10
武具の手入れはあまり得意ではないが、これも従騎士の仕事なのでしかたがない。
リオネルと別れたあと、アベルは騎士館で従騎士としての仕事に勤しんでいた。
身体を動かすのが好きな――加えて手先の不器用なアベルは、従騎士の最大の任務である雑用が苦手だ。馬は好きなので、従騎士のもうひとつの重要な仕事である馬の世話は楽しくやれるのだが。
鍛錬場の隅、窓辺に腰かけて練習用の槍やら弓などをひとつひとつ丁寧に拭いていると、ラザールに声をかけられる。鍛錬の途中だったらしく、この寒さに関わらず多量の汗をかいている。
「おっ、頑張ってるな?」
「ええ、まあ」
日頃からアベルのことを気にかけてくれている中堅騎士だ。先日は雪合戦で雪をぶつけられたが、むろんそんなことは互いに忘れている。
「従騎士の仕事に、イシャスの世話に、騎士としての鍛錬に、アベルは忙しいな」
「イシャスの世話はエレンがやってくれているので」
アベルはラザールに微笑を向けた。
「おまえだって充分やっているじゃないか。ヴィートもいなくなってしまったし、いろいろと大変だろう。そうだ、今度おれが代わりに寝かしつけてやろうか? 抱っこして子守唄を歌えばいいのだろう?」
「武骨なラザール殿が寝かしつけたのでは、イシャスはいつまでも眠れないのでは」
と横から口を挟んだのは、ラザールの後輩ダミアンだ。
「なんだと? こう見えてもけっこうイシャスには懐かれてるんだ」
そう言ってラザールは胸を張る。アベルは笑った。
「けっこう懐かれていますよね」
「そうだろう?」
「ラザール殿は、子守唄なんて知っているんですか?」
ダミアンが怪訝そうに尋ねる。
「おれだって赤ん坊のころがあったんだ、知っているに決まってるだろ」
「ラザール殿に赤ん坊のころがあったんですか!」
わざとらしく驚いてみせるダミアンに、そばで話を聞いていただけの老騎士ナタルまでもが笑った。
「アベルもナタル殿も、なぜ笑う」
ラザールが頬を引きつらせる。
「たしかに、ラザールさんの子供のころというのが想像できなくて」
「天使のように愛らしい赤ん坊だったんだぞ」
すました顔でラザールが言うと、アベルとダミアンは笑いをこらえて顔を見合わせた。
「おまえたち信じていないだろう。ナタル殿、なんとか言ってやってください。真実を知るのは貴方しかいません」
これまで黙っていたナタルは、水を向けられてゆっくりと口を開く。
「ああ、子羊のような柔らかい癖っ毛に、白い肌、それに柔らかい表情は、女児にも間違えられるような、それは愛らしい赤ん坊だった」
今度は大きく目を見開き、アベルとダミアンは再び顔を見合わせる。
「信じられません……」
とアベル。
「本当に同じ人物なんでしょうか」
とダミアン。
「たしかに癖っ毛ですけど」
「今、肌の色はまったく白くない」
「陽に焼けてしまったとか」
「赤ん坊のころの〝柔らかい表情〟はどこへ消えたんだ?」
「……考えてみれば、今でも笑顔は柔和かもしれません」
「いつから道を踏み誤ったのだろう」
「剣を握ったときでしょうか」
好き勝手に話していると、ラザールがこめかみに青筋を浮かべる。
「おい、おまえたち。勝手なこと言いやがって」
「すみません、あまりに驚いたので」
悪びれもなくダミアンが謝罪する。堪え切れなくなったように、ナタルが声を立てて笑った。笑いながら次のように説明する。
「――そうだな、天使のようだったのは、四歳くらいまでだった。気がつけばこんなふうになっていた」
「こんなふうとはなんですか、ナタル殿まで」
ナタルにまで言われてラザールが眉を吊り上げると、聞くともなく聞いていた周囲の騎士たちまでもが吹きだす。怒るかと思いきや、まあ今のおれの容姿ではしかたがないな、とラザール自身も豪快に笑った。
