11
深夜になっても、暖炉の火は勢いよく燃えている。
真夜中のアベラール邸。
これまで黙ってそばで見守っていたマチアスが、ついに主人に声をかけた。
「お疲れになったでしょう、そろそろお休みになってはいかがですか」
長いこと執務机に向かっていたディルクは、羽ペンを机において大きく伸びをする。
「あーあ、本当に疲れた」
館に戻ってからディルクは、休む間もなく仕事に明け暮れている。昼間は重要な裁判に出席したり、挨拶に訪れる有力者らと面会したりで忙しく、溜まりに溜まった政務を夜通し片づける毎日だ。
片づけても片づけても、マチアスが次々に書類の束を運んでくるのできりがない。
「今日はこれでやめとくよ。ああ、あとどれくらい案件は残ってるんだ?」
「知りたいですか、ディルク様。本当に知りたいですか?」
「……やっぱりやめとく」
顔を引きつらせて答えたディルクは、暖炉のそばの肘掛け椅子に深く腰掛けて何やら本を読みふけっている友人へ視線をやった。
「レオンも、よく朝から晩まで読んでいられるな」
すると、本からは目を離さずレオンは言う。
「……ローブルグやユスター国境近くなると、ベネデットの写本が多く書庫に所蔵してあって素晴らしい」
「国境だからじゃなくて、ベルリオーズ家やアベラール家だからだよ」
「そうか、選ぶ本の趣味がいいな」
適当な相槌に、ディルクはふうとため息をつく。
「いいな、第二王子様は気楽で。領主が政務の処理で忙殺されているときに、のんびり読書か」
ディルクに嫌味を言われると、レオンは我に返ったように本から顔を上げた。
「いや、これでもいちおう西方の国境視察に訪れているのだ。明日は国境沿いでも見て回ってくる」
「いっそローブルグ領内に入って、恋しい相手に会ってきたらどう?」
そう提案するディルクは、仕事の憂さを晴らす手段を見つけたとばかりに、にやにやと口元が緩んでいる。一方、今日のレオンは冷静だ。
「ローブルグ領内に、恋しい相手などいない」
冷ややかにそう返した。
「またまた」
「マチアス、こいつの舌を引き抜いてくれ」
命じられてマチアスが即答する。
「かしこまりました」
「おい、マチアス。おまえ、それでもおれの従者か」
ははは、とマチアスが笑う。
「冗談ですよ」
「目が本気だったような……」
「マチアスがそんなことするはずないだろう」
自分で命じておきながらレオンは平然とそう言い、読みかけの本に布製のしおりを挟んで、小卓のうえに丁寧に置いた。
「ベルリオーズ邸では、ぺらぺらとうるさいディルクがいなくなって、リオネルもアベルも心静かに過ごしていることだろう。うらやましい限りだ」
「そんなに静寂がいいなら、地下墓地でも行ってきたら? おれもいないし、静かだぞ」
レオンがすぐさま苦い面持ちになる。
「地下墓地では、何日間かひとりで過ごしたことがある」
「そういえば、そんなこともあったね」
昨年の春先のころ、レオンはたしかにジェルヴェーズに王宮の地下墓地に幽閉され、アベラール邸まで逃げてきたことがあった。
「地下墓地は静かかと思いきや、意外とご先祖たちが真夜中に起きだしてきて、酒宴を催すからうるさいのだ。もうけっこう」
どこからどこまでが冗談なのか判じかねるレオンの台詞に、ディルクは顔を引きつらせる。
「しばらくしたら、またディルクもいっしょにベルリオーズ邸へ行き、あちらの書庫でのんびり過ごそう」
ベルリオーズ邸の書庫と聞いて、びくりとしたのはマチアスだ。
整理整頓など朝飯前のはずのマチアスだが、ベルリオーズ邸の書庫といえば、片づけた端からアベルが滅茶苦茶にしたせいで、少しも片づけられなかったことがある。ある意味では、それがマチアスには恐怖の経験として残っていた。
そんなマチアスの気持ちにはまったく気づいておらぬ二人は、かまわずに会話を続ける。
