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雪は踵が埋まる程度まで積もっている。なにか動物の足跡と、警備兵が見回った形跡があるくらいで、ほかに踏み荒らされた跡のない美しい雪原だ。
花壇はすっかり雪に埋もれているし、遠くに見える噴水も凍てついている。
木々は雪をかぶり、空から降りそそぐ光を浴びて青白く照り輝いていた。
「どんな宝石よりも美しいな」
ベルトランが感嘆のため息を漏らすのもうなずける。ベルリオーズ邸の庭園は、見渡すかぎり金剛石が輝いているようだ。
三人は花壇の手前で右に曲がり、木立のなかへ入る。
木々の幹が雪の輝きに比して黒々とし、それがいっそう景色を引き立てている。
「気をつけてね」
転ばないように、とリオネルはアベルの手をしっかり握っていてくれていた。
「……小さいころ、よくカミーユと雪の中で遊びました」
アベルはふと幼いころを思い出す。これまで出自を隠してきたアベルだから、自分から子供の頃の話をするのはとても珍しいことだった。
リオネルが興味を引かれた様子で尋ねてくる。
「どんな遊びをしたの?」
「雪合戦とか、雪だるま作りとか……あとはソリや、雪の城を作ってみたり」
「子供のときって、外がどんなに寒くても、遊んでいると平気なんだよね」
リオネルの言葉にアベルは相槌を打つ。
「はい、雪のなか、時間が許すかぎり遊んでいました」
「とても仲がよかったんだね」
兄弟のいないリオネルは、すこし眩しそうにアベルを見つめる。
「いつもいっしょでした」
昔の話をする気分になったのは、この景色があまりに現実離れしていたからかもしれない。
「父は気難しかったし、母は病気がちで臥せっていたので、カミーユとわたしとトゥーサンで遊びまわっていました」
「剣や乗馬はそのときに覚えたのか?」
「えっ、あ……はい」
普通なら貴族令嬢が剣や乗馬を習うはずがない。両親の目が届かなかったからこそ、アベルは自由に剣や乗馬をやることができたのだ。
「なんだか、幼いころのアベルとカミーユ殿の姿が目に浮かぶよ。本当に楽しそうだ」
少し照れくさい思いでアベルは小さく笑う。
「わたしは世間知らずで、疑うことも知らず、怖いものもない、生意気な女の子でした」
「今は?」
問われてアベルはふと考える。
自分はあのころから変っただろうか。世間の汚いものや醜いもの、厳しい現実を散々見てきても、やはり基本はあまり変わらない気がする。
そんな自分自身にアベルは笑ってしまう。
「……世間のことは少し知りましたが、学習はしていないかもしれませんね」
リオネルがかすかに笑う。それからアベルの手を軽く引いて、そっと告げた。
「疑うことを知らず、一本気で優しい。そんなアベルだから、皆大好きなんだ」
「もったいないお言葉です。……でも、生意気でしょう?」
「とても健気だと思うけれど」
「きっと、そう見せかけて、実は頑固なんです」
「ああ、なるほど。わかる気がする」
リオネルがすぐに同意したので、アベルは怒ったふりをして軽く睨んでみせる。すると、しばらく顔を見合わせてから、耐えきれなくなって二人同時に笑った。
ますます存在感を消すのに必死なのはベルトランである。
「……アベルはきっと愛されて育ってきたんだね」
「え?」
「だって、こんなにもまっすぐに育ってる」
まっすぐだという自覚はないが、向こう見ずだという自覚くらいはある。
「……こんな生意気でも、きっと知らず知らずのうちに、たくさんの人たちに大切にしてもらってきたのかもしれません。気難しかった父も、最終的にはいつだって許してくれたし、今でもよく覚えているのですが、時折父は、理由もないのにわたしを抱きしめてくれました」
今から思えば、それはこちらが不安になるほど長い抱擁だった気がする。
抱き締められて顔は見えなかったが、強く抱きしめて離そうとしなかったオラスは、なにかとても強い感情に揺さぶられていたようだった。
「言葉にはできない思いがあったのだろうね。……母君はどんな方?」
リオネルから母のことを問われたので、少しばかりアベルは戸惑う。
母ベアトリスはブレーズ家の令嬢であるから、あえて話題にするのを避けてきたが、リオネルのほうはあまり気にしていないようだった。
「ええと、母は……身体が弱いせいであまりいっしょに過ごした記憶がないのですが、それでも、いつも私たちを優しく見守ってくれていたことはよく覚えています。わたしたちが二人でお見舞いに行くととても喜んでくれて……もっと元気だったらたくさん思い出を作れたのに……」
