20
太陽が昇りきらぬ時刻。
朝食の時間でも、まだあたりはうす暗い。
連日の政務で疲労気味のディルクは、半ばぼんやりと朝食を口にしていたが、父であるアベラール侯爵やレオンは余裕の風情で話などしていた。
「そういえば昨日の視察はいかがでしたか、レオン殿下」
「ああ、行ってよかった。王都にいてはわからないことに気づかされる」
冷えきった朝に、侯爵とレオンの会話はディルクの耳をすり抜けていくが、ともかくスープが身に沁みる。
「と申されますと?」
「やれシャルムだ、ローブルグだ、ユスターだ、どこからどこが自分たちの領土だと各々の国の統治者は勝手なことを言っているが、国境沿いで暮らす者たちを見ていれば、そんなことはどうでもいいことのように思えてくる。凍えるような寒さのなか、彼らは井戸の氷を割って水を汲み、秋に蓄えたわずかな食糧で飢えをしのいでいる。生き抜くことで必死だ。王侯貴族は、なんとつまらないことにこだわっていることか」
「……誠におっしゃるとおりですね。民にとって大切なのは、どこの国に属するかということより、その日その日を生き抜くことです」
朝から二人が真面目な会話する傍らで、ディルクは黙々とスープを口に運ぶ。
「そのように日々を生きている民が最も苦しむのは、争いが起きるときだ。日常を侵され、家を焼かれ、家畜を失い、畑を追い出されて路頭に迷う。国境をめぐっての争いなど愚かなことだ」
「今や、国境間の争いだけではなく、エストラダの脅威があります。エストラダに征服された国々に住まう者たちは、どれほど苦しんでいることでしょうか」
「シャルムの民をそのような目に遭わせたくはない……いや、遭わせてはならないし、他国の者であっても救えるものなら救ってやりたい」
「ディルク、大切な話をしているのだ。聞いているか」
なんの前触れもなく父侯爵から水を向けられて、ディルクはやや憮然として答える。
「……聞いていますよ」
いつになく口数の少ないディルクを、レオンが気味悪そうに見やった。
「気分でも悪いのか?」
「いや、悪くはないけど」
「おまえが静かだと、天変地異が起こりそうだ」
「おれが静かだと嬉しいんじゃないのか?」
「……嬉しいというよりも、なにか恐ろしいような心地がするな」
「ってことはさ、おれがうるさくしているほうが、実のところレオンとしては落ち着くってことだ」
気だるいながらも言い返せば、レオンが苦い面持ちになる。
「そう言われると、納得がいかないが」
すっかり話の逸れてしまった二人の会話に、アベラール侯爵が苦笑したところで、すっと扉から食堂へ入ってきた衛兵が三人のまえで止まった。
衛兵はアベラール侯爵に一礼してから、ディルクの足もとにしゃがみ込む。
「なんだ?」
「ディルク様にお客人がお見えです」
「客人?」
衛兵がその名を耳打ちすると、ディルクは目を見開いた。
「ありえない。彼は王都にいるはずだ」
それもこんな早朝に訪れるなんて。
「けれどたしかに今朝方アベラール邸の門を叩かれ、今お部屋でお待ちいただいています」
「本当に?」
「ええ、お供はたったおひとりだけのようで、密かに面会願いたいとのこと」
ディルクはナプキンで口元をぬぐい、立ち上がる。
「だれが来たのだ?」
父に問われてディルクは一瞬のうちに逡巡した。密かにディルクに会いにきたという相手の名を、告げるべきか否か。
けれど、館の主たるアベラール侯爵に隠し立ては許されない。
友人です、とだけディルクが答えると、アベラール侯爵は目を細めてディルクから衛兵へ視線を映す。
無言の圧力に衛兵がたじろぐのを見て、ディルクはしかたなく口を割った。
「……カミーユ・デュノア殿です、父上。けれど、密かに私に会いにきたそうなので、話の内容までは問い詰めないでいただけますか」
