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「そうか、失敗したか」
「申しわけございません」
ジェルヴェーズに頭を下げるのはベルショー侯爵だ。新年の神前試合でリオネルの暗殺に失敗した彼らは、刺客を差し向け、ベルリオーズ邸へ戻る途中のリオネルを襲った。
しかし。
「リオネル殿に軽傷を負わせることはできたのですが」
ベルショー侯爵は声を落とす。
「力が及ばず……」
「四十名を差し向けても殺せないか」
「三十九名でございます」
「どちらでもいいわ」
ジェルヴェーズは口端を吊り上げた。
「それほどやつらは強いか」
「今回は護衛の騎士らもいましたから。それに、途中からどうも腕の立つ仲間が加わったようで、条件が悪かったとも言えます」
客観的に分析したのはルスティーユ公爵だ。
「もう少し状況を見定めるべきだったか。まあ、いい。フィデールの言っていたとおり、生かしておけば役に立つときもあるだろう」
「そのように呑気に構えている場合ではありません。リオネル殿が生きているかぎり、我々は不安定な場所に立たされることになるのです。リオネル殿の血が受け継がれれば、さらに自体は厄介なことになります。クレティアン様の血を引くのは、今のところリオネル殿だけ。今のうちに殺しておくべきです」
熱心に訴えるルスティーユ公爵へ、ジェルヴェーズは砂色の瞳を向ける。
「そういう考えも理解できないではない。だが、リオネル・ベルリオーズは婚約の話を白紙に戻したと言うではないか。一方、シャルムは国外からの危機に晒されている。いざというときに利用するためにも、あと二、三年は放っておいてもいいのではないか?」
「けれど、その二、三年のうちにリオネル殿が別の娘と結婚したらいかがするのです?」
「そうなれば、挙式の日に相手の女を殺してしまえばいい」
事もなげに言うジェルヴェーズに、ルスティーユ公爵はしばし沈黙した。代わりに、かすかに眉をひそめて発言したのはベルショー侯爵である。
「花嫁を挙式の当日に殺したとあっては、あまりにも外聞が悪くはありませんか」
「血族を残されるよりはいいだろう。事故に見せかけてうまくやればいい」
「殿下のおっしゃることは、もっともです」
ルスティーユ公爵が口を開く。
「しかしながら、そのような事態になるまえに、やはり手を打っておくべきと私は思うのです。いざ殺そうとして、成功するとは限りません。常に機会をうかがい、殺せるときに殺しておくべきです」
なるほど、とジェルヴェーズも伯父の言い分には納得する様子だ。
「では、こうしよう。伯父上の言うとおり、リオネル・ベルリオーズを殺す機会は引き続きうかがう。だが、それがうまくいかず、やつが生き続けているあいだは、フィデールが言うようにせいぜい利用させてもらう」
「ええ、それでけっこうでしょう」
「近頃、ただ単にやつを殺すのは、つまらないように感じてな。利用し尽くし、リオネル自身もベルリオーズ家も疲弊しきったところで、もっとも残酷な殺し方で命を奪うのも一興だ」
「……それもフィデール殿のお考えですか?」
リオネル個人ではなく、ベルリオーズ家そのものを疲弊させることにこだわるあたりが、ブレーズ家の匂いが漂う考え方だった。
「さあ、どうかな。私はやつが苦しみながら死んでいく姿を見ることができれば、それでいい」
「私は殿下のために、持てる限りの力を尽くす所存です。リオネル・ベルリオーズ殿の死を、いずれ殿下への最上の贈り物とさせていただきます」
「たまにはフィデールと協力して、策を練ってみてはどうだ? あれは頭が切れる。役に立つ助言をするだろう」
測るような視線を向けられると、ルスティーユ公爵は思案する面持ちになる。
「フィデール殿が優秀であることは承知しております」
ですが、と公爵は言葉を選びながら言った。
「我々とフィデール殿の考え方が常に一致するとは限りません。フィデール殿は早々にリオネル殿の命を奪うことに対しては慎重です」