話しながら気持ちが沈んでいくのが自分でもなぜなのかわからない。
その気配を察したのか、リオネルが気づかう眼差しをこちらへ向けた。
「ごめん、色々と聞いてしまって」
アベルは首を横に振る。
「今言ったことはすべて忘れてくださいね。今のわたしは、ただのアベルですから」
「わかっているよ」
そう答えながら、リオネルはしっかりと手を繋ぎ直す。
繋いだ手から伝わるリオネルの温度。
――二度とこの手を離したくない。
祈る気持ちで、アベルはぎゅっと握り返す。
「この先まで行ってみようか。運河がどうなっているのか見てこよう」
「いいですね。ついでに、雪の離宮も見てみたいです」
「ああ、きっと綺麗だろう」
完全に用心棒のベルトランを現実世界に残し、別世界の二人は雪のなかを先へ進む。むろん現実の世界では、しっかりとベルトランが二人のあとについている。
けれど、館のほうが呼ぶ声があって、三人は歩みを止めた。
「リオネル様!」
アベルとリオネルは繋いだ手をぱっと放して振り返る。叫んでいるのは、普段からクレティアンに従っている騎士のひとりだった。
「なにかあったのか」
「至急の用で公爵様がお呼びです」
リオネルとアベルは顔を見合わせる。至急の用とはなんだろう。
顔を見合わせる二人の様子をまえに、騎士が念のためというふうにつけ足した。
「リオネル様だけ来るようにとのことですが」
「……わかった」
せっかくこれから庭を散策しようというところだったが、クレティアンの至急の呼び出しとあってはしかたがない。
「ごめん、アベル」
「気になさらないでください、またあとで時間があれば行きましょう」
屈託なくアベルが笑うと、リオネルはほっとした顔になる。いっしょに館まで戻り、大階段の下で二人は別れた。
+++
普段と変わらぬクレティアンの書斎――。
けれど、騎士に案内されてそこへ足を踏み入れたリオネルは、目に飛び込んできたクレティアンの表情に嫌な予感を覚える。
「父上、至急の用事とうかがいましたが」
やや警戒しながらリオネルは声をかけた。無言でうなずいたクレティアンは、まずは椅子に腰かけるよう身振りでリオネルを促す。
小卓を囲む椅子のひとつにリオネルが腰かけると、クレティアンは厳しい表情のまま向かいに座った。
「いかがしましたか」
クレティアンはいつになく深刻な雰囲気で、それがリオネルに胸騒ぎを起こさせた。
「先程、館に使者が来た」
「使者?」
「デュノア邸からだ」
リオネルは絶句する。なぜデュノア邸から使者が……。
押し黙ったリオネルの顔をちらと見やってから、クレティアンは再び口を開いた。
「リオネル、これは〝知らなかった〟では済ますことのできない重大なことだ。正直に答えなさい。――アベルは、デュノア家の令嬢シャンティ殿なのか」
クレティアンは単刀直入だった。遠回しな言い方や遠慮など、一切不要だと判断したようだ。
「そうなのだな」
こちらから視線を外そうとしないクレティアンを、真っ直ぐに見つめてリオネルは答える。
「アベルは、私の……ベルリオーズ家の大切な従騎士です」
リオネルの返答にわずかに眉をひそめてから、クレティアンは一通の書状を小卓のうえに置いた。
「ならば、これはなんだ」
リオネルは無言でそれを見下ろす。送り主は、オラス・デュノアとなっていた。他でもなく、アベルの父であるデュノア伯爵だ。
「大切なものだからと、デュノア邸から使者が直接これを届けにきた」
読んでみなさいと命じられたものの、書状を手に取ることが躊躇われる。
この中身を読んだら、大切なものを失う気がした。
「なにをしている、早く目を通しなさい」
催促され、しかたなくリオネルは書状に触れる。デュノア家の紋章が形どられた蝋封。なかに入っていた紙を機械的に開いた。
クレティアンがリオネルの読み終わるのを待っている。嫌な予感を胸に、リオネルは綴られている文字に視線を落とした。そして手紙を読み終えると、無言のままそれを折りたたむ。
「それで?」
クレティアンが尋ねてくるが、リオネルは答えなかった。
「我が館にシャンティ殿がいると、その書状には書かれている これでもアベルがシャンティ殿ではないと言い張るか」
折りたたんだ手紙を父公爵のほうへ押し返しただけで、リオネルは黙っている。