しばし測るような眼差しをしたものの、すぐにアベラール侯爵は片手を振った。
「行きなさい。カミーユ殿はおまえの義弟になるはずだった方だ。おまえを頼ってきたなら、話を聞いてさしあげなさい」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げてディルクは、マチアスと共に扉口へ向かいかけ、けれど、すぐに足を止めてレオンを振り返る。
「いっしょに来るか、レオン」
「いいのか? おまえに会いにきたのだろう」
「レオンがいっしょだということくらい、知っているはずだ。顔を見たら喜ぶと思うよ」
慣れない王宮の生活で、カミーユがレオンの存在によって少なからず安堵を得ていたことを、ディルクは知っている。
「では挨拶だけ」
レオンは王族らしい優雅な仕種でやはり口元をぬぐうと、ディルクやマチアスと共に食堂を出た。
+
応接間でディルクを待っていたのは、落ち着かぬ様子のカミーユと従者のトゥーサンだ。ディルクが扉を開けると、カミーユが飛びつくように駆け寄ってくる。
「ディルク!」
その表情は必死でもあり、強張ってもいた。
穏やかならぬ様子に、ディルクはカミーユの肩に手を添える。
「カミーユ、どうしたんだ。王都から来たのか? 従騎士としての務めは――」
「助けてほしいディルク」
切羽詰まった様子で訴えるカミーユは、ディルクの背後に立つレオンの存在にも気づかぬようだ。
「姉さんを助けてほしいんだ」
ディルクは眉を寄せる。
「どういうことだ? アベルはリオネルのもとにいるはずだが」
「おれもそう信じていたんだけど、姉さんは……っ」
ディルクの言葉を遮ってカミーユは訴えようとするが、言葉がうまく出てこないようだ。
「落ちついて、カミーユ」
マチアスが用意した蜂蜜酒を受けとり、ディルクはそれをカミーユに手渡そうとした。
「まずはひと口飲んで。ゆっくりでいいから」
けれど蜂蜜酒の杯を受けとらずにカミーユは続けた。
「ゆっくりしている場合じゃないんだよ。早くしないと姉さんが死んじゃう」
「なんだって」
穏やかならぬ言葉に、ディルクは緊張をまとう。
「姉さんは今、デュノア邸の地下牢に閉じこめられているんだよ」
「デュノア邸の地下牢?」
状況を理解しきれない。
王宮にいるはずのカミーユがアベラール邸にいて、ベルリオーズ邸にいるはずのアベルがデュノア邸にいて、しかも地下牢とは――。
「ごめん、おれ混乱して。はじめから話すよ。おれとトゥーサンは、実のところ乳母のエマを探すために戻ってきたんだ。侍女のカトリーヌから、エマが行方知れずになったと手紙で知らせがあって、ノエル叔父上に許可をとって、父上には内密でデュノア邸に戻ることにした」
「エマ殿が行方不明なのか」
かつて池のほとりで話したシャンティの乳母のことを、ディルクはよく覚えている。
「うん、突然いなくなったって。それでエマのためにデュノア邸にこっそり戻ってきたら、旧館の地下牢に姉さんが閉じこめられていたんだ。おれもはじめは信じられなかったけど……でも本当なんだよ。寒くて、暗くて、食べ物も何もない場所で、もう何日も過ごしてる。体調も崩しているみたいで、このままじゃ死んじゃう」
「デュノア邸の地下牢に、アベルが閉じこめられているというのか?」
突如レオンが会話に入ってきたが、カミーユは驚く様子もなくうなずいた。
「姉さんの侍女だったカトリーヌが、食べ物を運んでくれてる。それがなかったら、もうとっくに……」
カミーユの声が揺れた。
「なぜそんなことになったんだ。リオネルはなにをしている。アベルを地下牢に閉じこめたのはだれなんだ」