「さっき私が言ったように?」
「そうです、まずは利用するべきとフィデール殿は考えておられる。その考え方も当然ですが、私たちの目的はリオネル殿の命を奪うことであって、ベルリオーズ家を陥れ、破滅させることではありません。ブレーズ家の方々がベルリオーズ家を敵視しているのとは、事情が異なるのですよ」
ジェルヴェーズは笑いながら葡萄酒の杯へ視線を落とした。
「なるほど、伯父上の言い分はよくわかった」
「……つまらぬことを申しました」
いっきに杯をあおり、ジェルヴェーズは虚空を見据える。
「私にとってはどちらもおもしろい。さあ、次はどのように命を狙おうか――次はどのように利用しようか。考えるだけでぞくぞくするではないか」
ジェルヴェーズの冷たい砂色の瞳が、ここにはいない相手を見据えていた。
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ノックの後に、ひょいと見慣れた顔が現れる。
「あれ? アベルはいないのか?」
部屋を見渡してすぐ、ディルクは腑に落ちぬ面持ちになった。彼の背後には従者のマチアスが従っている。
「騎士館にもイシャスのところにもいなかったから、てっきりここかと思ったんだけど」
リオネルの私室にいたのは、執務机に向かう部屋の主と、その用心棒ベルトラン、そして、長椅子で本を手に持ったままうたた寝をするレオンだけだ。
「アベルならヴィートと出かけているよ」
「出かけてる? どこに」
「シャサーヌの街へ。ヴィートが、ブラーガの子供に土産を探しているらしい」
「土産探しにつきあってるのか?」
「そう」
リオネルが淡々と答えると、ディルクは表情を曇らせた。
「なあ、リオネル。ちょっとは危機感を持ったほうがいいんじゃないか?」
え、とリオネルは顔を上げる。
「わかってるのか? どう見たってヴィートはアベルにぞっこんだ。二人きりで街へ出掛けているのに、心配じゃないのか」
「いちおうジュストにあとをつけてもらっている」
踊り子の一件がきっかけでアベルのことを気にかけているらしく、ジュストは積極的にアベルを守りたいと言ってくれる。リオネルは政務や領民との接見で忙しいため、ジュストの言葉に甘えてアベルの警護を委ねた。ジュストに任せたのは、従騎士といえども腕が立つし、踊り子の一件を深く悔いていた様子の彼を信頼しているからだ。
「いやさ、アベルの心情のことだよ」
先日も同じようなことが話題にのぼったはずだ。ディルクの言いたいことはよくわかっているので、リオネルはひとつうなずく。
「わかってる」
「絶対に奪われない自信があるのか?」
「自信というか……アベルが楽しいならいいような気がして。明日にはヴィートはラロシュ領に戻ってしまうのだし、大切な友人と過ごす時間くらい自由に与えてあげたい」
ラ・セルネ山脈の麓を開墾する山賊らと、それを統括するベルリオーズ家との橋渡し役であるヴィートは、ベルリオーズ公爵やリオネルに対して現状の報告を終えたためラロシュ領へ戻ることになっている。
「まあ、それはそうだけど」
とは言いつつ、ディルクは納得しておらぬ様子だ。元婚約者の少女を、信頼するリオネルに委ねる気はあっても、他の男に渡すつもりはないらしい。
ベルトランとマチアスは二人の会話を黙って聞いている。
「イシャスもかなり懐いてるみたいだしさ」
「そう……おれも最初はそのことがこのところずっと気がかりだった。馬鹿みたいにひとりで落ちこんでいたよ。こっちへ戻ってからなかなかアベルやイシャスといっしょに過ごせないし、その間ヴィートがまるで父親のようにイシャスやアベルといっしょにいて。――でも、もういいんだ」
「もういいって、リオネル、どうして」
「さっきも言ったとおり、アベルが心穏やかな時間を過ごせているなら、それが一番かと思って」
「本当危機感ないなあ。元婚約者として言わせてもらうけど、おれはさ、相手がおまえだから安心して彼女を預けられるわけで、他の男だったら納得しないぞ」