「だめだよ、レオン。ようやくリオネルはアベルとゆっくり過ごせているんだ。リオネルのことを思うなら、そっとしておいてやれ」
「リオネルのことを思うと、なぜ二人でゆっくりさせてやる必要があるのだ?」
「わかるだろう?」
「なにが」
「もしかして、気づいてないのか?」
「なにを」
「……アベルは女性だとわかっただろう?」
「それがなんだというのだ」
驚きを通り越して、ディルクは呆れた様子だ。
「本当に気づいてないのか。信じられないな」
「だから、なんのことだ」
「鈍いな、おまえも。リオネルはずっとアベルに片想いをしているんだよ」
さらりと告げた次の瞬間、レオンが椅子からずり落ち、床に手をついた。
「……そんなに驚かなくても」
「驚くに決まっているだろう!」
どうにか起きあがりながらレオンが叫ぶ。
「嘘だろう!」
「皆知ってるよ」
「皆って……」
「マチアスも、ベルトランも、ヴィートも、シュザンも、たぶん公爵様も。まあさすがに騎士たちはアベルが女性とは思ってないから知らないだろうけど」
レオンは呆然とディルクを見返す。
「だが、アベルはおまえの元婚約者で……」
「すべてわかるまえから、リオネルはアベルに惚れていたんだ。気づいたところで後戻りできないし、そもそも、アベル自身がリオネルのそばにいることを望んでいる」
「いいのか、おまえはそれで……?」
「おれにとって、シャンティはずっと婚約していた、家族のように大切な人だ。その大切な人が、無二の親友に愛され、守られている。これ以上嬉しいことはないよ」
「そうか……」
ディルクの思いを酌み取ろうとするように、考え込みながらレオンはつぶやいた。
「おまえは――いや、なんでもない」
「なに?」
「いや……その、アベルのことは、リオネルが特別大切にしているとは思っていたが、まさか、そういうことだったのか」
「気づけよ、鈍感だな」
むっとしてレオンは言い返した。
「そもそも、ずっと男だと思っていたから、しかたないだろう」
「レオンは男でもいけるくちだろ?」
にやにや顔で発せられたディルクのひと言に、レオンのなかでなにかが切れたようだ。
「ああ、よくわかった。今日こそ、その口を塞いでやる!」
剣の柄に手を添えるレオンへ、マチアスが駆け寄った。
「申しわけございません、レオン殿下。主人の非礼は私が――」
「止めるな、マチアス。永遠にディルクが軽口をたたけないようにしてやる!」
「ごめん、ごめん。冗談だって。ともかくマチアスに怪我をさせないでくれよ」
「そう思うなら、大人しく斬られろ!」
「レオン殿下、どうか落ちついて……」
……アベラール邸の夜は、実に賑やかに更けていった。
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舞い散る粉雪が、ちらちらと篝火の灯りを反射している。
きらめきながら散る雪だけが、時間の経過を告げているかのごとく、静謐で寂しく、頼りなげな闇夜。
凍えるように外は寒く、正面玄関のまえにはリオネルとアベル、そして影のように従うベルトラン以外の者の姿はなかった。
彼らのそばに一台の馬車が停まっている。紋章の刻印されていないその一台は、デュノア家からの使者が用意したものだ。
まさに今その馬車に乗り込もうとしているのは、この暗く寒い夜に外を出歩くには似つかわしくない、ドレス姿の若い娘。
「アベル」
名を呼ぶ声は、切なく響く。
飾り気のないドレスのうえに冬用の外套をまとったアベルは、馬車の階段にかけようとした足を止め、振り返ってリオネルへと手を伸ばした。
手と手が触れあえば、冷え切っていた指先が、リオネルの温度に溶けていくような気がする。
アベルはこの温もりをけっして忘れないだろう。
忘れたくない。
「寒いだろう。せめて出立は明日の早朝にしないか」
「……朝になると人目につきますから」
「こんな真夜中に、しかもこんな雪のなかを発つなんて」