「詳しいことはわからないけど、姉さんはリオネル様とは別れてきたって言ってた。犯人については、なにも教えてくれないんだ。でも多分、いや、間違いなく姉さんを閉じこめたのは、おれたちの……」
そこでカミーユは躊躇うように言葉を呑んだ。
と、ほぼ同時にトゥーサンの顔に苦い色が走る。
二人の表情とこれまでの経緯から、ディルクはアベルを閉じこめた相手を推察することができた。
「……デュノア伯爵か」
苦しげな様子でカミーユは言葉を吐き出す。
「地下牢の鍵の場所を知っているのは、父上と母上だけだ。でも、姉さんは、父上だけじゃなく、母上にも絶対に助けを求めてはいけないって」
その意味を一瞬で理解してディルクは愕然とした。
けれど、デュノア伯爵にしても、ベアトリスにしても、まさか我が子を地下牢に閉じこめたりするだろうか。真冬の地下牢で食糧もなければ、死に至るのはわかりきっている。
……カミーユの話から察するに、二人はおそらく〝そのつもり〟で閉じこめたのだろう。
「行こう」
ディルクは、マチアスとレオンを振り返る。
マチアスはすでに外套を用意していた。
「助けてくれるの?」
「当然だ」
ディルクはカミーユの肩に手を置き、少しかがんで青みがかった灰色の瞳を覗き込む。
「必ず助ける」
「リオネル様には?」
「時間がない。まずはおれたちだけでいこう」
カミーユは神妙な面持ちでうなずく。
「おれも行っていいか?」
マチアスから遠慮がちに外套を受けとりつつ、レオンが尋ねた。
「来てくれるんですか?」
「もちろんだ。おれもアベルの力になりたい」
泣きそうな顔になってカミーユはぐっと唇を噛む。そのカミーユの頭をディルクはくしゃくしゃと撫でた。
「いっしょに行こう。心配するな、おれたちがついてる」
「うん」
行くと決まると五人はすぐさま部屋を出る。
「侯爵様にはなんとお伝えしますか」
足早に歩みながらマチアスに問われて、ディルクは即答した。
「〝レオン殿下を見習い、皆でローブルグ国境の視察へ行く〟と」
口実だが、国境沿いへ行くという意味ではけっして嘘にはならない。
「かしこまりました」
生真面目に了承したマチアスは、館の者にその旨を伝えてから、少し遅れて四人にすぐに追いつく。
まだ薄暗い雪景色のなかを、ディルク、マチアス、レオン、カミーユ、そしてトゥーサンは馬に飛び乗り駆けていった。
+++
若者たちが皆デュノア邸へ向かっているころ、ベルリオーズ公爵の私室では、固い声音が響いていた。
「どういうことだ、オリヴィエ」
「――誠に申しわけございません」
深々と腰を折るのは、ベルリオーズ邸執事オリヴィエである。
「私がデュノア伯爵宛てにしたためた手紙を出さず、リオネルにすべて真実を告げたと――そういうことか」
クレティアンは苛立たしげに机のうえを、コツコツと手の甲で叩く。
リオネルがアベルを救うために館を飛び出した日の翌朝。
これまではリオネル不在の理由を、気分転換のために街を散策に行っているとオリヴィエはクレティアンに説明していたが、その口実も翌朝になればさすがに嘘と見抜かれる。
一夜明けても戻らぬリオネルとベルトランンが赴く場所は、ただひとつ。
クレティアンがそれに気づかぬわけがない。
「リオネルは、デュノア邸へ向かったのか」
「言い訳はいたしませぬ。どうぞ私をご処分ください」
「デュノア邸へ向かったのかと聞いている」
「……さようでございます、公爵様」
頭を下げたままのオリヴィエをまえにして、クレティアンは片手でひたいを押さえ、目を閉ざした。
「あれほど告げてはならないと命じたのに」
「申しわけございません」
先程からオリヴィエは謝罪の言葉しか口にしない。厳罰は覚悟のうえだったのだろう。
自らの立場はどうなってもかまわないから、リオネルを信じ、ベルリオーズ家を守る。