「理由は記されてない。だが、様々な経緯で一度はシャンティ殿を手放し、死んだと公表したものの、実のところずっと探していたのだと――娘を返してほしいと、私に訴える書状だ。そなたにも、この内容は理解できるだろう」
「内容は理解しましたが、アベルのことではないでしょう」
ようやくリオネルは答えた。
「まだ言い張るか。王都でそなたがシャンティ殿といっしょにいるのを、目にした者がいると記されている。アベルではないなら、いったいだれだというのだ?」
「見間違いでしょう」
「ディルク殿の婚約者と知って、そばに置いたのか」
「知らないと言っています」
「私に嘘をつくな、リオネル」
聞く者の背筋をしゃんとさせるような、威厳のあるクレティアンの口調だった。
「わかっているのか。ブレーズ家の血を引く令嬢を、この館に繋ぎとめることの意味が、そなたには理解できているのか」
「父上」
リオネルは、顔を上げてクレティアンを見据えた。強いクレティアンの眼差しを刎ね返すように、リオネルは言葉を発する。
「私がアベルと出会ったのは、真冬のサン・オーヴァンです。アベルは所持金もなく、肺を患い死にかけていました。その後、私が助けたあとも、自ら死を選ぼうとさえしました。私が手を差し伸べなければ、あの子は自ら命を絶っていたのです。それほどまでの状況に追いやったのは、アベルの生まれ育った家の者です」
「……だから、シャンティ殿をデュノア邸には返さぬと? それでは返さぬ理由にはならない。そなたはシャンティ殿の口からなにが起きたか事情を聞いているのか」
婚約を破棄され、憤ったデュノア伯爵がシャンティを館から追い出したらしいという話は、ディルクから聞いている。だが、館を出た経緯をアベルの口から聞いたかと問われれば、実際にはなにも教えてもらっていなかった。
「いいえ。けれど――」
「〝けれど〟ではない」
即座にクレティアンはリオネルの言葉をはねのける。
「他家には、我々の理解できない事情がある。現にデュノア伯爵は三年ものあいだ娘を探しつづけ、ようやく居場所がわかったから連れ戻したいと訴えている。これが偽りの言葉だと、そなたは言えるのか」
「……そうは申しませんが」
館から娘を追い出すような父親が、愛情深い人物だとは思えない。
けれどつい先程アベルの口から聞いたばかりの言葉が、リオネルの脳裏に蘇る。
デュノア伯爵は気難しかったものの、時折アベルを抱きしめてくれたと言っていた。所詮リオネルなど他人なのだから、デュノア家のことが真に理解できるはずもない。
「両親のもとへ娘を返さない、というわけにはいかない。わかっているだろう」
クレティアンの声が重たく響き、リオネルは瞼を伏せた。
その部分だけ切り取れば、たしかに正論だ。けれど、リオネルのうちにはぬぐい切れぬ不安が渦巻く。
「デュノア邸からの使者は、今日か、遅くとも明日までには、シャンティ殿を連れて戻りたいそうだ」
「待ってください。アベルがシャンティ殿であるとも、デュノア邸に行くとも決まっていません。もし仮にそうだったとしても、なにより本人に状況を説明し、そのうえでの話でしょう」
「そうかもしれない。もし戻りたくないというなら、私も無理に行かせることはしない。だが、シャンティ殿であるかもしれない者を、この館に留まらせるわけにはいかぬ。返還を要求されているブレーズ家の血を引く娘をここに置いておけば、争いの引き金を引くことになるだろう。今は、国内で争っている場合ではない。それに、シャンティ殿はディルク殿の婚約者だった。それを、そなたが匿うなどもってのほかだ」
クレティアンの発する言葉はすべて正しく、反論の余地がない。正しさほど不条理なものはないのだと、リオネルはこのとき骨身に沁みて理解した。
正しさのなかには、人の心の入り込む余地がない。
沈黙しているリオネルの目前に、クレティアンはもう一通の書状を置く。
「シャンティ殿に宛てた手紙も預かっている」
リオネルは、目のまえに置かれた書状へ視線を落とす。たしかに宛名はシャンティ・デュノアと記されていた。
「そなたのそばにいるシャンティ殿にそれを渡しなさい。これを読み、デュノア邸に戻るかどうか判断するのは、彼女自身だ。それならそなたも納得いくだろう」
「戻りたくないと言ったら?」
「さっきも言ったとおり、無理にデュノア邸へ送り返したりはしない。だが、この館に住まわせるわけにはいかぬ」
「……もしも父上がおっしゃるように、アベルがシャンティ殿だったとしたら、イシャスのことはどうするのです?」
