17
長いこと机に向かっていたが、リオネルの目のまえにある書類は減る気配がない。
「集中できないなら、休んでからもう一度やったらどうだ」
見かねたベルトランが声をかけてきた。
「そうだね」
リオネルはうなずいてみせたものの、休んだところで集中できるようになるとはとても思えなかった。
――デュノア邸から連絡がない。
〝シャンティ〟がここを発ったことは、先方へ知らせてある。デュノア邸に到着したら、向こうからも連絡が来るはずなのに、いっこうに音沙汰がなかった。
アベルのことが気がかりで、政務が手につかない。
「あるいは父上のもとには、すでに連絡がきているのか」
ぽつりと口に出たのは完全に独り言だ。けれどベルトランはその声を拾い、尋ねてきた。
「デュノア邸からの知らせか?」
「……もうアベルが発って一週間だ。なにも連絡がないというのはおかしい」
「だが連絡があったなら、公爵様はおまえに伝えるだろう。黙っている理由はないはずだ」
「そう……けれど、本当に連絡がないなら、このまま待っていていることはできない。アベルの身になにかあったと知らせを受けたときでは、もう遅い」
デュノア邸から連絡がこないので、状況を確かめたいと昨日リオネルはクレティアンに申し出た。けれどクレティアンは、いましばらく待ってみようと、のんびり構えている。この雪で到着が遅れているのかもしれないし、連絡がうまくいっていないだけかもしれない、というのだ。
だがリオネルのほうは気が気ではない。
「もう一度公爵様にかけあってみるか?」
「父上に話しても埒が明かない」
「だが、おまえの名前で書状をしたためるわけにはいかないだろう」
リオネルは黙りこんだ。
この二、三日のあいだ、ずっと考えていたことがある。
到着したとすぐに連絡があればよかったが、音沙汰がないうえは、リオネルは自分自身の目で確かめる以外に心を落ちつかせる方法が見つけられなかった。
「デュノア邸に行きたい」
はっきりと口にすれば、ベルトランが黙ってうなずく。
「アベルの無事をたしかめたいんだ」
「……おれも、同じことが頭をよぎった」
反対されると思っていたリオネルは、意外そうにベルトランを見やる。
「おれもアベルのことが心配だ。行ってなにができるかわからないが、公爵様がどうしてもデュノア邸からの連絡を催促しないというなら、この目で無事を確かめにいきたい」
いつもと変わらぬ仏頂面の裏で、ベルトランはベルトランなりに教え子のことを案じていたらしい。
「ただ、おまえを行かせたくないという気持ちはある」
「おれはデュノア伯爵にかけあい、状況を聞きたい。アベルがすでに着いていたなら、一度会わせてもらうつもりだ」
苦いベルトランの表情には、それはやりすぎだろうと書いてある。けれどそれをはっきりと口にしないのは、彼自身にもそうしたいという思いがあるからに違いない。
「だが一歩間違えば、貴族間の諍いに発展する」
「おれは個人的に〝友人〟に会いにいくだけだ」
「それが通用するかどうか」
「では、ベルトランはどうやってアベルの無事を確かめるつもりなんだ?」
「使用人でもつかまえて、内情を探ればいい」
「デュノア家はおそらく〝シャンティ〟に関することすべてを、隠し通そうとしている。たとえ娘が生きていても、表に出すつもりはないだろう」
「つまり、使用人らにも知らせない可能性があると?」
「噂が広まったらまずいと考えるかもしれない」
「ならば、直接掛け合ったらなおさら会わせないと言うのではないか?」
「ひと目でも会わせてもらえるまで、居座るつもりだ」
ベルトランは呆れた様子でため息をつく。
「リオネル……おまえは戦争でもはじめる気か?」
「アベルのためなら、ブレーズ家と剣を交えてもかまわない」
「それに巻き込まれる騎士や領民のことも考えろ」
「……剣を握るのはおれひとりでいい」
「おまえだけが剣を握って、おれや騎士たちが握らないわけがないだろう」
「おれには、大切な人ひとり守ることさえ許されていないのか?」
話しているところへ、扉を叩く音があって二人は会話を止める。ベルトランが名を尋ねれば、ベルリオーズ邸執事オリヴィエの声だった。
「お仕事中に申しわけございません、お話ししたいことがありまして」
リオネルの書斎へ通されたオリヴィエは、丁寧に一礼した。
「どうした、オリヴィエ?」
オリヴィエがクレティアンのそばを離れ、ひとりでリオネルのところへ来るのは珍しい。リオネルは握っていただけの羽ペンを机に置いて、オリヴィエに座るよう促した。
「いいえ、リオネル様。私は立ったままでけっこうです」
