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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
451/513

14







  鉄格子の向こう、暗がりでかろうじて見える使者の眼差しは冷ややかだった。


「ここから出して――」


 こんな恐ろしいところには、わずかな時間だっていられない。これまで幾度も危険な目に遭ってきたが、これ以上に恐ろしいところはなかった。

 ここは生まれ育った場所。

 父と母が住まう館。

 そのすぐそばにこのような地下牢があって、ひとり閉じこめられるなんて。


 監獄が怖いのではなく、彼らの心が恐ろしい。


「お父様やお母様に会わせてください、お願い」

「お二人はお会いにならないそうだ」

「嘘……嘘よ。わたしは二人の子よ。三年間も会えなかったのに、ひと目も会わないっていうの? お母様まで……」

「ベアトリス様は、おまえが死ぬのをお待ちになるそうだ」


 聞こえてきた声を、アベルはすぐには理解できなかった。


 ――母ベアトリスが、シャンティの死を待っている……?


「……なぜ」


 ぽつりとアベルは尋ねた。


「そこまでは、私の知ることころではない」


 すげなく言い放って使者は踵を返す。


「待って!」


 呼び止めたが使者は振り返らなかった。

 使者の足音が、地下牢の入口の鍵を閉める音と共に消えると、アベルは鉄格子を掴んだまま、ずるずると床に崩れ落ちた。


 呆然と暗闇を見据えていた瞳から、つうっとなにかがこぼれて頬を滑り落ちる。

 泣いているのだと気づくまでに時間がかかった。


 鉄格子の冷たさが、指先を凍りつかせる。


 普段からどこか距離を置くような雰囲気のあったベアトリスだが、アベルはその愛を信じてきた。

 そう、あの嵐の日も。


 病の床からベアトリスは弱々しく言ったのだ。

 ユリの花がほしいと。自分のために摘んできてほしいと。


 滅多に頼みごとをしてこない母から言われ、アベルは喜んで引き受けた。


 春夏のあいだ館の庭園に咲いていたユリはすでにすべて枯れ、茎から刈り取られていたので、アベルは館の外にある雑木林へ向かった。ここならまだ咲いているかもしれない。そう思って必死に探していたところを、突然、襲われた。


 ずっとこの日のことは考えないようにしてきた。


 ベアトリスは、館の花壇に植える花をこと細かに指示していたので、館にユリの花がないことを知っていたはずだ。

 アベルが館の外へ出たことは偶然だったと、信じようとしてきた。


 けれど。


 指先が震える。

 ――怖い。


 あの使者が口にしていた言葉。もしあれが真実ならば、三年前のことは本当に偶然だったのだろうか。

 狙いすましたように現れた暴漢は、あらかじめ用意してきた布でアベルの視界を塞ぎ、事に及んだ。あるいは顔を見られてはならない理由があったのか。


 アベルは怖かった。

 ベアトリスの本心を知ることが怖い。


 人の心が、怖い。


 こんな場所にアベルを閉じこめたのは、あの父と母なのか。


 そう思えば言葉にならない感情に心を支配され、アベルは鉄格子にしがみついたまま嗚咽を漏らした。

 けれどひとしきり涙を流すと、ふと視界に揺れるものをみとめた。


 屈みこんで泣いていたアベルの目に映ったのは、首から下がる水宝玉アクアマリン

 片手でそれに触れて、アベルはようやく落ち着きを取り戻す。


 最後に抱きしめてくれたときの、リオネルの腕の強さがよみがえり、アベルの胸は震えた。

 ――自分にはあの優しい腕がある。

 彼の暖かい眼差しがある。


 父と母に愛されなくとも、自分にはリオネルが、ベルトランが、ディルクが、マチアスが、レオンが、イシャスが、エレンが、カミーユが、トゥーサンンが、エマが、ヴィートが、ラザールが、ジュストが、ジークベルトが……他にも多くの仲間がいる。