鍛錬場に明るい雰囲気が漂う。
けれど笑っていた皆が、ふと注意を鍛錬場の入口へ向けた。アベルもつられてそちらへ視線をやる。入ってきたのはリオネルとベルトランだった。
いっせいに騎士たちが表情を引き締め、姿勢を正して一礼する。
「楽しそうにしているところ、すまない」
静かに騎士らへ言うリオネルだが、どこか深刻な様子だ。
ふと、クレティアンの話とはなんだったのだろうとアベルは思う。騎士館にいるだれかに用向きでもあるのだろうかと思っていると、リオネルの視線がアベルを捉えた。
「アベル、話があるのだけれどいい?」
「え、あっ、はい」
まさか自分に用があるのだと思っていなかったアベルは、慌てて返事をする。
「いっしょにおれの部屋に来てくれ」
「わかりました」
ラザールやダミアンの視線を受けて、アベルは首を傾げてみせる。何について話があるのか、アベルにもわからない。
「またあとでな、アベル」
リオネルのあとについていくアベルに、ラザールが気軽に片手を上げた。
部屋へ向かう途中、リオネルがちらと振り返り、優しい語調で尋ねてくる。
「騎士たちと話していたのか?」
いつもとリオネルは少し雰囲気が違うように思えたものの、アベルは笑顔を返す。
「はい、いつも皆様には仲良くしてもらっています」
「そうか」
リオネルもかすかにほほえんだが、それもすぐに消えていく。その表情にアベルは胸を突かれた。
きっとなにかがあったのだ。
それも、アベルに……いやおそらく、王都から帰還したこのタイミングから考えれば、デュノア家や自分の素性に関わることかもしれない。王都で再会したカミーユや、祭りで偶然会ってしまったフィデールの顔が思い浮かぶ。
アベルはどうしようもなく怖くなる。
部屋に辿りつくまでの道がとても長く感じられた。
「……アベル?」
足取りの重くなったアベルを心配して、リオネルが振り返る。アベルは立ちすくみ、諦めたような心地で深い紫色の瞳を見返した。
「なにかあったのですね」
リオネルの整った顔に苦い色が差す。
美しい紫色の瞳。その左右の瞳をアベルは交互に見つめた。
「デュノア家から連絡があったのですか?」
懇願するようなアベルの眼差しにリオネルはわずかに目を細める。
「――おれの部屋で話そう」
立ちすくむアベルの背中に手を添え、リオネルはアベルを部屋まで連れていった。
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リオネルはアベルを長椅子に座らせ、自身もすぐその横に腰かける。それから、思い切ったように口を開いた。
「実は先程、デュノア邸から使者が来た」
瞬間、アベルは足元から感覚が失せていくような気がした。
「……デュノア伯爵が、ずっときみを探していたらしい。王都でアベルがおれといっしょにいたという情報を受けて、自らのもとに返してほしいと父上に書状を書き送ってきた」
思考が止まり、リオネルがなにを言っているのかわからない。
ただ重い眩暈だけが、アベルの感覚すべてを壊そうとしていた。
「だれが、どこでおれたちの姿を見かけたのかはわからない。王宮か、あるいは春待ちの宴か、ベルリオーズ家別邸の周辺か……」
今回王都でリオネルのそばにシャンティ・デュノアがいると知ったのは、カミーユ、トゥーサン、シュザン、それにノエルだけのはずだが、彼らのなかのだれかがデュノア伯爵に告げたのだろうか。
フィデールにも会ったが、彼はシャンティとは面識がない。アベルの顔を見ただけでは認識できないはずだ。あるいは、フィデールはなにか勘付いたのだろうか。
「使者は、きみを連れて戻るよう命じられているそうだ」
言葉が探せなかった。
気遣うような視線を受けるが、なにを言っていいかわからない。
――父オラスが、自分を探していた……?
