15
寒さのなか、眠ってしまわぬようアベルは歌を歌っていた。
眠ったら凍え死ぬだろう。
寒い。
監獄のなかは冷え切っている。
ベルトランのくれた毛布はない。外套を着ているのがせめてもの救いだが……。
天井高くにある小窓から、かすかな外の光が漏れてくる。この空間を照らすのは、その頼りない明りだけだ。
ひと晩、どうにか外に出る方法はないか探し回ったが、地下に掘られた監獄は強固で、外に出られるような抜け道も、地上に繋がるような場所もなかった。
鉄格子のはめられた小窓だけが唯一外界と繋がる個所だが、足掛かりがなく、まずもって上ることは不可能だ。
かつては愛に溢れていたはずの思い出の地は、暗く、冷たかった。
このまま死ぬのだろうかという暗い予感が心によぎる。
昨夜とて、この寒さのなか眠っていれば死んでいたはずだ。
そしておそらく、それでもかまわないと父や母は思っている。そう考えれば、胸が張り裂けるような思いがした。それほどまでに憎まれていたとは。
欠片の愛も残っていないとは。
それでも歌いつづける。歌っていなければ、気が触れるような気がした。
覚めない夢ならいっそ
このままどうか あなた
あなたの その手で
この胸を貫いてください
わたしを この世界の果てへと
ひなげしの花も咲かぬ
夢も 届かぬ
遥か彼方へと……
歌いながら、アベルは随分と長いことこの監獄にいるような気がした。まだひと晩しか経っていないというのに。
監獄内は、外界とは時間の流れ方が違う。
一瞬の絶望は、永遠にも感じられた。
リオネルに会いたい。
暖かいあの腕に包まれたかった。
ベルリオーズ邸が懐かしい。
あの場所に戻りたい。
イシャスは今頃なにをしているだろうか。あいかわらずサン・オーヴァンで買ってきたお土産で遊んでいるだろうか。
ラザールをはじめ騎士たちは剣の鍛錬に没頭していて、クロードはなにかと騎士隊長の仕事で忙しいだろう。そのそばではジュストがてきぱきと働き、エレンはイシャスの遊び相手、それから……。
……リオネルはなにをしているだろう。
今この瞬間、あの深い紫色の瞳はなにを映しているだろうか。
戻ると約束したのに、デュノア邸で幸福に暮らすと約束したのに、このままでは本当にすべて嘘になってしまう。
それでも、彼が今この一瞬も、きっと生きて、元気で過ごしていてくれているだろうことが唯一アベルの慰めだった。
夢も 届かぬ
遥か彼方へと
そして夢の終焉
どうか あなた
永遠に絶ち切って……
「……シャンティ様?」
歌い終わる直前、幻のように声が響いた。
この声を忘れるはずない。物心つくころから、いつも近くにいてくれた人。
けれど、まさか。
「カトリーヌ……?」
試しに呼んでみれば、驚き息を呑む気配が返ってきた。
「やっぱりシャンティ様なのですね」
人の気配に――懐かしい侍女の声に、アベルは涙が出そうになった。
「シャンティ様は……シャンティ様は、お亡くなりになったのですね……」
カトリーヌはすでに泣いているようだった。そして、多大な勘違いをしているようでもある。
「申しわけございません、わたしがお守りできなかったばっかりに幽霊になって……お辛かったでしょう。私をお赦しください……けれどこのようなお姿でも、お会いできて嬉しく思います」
アベルは天井近くにある小窓を見上げた。どうも声はそこからするらしい。
「カトリーヌ、本当にあなたなの?」
「ええ、シャンティ様。わたしです、あなたの侍女カトリーヌです。シャンティ様がお嫁に行かれて老い果てるまでご一緒しようと思っていました。またシャンティ様のおそばに来ることができて幸いです」
「ああ、カトリーヌ。元気だったのね、よかった」
感動をこらえながら、同時にアベルは冷静に考えを巡らせた。
この機を逃がしたら最後だ。
カトリーヌと接触できたということは、助かる望みがある。けれど、カトリーヌを巻きこめば、彼女を危険な目に遭わせてしまうかもしれない。
ここは相手に勘違いをさせたままにするのも、ひとつの手段かもしれないと思った。
「カトリーヌ、わたしは死んで幽霊になったわ」
はっきりと告げれば、カトリーヌが泣き崩れる。
「シャンティ様……」
「でも、泣いている暇はないの」
「……え?」
「幽霊になってもお腹は空くし、寒いし大変よ」
「……そ、そうなんですか?」
「だから、こっそり食べ物と膝かけを持ってきてもらえないかしら」
