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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
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 窓の外は暗灰色の冬空。

 迫りくるような低い雲からは、いつ雪が降りだしてもおかしくない。


 書物机に向かいながら、フィデールは考えごとをするふうだった。

 背後に控える従者エフセイは、いつものように余計なことは尋ねてはこない。代わりに聞いてきたのは、なにか飲むかということだけだった。


 フィデールは机に向かったまま、ひとりごとのように言う。


「今朝、叔父上と話した」


 会話はかみ合っていないが、エフセイに気にする気配はない。


「ノエル様とですか」

「カミーユが王宮を一ヶ月ほど空けるそうだ。デュノア邸から姿を消した乳母を密かに探しにいくつもりらしい」


 少しばかりの間をおいて、フィデールはエフセイを振り返った。


「叔父上も甘い。まだ従騎士になって一年も経たないというのに、外出の許可を出すとは」


 エフセイは黙っている。


「この時機タイミングでカミーユが戻ることは、叔母上のご意向に沿うものではないだろう。だが、叔母上がどのようなご判断をされたかわからない以上は、私も迂闊には動けない」


 宛名だけが書かれた紙を、フィデールは持ち上げる。


「この件で、ノエル叔父上は叔母上に手紙を送るだろうが、私からも叔母上に連絡するべきか否か……」


 なにしろカミーユはシャンティを心から慕っている。カミーユの帰郷と、シャンティの件が重なり、なにか面倒な事態にならなければいいのだが。


「ベルリオーズ家に逃げ込んだシャンティを、叔母上が放っておくとは思えない」


 実のところ、シャンティに対する後始末については、フィデールに頼んでくると思っていた。もし直接シャンティに危害を加えたと知られれば、カミーユはベアトリスを恨むだろうからだ。


 けれど、先日受けとったベアトリスからの返事には、真実を知らせてくれたことへの礼と、シャンティについては自分がまずは手を打ってみるということだけが書かれていた。

 ベアトリスにはベアトリスなりの考えがあるのだろう。


 一方で、フィデールにはフィデールの考えもあった。


「シャンティは使える。リオネル・ベルリオーズが想いを寄せているとなれば、陥れるための格好の切り札だ。最後に殿下に献上すれば、幾重にも役立つ」


 ベアトリスはいったいシャンティをどうするつもりなのか。無闇に処理されてはせっかくの駒を無駄遣いすることになる。


 けれど、そこはベアトリスの心情を優先せざるをえない事情がフィデールにはあった。

 幼いころ、狂気のなかに生きていたフィデールを救い出してくれたのは、ベアトリスだった。恩人であり、母と慕う彼女のためなら、切り札を失っても未練はない。

 現にこれまでだって本意ではないことに手を染めてきたのだ。

 これから先もそのつもりだった。


「先にわかっていれば、カミーユを王宮に縛りつけておいたのだが」


 インクに濡れた羽ペンの先を、書きかけの手紙で拭う。


「――今回は、私が口出しすることはないかもしれない。ノエル叔父上から連絡を受けて、叔母上がご自身で判断なさるだろう。もしお困りになるようなことが起きれば、そのときには、手助けを惜しまないが」


 そう言いながらフィデールは、インクで汚れた手紙を破り、それを暖炉の火へ投じる。

 エフセイは無言で主のその動作を眺めていた。







 同じ王宮の敷地内にある騎士館の周辺では、冬空のもとでも訓練にいそしむ騎士たちの勇ましい声が響き渡っている。


「コンスタン、背中を真っ直ぐにしろ!」

「はい!」


 先輩従騎士の助言を受けて、新米従騎士のコンスタンが姿勢を正す。従騎士らが剣の稽古をするそばで、シュザンは腕を組み、考え込んでいた。

 部下が報告にきていることはもちろん承知していたが、どうしても意識がそちらへ向かわない。


「……ユスター及びアルテアガ国境の警備の件ですが、警備を増強してほしいと周辺諸侯らから嘆願書が届いております。国王陛下にも同様の嘆願書が送られているようで、近々話し合いの場をもつこととなるようですが……隊長?」