嘘だ。
そんなはずない。
けれど、もしそれが本当だったら。
アベルは混乱した。
親子の情ゆえに探してくれていたのだと信じることができたら、これまで抱いてきた絶望から一縷の光を見出すことができるのに。
真実を知ることは怖い気がした。
蒼白な顔で固まっているアベルの肩に、リオネルが優しく触れる。
「ごめん、急にこんな話を伝えて」
そう言われて、ようやくアベルは金縛りから溶けたように現実感を取り戻した。気遣ってくれるリオネルの気持ちにも想像が及び、視線を上げて首を横に振る。
「……リオネル様のせいではありません」
むしろ、巻きこんでしまった。
――大変な事態になったのだ。
ブレーズ家の血を引く自分を、ベルリオーズ家で匿っていたことが知られたとなると、リオネルの立場は厳しいものになる。返還を要求されている今、アベルがデュノア家に戻らなければ、リオネルは――いや、ベルリオーズ家はさらに厳しい状況に追い込まれるだろう。
そこまで思い至ってアベルは我に返る。
そう、ぼんやりしている場合ではない。
「アベルに宛てた手紙を預かっているんだ」
遠慮がちにリオネルは一通の手紙を、アベルのまえに差しだす。
「これを読んで、アベルがどうしたいか判断してほしい。もしデュノア邸に戻りたいと思う気持ちがあるなら、むろんおれには引き止めることはできない。けれど、戻りたくないと考えるなら、けっしてアベルをデュノア家に引き渡したりはしないし、きみはこれまでどおりこの館に留まればいい」
かすかな違和感を覚えたせいか、リオネルの言葉を咀嚼するのに、時間がかかった。
戻る気持ちがあるなら、デュノア邸へ赴くことになる。けれど戻らないと決めたなら、どうすると彼は言ったのか。
〝これまでどおりここに留まる〟とは……。
リオネルは普通にそう言ったが、デュノア家から返還を求められているのに、ベルリオーズ家がそんなことをすれば、両家は対立することになる。
それはすなわち、ベルリオーズ家とブレーズ家の争いに直結する。そのことにリオネルが気づかないはずがない。
アベルは、はっとした。
――そうか。
リオネルの考えをアベルはようやく察する。困難を承知で、何もかもを承知で、リオネルはそう言ってくれているのだと。
アベルを館に置いておけば、リオネルが払うことになる代償は大きい。
それでも、どれほどのものを犠牲にしても、アベルを守ろうとしてくれている。
そのことに気づけば、不安な気持ちが、またたくまに温かく力強いものに包まれるのを感じた。
そんなリオネルだからこそ、これ以上の迷惑をかけてはならないのだと思う。
自分自身に関する不安よりも、リオネルを守なければという気持ちのほうを強く自覚すれば、不思議と冷静になる。アベルは落ち着きを取り戻して、手紙に視線を落とした。
「おれはそばにいないほうがいい?」
気を使って尋ねてくるリオネルへ、アベルは顔を上げて、ほほえんでみせた。
「そばにいてくださいませんか?」
落ちついたアベルの態度をまえに、わずかに不思議そうな面持ちながらも、リオネルは小さくうなずき返してくれる。
その返事に安堵して、アベルは手紙へもう一度視線を落とした。
懐かしい父の字。
誕生日には、毎年手紙を書いてくれたことを思い出す。
ゆっくりと封を開き、内容に目を通した。
アベルが生きていると知ってこの手紙をしたためることを決めたこと、一度会って話したいからデュノア邸に戻ってくるようにという、短い手紙だった。
オラスらしい手紙だ。
アベルは手紙を読むまえからすでに心を定めていた。
顔を上げると、紫色の瞳と視線が交わる。
「アベル……?」
リオネルのほうが不安そうだ。
思わずリオネルを抱きしめたいような気持になる。
――ああ、こんなにも、彼のことが好きなのだ。
そう実感したアベルは、リオネルの大きな手のうえに、そっと自分の手を重ねた。
「わたしは戻ります」
リオネルが無言でアベルを見つめてくる。どうしていいかわからないという顔だった。
「戻って……できるなら、もう一度家族の絆を取り戻したいと思います」