「食べ物と膝かけ……あ、膝かけならあります。さっき拾ったのです。これをどうすればいいのですか?」
「そこの鉄格子のあいだから入れることはできそう?」
「わかりました」
鉄格子のあいだから押しこまれたのは、見覚えのある膝かけだ。時間をかけて毛布を狭い鉄格子の隙間から通すと、ひらひらとそれはアベルのうえへと降ってきた。
それを受け止め、アベルは頬を寄せる。
やはりベルトランからもらった膝かけだった。馬車から落ちたのを、カトリーヌが拾ってくれたのだろう。
膝かけの暖かさに、アベルは涙が出そうになる。
「……ありがとう、カトリーヌ」
「食べ物は今から持ってきます」
「あ、待って」
すぐにでも取ってこようとするカトリーヌを、アベルはすかさず呼び止める。
「……カトリーヌ、約束してほしいのだけれど、わたしに会ったことはだれにも言わないでくれる? あと、食べ物を持ってくるときには、だれにも見つからないように充分に気をつけて」
「なぜですか?」
「幽霊がいるなんて知られたら、デュノア邸は大騒ぎよ。あなたのように優しく接してくれればいいけど、司祭を呼ばれて悪霊退治なんてされたら、とんでもないもの」
「ええ、ええ、そうですね。シャンティ様は私がお守りします。絶対にだれにも言いません」
「ありがとう」
少し待っていてくださいと言い置いて、カトリーヌはその場から去っていった。
+++
大陸の冬は厳しい。
先日の快晴が夢だったかのように、凍てつくような日々が続いていた。真昼でも空は重く暗く、冷たい雪を地上へ注いでいる。
アベルがベルリオーズ邸を発って六日目。
雪に白く染められたベルリオーズ邸には、穏やかな時間が流れていた。
「リオネルサマ!」
扉を開けるとすぐに嬉しそうに駆け寄ってくるイシャスが愛おしい。
「ああ、イシャス。エレンに遊んでもらっていたのか?」
「うん! おにんぎょう、ほら」
イシャスが見せてくれたのは、アベルといっしょに選んだサン・オーヴァンの土産だ。
「遊んでくれているんだね」
「リオネル様」
笑顔でリオネルを迎えたのはエレンだ。
「政務はよろしいのですか?」
「疲れたから少しイシャスの顔を見にきたんだ。この笑顔を見ると、疲れが一瞬で飛んでいくよ」
エレンはうなずきながらも気がかりな様子だった。
「あの……」
「ん?」
これはこうやってこうやるの、とイシャスが一生懸命人形をなかから取り出して見せてくれる。そんなイシャスに、すごいねと言ってやりながらリオネルはエレンとも話を続けた。
「……アベルが、突然用事があると王都へ向かいましたが、大丈夫なのでしょうか? なにか難しい問題が生じたとか……危険はないのですか?」
「心配することはない。今回はアベルが適任だったから、行くことになったんだ。なにも危険はない」
自らのうちにある不安を押し隠して、リオネルはエレンを安心させるために笑ってみせた。
「そうなんですね」
エレンは安堵の表情になる。そんなエレンをイシャスが不思議そうに見上げた。
「アベル?」
「そう、アベルはお仕事でここを離れたけれど、なにも心配しなくて大丈夫ですって、イシャス。よかったわね」
「いつもどるの?」
イシャスの視線を受けたエレンがリオネルを見る。
「そうだね……でも今回は、少し向こうで腰を据えることになるから、数ヶ月……いや、もう少しかかるかな」
「数ヶ月!」
エレンが目を丸くする。
「そんなに長いこと会えないなんて……」
その反応をまえにしたイシャスが表情を曇らせた。
「アベル、ずっとあえないの?」
慌ててエレンがイシャスの肩を抱く。
「いいえ、きっとすぐに会えるわ」
「ほんとう?」
訝るイシャスに応えたのはリオネルだ。
「ああ、本当だ。きっとアベルはイシャスに会いに戻ってくる」
リオネルに言われて「うん!」とイシャスは嬉しそうにうなずく。安心させるためとはいえ、うしろめたいような心地になり、リオネルは話題を変える。
「イシャスは最近、騎士ごっこが好きなんだって?」
騎士ごっことは、剣に見立てた棒で戦ったり、馬に乗る真似をしたり、弓の玩具を使う遊びだ。
「うん! イシャス、キシになるの」
「そうか、きっとアベルに似て強くなるね」
「リオネル様、イシャスが騎士ごっこが好きと、どなたから聞かれましたか?」
「父上だが?」
リオネルの答えを聞いて、エレンががっくりとうなだれる。
「やはりそうですよね。本当はいけないのに、イシャスが騎士ごっこをするのを公爵様がお許しになって……イシャスが棒を公爵様に向かって振り回すので、見ていられません」