「大丈夫です、ちゃんと使者がついていてくれていますから」
アベルがリオネルと挨拶を終えるまで、使者は急かすこともなく御者台で黙って待ってくれている。さすがに相手がベルリオーズ家の跡取りなので、配慮したのかもしれない。
「それに馬車のなかは冷え切っている」
「ベルトランの持たせてくれた膝かけがあります」
いつ用意したのか、あるいはどこから探し出してきたのか、部屋を出る直前に、ベルトランはなにも言わずにアベルに膝かけを手渡した。
そのとき、アベルが感謝の言葉を笑顔に代えたのは、声を発すれば、頼りなく揺れてしまいそうだったからだ。
アベルはちらと、リオネルの背後に立つ赤毛の騎士へ視線を向けた。
すると照れたような、けれど少し戸惑うような空気が返ってくる。
「……本当に行くのか」
ぼそりと発せられたのは、これまでアベルの出立についてひとことも口出しをしてこなかったベルトランの本音。
大切な従騎士を送りだす不安が、その言葉には滲んでいる。
「デュノア邸でも、欠かさず鍛錬に勤しみますから」
「…………」
館に戻ったアベルが、剣の稽古など許されるとは思えない。それでも、アベルは明るく告げる。
「信じていないでしょう? でも、こう見えてもデュノア邸にいたころ、父から禁止されていたのに堂々と剣を振りまわしていたんですよ。今回だってやってみせますから」
返事を返さぬベルトランは、納得したふうではなかった。
デュノア邸に戻ることを決意してから、アベルは短い時間で様々な準備をしてきた。まずはここを去る表向きの理由を作り、それを先輩騎士らに説明して別れの挨拶をした。同じようにエレンやイシャスにも別れを告げ、それから身の回りのものを整理した。
皆に説明した表向きの理由は、〝どうしても王都別邸でやらねばならぬ任務ができた〟というものだ。会おうと思えば会える、という距離感は、皆をすぐに納得させることができた。
もしだれかが王都へ行くことになれば、再び別の不在の理由をつける必要があるが、それはリオネルがうまくやってくれるだろう。
ただ、ディルクとマチアス、そしてレオンに別れを告げることができなかったことが心残りだった。
リオネルやベルトランとも最後にじっくり話すことができたかというと、別れを惜しむにはあまりに時間が足りなかった。
アベルは予感している。
おそらく、もうベルリオーズ邸には戻れない。
一夜明けて冷静になって、あらためて確信する。父オラス・デュノアは、この顛末に激怒しているに違いない。追放したはずの娘が、元婚約者の親友のもとに――それもベアトリスの出身家の政敵であるベルリオーズ家に身を寄せていたのだから。
シャンティ・デュノアが生きていたという事実を隠すために、オラスはアベルを生涯館に閉じこめておくか、どこか遠い場所へやるはずだ。
それでも、信じたい気持ちはあった。父親として娘であるアベルを愛しむ気持ちが少しでも残っていることを。三年間、探しつづけていてくれたという言葉にすがってみたかった。
だから、リオネルや館の者らに告げた「また会える」という言葉の半分は嘘で、半分は真実だった。
信じたい。
それでも……。
それでも、やはり心のどこかで、もう会えぬことを予感している。
そんなせめぎ合いのなか、だからこそ、今、伝えなければならない言葉がある。
繋いでいないほうの手を伸ばし、アベルはリオネルの頬に触れた。
視線が絡みあう。
胸は、切ない想いで満たされた。
「リオネル様」
名を呼べば、リオネルがわずかに目を細めてこちらの声に耳を澄ます。その仕草が優しく、それでいて哀しげで。
「ずっとリオネル様に、お伝えしたいことがあったのです」
「なに?」
仄暗いなかでもわずかな光を閉じ込めて輝くリオネルの紫色の瞳に、アベルはしばし見入る。
このまま永遠に時間が止まればいいのにと思う。
そうすればこの人のもとから離れずにすむのに。