 彼らがいてくれるかぎり、まだ生きていける。

 命に代えても守りたいものがある。だから、生きなければ。


 いつのまにか、ベルトランからもらった膝かけはない。アベルは寒さに凍える指先で、外套をぎゅっと身体に手繰り寄せた。


 脱出する方法を探そう。

 リオネルに会いたい。彼のもとへ戻ると誓ったあの約束を、果たさなければ。


 天井近くにある小窓から、ほのかな雪明りがこぼれていた。






+++






 冷え切った朝。

 カトリーヌは、暖かい朝食を伯爵夫妻のもとへ運んでいた。


 食堂の窯で焼いたばかりのパンと、卵料理、そして根菜のスープの香りにほっとする。

 すべて食事を整え終えると、カトリーヌは一礼して食堂の壁に立つ。二人が食べ終えるまで控えているのだ。食後には、果物のコンポートとチーズを配膳する手筈になっている。


 家臣らが見守る中、デュノア伯爵オラスは朝食をとりながらベアトリスに小声で話しかけた。


「着かないな」

「……え?」

「シャンティだ」


 ベアトリスは控えめな表情に、困ったような色を浮かべてみせる。


「そうですね」

「あちらからは、すでにこちらへ向かわせたと連絡がきている、もう着いていてもおかしくないころだが」

「雪道では、馬車が思うようには進みませんから」

「こちらから要求したからには、なにかあると困る」


 オラスは難しい面持ちになった。


「探しますか?」

「そうしたいところだが、我が館の者を動かすわけにはいかない。あれは死んだことになっているのだから」

「では、再びブレーズ家の者を動かしましょう」


 考え込む様子でオラスは食事の手を止める。


「遣わした使者も、わたくしの実家の者ですから、互いに顔を知っていますので探しやすいはずです。どうか遠慮なさらず」

「……頼めるか」

「もちろんです」


 ほほえんでから、ベアトリスはさりげない調子で尋ねた。


「あの子がここへ戻ってきたら、どうなさるのです?」


 オラスの顔に複雑な色が浮かぶ。葛藤が生じるのは、おそらく愛と憎しみが隣り合わせに存在するためだ。

 沈黙したオラスの表情を盗み見るベアトリスの目が、冷めた色を帯びる。


「まだ決めていない」


 ようやくオラスが短く答えた。あまりこの件については触れられたくないようだった。


「そうですか……」


 二人はそれからほとんど会話もなく食事をする。そんな伯爵夫妻の様子を見守っていたカトリーヌは、内心で首を傾げた。


 なにかあったのだろうか。

 会話はほとんど聞こえなかったが、なんとなく不穏な雰囲気だけは感じとれる。


 二人が最後まで食事をするのを見届けたあと、カトリーヌは館の外へ出た。

 シャンティの侍女をしていたカトリーヌだが、シャンティが三年前にこの館からいなくなってからは空いた時間が増えた。残されたカトリーヌの仕事は、主のいないシャンティの私室の掃除くらいで、あとは細々とした雑用をしている。


 今朝のように伯爵夫妻の食事の給仕を補佐することもあったし、ベアトリスがおめかしして夜会に出席するときにはその手伝いをした。あとは、シャンティがいなくなってから様子のおかしくなったエマの身の回りの世話をするのもカトリーヌの役目だったが、エマまでいなくなってしまってからは、ますます時間を持て余すようになった。


 まだだれも踏み荒らした跡のないデュノア家の周囲を歩く。


 シャンティも、エマも、どこへいったのだろう。

 大切な人たちが、この館からいなくなっていく。


 仕える主人がいないこと、そして仕事がないことは辛いことだった。


 いっそデュノア家で働くのはもうやめにしようかと思ったこともある。下級貴族の末娘であるカトリーヌは、他家の令嬢の侍女になることだってできたし、同じような下級貴族の騎士と結婚する生き方だってある。


 実家からは、どこそこの令嬢が侍女を探しているだとか、いい縁談があるだとか、あれこれとカトリーヌの身の振り方を案じて手紙を送ってくるが、けれど、やはりこのデュノア邸から離れることができなかった。


