第二章 凍える夜の祈り 12
「街が見えてきましたよ、カミーユ様」
トゥーサンの声にカミーユはほっと息を吐く。カミーユが吐いたその息は、白く染まり、宙に散って消えた。
手足は冷え切り、寒風に晒され続けた顔は真っ白だ。
旅路はともかく〝厳しい〟のひと言に尽きる。同じ馬上の旅でも、カミーユがデュノア邸から王都へ移ったのは春のこと。真冬の旅は、想像以上にきつかった。
「大丈夫ですか」
けれど弱音を吐いてなどいられない。
自分で決断した旅だ。エマを救うため、できることをやると決めたのだから。
「平気だよ。まだ日没までは時間があるから、ここで休憩したらもう少し先へ進もう」
カミーユはそう言ったが、トゥーサンはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、カミーユ様。この季節は、あと一時間もしないうちに暗くなります。今日はこの街で泊まりましょう」
見えてきた街はエマ領コカール。
カミーユは知る由もないが、アベルがかつてサミュエルと出会った街だ。
「このあたりは積もった雪の量が多く、馬の疲労が激しいようなので、明日は一日休んだほうがいいかもしれません」
「そんな……、先を急ぎたいんだけど」
「馬だけではありません。カミーユ様の疲れも相当なものとお見受けしました。デュノア領に到着してからも母を探すのでしょう? ここで体調を崩してはなんにもなりませんよ」
年長者のトゥーサンに言われては、従うほかない。
カミーユは不満を顔に張り付けながらも、渋々了承した。
王都を出てすでに十日が経つが、まだデュノア領には到着しない。冬のあいだは日の出が遅く、また日の入りが早いので、明るいうちに移動できる距離が限られているためだ。
さらに降り積もった雪のせいで、馬が軽快に走れないだけではなく、疲労が早い。
トゥーサンほどの騎手ならともかく、剣も馬もどちらかといえば苦手なカミーユには、真冬に短期間で長距離を移動するのは難しいことだった。
「……と、一日休むと決まったのはいいのですが、ビゾン領やエマ領はあまり治安がよくないと聞きます。それでも、この通りは比較的安全な雰囲気ですね。看板が出ているあの宿屋をあたってみましょう」
街を囲う城壁のなかへ入ると、しっかり者のトゥーサンはすぐに宿にあたりをつける。これまでもトゥーサンの宿選びには間違いがなかった。
確保したばかりの宿の寝台に座りつつ、トゥーサンはすごいね、とカミーユは感心してつぶやく。
「なんでも知ってるし、先のことが読めるし、失敗しないし」
「そんなことありませんよ。まだ知らないことはたくさんありますし、先を見誤ることもあれば、失敗だってします」
荷物を並べながらトゥーサンはなんでもないように答えた。
「そうかな? あまり見たことないけど」
「私はなにも知らなかったからこそ、これまで数え切れないほどの恥をかきながら新たなことを知り、数え切れないほどの失敗をしてきたからこそ経験を重ね、そうして少しましになったというだけです」
「じゃあ、おれはこれからたくさん恥をかいて新しいことを知り、たくさん失敗しながら色々経験して、学んでいかなくちゃならないわけだ」
「そういうことです」
「長い道のりだね」
思わずカミーユは溜息をつきたくなる。この先、どれだけ恥ずかしい思いや挫折を味わわなければならないのだろう。
「大丈夫です、避けたいと思っていても、必ず通る道のりですから」
「あまり慰めになってないけど」
「本当に困ったときは、命に代えても私がお助けします」
断言するトゥーサンの横顔を、カミーユはちらと見やった。
「なんですか?」
「なんでもないよ」
いったんはカミーユへ視線を向けたトゥーサンだが、すぐにもとの作業を再開させる。その様子を見守りながらカミーユは口を開いた。
「いやさ、いつかそんなトゥーサンのことも守れるようになりたいなって」
「…………」
「まだ程遠いけどさ」
「お気持ちはとても嬉しいですが、カミーユ様に守られるようになっては、私の存在意義がなくなってしまいます」
「本気でそんなふうに思ってる?」
存在意義がなくなる、などとトゥーサンが言うので、カミーユの声は少し怒ったような調子になる。
「トゥーサンは従者である以前に、おれや姉さんの大事な家族であり、友人でもあるんだ。守って当然だろう? 存在意義がなくなるなんて言わないでよ」
作業の手を止めてカミーユの台詞を聞いていたトゥーサンは、台詞が終わると、かすかにうつむいて口元を笑ませた。
「……ありがとうございます。私は幸せ者ですね」
「トゥーサンがいてくれて、おれだって幸せだ」
そう言ってから、カミーユは突如恥ずかしくなって、話を逸らす。
「あー、なんかおなかが空いたから、ちょっと早いけど夕飯でも食べに行こうよ」
「そうですね」
トゥーサンは笑い、今夜はなにを食べようかと話しながら二人は宿を出た。