でも、とアベルは続けた。
「わたしは対外的には死んだことになっているので、父がその事実をくつがえすことはないでしょう。〝シャンティ・デュノア〟は死にました。それでいいのだと思います。そして、できるなら両親を説得し、再びあなたのもとに戻りたいと思っています」
両親を説得して、リオネルの元に戻る。
難しい話かもしれない。
いや、限りなく不可能に近いことだろう。
それでも希望を抱きたい。だれにも偽らず、周囲から認められて、リオネルのそばにいられる日がくることを。
こうするしか、他に方法はないのだから。
重ねたアベルの手を、リオネルが強く握り返してくれる。
「無理をしていないか? おれやベルリオーズ家に気兼ねして言っているなら、その必要はないよ。デュノア伯爵の要請を断る理由くらい、いくらでも考え出せるから」
「父が探してくれていたと知って、もう一度会いたいと思ったのです」
本当にそうなのか、と紫の瞳がアベルを見つめる。
「リオネル様に嘘は言いません」
リオネルはアベルの手を握る力を弱めない。手を握ったままリオネルは長いこと沈黙していた。
あいかわらず窓の向こうは、現実とは思えないほどの青白い輝きに溢れている。
デュノア家から手紙がきたことも、現実の出来事ではないような気がした。
夢だったらよかったのに。
不意にリオネルが口を開く。
「……どうして、そんなに強くいられるんだ?」
アベルの髪にそっと頬を寄せ、リオネルは息を吐くように、かすれた声でささやいた。
「おれのほうが不安でしかたない」
「大丈夫ですよ、生まれ育った館に戻って両親と会ってくるだけではありませんか」
ゆっくりとした口調でアベルが答えると、リオネルはようやく、ほんの小さく首肯した。
「――そうだね」
まるで自分自身を納得させているかのようだった。
「でも、本当に大丈夫なのか……この話には、なにか裏があるのではないかと思ってしまう」
「どうしてですか? 実の父です」
「だったらどうして、アベルはあんな状態でサン・オーヴァンの街にいたんだ?」
「それは――わたしがいけなかったのです」
「望まぬ形で子を宿し、アベラール家の婚約を破棄された――それが、アベルの〝いけなかった〟ことか?」
アベルは顔を背ける。
「ごめん、辛いことを思い出させるつもりではなかったんだ。ただ、理不尽な理由だと思って。アベルはなにも悪くなかった」
「……いいえ、リオネル様。本当にわたしがいけなかったんです。ぼんやりしていたわたしが」
「それは違うよ、アベル」
「もう過去の話です。この話はやめましょう」
納得いかぬようで、リオネルは沈黙していた。
「大丈夫ですよ、戻ってきた娘にひどいことをするような父ではありません」
リネルは目をつむる。
「すまない……引き止めないと言っておきながら、みっともなく食い下がって」
少しもみっともなくなどない。リオネルが不安を口にするのは珍しいことだが、それもアベルのことを思ってのことだ。嬉しくないはずなかった。
彼のその思いだけで、アベルは強く生きていける。
「みっともなくなんてありません。それに、わたしはどんなリオネル様でも大好きですよ」
反応に困ったのか、リオネルは微妙な顔になった。
「……もう一度、父に会って話したいと思います。使者には、わたしが戻る旨を伝えていただけませんか。行くまえに、しばらくのあいだここを離れることを、イシャスや騎士の皆様にも説明しなければなりませんし、せめて出立は明日にしてもらえそうでしょうか」
「明日……?」
「使者は、わたしがいっしょに行くまで待ち続けるつもりなのでしょう?」
リオネルは眉をひそめる。
「急すぎる、あまりにも」
「早く向こうへ行ったほうが、早くリオネル様のもとへ戻れるかもしれません」
冗談めかしたアベルの言葉に、リオネルは力なく眉を下げる。
言葉を探せぬようだった。
互いに納得し、決断したはずが、二人はいつまでも握った手を離せずそこに座っている。
そんな二人をまえに、ベルトランが眉を寄せながらそっと瞼を伏せた。