 カトリーヌが心に決めた主はシャンティだけだ。

 他の令嬢に仕える気はなかったし、どこかの騎士に嫁ぐ気にもなれない。雑用係になった今でもシャンティの侍女であるつもりだ。

 主人に似て頑固なのかもしれない。今更、他の生き方などしたくないのだ。


 元門番のジルから、シャンティが池で死んでいないのではないかと聞いてからは、彼女の帰りを信じてここで待ち続けている。



 館の裏にまわったのは、ここが最も人気ひとけがないからだ。

 エマがいなくなり、仕事がなくて時間をもてあましているときには、そんな姿を周囲に見られぬため、時折このあたりまできてひとまわりして館に戻った。


 今日もこうして旧館近くまできたが、このときカトリーヌはいつもと違うことに気づいた。


 足もとの感覚が少しおかしい。

 ふかふかの雪の下に、なにかがあるようだ。


 不思議に思って雪を少しばかり掘り起こしてみると、柔らかいものに触れる感触があった。手に触れたそれを引っぱり上げてみれば、雪にまみれた毛布か膝かけのようだ。


 ぱんぱんと雪を払うと、やさしい萌黄色の生地が見えてくる。

 浅く雪をかぶっていた様子からすると、落ちてからさほど長いあいだ放置されていたわけではなかったようだった。


 ――こんな場所に膝かけ?


 いったいだれのだろう。


 カトリーヌは周囲を見回す。

 目に入るのは、真白な庭園の一部や薄暗い木立、それに旧館の黒い壁や、その真下にある不気味な鉄格子だけである。


 こんなところに、こんな綺麗な膝かけを落としたのは、いったいだれなのか。

 柔らかい生地には、上等な素材が使われているようだ。侍女や女中のものとは思えなかったが、ベアトリスがこのような色の膝かけを使っているのを見たことがない。


 膝かけを抱きしめるようにして、カトリーヌはおそるおそる旧館の建物に近づいた。


 旧館は、かつてデュノア邸に仕える者のなかでも、身分の低い者が暮らしていた建物だ。食糧や武器庫として一部は使われているが、使われていない部屋も多い。さらにその地下にある監獄には、近づく者もないだろう。


 旧館の下部には、けっしてだれも足を踏み入れない回廊がある。地下牢の窓が、回廊の地面に沿って続いているのだ。


 幼いころシャンティやカミーユはそのあたりで肝試しをしていたが、伯爵やトゥーサンによく怒られていた。


 そこへ近づいてみたのは、カトリーヌの勘のようなものである。

〝なにか〟がある気がした。


 恐ろしくないわけがない。

 けれど、なけなしの勇気をふりしぼることができたのは、拾った膝かけが暖かく、また、優しい色をしていたからだ。膝かけには、だれかの大切な人を思いやる心が、込められているような気がした。


 回廊へ足を踏み入れたとき、カトリーヌは思わず足を止める。

 かすかに聞こえるのは、だれかの歌声。



 ひなげしがこの丘を埋めつくしたら

 どうか……


 どうか あなた

 わたしを迎えにきてください


 甘い言葉を 花束に添えて

 どうか あなた

 わたしを迎えにきてください


 とても長いこと

 それは 気が遠のくほど 長いこと

 あなたを待ちつづけているのですから



 悲鳴を上げそうになった。

 幽霊がいる。この監獄には幽霊がいて、歌を口ずさんでいる。かの有名なローブルグの恋歌を。


 逃げ出そうとするが、足がすくんでうまく走れない。そのまま回廊の石畳に膝をついた。

 哀しげな歌は続いている。


「だ、だれか……」


 助けを求めようとしたとき、ふとカトリーヌは冷静になった。

 聞こえてくる歌声に、聞き覚えがあるような気がしたからだ。


 幽霊に知り合いはいないが、たしかにこの鈴を転がすように澄んだ声をカトリーヌは知っていた。


「シャンティ様……?」


 カトリーヌは、歌の聞こえてくるほうを振り返る。


 でもまさか。

 シャンティがこんな場所にいるはずがない。


「……もしかして、お亡くなりになって、幽霊になって館へ戻られたのですか?」


 答える声はなく、ただ歌声がかすかに聞こえていた。


 幽霊は恐ろしいが、シャンティの霊になら会いたい。どんな形でもいいから、最愛の主に会いたかった。


 導かれるように回廊の奥へと進む。


 黒々とした塀に囲まれ、鉄格子の小窓が足もとに並ぶ恐ろしいこの空間に、身が竦んだ。

 まだ朝だというのに、鉄格子の向こうは、恐ろしいほどの暗黒。


 それでも声のほうへ向かう足は止めない。


 幽霊でもいいから、シャンティに会いたい。

 カトリーヌを突き動かしているのは、ただひとつ、その思いだけだった。



 風に揺れる 紅の火影

 震える胸を焼きつくす 無限の花弁


 深い眠りから

 どうか あなた

 わたしを目覚めさせてください……









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