問われてみて初めて、アベルとイシャスの関係に疑問を抱いたのかもしれない。クレティアンはしばし考えてから、言葉を選ぶように答える。
「イシャスとアベルの関係は……状況はわからないが、書状には他の者のことは書いていなかった。どうするかは、相手方とシャンティ殿の意向次第だ」
リオネルは沈痛な気持ちで二通の書状に視線を落とした。
どちらにせよ厳しい状況だ。
このままでは、アベルがこの館に留まることができなくなってしまう。
デュノア邸に戻るか――あるいはここを追い出されるか、アベルの運命はそのどちらかしかないのだから。
「……父上は無慈悲です」
「そう思うなら、私を恨めばいい。これでも、今まで最大限そなたの気持ちを尊重してきたつもりだ。だが今度ばかりはそうはいかない。……私はこれまでなにも知らなかったのだ。知らずに、他家の令嬢――それも、ディルク殿の元婚約者でブレーズ家の血を引くデュノア家令嬢を、館に住まわせていたかもしれないとは」
それは、アベルが――そして、事実を知っても隠し通そうとしたリオネルたちの犯した、クレティアンに対する大きな裏切りである。
「今、デュノア家令嬢の返還を求められている。それともそなたは、知らぬふりが通用するとでも思っているのか」
クレティアンの言葉はどこまでも正しかった。家を背負う者ならば、クレティアンのように考えなければならないのだろう。リオネルは反論する言葉を探せない。
クレティアンは浅く溜息をつく。疲れた様子だった。
「それに、そなたは心配ばかりしているようだが、なぜそのように疑ってかかる。事情は想像もつかないが、シャンティ殿が生きていたなら喜ばしいことだ。そのうえ、仲違いしていた親子が復縁するならば、それ以上の話はない。例え三年前にどれほど感情的になっていたとしても、親子の絆は消えぬ。……ともかく、会うも会わないも、復縁するもしないも、当事者が決めることだ」
シャンティ宛ての手紙を手渡しながら、クレティアンは付け加えた。
「……今回ばかりは、私の温情や、そなたの思いでどうにかなる話ではない。デュノア邸からの使者は客室で待たせている。シャンティ殿がその手紙を読み、どうするかを決めたらすぐに使者へ伝えなさい。デュノア邸に戻るなら使者の指示通りにし、戻らないなら館を出ていく支度をさせなさい。そのときには、旅費とその後の生活に困らないだけの金は充分に持たせてかまわない」
渡された手紙を握る手に、リオネルは力を込める。
考える時間が、あまりに短い。
アベルのためなら、父クレティアンと衝突してもかまいはしない。けれど、話はそれほど単純ではなく、クレティアンの言うとおり、これはアベルの意思が重要である。クレティアンと言い争うよりまえに、アベルに事情を説明すべきだ。
もしアベルがもう一度家族とやり直したいと考えるなら、リオネルはそれを受け入れなければならないだろう。
もし戻りたくないと言ったなら、そのときこそリオネルはどのような手を使ってでもアベルを守る覚悟だった。
「それと、私はもうシャンティ殿本人とは会わないほうがいいだろう」
クレティアンの言葉の意味を判じかねて、リオネルは軽く首を傾げる。
「我が館にいたのは従騎士のアベルで、私はシャンティ・デュノア殿とは一度も会ったことがない。――そうしておくのが、そなたにとっても、アベルにとっても、そしてシャンティ殿にとっても最善の筋書きだろう」
「……ありがとうございます」
手紙を片手で握りしめたまま立ち上がり、リオネルは浅く一礼して書斎を出る。
「どうするつもりだ」
扉を閉めてすぐ、ベルトランに低く問われる。
「……父上のおっしゃるとおり、アベルの意見を聞くべきだとは思う」
廊下を歩みながら、他には聞こえぬようリオネルは声をひそめる。
「だが、アベルをひとりこの館から追い出すなどということは、絶対にしない」
リオネルの答えにベルトランは無言でうなずく。どうやってアベルを守るのか、とは尋ねてこなかった。どのような判断を下すにしろ、ベルトランは黙って従うつもりだ。
リオネルの手のなかにあるシャンティ宛ての手紙。
軽いはずの紙切れが、ひどく重く感じられた。
今はアベルの判断にゆだねるしかない。そのうえで、リオネルは自分のできるかぎりのことをするしかなかった。
――運命はどう転ぶのか。
アベルがどちらを選択するにせよ、リオネルには相当の覚悟が必要だった。