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「アベラール邸から予定より遅く戻ってきたとき、アンリエットはひとりの若い娘を馬車に乗せていた。その娘はアンリエットのように子を腹に宿していて。たしか、名前を……コルネリアといったか……」
「コルネリア、ですか。ローブルグ人の名ですね。私はそのような娘を存じあげませんが」
「……アンリエットは、他の者から隠すようにその娘を連れてきて、そして私だけに会わせたのだ」
娘は言った。――自分は、ブレーズ家のベアトリス様に陥れられた。どうかベルリオーズ家の力で、わたしたちを救ってほしいと。
コルネリアは、実に奇妙で不思議な話を語った。
というのも、伝えられぬ事実があったのか、彼女の話は詳細に欠け、そして漠然としていて、どこからどこまでが真実なのか定かではなかったのだ。
……自分はローブルグの国境近くに住まっていたが、国境視察に訪れたオラス・デュノアと出会い、恋仲になった。
だが身分差の恋は実らず、オラス・デュノアはブレーズ家の令嬢ベアトリスを妻に迎えなければならなかった。
いったんは諦めた結婚。しかしオラスに嫁いだベアトリスは病弱で、子ができなかった。
そこで、オラスの気持ちを知る前伯爵夫人の手引きもあって、コルネリアがデュノア邸に連れてこられることとなった。
ようやく愛する者と結ばれだが、ベアトリスはコルネリアを邪魔に思い、卑劣な手段でコルネリアを陥れ、館を追い出した。
どうかベアトリスの行為を明るみにし、デュノア邸に戻れるように計らってほしい……。
そうコルネリアは訴えたのだ。
「それで、どうなさったのですか」
「……望みには応えられないと告げた。こちらには事実かどうか判断する材料もないうえに、ベルリオーズ家が口出しできる話ではないと。その代わり、私がその娘のためにできることを申し出た。――腹にいる赤ん坊が生まれるまで、ベルリオーズ邸で面倒をみると」
「娘は留まったのですか?」
「いや、すぐに館を出ていった。その後どうなったかわからないが、それから半年もたたぬうちにアンリエットが腹の子と共に天に召され、その娘のことは一度も思い出さなかった」
「その娘とアベルはどういう関係が?」
「容姿が似ているのだ。そう、あの髪や瞳の色、肌の白さ、繊細な風貌……コルネリアという名の娘とよく似通う」
「では、デュノア家の第一子であるシャンティ様は、その娘とデュノア伯爵の子だと?」
「可能性はある……いや、あれだけ似ているのだ。ベアトリス殿に子ができなかったというのが本当なら、シャンティ殿はあの娘の子供だったとしてもおかしくはない。あのときのコルネリアの腹の子は、おそらく二人目の子だったのだ」
「だとすれば、ベアトリス様にとってシャンティ様は……」
まずいな、とクレティアンはつぶやいた。
「アベルは陥れられたのでしょうか」
「可能性はある。よいかオリヴィエ。この話はリオネルにはけっして伝えてはならない。あれが知ったら、すぐにでもデュノア邸に向かい、助け出そうとするだろう。リオネルをこの騒動に巻き込んではならない」
「……かしこまりました」
「これから書状をしたためる。伯爵は行方がわからぬと書いてきているが、少なくともベアトリス殿はなにか知っているはずだ。すぐにシャンティ殿をベルリオーズ邸に戻すようにと記そう」
やや考え込んだのち、オリヴィエは難しい顔つきで口を開く。
「けれど……けれど、公爵様がそのようなことをしては、ブレーズ家とのあいだに諍いが生じます」
「リオネル個人が巻きこまれるよりは、いくらかましだ」
「デュノア家内部のいざこざのために、ベルリオーズ家が公式に書状を出すのですか」
「リオネルの想い人だ」
「我々がこれ以上表立って関われば、最悪の事態になりかねません。せめて人を派遣して、デュノア邸を探らせるほうが賢明でしょう」
「万が一それが明るみになれば、表立って介入するよりもさらに事態は深刻になる」
表情を険しくして、オリヴィエは言い募った。
「公爵様、出過ぎた真似とは心得つつ申し上げます。公爵様のお名前で書状をしたためることはお考え直しいただけないでしょうか。ブレーズ家とのあいだに火種を作ってはなりません。ベルリオーズ家とブレーズ家の対立は、すなわち王弟派と国王派の対立となります。ここは慎重に」