……それがオリヴィエの選んだ道だった。
「オリヴィエ、そなた、万が一にでもリオネルがデュノア邸へ行ったことが先方に知れて、伯爵と争うことになったら、どうするつもりだ」
「申しわけございません」
「謝罪の言葉はもういい。私の質問に答えなさい。どうするつもりかと聞いている」
「……リオネル様はご自身の立場を、よくよくわきまえておられます。必ずや密かにアベルを助け出してお戻りになるでしょう」
「そなたは甘い。あれは、アベルのこととなれば、自らの立場や命さえ投げ打ってもかまわないと考えているはずだ」
「……たしかにそうかもしれません。けれど、リオネル様はおそらくご自身でお気づきなっておられる以上に、ベルリオーズ家の跡取りとしての自覚を持っておられます。そのうえで、あの少女を愛しておられる」
「だから、リオネルを行かせることが最善の道と判断したということか」
「残された選択肢のなかから、最も危険が少ないと思われるものを選びました」
「危険が少ないと言うが、リオネルの身になにかあったらどうする」
クレティアンは机を手の甲で再び叩く。オリヴィエに対して声を荒げたくはないが、抑えきれぬ思いもある。
「アベルがいるかぎり、リオネル様はなにがあっても生き抜かれるでしょう。むしろ最も恐れるべきは、アベルが殺される事態です。もしアベルが死ぬような事態になれば、リオネル様のお心は砕け、真実を伝えなかったクレティアン様を深くお恨みになります」
「私は恨まれる覚悟だった」
「それではベルリオーズ家は崩壊いたします。公爵様とリオネル様が和やかな間柄であってこそのベルリオーズ家です。公爵様がシャンティ殿の返還を要求する書状をしたためれば、ブレーズ家との諍いに――けれど、アベルが殺されれば、リオネル様ご自身も生きる意欲を失ってしまわれる。どちらの事態も避けるためには、こうする以外に方法は思いつきませんでした」
「それが、そなたの出した結論だったのか」
「……どうかご処分を」
つまりそういうことなのだろう。
この場で斬られてもかまわないという風情で、オリヴィエは深く頭を下げている。
クレティアンは執事の無防備な背中を、無言で見つめるしかなかった。
手紙を書きなおしたところで、リオネルがデュノア邸に到着するほうが早い。もはや足搔いてもどうにもならない状況にある。
リオネルがなんらかの方法でアベルを救い出し、戻ってくるのを待つしかないのだ。
ため息交じりにクレティアンは告げた。
「そなたを処分したところで、事態が変わるわけではない」
「…………」
「下がれ。命令に背いた罰として、今日一日は私のまえに現れるな」
はっとした様子でオリヴィエはわずかに顔を上げた。
「公爵様――」
「下がれと言っているだろう」
厳しい口調を向けたが、オリヴィエは戸惑いを隠せないようだった。
「……恐れながら、公爵様。私は貴方の命に背きました。罰としてあまりにも軽すぎます」
「ならば、そなたをどうせよというのだ? 任を解き、この館から追い出せと? ベルリオーズ家のことをなによりも考え抜いた挙句、己が最も苦しむ道を選んだ執事を、私が追い出せると思うのか」
オリヴィエは言葉を失う様子でクレティアンを見つめた。
「そなたの代わりはいない。だが、私の命に背くのは今回が最初で最後だ」
大きく息を吐き、それからオリヴィエはかすれた声で答える。
「……ありがとうございます、公爵様」
「今日一日、そなたがいなくて私は不便なことが多い。明日からはしっかり働いてもらうぞ」
「貴方にお仕えすることは、私にとって至上の幸福であり、心からの喜びです」
オリヴィエを退室させると、クレティアンはすぐに従僕に命じて、ひとりの若い家臣を呼び寄せた。
そして彼に重大な命令を下したのだった。