19
ここです、とカトリーヌが足を止めたのは、もう長いこと使われていない――ほとんど足さえ踏み入れられてこなかった薄暗い回廊の一角だ。
幼いころ、シャンティと入り込んだ記憶はぼんやりと残っている。
カミーユは背中がぞくりとした。
もし本当にシャンティがこのような場所にいたとしたら……?
すべて、カトリーヌの夢であってほしいと願った。
けれど地下牢に近づくにつれてその感覚は不思議と現実ではないかという確信に変っていた。それは直感だ。
ここに、シャンティがいる。
そんな気がした。
カトリーヌが回廊の床に膝をついて、鉄格子のはめられた小窓から牢内へ声をかける。
「シャンティ様……シャンティ様……」
すると、かすかな返事がある。
カミーユは足もとがぐらつくような、重い眩暈を覚えた。
弱々しく応えた声は、まぎれもなくシャンティのもの。
たまらずカミーユは小窓に駆け寄り、鉄格子を両手で掴んだ。
「姉さんッ!」
驚きのにじむ沈黙が牢内から返ってきた。
「姉さん! 嘘だろう、なんでこんなところに」
「……カミーユ?」
やはり、シャンティだ。
まぎれもなく王都で別れ、そしてベルリオーズ邸にいるはずだったシャンティ。それが、どうしてこのような場所に。
「そうだよ、おれだよ、カミーユだよ」
「どうして……」
「館を出ていったエマを探しに戻ってきたんだ」
「エマを……? 従騎士としての務めは?」
「そんなこと言っている場合? 今はおれのことはいい。それより、姉さんは大丈夫? 身体は平気? だれがこんなところに姉さんを閉じこめたんだ? 今すぐ助けるから!」
カミーユは両手で鉄格子を揺らすがびくともしない。トゥーサンがすかさず地下牢の入口のほうへ回って、扉を開けにいった。
けれど、扉には堅固な錠前がかかっている。
「いったい――」
つぶやくトゥーサンにカミーユは確認した。
「扉は開けられないのか?」
「厳重な鍵です。無理でしょう」
「ちくしょう!」
カミーユは鉄格子の扉を蹴りつけてから、再びシャンティのいる牢の小窓へ寄った。
「姉さん、どうしてこんなことに」
「……あなたがここにいることが知られたら、お父様は激怒なさるわ」
小窓の向こう側の闇のなかで、咳きこむ音が聞こえてくる。
「ねえ、姉さん、答えて。リオネル様はどうしたんだ? だれがこんなひどいことを姉さんに?」
「……リオネル様とは、お別れしてきたのよ」
「待っていて、必ず助けるから」
カミーユの傍らで、トゥーサンは真剣に考えこむ様子だ。
「鍵の場所を知っている者がいるとすれば、伯爵様か、奥方様か……」
「母上が知っているのか? なら話は早いよ。今すぐ母上に事情を話そう」
立ち上がろうとすれば、待って、と牢のなかから切羽詰まった声が上がる。
「待てないよ、姉さんをこんな場所に一瞬だっていさせたくない」
「……お願い、お母様には言わないで」
「どうして?」
「どうしても」
「だって、母上以外に助けを求める相手はいないじゃないか。鍵が開けられなければ姉さんを助け出せない」
「……ありがとう、カミーユ」
しんみりとシャンティはそうつぶやいてから、ゆっくりと説得するような口調で告げた。
「でもね……お母様を巻きこんではいけないわ。……わたしのためだと思って、お母様には一切なにも言わないでほしいの」
シャンティの声は弱々しく、時折咳をする。
この寒さのなか、何日も冷たく暗い地下牢で、わずかな食糧だけで飢えと寒さをしのいできたのだ。身体は限界だろう。
かたく冷たい床に横たわる痛々しいシャンティの姿を想像して、カミーユの胸は痛んだ。
「じゃあ、父上に言うよ。おれはどんなに叱られてもかまわない。姉さんは今すぐここから出なくちゃ」