「このままアベルを見殺しにするというのか?」
「ならば、密かに救い出す手立てを考えるべきです」
オリヴィエがクレティアンの意見に異を唱えるのは、珍しいことだった。それほど彼はクレティアンの行おうとしていることの深刻さを理解している。
「相手は、背後にブレーズ家がいる。簡単に救い出せるはずがない」
「リオネル様も交えて救い出す方法を話しあってみてはいかがでしょうか」
「リオネルに知らせてはならないと言ったはずだ。それに、あちらの言い分では、アベルが乗った馬車ごと居場所がわからないのだ。私が動かなければ、アベルの無事は確保できない」
「ですが……」
「そなたも、リオネルがどれほどアベルに執心しているか、知っているだろう。手は尽くす。だが……一方でこれほど複雑な関係のなかにいる娘を、この館に住まわせることはできない。救い出したとしても、どこか遠くへやり、デュノア家ともリオネルとも関わらせぬようにするつもりだ。力を尽くして命は助けよう。それでリオネルには納得してもらうほかない」
いったんオリヴィエは口をつぐんだが、納得はしておらぬ面持ちだ。どうすればクレティアンを説得できるか、言葉を探しているようだった。
「オリヴィエ」
クレティアンは重々しく執事の名を呼んだ。
「そなたの言いたいことはわかる。家を守るためには、そなたの言うようにするべきだろう。だが、人としての心を私は忘れたくはない。コルネリアのときとは違う。アベルはリオネルの命を幾度も救ってくれた。――まだ子供のような娘が、幾度も命を危険に晒してリオネルを助けたのだ。その恩は返さねばならない」
そこは納得できるらしいオリヴィエは、小さくうなずく。
「ベルリオーズ家の領主として、そして家族を守る者として、心を鬼にして生きてきた私の、なけなしの誠意だ。諍いになるかどうかは、向こうの出方次第。リオネルには恨まれるだろうが、このことは私だけで処理する」
クレティアンを説得することは難しいと判断したのか、オリヴィエは浮かぬ表情のまま沈黙していた。
執事を説き伏せると、早速クレティアンは机に向かい、デュノア伯爵宛ての書状をしたためる。窓の外を、冷たい冬空が支配していた。
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うえから降ってくる食べ物を落とさずに受けとるのも、なかなか得意になりつつある。
「次は、小瓶に入った蜂蜜酒です。取り落としたら割れるので気をつけてください」
「わかったわ」
わずかな外の光を反射しながら落ちてくる小瓶を、アベルは両手で受け止める。
「ありがとう、割れずに受けとれた」
「シャンティ様、こんな少しの食糧で足りるのですか?」
「平気よ、わたしは幽霊だから」
そう言いながら、アベルは咳きこんだ。地下牢に入れられて四日目。ついにアベルは風邪を引いた。軽く熱もあるようだ。
今日カトリーヌから受けとったのは、パンと干し肉、それに小瓶に入った蜂蜜酒。あまりたくさんの食糧を頻繁に運べばカトリーヌがあやしまれることになるので、ここへ来るのは一日に一回、食べ物も最低限でいいと伝えてある。
「いつもありがとう、カトリーヌ。見つからないように、早く行ったほうがいいわ。もし少しでも気になることが起きたら、迷わずこの館を出て実家に戻りなさい、わかったわね?」
「……はい」
うなずいたカトリーヌは、すぐにここを離れるかと思いきや、なにか言いたげな声が天井から降ってきた。
「シャンティ様……」
「なに?」
「あの、シャンティ様は――」
途中でカトリーヌは言葉を切る。
「どうしたの?」
優しくアベルは問いかけた。
「あの……そこは寒くはないですか?」
「カトリーヌの持ってきてくれた膝かけがあるから大丈夫」
「夜は眠れていますか?」
「幽霊だから、寝なくて大丈夫」
「でも、日に日にお声が弱々しくなっていらっしゃるような……」
「平気よ、気のせいだから」
と、言った端から、こらえていたのに咳が出てしまう。
「幽霊って、風邪引くんですか?」
「むせただけ」
「…………」
「ここはいいから、早く戻って。気づかれないように慎重にね」
言い聞かせてカトリーヌを帰すと、アベルは短く息を吐き出す。このままカトリーヌに食糧を運ばせていいものか、アベルのうちには迷いが生じはじめていた。