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街なかへ繰り出したところで、カミーユの目に留まったのは、煮詰めた果物の瓶が並ぶ店。
「ねえ、なにか甘いものでも食べない?」
「ご飯前ですよ」
「少しくらいいいだろ」
強引に押し切ってカミーユは店に近づいた。
「いらっしゃいませ」
出迎えたのは、シャンティほどの年頃と思われる娘だ。
「たくさんコンポートがあるんだね」
「うちは八百屋なので。冬には売れる野菜や果物がなくて、こうして春から秋にかけて作ったコンポートを冬に売るんです」
「へえ、八百屋だったんだ。気づかなかったよ、ねえ、トゥーサン」
はあ、とトゥーサンは気のない返事だ。
「これは木苺、これは林檎、これは葡萄……どれもおいしそうだね!」
「ありがとうございます」
八百屋の娘は嬉しそうに笑う。
「林檎にしようかな、でも……ああ、そうだ、もし梨とかあれば食べたいんだけど」
「梨? ありますよ……あれ、ここには置いてないみたい」
棚を探してから、娘は店の奥に声をかけた。
「お兄ちゃん、梨のコンポートが出ていないみたい!」
するとしばらくして大きな木箱を両手で抱えた、体格のよい青年が現れる。カミーユやトゥーサンがいることに気づくと、明るい調子でいらっしゃいと言った。
「たくさん奥にしまってあったよ、イレーヌ」
「あってよかった、お客さんは梨がいいんだって」
「梨?」
青年が顔を上げて、はじめて正面からカミーユを見た。視線が合うと、青年はかすかに瞳を大きくして、それからなにか思い至る面持ちになる。
「あ、梨のコンポートが二つほしいんだけど」
カミーユの注文にあわせて、トゥーサンが財布を取り出す。
「梨が好きなのか?」
「え? 好き……というか、身近な人が好きだったから、おれもよく食べるようになって」
へえ、と言いながら青年は瓶を二つカミーユに手渡す。
「代金はいいよ」
え、とカミーユは目を丸くする。トゥーサンも開きかけていた財布から青年へ視線を移した。
「あんたはおれの恩人に、なんとなく似てるから」
「いや、ちょっと待って。よくわからないよ。似てるからってお金を払わないわけにはいかないから!」
「いや、似てるってほど似てもいないんだ。ただ、なんとなくその人を思い出して。もしかしたらあんたの言う〝身近な人〟はおれの恩人かもしれない」
「そんな。まさか」
思わずカミーユは笑った。青年も笑ったが、それでも瓶をカミーユの手に持たせる。
「わかってる。いいんだ、考えてみればおれはその人のことをなにも知らないし、あんたがここに来たのはなにか縁あってのことだと信じさせてくれ。返しきれない恩があるから、せめてものおれの気持ちだ」
「そんなさ、おれに恩を返されても困るよ」
カミーユの言葉に、青年が真面目な口調で返した。
「……賭博ばかりだった父が酒の中毒で死に、今は妹と二人で力を会わせてこの八百屋と病気の母を守っている。おれは平凡な幸せを、再びこの手に取り戻すことができた。もう会えないかもしれないけれど、いつか恩人に伝えたいんだ。心配しないでほしい。そして、ありがとうって」
困った顔でカミーユは青年を見返した。
「伝えてあげたいところだけどさ。その恩人はなんていう名前?」
「いいんだ、信じていたいから名前なんて確認しなくても」
「ふうん」
そこまで言うならと、カミーユが背後を振り返ると、トゥーサンが肩をすくめた。
「コンポート代は払いましょう。もしどうしてもというなら、代わりに、この寒さのなかで飢えている者へ、ひと口ずつでもいいのでコンポートを食べさせてあげてください。もし貴方の言う相手が本当にこの方の、梨の好きな身近な方ならば、なによりもそうすることを望むと思うので」
黙りこんだ青年を、妹と思しき娘が見上げる。
すると青年が負けを認めるように笑った。
「わかった。代金を受け取るよ」
カミーユもトゥーサンもほっとした表情になる。コンポート代を支払い、二人は青年とその妹に別れを告げて店を立ち去った。
客の後ろ姿が見えなくなると、青年――サミュエルはやわらかくほほえみ、そして同時に込み上げてくる涙を密かにこらえる。
顔を背けたサミュエルに、妹のイレーヌが不思議そうな面持ちになった。
「お兄ちゃん?」
「……今のお客さんは、本当にアベルの親戚かもしれないね」
「どうして?」
サミュエルは瓶詰にされた梨を見つめる。
「救貧院に、今度コンポートを届けよう」
きっとアベルなら、先程の客が言うとおりそうすることを願うだろうから。
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ベルリオーズ邸の建物や庭を、降りしきる雪が白く霞ませる。
だが、そのような天候にもかかわらず、鋭い金属音が響き渡っていた。むろん鍛錬するのは、ベルリオーズ家の勇猛な騎士らである。
