13
そろそろ戻ろうと言ったのは、これまで黙ってそばについていてくれたベルトランだ。
「そうだね」
リオネルは大運河の氷から目を離さずに答えた。
「……なにを考えてる、リオネル」
「これでよかったのだろうかと思って」
わずかな間をおいて、ベルトランはぼそりと声を発する。
「事態が複雑すぎて、おれのような単純な男にはよくわからないが、少なくとも、本人が戻りたいというのを、無理に引き止めることはできない」
「そう、それはわかっている」
わかってはいる、けれど、リオネルは政務がまったく手につかなくなっていた。
アベルと別れたのは一昨日の夜のこと。
気がつけばアベルのことばかり考えている。
思いも寄らぬ告白と共に訪れた別離だった。アベルが好きだと言ってくれたことも、その直後にいなくなってしまったことも、未だに信じられない。
恋愛など微塵も関心のなさそうだったあのアベルから、想いを告げられたのだ。
生涯片想い覚悟の恋だった。振り向いてもらえるなどとは、少しも期待していなかった。
だからこそ、これまでにも好きだと幾度か言われていたのに、まったくその意味に気づけなかった。
夢にさえ見なかったほどの幸福。
生まれて初めて愛した女性と、想いが通じ合った。
それなのに。
避けられなかった別れ。
現実は残酷だ。家族のもとへ戻りたいというアベルを、本当は送り出したくなかった。後悔が波のように押し寄せてくる。
これ以外に方法はなかったはずなのに、気づけば自問している。
本当にこれでよかったのだろうか。
家族に会いたいというのは、アベルの本心だったのだろうか。
これまでの生き方を捨て、新たな人生を歩んでいたアベルが、いくら父親から手紙をもらったからとはいえ、家に戻りたいと望むものだろうか。
あるいは、本人は否定したものの、やはりブレーズ家とベルリオーズ家の対立を怖れ、リオネルの立場を守るために、自ら欲しない道を選んだのではないか。
そんな答えの出ぬ問いが頭をめぐって止まらない。
そう、答えが出ないことはわかっている。出るはずない。なぜならデュノア家にはデュノア家の事情があり、きっとアベルにはアベルの家族の愛し方がある。それをリオネルが推し量ることができるはずない。
行こう、とベルトランが再び声をかけてくるが、リオネルは動けなかった。
「……昔、この大運河で溺れたディルクを助けたとき、水のなかで見たのはやっぱりアベルだったような気がするんだ。アベルの幻を、おれは見た」
「それは――」
ベルトランが言いかけたとき、気配を感じて二人は振り返る。
降りしきる雪のなか、つけたばかりの足跡を消されながらこちらへ歩んでくるのはジュストだ。
「リオネル様」
そばまで来ると、ジュストは文句のつけようのない完璧な仕種で一礼した。
「……このような雪のなかでは、お風邪を召されます。どうかなかへ」
「ああ」
リオネルは表情を緩める。
「戻ろうとしていたところだ」
「そうだったのですか、余計なことを申しました」
「いや、戻ろうとは思っていたものの、動けないでいたからちょうどいい。ありがとう」
礼を言われたジュストは恐縮して再び頭を下げた。
「行こうか、ベルトラン」
リオネルを先頭に、三人は雪道を歩きはじめる。長靴がまたたくまに雪に埋もれていった。
「リオネル様」
声をかけられ、リオネルはジュストを振り返る。
「……おうかがいしてもよろしいでしょうか」
「なんのことだ?」
少し躊躇う素振りをみせてからジュストは言った。
「その――、アベルは本当に王都の別邸へ向かったのですか?」
思いも寄らぬ質問を受け、リオネルは問い返す。
「なぜそんなことを聞く」
「申しわけございません……そうであったらいいと思っていますが、違うような気がしてならないのです。アベルのことが心配です」
ジュストは敏い。なにか感じるものがあったのだろう。
「杞憂ならよいのです。つまらぬ詮索をしたことをお許しください」
リオネルは沈黙したまま雪のなかを歩き続けた。ジュストも黙ってついてくる。彼が心からアベルのことを案じてくれていることを、リオネルは知っていた。
彼がどこか変わったと感じたのは、アベルを踊り子としてジェルヴェーズのまえに出したころからだろうか。アベルが女性だと気づいたのかもしれない。
あるいは勘の鋭いジュストのことだ。リオネルの想い人であることまで気づいた可能性もある。近頃ジュストは、まるで自分の守るべき相手であるかのように、アベルのことを気にかけてくれていた。
そしてそれは、リオネルにとってありがたいことだった。
今の彼なら信頼できるという確信が、リオネルにはある。いざというときには必ず助けになってくれるだろう。
「ジュスト」
名を呼べば、背後でジュストが顔を上げる気配がある。そのジュストを振り返らぬまま、リオネルは確認した。