 名を呼ばれてシュザンは我に返る。


「ああ、すまない」


 騎士らの鍛錬を見守っていたシメオンが、シュザンの様子を気にしてこちらを振り返った。部下がシュザンへ説明する。


「西方諸侯らからの嘆願書の件です」

「……そうだったな」


 今しがたの報告がほとんど伝わっていなかった雰囲気を察し、騎士は再び報告しなおす。


「……という次第です」

「そうか、すまない。それで嘆願書は今どこに?」

「これです」


 警備の増強を要請する書簡を受けとると、野外で封を開けるわけにもいかないのでシュザンは騎士らにひと声かけて執務室へと向かう。すると、正騎士隊副隊長のシメオンがいつのまにか後についてきていた。


「ユスターやアルテアガ国境の警備に関する書状ですな」

「そうだ」


 シュザンは自分より年上の副隊長へちらと視線をやってから、すぐにまえへ向きなおる。


「国境の警備兵を増やすご所存ですか」

「判断するのは、書簡の内容と陛下のご意向を確認してからだが、大幅な増強は難しいかもしれない」

「陛下は前向きではあらせられないでしょう」


 シュザンは数歩先の地面へ視線を落とす。


「そう……そしておそらく陛下のお考えはさほど間違ってはいない」

「北方の脅威ですね」


 軽くシュザンはうなずいた。


「エストラダとクラビソンは壮絶な戦いの最中だ。クラビソンは小国にもかかわらず、強国エストラダ相手に果敢に戦っている。そのクラビソンへネルヴァルは味方する動きを見せている」

「ええ、クラビソンが破られれば、次はネルヴァルですから」

「ネルヴァルが参戦すれば、必ずリヴァロが動く」


 ネルヴァルとリヴァロは同盟国だ。ネルヴァルが戦いに加われば、リヴァロもまた軍を動かすことになるだろう。そしてそのリヴァロと、シャルムは同盟を結んでいる。


「ネルヴァルが参戦した時点で、我々はいつでも軍を動かせるようにしておかなければならない」

「ユスター国境に割く余裕はないということですね」

「まえの戦いでユスターは痛手を被った。警戒するならアルテアガだが、こちらはユスターが動かないうちは単独で攻めてくることはないだろう」

「なるほど」


 昨年秋の戦いで、シャルムはユスターに勝利している。アルテアガを警戒するのは、彼の国がユスターと同盟を結んでいるからであるが、小国ゆえに大国シャルムに単独で盾突くとは思えない。


 騎士館の階段を上りながら、シュザンは書簡を片手で軽く揺らした。


「けれど機に乗じて攻めてくる可能性がないとは言い切れないし、先の戦いで疲弊した西方諸侯らへの配慮も必要だろう。大規模ではないにしろ、警備兵を追加で向かわせる必要はある」

「それを陛下が御承諾なさるかどうかが問題ですな」


 そのとおりだった。国王エルネストが首を縦に振らなければ、兵は動かせない。

 けれど、エルネストが承諾したところで、いったいどれほどの兵を向かわせることができるか。


 西方国境へ兵を向かわせる必要性を説いたものの、実際に兵を割く余裕があるかどうか、正直なところシュザンにもわからなかった。

 エストラダは強敵だ。今やフェンリャーナ、アカトフ、エルバス、ブルハノフをその支配下に収め、勢力を増して南下するエストラダに対抗するためには、シャルムは持てる力のすべてを出しきらなければならないだろう。