「それは元恋人としての心境か、それとも、保護者に近い心境?」
きわどい質問を放るリオネルへ、ディルクは顔をしかめた。
「後者だよ。アベルと〝恋人〟だったことはない。でも、今はそんなこと話してるんじゃないだろ」
「ごめん、気になったから」
正直にリオネルは言う。
「今更恋人として、と言われても、おれは引き返さないけれど」
「言わないよ」
ディルクはやや呆れ気味だ。
「はじめからそんなことはわかってる。たとえアベルを突き放しておれのもとに行かせたって、おまえは引き返せないところまできていた。違うか?」
親友の顔を見やってから、リオネルはやや力なく答えた。
「違わないね」
ディルクは浅く溜息をつく。
「そこまでわかってて、どうしてこんな呑気でいられるかな」
「足搔くよりも、信じてみようかと思って」
「信じる?」
「アベルとの繋がりを」
「…………」
言い返すべき言葉を見つけられなかったらしく、ディルクは沈黙した。そのとき、レオンの手から本がぱさりと絨毯の上に落ちる。
はっとレオンが目を覚まし、長椅子のうえで身体を起こして片肘をついた。
「ああ、びっくりした」
レオンは寝ぼけているのか、起きぬけに驚いている。
「なにが?」
白けた調子でディルクが尋ねる。
「ディルクが氷の池で溺れる夢を見た」
「それは深層心理の現れじゃないのか?」
ディルクの皮肉を無視してレオンは夢の話を続けた。
「まるで、このあいだのおれの状況とまったく同じなのだ。氷の張った池に落ちて、溺れている」
「…………」
ディルクがちらとリオネルを見やったのは、実際に幼いころそのとおりの体験があったからである。リオネルがレオンに尋ねる。
「ディルクはどんな様子だった?」
「不思議なことに、まだ十歳にもならないような、幼く、まだかわいらしい少年だった」
「まだかわいらしい、とはなんだ」
ぶつぶつ言うディルクにはかまわず、リオネルはさらに聞いた。
「まわりにだれかいた?」
「イシャスくらいの年の……あれは女の子だろうな。ディルクと同じように水のなかにいた」
今度はリオネルが沈黙する番だった。ディルクを助けようとして飛び込んだ水のなかでリオネルが見たのは、まさにイシャスくらいの年の少女。
「不思議な夢だな。おれはたしかに小さいころ、ベルリオーズ邸の庭で溺れたことがあるらしいけど、女の子もいっしょだったとは聞いてないぞ?」
ディルクが言った直後、リオネルはこれまでアンリエット以外の者には明かしたことのない話を口にした。
「実のところ、おれは会ったんだ」
皆の視線がリオネルへ集まる。
「小さな女の子に? 池のなかで?」
「アベルによく似た子だった」
そのとおりだ、とレオンは声を上げる。
「縁起が悪いから言わないほうがいいかと思ったのだが、おれが見た子供も、アベルによく似ていた」
「おれが溺れているのは縁起が悪くないのか?」
憮然とするディルクへ、おまえは沈めても死ななそうだから、とレオンが答えた。憮然としたままディルクはリオネルへ視線を向ける。
「それで、おまえはその子を助けたのか?」
「いや……ディルクを助けるので精一杯で、なにもしてやれなかった」
「でも池に落ちたのはおれひとりだったはずじゃ?」
「だから不思議なんだ。ディルクの言うとおり、実際にはディルク以外に池にのなかにはいなかったはずだ。……その話をおれが母上に伝えたら、母上は必ず自分がその女の子を助けると言った。関係があるのかどうかわからないけれど、母上がアベラール侯爵にディルクとアベルの婚約について頼んだのは、その直後のことだ」
「まったく不思議な話だね」
ディルクは腕を組む。その隣でマチアスは思案する面持ちだった。
「リオネルが池のなかで見たのはアベルの幻だったのかな。リオネルからその話を聞いたアンリエット様はそれと気づき、彼女を守るために婚約を後押しした?」
「アンリエット殿はアベル……いやシャンティ殿と面識があったのか?」