「他言しないと誓うか」
「はい」
短い返事ながらも、その声にはたしかな誠実さと緊張が感じられる。リオネルは静かに告げた。
「アベルが女性だということに、気づいているのだろう」
ややためらう様子でジュストは答える。
「……はい」
返事を聞き、リオネルはひとつうなずいた。
「ジュストも知ってのとおり、おれはアベルと王都で出会った。彼女はずっと出自を語らなかったが、最近になって判明した。――貴族の出身だったんだ」
「貴族?」
「デュノア家のご令嬢、シャンティ殿だ」
息を呑む気配が伝わってくる。リオネルは歩く速度をわずかに緩めた。
「彼女は、ディルクの婚約者だった」
――死んだはずの、ディルクの婚約者。
「…………」
「おれがアベルの素性を知ったのは、つい最近だ。過去になにがあったのか詳しいことは分からない。けれど彼女は生きていて、すでに貴族令嬢としての生き方を捨て、〝アベル〟として生きることを決意している。おれもまた、たとえどんな過去があったとしても、この先もずっとアベルにそばにいてほしいと思っていた」
「はい」
「だが、二日前に父上のもとに手紙が届いた」
「手紙ですか」
「デュノア伯爵から――娘を返してほしいと」
「なぜ……」
「どうして知られたのかはわからないし、デュノア伯爵の思いもおれには測り知れない。ただ、アベルは手紙を読んで戻ることを決意した」
「ではアベルはデュノア領へ?」
リオネルはうなずいてみせる。一昨日の深夜に発ったのだから、今日の夜か、遅くとも明日にはデュノア邸に着くだろう。
「そんなことが――」
冷静なジュストでさえ、すぐには考えを整理できないようだ。
それもそのはず、後輩従騎士であるアベルが、ブレーズ家の血を引く貴族令嬢で、しかも亡くなったはずのディルクの元婚約者だったのだから。すぐに事実を受け入れることは難しいだろう。
「……アベルは、もう戻らないのですか?」
「伯爵夫妻を説得してここへ戻ると約束してくれた」
「そうですか」
かすかな安堵と、けれど事態の複雑さからの戸惑いがジュストから伝わる。
「けれど」
言いかけてやめたリオネルの横顔へ、ジュストが視線を注ぐ。
「ご不安、ですか?」
「…………」
「出過ぎたことを口にし、申しわけございません」
「いや、ジュストの言うとおりだ。――もうアベルが戻ってこないような気がしてならない。そして、それをアベルもわかっていたのではないかという気さえする」
「約束したのに?」
「アベルは約束破りの常習犯だから」
ジュストが目を丸くすると、リオネルは力なく笑った。
「すべておれを守るときだ。おれを守るためなら平気で嘘もつくし、約束も破る。アベルは倫理や常識を超えておれを守ろうとしてくれる」
「……そうですね」
ああそうだ、とリオネルは思う。
アベルが倫理や常識を超えて自分を守ってくれるなら、自分もそうやって彼女を守ればいい。
――今すぐあとを追いかけて、アベルと共にデュノア邸へ行こうか。
リオネルは目を閉じ、心のなかで自分自身を笑った。それができたらこんなに悩んではいない。
ベルリオーズ家の嫡男であるリオネルがアベルのためにデュノア家へ赴けば、ブレーズ家出身の伯爵夫人とアベルの仲に深い亀裂が入る。デュノア家でのアベルの立場はさらに苦しいものになるだろう。
リオネルが追いかけることは、アベルを守ることにはならない。
手を離したくなかった。
――それなのに、手を離してしまった。
追いかけたい。
――それなのに、会いにいくこともできない。
自分は正真正銘の馬鹿だとリオネルは思う。
それでも、とジュストは言った。
「アベルが生まれ育った場所で再び親子として暮らせるなら、それでもかまわないような気がします」
ベルリオーズ家に、デュノア家の令嬢が住まうということの厳しさを、ジュストもよく理解している。だからこそ慎重に言葉を選ぶ様子で続けた。
「ここへ戻ることができれば、それに越したことはありませんが、もしそれが叶わなくとも、アベルが危険な目に遭うこともなく、穏やかに暮らしていれば、いずれまた会うこともできるのではないでしょうか……」
むしろ貴族令嬢としての立場のほうが、リオネルと結婚できる可能性はいくらか高いのではないか。そう考えるのは自然なことだが、さすがにジュストもそれをはっきりとは口にしなかった。
「そうだね……けれどもし戻ってきたときには、これまでどおり接してやってほしい。アベルはそれを望んでいると思うから」
「もちろんです」
「ありがとう」
そっとほほえんで、リオネルは服についた雪を払い、建物のなかへ入る。
今は、アベルの言葉を信じて待つことしかできない。
リオネルは目を閉じ、大きくゆっくりと息を吐き出した。
+++
冷え切った馬車のなかで、アベルはベルトランからもらった毛布を、首もとまで引っ張り上げる。