 そして、シャルムの軍を指揮することになるのは、正騎士隊の隊長であるシュザンだ。

 重すぎるほどの責任がシュザンの肩にかかっていた。


「向かわせることができても、やはり少数になるだろう」

「この状況では仕方がないことです。少数でも派遣できれば僥倖。諸侯らにも納得してもらわねばなりません」

「……ああ、エストラダと戦うとなれば、我々だけではなく、諸侯や民ひとりひとりにも相当な負担と覚悟が必要になってくる」


 エストラダは支配下に置いた国々の諸侯や民を虐殺し、圧政を敷いている。戦いに負ければシャルムとて同様の目に遭うだろう。参戦する以上、必ず勝たなければならない。

 それぞれが少なからぬ犠牲を払わねば勝てぬ戦いだ。


「皆、敗戦国の運命を知っております。ネルヴァルが参戦したならば、シャルムの状況が理解できぬ者はいないでしょう」

「そう……そうでないと、いずれシャルムも厳しい立場に立たされることになる。各国単独ではもはやあの国の侵略を食い止めることはできない。我々はすでに力を合わせてエストラダに対抗するべき時にきている」


 このまま単独で各国が戦い続けてもエストラダには勝てない。まだ占領されていない国々で団結し、エストラダに対抗しなければ道は開けない。

 長く険しい道のりが、始まろうとしていた。





+++





 降り積もった雪は、真冬の陽光を反射して青白く輝いている。


 二月に入って間もないこの日、シャルムの冬にしては珍しく快晴だった。

 窓の外――あたり一面青白く光り輝いている光景は、実に幻想的だ。


「天国みたい」


 ぽつりとつぶやいたのは、完全に独り言だった。

 天国を連想したのは、青白い風景のなかに神々しさを感じたからかもしれない。


「綺麗だけど、天国にしては少し寂しいね」


 アベルの独り言を拾ったのは、政務に専念しているはずのリオネルである。声をかけられてはじめてアベルは心の声が言葉になっていたことを知った。


「あっ、すみません。邪魔をして……」


 ヴィートはラロシュ領へ、その翌日にはディルクとマチアス、そしてレオンがアベラール領へと発ち、すでに三日が経つ。別れの寂しさも、またすぐに会えると信じられるから耐えられる。


 そうして日常が戻り、アベルは政務で忙しいリオネルの部屋にときおり顔を出すようになっていた。自分から会いにいかないと、なかなか顔を合わせることがないからだ。

 今も、仕事をしているリオネルの邪魔にならないよう、休憩時間に少し本を読みにきただけのはずだった。


「アベルにとっての天国って、こんな感じ?」

「え、あの、なんとなく現実とは思えないくらい綺麗だなって」


 リオネルは仕事机から離れ、窓辺に立つ。


「晴れた日の雪景色は本当にきれいだね。真夏の風景よりも眩しい」


 雪が陽光を反射するせいだろう。あたりは目に痛いほどの煌めきにあふれている。


「――でも、〝少し寂しい〟?」


 先程のリオネルの言葉を引用して尋ねてみれば、相手がこちらを振り返った。


「ごめん、アベルの感じたことを否定するつもりはなかったんだ。ただ、アベルがいつかずっと先――天に召された後にこの景色のなかにいたら、おれはなんだか無性に落ちつかない心地になりそうで」