エレンの不安をリオネルは笑い飛ばした。
「大丈夫だ、おれだって幼いころ父上相手に立ち向かっていった」
「ですが、立場が違います」
「子供は皆同じだ。父上は、イシャスと遊んでいると活き活きとしている。気にしないでいい」
「リオネルサマ、きしごっこしよ!」
「ああ、いいとも。手加減はしないよ」
リオネルが言うと、意味を解したのかどうかわからないがイシャスがにっと笑う。こういう表情は一人前だ。
「はい、リオネルサマ!」
イシャスは二本の棒切れを持ってきて、一本をリオネルに握らせる。
「これイシャスの。せーの!」
掛け声とともにイシャスが斬りかかってくる。リオネルはそれを受け止めながら、ここにはいないアベルのことを思った。
すでにデュノア邸には着いているはずだ。
こちらへ連絡はないが、無事だろうか。この寒さのなかで旅をして、風邪などひいてはいないだろうか。危なっかしいところもあるアベルだから、どこかで怪我でもしていないだろうか。
家族と再会して、話し合いができただろうか。
万が一にでも、ひどい目に遭わされてはいないだろうか。ベルリオーズ家が関わっているとなれば、デュノア家も手荒なことはしないだろうが、それでも不安は残る。
心配は尽きず、今は手の届かないところにいってしまった少女を、リオネルは思った。
エレンやイシャスには心配しなくていいと言ったものの、次いつ会えるだろう。
自分を好きだと――生まれて初めて恋をしたのだと言ってくれたアベルに、今すぐにでも会いたい衝動に駆られる。
無事を確認して、強くこの手に抱き締めたら、もう二度とどこへも行かせたくない。
今は、不安に押しつぶされそうだった。
と、トンと腹部になにかが当たる。
「イシャスのかち!」
軽く棒をリオネルに当ててきたのはイシャスだ。
アベルのことを考え、ぼんやりして隙を作ったらしい。さすがはアベルの子だけある。幼いながら、素晴らしい感覚の持ち主だ。
「すごいな、イシャス。おまえはシャルム一の剣士になるよ」
リオネルの褒め言葉に、イシャスは嬉しそうにうなずいた。
+
一方、同じベルリオーズ邸内の書斎では、クレティアンが深刻な面持ちで手紙へ視線を落としている。
密かに一通の手紙がクレティアンの手元に届けられたのは、つい先程のこと。
送り主はデュノア伯爵だった。
「シャンティ殿が館に到着していない……?」
その場でもう一度手紙を読み返すと、クレティアンはそれをゆっくりと机のうえに置く。
雪道であっても、ここシャサーヌからデュノア邸にはとうに着いているころ。デュノア伯爵からの手紙には、シャンティを乗せた馬車が到着しておらず、密かに捜索しているものの、行方が知れないと記されていた。
クレティアンのうちに不穏な予感がよぎる。なにかが繋りかけたような気がして、必死に記憶の断片を繋ぎ合わせようとした。
「なにかあったのでしょうか」
シャンティが到着していないと聞いて、オリヴィエは顔を顰めた。
考えられるのは、事故に遭ったか、夜盗や人攫いに襲われたか。
けれどクレティアンは手紙を読んだ瞬間、ふと記憶の泉の底から浮かび上がってくるように、脳裏にひとりの人物の姿がひらめいたのだ。
これまでどうしても思い出せなかった面影。
アベルを見たとき、だれかに似ていると思ったあのときの感覚。
到着しない馬車……デュノア家……フレーズ家……シャンティ・デュノア……金糸の髪に、淡い水色の瞳……アンリエット……。
彼女は――――。
「ああ……」
クレティアンは大きく息を吐く。
「大丈夫ですか、公爵様。お加減が?」
心配したオリヴィエがクレティアンのそばへ寄る。
「……思い出せそうだ」
オリヴィエが表情を険しくした。
「思い出せそう、とは……アベルに見覚えがあるとおっしゃっていたことですか」
「そう――もうずっと昔の、あれはアンリエットがまだ生きていたころ」
「…………」
「アンリエットは下の子を孕んでいて……夏が終わり、寒さが日に日に増してきていた」
クレティアンは記憶の断片を繋ぎ合わせて、記憶を辿る。掴んだ糸の先端を手繰り寄せれば、その先にあるなにかが思い出せる気がした。
「あの日はたしか、アンリエットは幼いリオネルを連れて、アベラール邸を訪れていた」
オリヴィエはじっとクレティアンの話を聞いている。
クレティアンは目を細めながら、深い記憶の底に意識を向けた。