで駆けていたにも関わらず、すっと馬を止めた。


 この馬術、鮮やかな赤毛、二人の背格好……間違いない。


「リオネル!」


 ディルクは二騎へ馬を寄せた。

 相手が振り返り、外套のフードを軽くずらすと、見慣れた紫色の瞳が、薄闇のなかにのぞく。


「やっぱり」

「ディルク?」


 少なからず驚く相手は、紛うことなくリオネルだ。


「それにレオンも……いったい、どうして」

「そちらこそ」


 リオネルとベルトランは馬を寄せてきて、ディルクのそばにいるレオンやマチアス、それにカミーユとトゥーサンまでいるのをみとめて、なにか察する面持ちになった。


「……デュノア邸か」

「そう、おまえたちもか?」


 尋ねれば、淡々とした口調のなかにも、苦い色を織り交ぜてリオネルは説明する。


「デュノア伯爵から要請があって、アベルはデュノア邸へ向かったが、安否が知れない。探しにいくところだ」

「そういうことだったのか。おれたちも、ちょうどカミーユから話を聞いて助けに行こうとしていたところだよ。アベルは、デュノア邸の地下牢に閉じこめられているらしい」

「地下牢だって?」


 さっとリオネルの表情が変わった。

 カミーユがそばに寄り、リオネルに訴えるように告げる。


「乳母のエマが行方不明になったんです。それでトゥーサンと館に戻ってきたら、姉さんが地下牢に閉じこめられていて――食べ物も明りもない冷たい場所で、姉さんは体調を崩しています。早く行かないと死んじゃう」

「なにも食べていないのか」


 愕然とした様子で尋ねるリオネルへ、カミーユは慌てて付け加える。


「侍女のカトリーヌが、食べ物だけは運んでくれています。でも弱っているみたいで」


 わかったと答えたリオネルは、カミーユと一同を見回して瞬時に決断したようだった。


「カミーユ殿の顔色が少し悪い。カミーユ殿は、マチアスといっしょに近くの街で休んだほういい」

「え――」

「悪いがトゥーサン殿はいっしょにきてほしい。デュノア邸内部に詳しい者が必要だから。離れるのは不安だろうが、今はマチアスに大切なご主人を預けてくれないだろうか」

「わかりました」

「やだよ、いっしょに姉さんを助けに行きたい」


 必死な様子でカミーユは懇願したが、トゥーサンは首を横に振った。


「また先日のように体調を崩したら大変なことです。私たちを信じて、待っていていただけますか」


 カミーユは顔をくしゃくしゃにして、なにかに耐える面持ちだ。けれどそんなカミーユにはかまわずリオネルはディルクへ視線を向ける。


「すまない、ディルク。マチアスにカミーユ殿を頼んでもいいか」

「もちろんかまわないよ。そうだね、落ち合う場所は、セレイアックにしよう。デュノア領内では、伯爵夫妻の影響力が行使できてしまうから」


 セレイアックはアベラール領最大の都市である。


「そうですね、セレイアックまで行けば、アベラール家のお膝元ですから安心です」


 マチアスも賛同する。

 大人たちだけで勝手に話を進められたカミーユは、不満げな表情ながらも、こうするのが最善の道であることは理解しているようだった。そもそもカミーユがいては到着が遅くなってしまうのは明らかだ。


「ディルク、リオネル様……姉さんをよろしくお願いします」


 目に大粒の涙をためて言うカミーユの肩に、ディルクは手を添えた。


「必ず助けるから」


 リオネルが目を細めてカミーユを見やる。


「約束する」


 カミーユは大きくうなずいた。


「さあ、行こう」


 ベルトランが促すと、一行は二手に分かれて駆けだした。






+++






 ふわりと立ち昇る香辛料の香りは、暖かい葡萄酒だ。

 実家から送られてきた希少な香辛料を使ったヴァンショーに口づけ、ベアトリスは吐息こぼした。


 部屋は人払いをさせてある。

 そばにいるのは、信頼のおけるブレーズ家の騎士ジムレだけだ。


 ゆったりとした仕種でグラスを小卓に置きながら、ベアトリスはジムレに語りかける。


「……シャンティを牢に入れてから、一週間が経ちましたね」

「はい」


 かつて御者としてベルリオーズ邸へ赴き、アベルを地下牢へ閉じこめた騎士は今、ブレーズ家令嬢であったベアトリスのまえで恭しくひざまずいている。


「ご命令通り、地下牢へ入れてからは一度も接触しておりません」

「いくら強運の子でも、もう死んでいるでしょう」

「確かめますか」

「ええ、お願いします。息をしていないことを必ず確認するのですよ。念のために心臓をえぐり取っておきなさい。遺体はオラス様の目につかぬよう、少しずつこっそり薪と共に燃やし、証拠をすべて消すのです」

「御意」


 ジムレが立ち去ろうとしたとき、ふとベアトリスは思いついたように声を上げた。


「待ちなさい」

「は」


 再びひざまずく騎士を見下ろし、ベアトリスはなにか考える面持ちになる。


「やはり私の目で確かめます」

「ベアトリス様ご自身で?」


 驚いたように騎士は問い返した。


「あなたを信頼していないというわけではありません。ただ、自分の目で見届けたい気がするのです。あのローブルグ女も生かしたまま追い出したので、目のまえで殺しておけばよかったと幾度後悔したことでしょう。再びオラス様のまえに現れるのではないかと心配するのは、もう懲り懲りですから」