あなたが好きです――、という言葉は、自然と口について出ていた。
「わかっているよ、ありがとう」
穏やかに答えるリオネルへ、アベルは小さく笑った。
「いいえ、わかっていません」
「どうして?」
「わたしはおそらく、生まれてはじめて男の人に恋をして、その人を愛したのです」
「恋?」
「リオネル様を、愛しています」
口にした途端、痛いほどに心臓が跳ねた。
けれど、それでもすんなりと伝えられたのは、もう別れだから。
照れくささから視線を伏せたアベルは、相手の長い沈黙に耐えかねて、ちらと視線を上げる。
すると見上げた視界に、言葉を失ったままこちらを見つめているリオネルがいて、余計に恥ずかしさを覚えた。こんな状況で場違いと知りつつ、けれど耳まで赤く染まっていく。
「そんな顔しないでください。まえから伝えていたのに、気づかなかったのはリオネル様です」
「……冗談?」
アベルは首を横に振る。
「もしかして、まえにも好きだと言ってくれていたのは……」
「もちろんそういう意味です。わたしは幼く、愚かで、気づきませんでしたが、リオネル様に好きだと言われるよりずっとまえから――今となっては、いつごろからなのかわかりませんが、きっと、ずっと長いことあなたに想いを寄せていたのだと思います」
「ここは夢のなかだろうか」
「どうでしょう? たしかめてみましょうか」
そう言いながら、アベルは指先でリオネルの頬をつねった。
「……痛くない」
「寒さのせいで感覚が鈍っているのかも」
「やはり夢か。とても幸福な夢」
たまらない気持ちになって、アベルはリオネルの手をぎゅっと握る。
「アベル」
「夢ではないと信じてもらえるまで、何度でも言います。好きです、リオネル様。あなたにもう一度会うためなら、わたしはどんなことにだって耐えられます。リオネル様のもとに必ず戻ります。だから……わたしのことは心配しないでください」
もう、この場所に戻ることは叶わない。
父オラスに気づかれ、そしてクレティアンにも素性を知られた今、アベルとしてこの館に住まうことはもうできない。
リオネルに会うことも、もう叶わないかもしれない。
予感しているのに、必ず戻ると告げるのは、ひとえにリオネルを愛しているからだ。
愛しているからこそ、この人を哀しませたくなかった。
アベルが戻ると信じ、そうしていずれ時間が経ち、戻らぬアベルを少しずつリオネルが忘れて他の女性を好きになってくれたらいい。結婚して幸福な家庭を築いて、素晴らしい領主になってくれたら。
もちろん、実際にそうなったら寂しくないはずない。
リオネルが他の女性と結婚したと耳にすれば、涙があふれるだろう。
それでも、リオネルの幸福を心から望んでいた。
「アベル」
気がつけば、アベルはリオネルの腕に強く抱かれている。けっして傷つけないように慎重に、けれど逞しく力強い腕からは、狂おしいほどの想いが伝わる。
「アベル……アベル、行くな」
「リオネル様のいるところだけが、わたしの居場所です」
大好きな人を安心させるために、アベルは言葉を尽くした。
「また笑顔で会える日がきます」
「嫌だ、アベルと離れたくない――アベルを失いたくない」
「心はここに置いていきますから」
「信じられないんだ。昨日からのことが、とても現実とは思えない。アベルがデュノア邸に戻るということも、今、おれを想っていると言ってくれたことも」
そう、アベルにだって信じられない。ベルリオーズ邸を出て、リオネルのもとから離れ、再びデュノア邸に戻るなんて。
この三年間リオネルと過ごした月日が、終わりを告げる。
いつかこんな日が来るとはわかっていた。わかっていたが、こんなにも突然だなんて。
それでも、冷静でいられるのは守るべきものがあるからだ。
どこにいたって、どんな方法だって、リオネルを守りたい。
「少なくとも、リオネル様に想いを寄せているというのは、本当です」