「……お願い、カミーユ。聞いて……お願い、わたしのために、お父様にも、お母様にも言わないでほしいのよ」
カミーユは鉄格子を握りしめた。
鍵のかけられた扉。
ここの鍵の在り処を知っているのは――。
ふと絶望にも似た予感を覚える。
その予感の恐ろしさにカミーユは吐き気さえもよおした。
「姉さん……」
「……なあに、カミーユ」
虚ろな声だが、弟の名を呼ぶシャンティの声はどこか幸福そうだ。もう会えぬと信じていたカミーユと話すことができた、その喜びを噛みしめている、そんな声だった。
けれど、カミーユの声は対照的に硬く強張っている。
「――姉さんを閉じこめたのは、父上と母上なのか?」
トゥーサンが、はっとしてカミーユを見やる。けれどカミーユは、鉄格子の向こう側の闇へ向けたままの視線を動かさなかった。
「姉さんをこんな目に遭わせたのは、あの二人なのか?」
もうシャンティの声はしなかった。地下牢の闇から返ってくるのは沈黙ばかり。
カミーユは強く、強く鉄格子を握りしめる。
「姉さん、お願いだ、声を聞かせて……姉さんのことが心配で、頭がどうにかなりそうだから」
しばらく重い沈黙が支配したのち、かすかな声が返ってくる。
「……カミーユ。大丈夫、なんともないわ。……お父様とお母様は関係ないのよ。ね、大丈夫だから。あなたが心配することはひとつもないから……」
関係ないはずない。
あの二人がなにも知らないなら、だれがここの鍵を開け、そして閉めたのか。
なぜシャンティは頑なに、二人に助けを求めることを拒むのか。
カミーユがしたためた、シャンティが生きているとエマに知らせる手紙を読んだのは、他でもない母ベアトリスだ。
シャンティが生きていると知ったベアトリスが取った行動は……。
――なんらかの方法でベルリオーズ邸にいることを突き止め、ここへ連れ戻したのか。
けれどもうカミーユは、シャンティに確認したりはしなかった。これ以上シャンティを困らせるわけにはいかない。
シャンティが犯人の名を明かさないのは、ひとえに自分を傷つけないためだと、カミーユはわかっている。自分たちの両親である、あの二人がシャンティを閉じこめたという事実を、カミーユに悟らせないため。
「待っていて、姉さん」
カミーユは決意の滲む声で告げた。
「絶対助ける。だから、死なないで」
闇の向こうでかすかに弱々しく笑った気配がある。
「……大袈裟ね、死ぬわけないでしょう」
そんなシャンティの声には、どこか疲れたような、それでいて本気で言っているような響きがある。カミーユは、シャンティに生きる意思があることを確認して安堵した。
「カトリーヌ、これからも姉さんに食べ物を運んでくれ」
カミーユが命じれば、はい、とカトリーヌは背筋を伸ばす。
「命に代えてもお運びします」
「ありがとう、しばらくのあいだ姉さんを頼む。行こう、トゥーサン」
歩きだしたカミーユにトゥーサンが黙って従う。
「これからおれたちが行く場所は、わかっているだろう?」
「……ええ、もはや我々の力ではどうにもなりません。そして、デュノア家に頼れる者はもうおりません」
信じていたものを、失った。
暖かいはずの、幸福に満ちていたはずのものが、カミーユのなかで砕け散った。
きっとそれはトゥーサンも同様に違いない。
けれど、感傷に浸っている場合ではなかった。一刻も早くシャンティを助け出さなければ。
「幽霊よりも、人間が恐ろしいという言葉の意味がよくわかったよ」
そう言いながら歩むカミーユの頬には、一筋の涙が伝っていた。
+
夢を見ているような心地だ。
カミーユがここへ来て、話をすることができたなんて。
デュノア邸にカミーユがいれば、アベルはもとの平和な時が戻るような気がした。