「かしこまりました」

「ヴァンショーを飲んだらいっしょに見にいきましょう」


 散歩にでもいくかのような気軽さで言いながら、ベアトリスは優雅にグラスを傾けた。






+++






 あたりは闇に包まれている。

 降りしきる雪のせいで目前の視界さえ危ういが、かろうじて遠く篝火が点在して見えるのは、デュノア邸の明りだろう。


 あの真下で、アベルは冷たい地下牢に閉じこめられている。

 そう思えば、我知らず握る拳に力が入った。


「こちらです」


 先導するトゥーサンの案内で、リオネルは抜け道の入り口へ足を踏み入れる。続いてベルトラン、ディルク、そしてレオンが地下通路へ入り込んだ。


 土で固められた狭い階段を下りていけば、地面の下は外界より幾分か温かい。

 レオンが身体にまとわりつく寒さを振り払うように、身震いした。


「皆様がたにおかれましては、この場所を知ったことを、明日の朝には忘れてくださいますようお願いいたします」


 デュノア家の領主が、危機に瀕した際に使う秘密の地下通路である。トゥーサンが念を押すのも当然のことだ。


「わかっているよ」


 ディルクが生真面目に答える。


「向こうに着いたら、どういう手筈で救い出すつもりだ?」


 やや遠慮がちに尋ねたのはレオンである。

 視線を向けられて、リオネルは苦みを含んだ口調で言った。


「正直なところ、行ってみないと状況が判断できない」


 地下牢の鍵はデュノア伯爵夫妻しか知らない。となれば、アベルを地下牢から出す方法二通り。直談判して伯爵に鍵を開けさせるか、あるいは鍵を壊して救い出すか。

 けれどこうして正面からではなく、地下通路から忍び込んで救おうとしている時点で、とりあえず前者の方法は考えていない。


「鎚を持ってきて、扉をたたき壊そうか」


 ディルクの提案にレオンがすかさず顔をしかめる。


「真夜中にそのようなことをすれば、さすがに目立つだろう」

「このなかに鍛冶屋はいないし、他に方法が見当たらないけど」

「ベルトランが鍵を開けられる可能性がある」


 リオネルの言葉を聞いて、皆の視線がいっせいにベルトランに集まった。やや居心地の悪い面持ちなりながらもベルトランが口を開く。


「おれは、リオネルを守るための鍛錬ならなんだってやっている。リオネルが万が一幽閉されたときのために、鍵を開ける術も学んだことがある」

「すごいな、さすがだね」


 ディルクが感心する。


「だが、完璧ではない」


 ベルトランは即座に補足した。


「本業ではないから、開けられない鍵も少なからずある。近頃やる機会がなかったから、なおさら確証はない」


 松明を持つトゥーサンを先頭に、リオネルとベルトラン、ディルクとレオンという組みあわせで二列になって歩む。

 ベルトランの話を補う形でリオネルは言った。


「地下牢に閉じこめられているとは思っていなかったから、今回はベルトランの腕だけが頼りだ。鍵が開かなかったときには、ディルクの言うとおり扉を壊すか、あるいはデュノア伯爵に直談判するか、決断を迫られることになる」

「……だから、状況次第と言ったのか」


 レオンがうなった。状況は厳しい。


「切り札はすべて使うつもりだ。最悪の場合、ベルリオーズ家嫡男としての立場だけではなく、正統な王家の血筋とやらを利用してでも、伯爵を説き伏せることも考えていた。……が、思いも寄らずレオンに会った」

「お、おれ?」


 突然名前を出されてレオンが目をまたたかせる。


「いざとなったら、第二王子の権力がなにより効力を発揮するだろう。利用するようで申しわけないけれど、力を貸してもらえないか?」


 あらためてリオネルに頼まれると、レオンはすぐに表情を引き締めた。


「アベルのためならなんでもするつもりだ」

「ありがとう、心強いよ」

「現地へは全員で乗り込む?」


 確認してくるディルクへ、リオネルは首を横に振る。


「いや、地下牢へはおれとベルトランだけで行こうと思っている。レオンはすまないが、とりあえず地下通路の出口付近で待機し、逃げ道を確保しておいてほしい」

「おれとトゥーサン殿は?」


 ディルクが尋ねる。


「……実は、アベルに食べ物を届けてくれているという侍女のことが気になっている。万が一そのことが伯爵夫妻に知られたら、ただではすまされないだろう」

「てことは、その侍女を連れだすってこと?」

「そのほうが賢明だと思っているが、トゥーサン殿の意見も聞きたい」


 先頭を歩むトゥーサンは、リオネルをちらと振り返った。


「カトリーヌのことを案じてくださるのですか」

「アベルを救ってくれた者を、辛い目に遭わせたくない」


 トゥーサンはしばし黙りこみ、まえへ向きなおる。


「……ありがとうございます。ぜひカトリーヌも、シャンティ様といっしょにデュノア邸から連れ出したいと思います」

「彼女の顔を知っているのはトゥーサン殿だけだから、この役目は貴方に頼みたい。けれど、ひとりで行動するのは危険だ。ディルクがついていくのがいいだろう」

「そちらは二人だけで大丈夫か?」


 気がかりげに確認するディルクを、リオネルはちらと見やった。


「おそらく侍女を連れだすのに時間はかからない。安全な場所まで案内したら、ディルクとトゥーサン殿はすぐに地下牢のほうへ移動してくれ」

「了解」


 ディルクが短く答えた直後、トゥーサンが緊張感をまとった声を発した。


「もうすぐ出口です」

「わかった」


 以降、皆は口をつぐんで出口を目指す。石づくりの階段を上り、二重扉まで出ると五人は各々、計画したとおりに動きはじめた。









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