ディルクとレオンから質問を受け、リオネルは首をかしげた。
「母上がアベルと面識があったとは聞いたことがない」
「では、アンリエット様が婚約を後押ししたのは、アベル殿を守ることとはまったく関係のない理由だったのでしょうか」
マチアスが独り言のようにつぶやくと、ベルトランがぼそりと言った。
「だが実際に、婚約破棄の前後でアベルの運命が変わった」
「たしかにな」
顎に手をあて、ディルクが唸る。
「……デュノア家にはなにかある気がする」
「〝なにか〟とは?」
「そう……それがなんなのかは、わからないけれど」
「そこを突き詰めたら、なにかが見えてくるんじゃないか」
そうだよね、とディルクはベルトランへ視線を返した。
「なにしろあそこはブレーズ家が絡んでいる。とんでもないことが隠されていてもおかしくはない」
レオンがそう言うのは、フィデールやブレーズ公爵の、得体のしれぬ雰囲気を間近で感じてきたからだろう。
「ブレーズ家、ね」
ディルクがつぶやいた。
「そういえばアベルやカミーユの母君は、どうもなにを考えているかわからない雰囲気だね」
ベアトリスに一度も会ったことのないリオネルは、目を細めてディルクの話へ注意を向ける。
「美人には違いないけど……二人の母親に対してこう言ったらなんだけど、なんか得体が知れない」
「それはブレーズ家の血を引く者の特徴だ」
レオンのひと言にディルクは小さく笑ったが、リオネルは笑わなかった。
「アベルからはそんな雰囲気を感じないけど」
「たしかにアベルはあの涼やかな容姿に反して、人情に厚い熱血漢だからな。カミーユもそうだが、二人がブレーズ家の血を引くようにはとても見えない」
レオンの言葉を受けて、リオネルとディルクは顔を見合わせる。
もし本当にアベルがブレーズ家の血を引いていないなら、リオネルと彼女の関係も多少複雑ではなくなるのだが、と互いの顔には書いてある。
特殊な出会い方をしてリオネルとアベルはこうしていっしょにいるが、本来、宿敵であるベルリオーズ家とブレーズ家の血を引く者どうしが深く関わることはありえない。
「アベルがブレーズ家ね……まあ、あの子はもうデュノア家の令嬢でもなんでもなく、リオネルに一途に仕えるひとりの従騎士だから」
「だから?」
「さ、リオネル。行くぞ」
どこへ、とリオネルがまばたきする。
「ベルトランは言わなくともついてくるね。マチアス、レオン、おまえたちも行くぞ」
まだ眠たげなレオンが眉をひそめる。
「だからどこへ行くのだ」
「外だよ」
「また雪合戦か?」
「いやいや、まさか」
「この寒いのに、外になど行くものか」
「おれたちだって明後日にはアベラール邸へ向かうんだから、ヴィートにアベルをひとり占めさせるわけにはいかないだろ?」
レオンは寝ぼけた顔のまま沈黙した。
長いこと領地を離れ、政務が山積みになっているのはディルクもリオネルと同様だ。いつまでもベルリオーズ邸に留まっているわけにはいかず、ディルクは二日後には領地に戻ることになっている。
レオンはというと、いちおう国王派という立場である以上、ベルリオーズ家にひとり長居するわけにもいかないので、ディルクと共にアベラール邸へと赴く予定だ。
「シャサーヌの街へ行って、アベルやヴィートと合流するということか」
ベルトランが確認すれば、ディルクが答えるまえにマチアスが「いいですね」と同意した。
「すぐに皆様で街へ行きましょう」
「なんでおまえが張り切ってるんだ?」
半分以上リオネルのために言ったはずなのに、だれよりもマチアスが乗り気だ。
「いえ、なんとなく」
なんとなく、という雰囲気でもないが。
「べつに二人でゆっくり過ごしているところへ、わざわざおれたちが行く必要もないと思うけれど」
あいかわらず呑気なことを言っているリオネルの腕を、ディルクは有無を言わせず引っ張っていく。
「仕事ばっかりやってると、愛想尽かされるぞ」
部屋から強引に連れ出されながら、心配してくれているらしい友人へリオネルは苦笑を返した。