雪のなかで戦うのもまた訓練であり――いや、むしろ普段よりも訓練に身が入っているのは、エストラダとの戦いを見据えているからだ。
剣を撃ちあわせていると、話し声が聞えてくる。
普段なら気にならないのに、どういうことかこの日にかぎっては、ジュストは自らの集中力が途切れるのを感じた。
「……しかし、王都とシャサーヌのあいだを行ったり来たりと忙しいな。いったいなんの任務なんだ?」
ラザールの声は大きいので、少し離れた場所でクロードに剣を指南してもらっているジュストの耳にも、よく聞こえてくる。
一昨日に突然〝王都でやらなければならない任務ができた〟と挨拶してまわっていたアベルのことを言っているらしい。ジュストのもとへも、アベルは挨拶にきた。
「さあ、しばらくあちらに滞在すると言っていましたけど」
と、ラザールと剣を撃ち合わせていた相手の騎士が首をひねる。
「リオネル様のおそばを離れるなんて、珍しいからな」
ラザールは気がかりげに言った。
そう、ジュストも今回の件については不思議に思っている。
アベルがリオネルのそばを離れ、単独で王都へ赴くなど珍しい。話を聞いたときに直接本人に尋ねたが、詳細は言えないが心配することはない、とだけアベルは言っていた。
「ジュスト」
「あ、すみません」
聞こえてくる話のせいで、鍛錬に集中できない。おそらく他にもそういった騎士はいるだろう。そのことに気づいたクロードは、いったん剣を鞘に収めてラザールと若手騎士のもとへ向かう。
「二人とも、鍛練中に無駄口をたたくんじゃない」
クロードが現れると、ラザールと鍛錬の相手は練習の手を止めた。
「おお、そちらまで話が聞こえたのか?」
「ラザール殿の声は大きいからな」
「クロード殿は知っているのか、アベルの王都での任務とやらを」
「私語を慎むように言ったはずだが?」
「気になって集中できないんだ」
もっともらしい口実をつけてラザールが剣先を完全に地面へ向ければ、クロードはしかたなさそうに口を開いた。ジュストもさりげなくそばへ寄って、話がしっかり聞こえる位置へくる。
「任務の内容は私も知らない。そのうちリオネル様も行かれるようだから、ローブルグとの同盟に関することか、ユスターとの戦後処理に関することか……いずれにしろ、今回はアベルが適任とされたのだろう」
「いつ戻ってくるのだ?」
「長期間になるらしいとは聞いているが、具体的な時期は伝えられていない」
「そうか、寂しいな」
顔に似合わず寂しがりのラザールがしんみりするのを横目に、ジュストはかすかに引っかかるものを感じていた。
アベルが長期間リオネルのもとを離れ、ひとりで王都へ行くとは。
それも、こんな突然に。――なんだか不自然だ。
「まあしかたがないだろう。そのうち戻ってくるから案じるな。おまえたちはあれこれ詮索せずに、鍛錬に励め」
はいはい、とラザールは再び剣を構える。二人が練習を再開するのを見届けてから、クロードはジュストへと向きなおった。
「ジュスト、すまないが、そろそろ視察に行っていた者たちが戻ってくる時間だ。私はいったん館へ向かうから、おまえは他の騎士と鍛錬を続けてもいいし、少し休憩していてもかまわない」
「わかりました」
しっかりとジュストが返事をすると、クロードはひとつうなずいて騎士館の建物内へ戻っていった。
ジュストは鍛錬場をあとにして、粉雪の舞う人気のない庭園へ向かう。休憩するほど疲れていないが、鍛錬を続ける気分でもなかった。ラザールではないがアベルのことが気になっている。
アベルがベルリオーズ邸を発ったのは、昨夜遅くだ。
なぜそんな時間に発つ必要があったのか。見送った者は、ジュストが知る限りリオネルとベルトランくらいしかいない。あるいは、出立を他の者に見られてはならないわけでもあったのか。
だとすれば、王都の別邸に向かったという話は甚だあやしい。
別邸に向かうなら、堂々と皆が見守る中で発ってもかまわないではないか。
そしてなにより、急に決まったということが腑に落ちない。アベルが皆に嘘をついてまで、急に長期間どこかへ行かなければならない事態になったのだとすれば、なにか悪いことが起きているのではないかという不安がよぎる。
そんなことを考えながらしばらく雪のなかを歩いていると、景色の先に珍しく人の姿をみとめた。
凍った大運河の脇に佇むのはリオネルだ。むろんそばには、いかなるときでも主人を守るベルトランが従っている。
どこか思い詰めたようなリオネルの雰囲気からは、話しかけないほうがいいような気がして、ジュストは足を止めた。
けれど、立ち止まってすぐに気がつく。この寒さのなか、外套を羽織っているとはいえ、動かずにただ立っているというのは身体に悪い。
本人の意志といえども、このままリオネルを凍った大運河のまえに立たせておくわけにはいかない。ジュストはそう判断してリオネルのもとへ向かって歩きだした。
いつも誤字脱字報告頂きありがとうございます。大変助かっております。