そう言いながらオリヴィエは一通の書状をリオネルに差し出した。リオネルは差し出された書状とオリヴィエを見比べる。
「私は公爵様から、この書状に封をして、デュノア邸に届けさせるよう仰せつかっております」
「デュノア邸へ書状を?」
いったいどういうことなのか。リオネルは眉をひそめた。
「公爵様のもとへ、昨日デュノア伯爵から連絡がありました」
「聞いていない」
リオネルは表情を険しくする。
「告げれば、リオネル様がデュノア邸に赴くことになるからと、私もかたく口止めされました」
「おれがデュノア邸へ? なぜ」
「アベルを乗せた馬車が、行方知れずになったそうです」
リオネルは椅子から立ち上がる。
「――捜索しているそうですが、見つからないと言ってきています」
「どういうことだ」
「公爵様は、アベルが陥れられたのではないかと、考えておられます」
「陥れられた、とは」
「公爵様は、アベルの実の母親に十三年前に会ったことがあるそうです」
「デュノア伯爵夫人に?」
「いいえ、ベアトリス様ではなく、〝本当の〟母親です」
意味がわからないという顔をするリオネルへ、オリヴィエが告げた。
「アベルはおそらくベアトリス様の子ではなく、コルネリアというローブルグ人の娘とデュノア伯爵の子です」
「なんだって……?」
「コルネリアは十三年前に、アンリエット様の手引きでクレティアン様のもとへ助けを求めに来ました」
「母上の手引き――」
なにかが胸の奥につかえたような感覚を覚え、リオネルは息を詰める。
コルネリア――その名を聞き、記憶の隅でなにかひっかかるものを感じる。
「アンリエット様がお二人目をご妊娠なされていたころのことです」
オリヴィエは、クレティアンから聞いたという過去の出来事をリオネルに語った。
ベアトリスに陥れられ、クレティアンに助けを求めたコルネリア。
彼女を助けようとしたアンリエット。
けれどクレティアンはコルネリアの要求を拒絶した。
「では、アベルは、ベアトリス殿の子ではないと……」
「クレティアン様のお話から考えれば、コルネリアという娘の子供と考えて、間違いないでしょう」
「アベラール邸からの帰りに母上が連れてきたということは、おれもいっしょに馬車に乗っていたのだろう?」
「ええ、当時リオネル様は六歳でおられたはず」
「おれはアベルの母親に会っていたのか」
記憶が混ざりあう。
凍てついた大運河の底で見た少女の顔が、次第に大人の女性の面影と重なる。
アンリエットは、コルネリアからシャンティの話を密かに聞いていたのかもしれない。クレティアンに協力を断られたコルネリアが、アンリエットに最後の望みをかけて娘を守ってほしいと懇願した可能性は充分にある。
そしてリオネルが大運河のなかで見たという少女の話を聞き、アンリエットは心を定めた。アベラール家との婚約を後押しすることで、シャンティの身を守ることを。
――そういうことか。
そういうことだったのか。
「……どうして忘れていたのだろう」
「クレティアン様も、アンリエット様の死の前後の出来事をすぐには思い出すことができませんでした。幼かったリオネル様なら、なおさらでしょう」
「もしベアトリス殿がアベルの母親を追い出すだけでは納得せず、その娘であるアベルまで疎んじていたとすれば――」
「そうです、アベルは陥れられたのかもしれません。それを踏まえて公爵様はこの書状をしたためられました」
居ても立ってもいられぬという様子のリオネルに、その書状を読むようオリヴィエは促す。
「読んでいいのか」
「はい」
本来オリヴィエは、リオネルにこの話は伝えずに、書状を出すように命じられているはずだ。けれど、主に忠実なはずの彼がその命令を破ってまで、なにかを貫こうとしている。
彼の顔には、強い決意と覚悟が垣間見えた。
リオネルは書状に目を通す。
「……アベルの返還を要求?」
正直なところリオネルは驚いた。クレティアンがここまでやってくれるとは、思っていなかったからだ。
「お分かりになりますでしょう。クレティアン様がこのような書状を送れば、デュノア家とベルリオーズ家との関係がどのようになっていくかを」
「この書状を出さずに、おれに見せた意図は?」
「どうぞお行きください」
リオネルはオリヴィエへ視線を注ぐ。オリヴィエはまっすぐにリオネルを見返した。
「私はすぐにこの書状を燃やします。貴方様のお力で密かにアベルを救い出し、この館にお戻りください。そうすれば、ベルリオーズ家とデュノア家のあいだに諍いは起きず、シャンティ様は行方不明とされたまま、アベルとしてこの館に住まうことができます」