夏はあちこちを駆けまわり、秋は枯れ葉で遊び、冬は雪合戦や雪の城を作り、待ちわびた春を無邪気に喜んだ。カミーユがいて、エマがいて、トゥーサンがいて、カトリーヌがいて、皆でこのデュノア邸で過ごした日々。
うとうととしながら、アベルは膝かけを肩まで引き寄せる。
今日はカトリーヌが多めに食事を運んできてくれたせいだろうか、それともカミーユと話したせいだろうか、満腹になって心地いい。
浅い眠りのなかで、アベルは夢を見た。
カミーユと初夏の庭園を走りまわっている。
その姿を見守っているのは、オラスとベアトリスだ。
アベルが手を振ると、ベアトリスがほほえむ。
嬉しくなってアベルは両親のもとへ駆け寄るが、いくら走っても追いつけない。
どうにかしてあたたかい腕に触れたくて、息がつけなくなるまで必死に追いすがる。
息が苦しい。
走り過ぎて咳も止まらない。
……もう走れない、と思ったとき、目前にひとりの女性がいることに気づいた。
ほっそりとした女性が腕を広げてこちらへほほえみかけている。
泣いてしまいそうなほど嬉しくて、アベルはその胸に抱きついた。
優しい腕。
温かい眼差し。
そっと目を開ければ、淡い金糸の髪が視界に入ってきて、子供心に綺麗だと思う。
「シャンティ、大好きよ」
柔らかくほほえむ女性はベアトリスではない。
けれど、アベルはその女性を知っている。
この人の愛情をしっかりと身体が記憶している。
大きなお腹にそっと触れた。
「赤ちゃん……」
「生まれたらあなたはお姉ちゃんになるの」
ふふふと彼女は笑う。
「きっと仲良しになるわね」
――硬く冷たい石の床のうえ。
幸福感に包まれて眠るアベルの手は、リオネルにもらった水宝玉のネックレスを握りしめていた。
+++
ベルリオーズ領とデュノア領のあいだにはアベラール領を挟んでいるため、ベルリオーズ領シャサーヌからデュノア領マイエへ行くまでにはアベラール領を必ず通過することになる。
ちょうどベルリオーズ領からアベラール領に入ったところで、リオネルとベルトランはその日の旅を終えた。すでに時刻は深夜。
日が暮れ、あたりが闇に包まれてからも移動できるのは、男二人の旅であることと、ベルリオーズ領やアベラール領の治安が比較的良いためだ。
それでも普段なら夕食時までには移動を終えるが、このような時間まで強行したのは、ひとえに一刻も早くマイエのデュノア邸に到着したいがためである。
「眠らずに移動したいところだが」
こぼすリオネルに、ベルトランは馬鹿を言うなと諭す口調だ。
「寝たほうがいい、リオネル。身体を壊しては元も子もない。あまり自分の身体を過信すると、いずれ痛い目に遭うぞ」
脅されてリオネルは布団に入る。けれど目はつむらず、ベルトランが燭台の火を吹き消すのを見ていた。
「アベルは無事だろうか」
心の声がぽつりと声になる。
……これまでの道程では、少なくともデュノア伯爵の手紙に書かれていたというような、アベルを乗せた馬車を探している者たちはいなかった。
ということは、やはり行方不明というのは偽りで、そう信じさせることでアベルの生死をうやむやにし、ベルリオーズ家との関わりを絶とうとしているのか。
シャンティ・デュノアが生きていたなどという噂が広まったら、デュノア家にとっては困るだろう。それをすべて隠すための陰謀だったのか。
「アベルはベアトリス殿の子ではなくとも、デュノア伯爵の子ではある。さすがに我が子に残酷なことはしないはずだ」
「だがデュノア伯爵にはアベルを追い出した前例がある。加えて、黒幕はデュノア伯爵ではなくベアトリス殿のほうだ」
アベルがベルリオーズ邸を発って十日近く。
途中で馬車が襲われていなければ、とっくにデュノア邸には到着しているだろう。館の奥で元気に暮らしていればいいが。
「嫌な予感がする」
ブレーズ家が関わっているだけに、最悪の状況も考えうる。