 アベルは首をかしげた。


「綺麗すぎて温かみに欠ける感じがするのかもしれない。アベルには、春の野原で日向ぼっこをしながら、いつのまにかうたた寝していてほしいかな」


 リオネルの想像についアベルは笑ってしまう。


「呑気な死後ですね。死んだあとも、人は眠るのでしょうか」

「アベルなら寝られるよ。おれも、アベルを起こさないようにそばへきて、横で寝転がっていてもいいかな」


 なぜ自分なら眠れるのかわからないが、死んだ後もそばにいてくれるというリオネルの言葉は、くすぐったいような、嬉しいような気がした。


「もちろんです。――リオネル様が来てくだされば、きっとベルトランもいっしょですね」


 影のように控えている赤毛の用心棒へちらと視線をやると、いつもの仏頂面が目に入る。


「おれは天国でも地獄でも来世でもリオネルを守りつづける」

「ベルトラン……現世でも、おれのために苦労かけて申しわけないと思っているんだ。死んだあとくらいは、自分のために生きてほしい」

「自分のために生きる以上の喜びが、主君に仕える人生にはある」

「なんだか申しわけない気がするな」


 死後の世界があるのかどうかもわからないのに、真面目に話しあう二人が少しおかしくも、ほほえましい。


「わたしもベルトランと同じ気持ちです」


 ほほえましい二人に便乗してアベルも遠まわしにリオネルへの想いを口にする。


 おそらくアベルの気持ちはリオネルに伝えてはならないもの。彼を、自分のような小娘に縛りつけてはならない。けれど。

 いけないこととわかっていても、それでもやはり伝えたいと思ってしまう。


「リオネル様にお仕えしたいです。ずっとおそばにいたいので」


 控えめながらも気持ちを込めたアベルの告白に、けれどあいかわらずリオネルは気づいていない。


「本当に? 嬉しいな。おれでいいのか」


 ちっとも伝わりそうにない。敏いリオネルがここまで鈍感なのは、自身の恋愛に関することだけではないだろうか。


「リオネル様にお仕えすることが幸せなんです。ね、ベルトラン?」


 照れ隠しに水を向ければ、ベルトランがそういうことだと口端を吊り上げる。


「アベルやベルトランのような人に、そう言ってもらえるおれは、世界一の幸せ者だね」

「きっと前世でも同じことを話していたのかもしれませんよ?」


 リオネルが笑う。


「もしそうだったら、前世のおれはやっぱりどこかの領主?」

「王様だったかもしれません」

「なら、ベルトランは騎士隊長かな」

「近衛隊長かも」

「いや、案外過保護な父親とかかもしれないね」


 リオネルの想像にアベルはぷっと吹き出す。


「じゃあ、わたしは心配性なお母さん?」

「だめだよ、アベルとベルトランが夫婦なんて、妬けるから」


 勝手にへんな想像をするな、とベルトランが眉を寄せた。


「もしかしたら、リオネル様が海賊で、わたしたちはその配下だったかもしれません」

「いいね。じゃあ、おれが船長で、ベルトランが副船長ってどう?」

「わたしは?」

「船長の妻……は、いや?」


 問われて、アベルは束の間リオネルを見つめたあと、真っ赤になってうつむく。


 アベルの気持ちに気づかないわりには、リオネル自身の想いはこうして時折伝えてくる。いったいどうなっているのだろう。

 それは架空の話なのに、まるで求婚の言葉みたいに聞こえて……。


 嫌じゃない。嫌なはずがない。でも。


「せ、船長に妻がいるなんて、海賊らしくないような……」


〝嬉しい〟と答えるには、あまりに質問が直接的すぎた。それにしても、なんてつまらない返事をしてしまったのだろう。

 後悔する間もなく、リオネルが答えた。


「たしかにそうだね。海賊は酒と女遊びが派手だから、おれには向かないかもしれない。前世も来世も、農民や商人、騎士でもなんでもかまわない。ただ大切な家族や仲間を守れる人だったらいい」


 アベルは顔を上げた。深い紫色の瞳がこちらを見つめている。こんなふうに見つめられると、どうしていいかわからなくなってしまう。

 視線を外すこともできずにいると、リオネルがさりげなく尋ねてきた。


「アベル、少し外へ散歩に行かないか?」

「外?」

「冬にこんな晴れた日は珍しいから、景色を見にいきたくて。木立の遊歩道とか、風景式庭園、大運河や離宮のほうまでいけばきっと別世界だ。いっしょに行かない?」


 想像してみてアベルはわくわくした。リオネルの言うとおり、ベルリオーズ邸の広大な庭園はだれも足を踏み入れていない桃源郷だろう。


「行きたいです」


 右手を上げれば、よし、とリオネルがベルトランの手渡す外套を受けとりながら嬉しそうに笑った。


「アベルも上着を忘れずに。充分に暖かくしていこう」

「はい!」


 こうして三人は真冬のベルリオーズ邸の庭へ出ることになった。







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