「現実なのはそこだけでいい。なにがなんでも、デュノア伯爵の要求を断ればよかった」
強く抱かれたままアベルは目を閉じた。
ようやく想いを告げることができた。こうして想いが通じ合った。こんなに切ない別れなのに、溢れるほどの喜びに満たされている。
別れるまえに告げることができてよかったと、アベルは心から思った。
「わたしはきっとデュノア邸に戻ったら、父と和解します。それから両親を説得し、アベルとしてリオネル様のもとに戻ります。もし万が一すぐに説得できなければ、説得できるように努力しながら毎日慣れ親しんだ家で元気に暮らします。……それでも心配ですか?」
「心配だ、心配に決まっている。どんな出会い方をしたと思っているんだ?」
どれだけ言葉を尽くしても、いっこうにリオネルを安心させられないようで、アベルは自分の説得力のなさを内心で嘆く。
残された切り札はたったひとつだ。
「このまま父に会わなければ、一生後悔すると思うのです」
リオネルはゆっくりと、ひとつうなずいた。
「アベルの思いは、尊重したいと思っている。だからこそ、きみを送りだすことにしたのだけれど」
家族と会って話したいとい言えば、リオネルが引き止められないことを、アベルはよく知っている。
彼の優しさを利用するのは卑怯かもしれない。それでも、ベルリオーズ家やリオネル自身を守るためにはこうするしかない。
「……必ず、必ず無事な姿で、おれのところへ戻ってきてくれるね」
「もちろんです」
そろそろ行かないと、とアベルが掠れた声でつぶやけば、ゆっくりとリオネルの腕から力が抜けていく。
ずっと抱きしめられていたことが気恥ずかしくて、けれどもう最後かもしれないと思えば寂しくて、愛おしくて、切なくて、苦しくて、アベルはリオネルを見上げて目を細めた。
リオネルは名残惜しそうに、最後までアベルの手を離そうとしない。
「どうか、リオネル様。お身体には充分気をつけて」
「おれのことはいい。アベルは自分のことだけを考えるんだ」
アベルは笑顔でうなずきながら、次の言葉に力を込めた。
「イシャスのことを、よろしくお願いします」
「アベルが戻る日まで必ず守るよ」
「ありがとうございます。公爵様にもよろしくお伝えください」
最後までクレティアンには会えなかったが、それが彼の配慮だったことをアベルは知っている。最後まで〝従騎士アベル〟として、ベルリオーズ邸にいさせてくれたのだ。
「アベルが戻ってくるのを、ここで待っているから」
――いつまでも。
リオネルの言葉にアベルは大きくうなずき、笑顔をつくった。
「ありがとうございます。わたしの故郷は、デュノア領ではなく、すでにリオネル様の生まれ育ったこのベルリオーズです」
「アベル」
互いに別れを受け入れることができぬまま、けれどもう行かなければならない時刻。
「アベル――アベル、愛している」
「わたしもです、リオネル様。愛しています、心から」
最後まで手は解けないまま、リオネルへ言葉を返すと、アベルは馬車に乗り込む。
二人の距離が開き、ついにほどける手と手。
離れていく指と指。
御者台から降りて一礼した使者が、ゆっくりと扉を閉める。
使者がもとの位置に戻ると、アベルは窓から顔を出した。
「いつだってリオネル様のことを、ディルク様や、レオン殿下、マチアスさん、イシャス、ヴィート、その他大勢の方々と、ベルリオーズのことを思っています」
最後に、リオネルの影のような赤毛の騎士へ、アベルは視線を向ける。
「ベルトラン、大好きです。元気で――」
ベルトランから返事はなく、また表情は暗くて見えないが、静かに空気が動いたことだけが伝わった。
なにか言いたげなリオネルが、けれど言葉の発せられぬまま、代わりに手を伸ばす。咄嗟にアベルも窓からそとへ手を出したが、触れあうより一瞬先に馬車が走りだす。
互いの指先には触れあえぬまま、雪のうえを車輪が音もなく転がっていった。