アベルの置かれている状況を思えば、楽観はできなかった。デュノア邸ですでに幾日過ごしているのか考えれば、ぞっとした。
「到着したら、デュノア伯爵と正面切って話すつもりか?」
「状況次第だが、アベルに会うためなら手段は選ばない。切り札はすべて使うつもりだ」
布団に入りながら、ベルトランはひとつため息をこぼした。
「無謀なことはするなと諭すつもりだったが、厄介なことに、おれもおまえと同じ気持ちだ」
とても諭せそうにない、とつぶやきながらベルトランは横を向く。
「しっかり寝て、身体を休めておけ。おれが助言できるのはそれくらいだ」
「ありがとう、ベルトラン」
会話が途切れ、静寂が支配する。アベラール領内の賑やかな宿場町だが、この季節のこの時刻はさすがに表で騒いでいる者はなかった。
静寂のうちにしばらく経過してから、再びリオネルは声を発する。
「アベルは、自分の実の母親がだれか知っているのだろうか」
いつまでも眠ろうとしない主君に対し、やや呆れた空気が返ってくるが、リオネルは意に介さなかった。
「まえに話した様子からすると、アベルはベアトリス殿が実の母親だと信じているようだった」
「……おれが助言できるのは、しっかり寝ることくらいだと言ったはずだが?」
「アベルの気持ちを思うと、胸が痛む。真実を知ったらどれほど傷つくだろう」
しばしの沈黙の後、ベルトランがはっきりと「心配するな」と言い切る。
「なぜ?」
「アベルには、おまえがいる」
「…………」
「どれほどこの世界に絶望しようとも、おまえという存在があるかぎり、アベルには帰る場所がある」
ベルトランの言葉を聞きながら、リオネルは別れ際のアベルの姿を思い出す。
見慣れぬドレス姿のアベルは普段より頼りなく、不安を覚えた。消え入りそうなほど儚げなのに、けれど、眼差しはまっすぐにリオネルを見つめ、はっきりと告げる声には芯の強さが滲んでいた。
『――夢じゃないと信じてもらえるまで、何度でも言います。好きです、リオネル様。あなたにもう一度会うためなら、わたしはどんなことにだって耐えられます。リオネル様のもとに必ず戻ります。だから――』
リオネルは暗闇を見据える。
自分は、アベルの居場所でいられるだろうか。
複雑で過酷な状況のなかにある彼女にとっての〝希望〟でいられるだろうか。
「おまえなら大丈夫だ」
まるでリオネルの不安に応えるようにベルトランが言う。
「いや、アベルを救えるのはおまえしかいない」
ベルトランの言葉を頭のなかで反芻して、リオネルはふと気がつく。
「……それは違うよ」
「なんのことだ?」
「アベルには、おれだけじゃなくてベルトランもいる。イシャスも、エレンも、ディルクも、マチアスも、レオンも、カミーユも、トゥーサンも……数え切れないくらいアベルを慕う人たちがいる。きっと、そのひとりひとりがアベルにとっての希望だ」
暖炉の薪に残っていたほのかな明りも消えた闇のなか、ベルトランがかすかに笑ったようだった。
「そうかもしれないな。だがそれも、おまえがいてこそだ」
「アベルのためなら、心臓をえぐられても生きてみせるよ」
「化け物か。……おれがそんなことはさせないがな。ともかく、リオネル。早く寝ろ」
ついにベルトランが語調を強めたので、リオネルは口をつぐむ。
明日、丸一日馬を駆ければ、夜中にはマイエに着くだろう。
もどかしい思いで眠りにつかねばならないのが今夜で最後だと思えば、リオネルは幾分か救われる気がした。
この冷たい夜に、アベルはどのような状況で、なにを思っているだろう。
叶うなら、この想いが伝わればいい。
どれほど大切に思っているか、どれほど愛しくて、どれほど会いたいか。
アベル――、と心のなかで語りかけながら、リオネルは浅い眠りに落ちていった。