悟られぬうちはいいが、万が一にでも両親に知られたら、カトリーヌはどうなるだろう。
同じように地下牢に入れられることになるかもしれない。いや、まさかとは思うが殺されてしまうのでは――。
カトリーヌをそんな運命に遭わせてはならない。
エマの行方がわからぬということも、カトリーヌの口から聞いた。彼女のことも心配だ。
けれど、今の自分にはなんの力もない。それが悔しくも、哀しくもあった。
断続的に咳を繰り返しながら、アベルは蜂蜜酒の小瓶に口をつける。一日一度の食事は身に沁みた。
右手でパンを掴み、もう片方の手でリオネルからもらった首飾りを握りしめる。
目を閉じれば、柔らかなリオネルの眼差しが思い起こされる。
思わず泣きそうになって、パンを噛みしめた。
生きなければ。
生き抜いて、もう一度あの人のもとへ。
カトリーヌに頼んでリオネルに知らせる、という方法も考えた。けれど、カトリーヌがデュノア邸を密かに出て自身で知らせに行くとなれば、彼女自身にブレーズ家の危険が及ぶ。だれかに頼むにしても、そこからアベルとカトリーヌのことがベアトリスに知られたら最後だ。
それにリオネルをこの事態に巻き込めば、ベルリオーズ家とデュノア家の対立……それは引いては、ベルリオーズ家とブレーズ家の対立となる。
どうすれば皆を危険にさらさずに、自力で生き延びることができるだろうか。
アベルは高い天井近くにある小窓を見上げる。
あそこから縄を下ろしてもらってよじ登れば……いや、これまでカトリーヌが隙間から膝かけや食料を落としていた様子からすると、鉄格子は強固で外れないだろう。
だが、扉には大きな錠前がついていてびくともしない。
やはり脱出する方法がないと再確認して、アベルは疲労感を覚えた。
そのせいか、風邪が急に悪化して熱が上がったような気がする。ひとしきり咳きこんでから、それでもアベルは大切な人を思い浮かべて、気持ちを落ち着かせようとする。
生きなければ。
どうにもならないと――もう助かるはずないと知っても、それでも諦められない。
リオネルにもう一度会いたい。
ベルリオーズ邸にいる仲間に、ディルクに、レオンに、マチアスに、イシャスに……もう一度。
アベルはゆっくりと食事の手を再開させた。
+
一方、地下牢から離れたカトリーヌは、真剣な面持ちで考えこんでいる。
「幽霊って……むせるのかしら」
シャンティの声の調子からすると、どうも風邪を引いたようだった。昔からシャンティは風邪を引くと声がかすれて小さくなる。気丈に振る舞っているようだったが、具合は悪そうだ。
「幽霊だから夜は眠らなくて、幽霊だから食事は少しで、幽霊だから少しくらい寒くても平気で……って、普通の人間なら風邪を引くわよね」
そしてシャンティは実際に風邪を引いていた。
そこまでの考えに至ったとき、カトリーヌはぞっとする。
……シャンティは生きているのか。
生きて、あの暗く寒い地下牢に閉じこめられているのか。
だとすれば、大変なことだ。
このままでは本当に死んでしまう。助け出さなくては。
けれどどうやって。
そもそも、いったいだれがそんなことを――。
と、突然人の気配を背後に感じてカトリーヌは悲鳴を上げそうになった。口元を押さえて振り返ると、そこにいたのは見慣れた相手。
「どうしたのですか、わたくしですよ」
後ろに立っていたのは、侍女を引き連れたベアトリスだ。
「あっ! 申しわけございません!」
「幽霊にでも遭ったような蒼白な顔をして、大丈夫ですか」
「霊感は強いほうではないんです……あ、すみません、どうでもいいことを」
慌てておかしなことを口走るカトリーヌに、ベアトリスは笑った。
「幽霊よりも生身の人間のほうが恐ろしいものです。お気をつけなさい」
「あ、は、はい……」
ベアトリスは、カトリーヌの不思議そうな顔にほほえみかけると、そのまますぐ脇を通りこしていく。慌ててカトリーヌは頭を下げた。
姿勢を直したときには、すでにベアトリスもその侍女たちもいなくなっている。
ふう、と息を吐いてからカトリーヌは自分自身を両手で抱きとめた。
霊感がないカトリーヌに、幽霊など見えるはずがなかったのだ。
幽霊よりもおそろしいのは、生身の人間。
……この館のなかに、シャンティを地下牢に閉じこめた者がいる。
それはきっと人の皮を被った悪魔に違いない。
カトリーヌはしばらく震えが止まらなかった。