ベルトランがくれた毛布は温かい。今は兄のように慕うベルトランの優しさを感じながら、アベルはこれまでのことを思い出していた。
別れ際のリオネルの表情や声、手の温かさや、抱きしめる力の強さ……。
安心できるその場所から離れ、アベルはデュノア邸へ向かっている。
デュノア邸を追い出されたのはおよそ三年前のこと。
それは、追い出された前後の出来事も含め、アベルにとっては思い出したくもないほど辛い過去だった。
嵐の日に襲われたことも、ディルクに婚約破棄されたことも、腹に子がいることを知られて父オラスが激怒したことも、そうして追い出されたあとの過酷な日々も……。
生きる望みを失ったが、すべてリオネルの存在によって救われた。
繰り返し手を差し伸べてくれたリオネルに、生きる希望を見いだした。
けれどその手を離す決意をしたのはアベル自身だ。
……デュノア邸に戻りたかったかといえば、そうではない。叶うならずっとリオネルのそばにいたかった。
けれど、リオネルを守るためにはこうしなければならない。すべてが明るみになってしまった今、アベルがリオネルの元にいることは彼の立場を揺るがすことになる。さらには、大公爵家どうしの争いの火種となるだろう。
リオネルに迷惑はかけられない。リオネルへの気持ちだけが、アベルを毅然とさせていた。
大切なあの人のためならば、怖いものなどない。
どんなことにだって耐えられる。
首にかかる水宝玉の首飾りを、アベルはうつむきながら両手で握りしめた。
ベルリオーズ邸を発ってから、見知らぬ無口な使者との孤独な旅を続けるあいだ、リオネルにもらったこの首飾りと、ベルトランに渡された毛布が、アベルの心の支えとなっていた。
時折大きく揺れながら進む馬車が、徐々に減速していくのを感じて、アベルは窓の外を見る。と、篝火のなかに懐かしい門が見えてきた。
この三年のあいだ、一度も訪れなかった生家である。
デュノア邸に到着したのは、ベルリオーズ邸を発ったときと同様、吐く息も凍るような深夜だった。
鉄柵門のまえで馬車はいったん止まり、使者が衛兵とひとこと言葉を交わすと、すぐに門は開かれる。
アベルを乗せた馬車は、雪のなかを音もなくデュノア邸のなかへ入っていった。
三年前は泣き叫び、すがりついて懇願しても入れてもらえなかったデュノア邸の敷地内に、今日はこんなにも簡単に入れるということが不思議だった。
母やエマは元気だろうか。
世話焼きの侍女カトリーヌはまだいてくれているだろうか。
懐かしい面々を思い出しながら、不安と期待の入り混じった気持ちで、アベルは窓の景色に見入った。
三年前はとても大きく見えた館が、今はこぢんまりと感じられる。
前庭も、木々も、すべてが違って見えた。
こんな場所だっただろうか。
それとも、アベルが様々なものを見てきたから感じ方が変わってきたのだろうか。カミーユがそばにいれば、まえと同じように感じられただろうか。
馬車は玄関を通りすぎ、館の背後へ回っていく。こんなほうへ行ってどうするのだろう。
使用人らでさえ滅多に足を運ばない旧館の裏手で、ようやく馬車は停まった。
不吉な予感と共に、アベルは旧館とは反対側の扉に手をかける。けれど、扉は開かない。外側から鍵がかかっているのだ。
慌てて取手を揺すっていると、向こう側で鍵を開ける音がする。
咄嗟にアベルは身を引いたが、扉が開くほうが早い。片手を掴まれ、引きずり降ろされた。
「放してください」
「貴女が逃げないようにと、ご命令です」
「こんなことをしなくても、逃げたりはしません」
「では、黙って歩いてください」
そう言って使者はアベルの肩を押して先に歩かせる。かろうじて敬語を使っているものの、扱いはまるで罪人だ。連れていかれたのはその扱いに相応しく、旧館の脇にある鉄格子のはめられた扉のまえだった。
このあたりは、幼いころカミーユと肝試しに幾度か訪れたことがあるが、そのたびにトゥーサンに叱られたのであまり近づいたことはなかった。成長してから知ったのは、ここはかつて監獄だった場所だということだ。
まさかと思って使者を振り返れば、途端に強い力で腕を掴まれ、口を塞がれる。
「んん――!」
叫ぼうとするが、くぐもった声しか出ない。
強い力で抱え込まれ、鉄格子の扉の奥――階下へと連れられていく。
迷路のようになった地下牢は、いくつもの小部屋に分かれていた。暗く、監獄内に人がいるのかいないのかもわからない。ただ、内部は静まり返っていて、もし人がいたとしても生きている者の気配はなかった。
力いっぱいもがいたが、アベルを押さえつける使者の力は少しも揺るがない。そうしてようやく解放されたときには、地下牢の最奥の一室に乱暴に放りだされていた。
はっとして起きあがり、小部屋の扉口へ駆け寄ったが、すでに扉は閉められ鍵をかけられている。
「出して!」