「…………」
おそらく――オリヴィエは、ひとつだけ嘘をついた。
オリヴィエ自身がわかって言っているだろうから、それは〝嘘〟と呼んでいいだろう。
けれどリオネルは気づかぬふりをしてうなずいた。
「わかった。オリヴィエ、知らせてくれてありがとう」
「いいえ、公爵様とこのベルリオーズ家を守るためです。けれど、そのためにリオネル様を危険に晒すことについては、私は自分自身を深く恥じております」
「危険なことをするつもりはない。必ずデュノア家の者に知られぬようにアベルを救い出す。知らせてくれて心から感謝している」
そう告げると、リオネルはベルトランと共に部屋を飛び出していった。
二人を送り出すと、オリヴィエは大きく溜息をつく。
「……公爵様、どうか、どうかお赦しください」
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およそ半年ぶりに見るデュノア邸は、遠目にも真白な雪に覆われている。
「長かった……」
思わずカミーユはつぶやく。冬の旅がこんなに過酷とは。
毎年、暖かいところで、充分な食糧と共に冬を越してきたカミーユは、生まれて初めて冬の厳しさを知った。いや、領民の生活はそれよりもっと厳しいのだろうが。
門番に気がつかれぬよう距離をとって馬の手綱を引いたカミーユは、懐かしい景色に目を細めた。
「お加減はいかがですか、カミーユ様」
「すっかり平気だよ。やっぱり疲れていたんだね」
トゥーサンが心配そうに尋ねてきたのは、先日エマ領コカールでカミーユが体調を崩しかけたからだ。症状は発熱のみ。急遽、町の医者に診てもらったところ、風邪ではなく、疲労のためということだった。
熱が下がるまで二日間、さらに用心してもう一日、二人はコカールに留まる羽目になったが、幸い暖かいところで充分に休んだので、悪化することはなかった。
「このような寒さのなか、馬上の旅をしてきたのです。体調を崩すのも不思議ではありません」
「トゥーサンは平気なのに」
「私は大人ですから」
子供扱いされたことにカミーユはむっとしたが、事実なので反論はできない。
「さて、このような寒空の下、ぼんやりしていてはまた身体を壊します。早く館に入りたいところですが、本当にあのような場所から入るのですか?」
カミーユが王宮を抜けだしてきたことを、父であるデュノア伯爵に知られたら大変なことになる。正面から堂々と入るわけにはいかなかった。
けれど、どうにかしてベアトリスやカトリーヌに接触したい。
そのためにカミーユはある場所から入り込むことに決めていた。
「昔こっそり姉さんと三人で通っただろう? 入口も出口も、場所はちゃんと覚えているから大丈夫だよ」
けれどトゥーサンは、カミーユの案に難色を示している。この件に関しては、旅のあいだじゅう二人の意見はまとまらなかった。
「いざというときに、伯爵様とそのご家族が利用する抜け道です。安易に足を踏み入れて何者かに知られたら、それこそデュノア邸はよそ者が自由に侵入できるようになってしまいます。ここはやはり、まずは私だけが入ってベアトリス様にお知らせし、カトリーヌと共に出てきていただいてマイエの街で待ち合わせしましょう」
「トゥーサン、おれは前々からなんだかひっかかっていたんだよ」
脈絡のない言葉にトゥーサンは首をかしげる。
「なんのことですか?」
「伯爵とその家族だけが使う抜け道なんて、ずるいじゃないか。領主だって、家臣や領民と運命を共にすべきだろう? それを、どこかへ逃げるなんてさ。抜け道がだれかに見つかったら、それでもかまわないよ。そのときには、すぐに出入り口を埋めてしまえばいい」
「いいえ、カミーユ様。領主様とそのご家族が生き残ってこそ、家臣も領民も生きていけるのです。主を失っては、戻る場所がありません。大事な抜け道なのですよ」
「ふうん、なんかまだ納得いかないけど、この議論は今ここでするものじゃないか……」
「そのとおりです。時間がありません。ですから、まずは私がひとりで行きます」
「病の母上に、この寒さのなかを街まで出てこさせるわけにはいかないよ。さあ、行こう! トゥーサンが言うとおり、もう時間がない。早くエマを探しに行きたいんだ」
考えを曲げるつもりのないカミーユをまえに、トゥーサンはひとつため息をつく。それに、ベアトリスを雪のなかマイエまで来させるのは、たしかに妙案とは言い難い。
「では、今回だけですよ」
「はいはい、早く行こうよ」
二人は雑木林のなかに馬を繋ぎ、抜け道の入口へ向かった。