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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
442/513









 美しいシャンデリアがつり下がる室内では、暖炉の火が赤々と燃えている。その暖炉のまえに立つベアトリスは、ほっそりとした背中を暖炉に向け、一通の手紙の封を開こうとしていた。


 手紙につづられた端正で美しい筆記体は、送り主の知性を感じさせる。

 幼いころから優秀だったフィデールだ。かつて、兄に鞭打たれるようにして勉学や武術に励んでいた姿を、ふとベアトリスは思い出す。


 あのころのフィデールの眼差し。

 物心つくまえに母親を亡くし、父親からは度を越していると感じられるほどの、厳しいしつけと教育を施された。求められた水準を満たすことができなければ、地下室にとじこめられる日々。


 ベアトリスは兄自身がそうやって教育されてきたところを目にしている。だからこそ、彼が息子であるフィデールに対して厳しくしてしまうことは理解できた。

 けれど、妹や弟、実母や義母までいたブレーズ公爵とは異なり、他にたったひとりとて家族のないフィデールにとっては辛いことだったに違いない。


 母も兄弟もなく、厳しい父親から守ってくれていた乳母は幼いころに解雇され、幼いフィデールは孤独だった。その眼差しは、他人はすべて敵と信じ込んでいるかのようだった。


 手を差し伸べたのは、子のできぬベアトリスにとって甥のフィデールは、我が子も同然にかわいかったからだ。救わなければと思った。

 しばしば理由をつけて兄からフィデールを預かり、街へ連れ出した。しばらく離宮で過ごしたり、近くに散歩へ出かけたりした。


 母親を亡くしたフィデールと、子供ができないベアトリス――両者が自ずと結び付かぬはずがない。


 けっして笑うことのなかったフィデールが、徐々にベアトリスにだけ笑顔を見せるようになり、やがて二人のあいだには切っても切り離せぬ深い繋がりができた。

 今でもベアトリスは心からフィデールを信頼しているし、フィデールもまた揺るぎない感情を向けてくれる。


 そのフィデールからの手紙は、思ったよりずっと早く届いた。

 投げかけた問いの答えが判明するのは、当分先だろうと思っていたが、手紙を読み進めていくうちにベアトリスは瞳を大きくする。


「ベルリオーズ邸……リオネル様……」


 まさか、とベアトリスはつぶやいた。


「シャンティが、なぜ」


 ――あの憎いローブルグ女の産んだ小娘。


 シャンティを追い出すことによって、母子そろって陥れることができたはずだった。


 憎いコルネリア。

 オラスに心惹かれ、大公爵家であるブレーズ家からこのような辺境の伯爵家に嫁いだというのに、オラスが愛していたのはあのローブルグ女だけ。


 相手が自分に惚れているかどうかくらい、ベアトリスにはわかる。オラスがベアトリスに想いを寄せていないということは承知で嫁いだ。それでも兄に頼みこんで強引に婚姻を成立させたのは、相手の心を動かす自信があったからだ。

 多くの男性を虜にしていたベアトリスは、オラスの心をいずれ自分のものにできると信じていた。


 けれど、いつまで経ってもオラスの態度は変わらなかった。求めに応じて寝台でベアトリスを抱くときも、礼儀正しく、公爵令嬢であるベアトリスに対し最上級の敬意を払い、優しく触れた。けれど心には常に距離がある。


 そして、ベアトリスに子ができぬことを理由に、オラスの母ジャクリーヌが連れてきた相手、それがコルネリアだった。


 オラスとコルネリアが初対面でないことは、すぐに二人の雰囲気からわかった。二人は深く愛し合っていた。

 はじめてベアトリスは気づいたのだ。

 自分が嫁ぐよりまえから、オラスが真に求めていたのはあの女だけだったのだと。


 オラスとコルネリアのあいだにはすぐに子供ができた。――それがシャンティ。

 この身が焼け焦げるのではないかというほどの、嫉妬と憎しみ。


 ――必ずコルネリアと、その子供を破滅させてやる。


 ベアトリスは自分自身にそう誓った。


 コルネリアとオラスの母は、ベアトリスの思いを知ってか知らずしてか、すぐにシャンティをアベラール家の嫡男と許嫁にすることをオラスに進言した。アベラール家との繋がりを深くするための婚姻は、シャンティを守ることになる。


 コルネリアのほうは、実にうまく追い出すことができた。

 次はシャンティの番。


 ディルク・アベラールとの婚約を解消することが最大の課題だった。そして、コルネリアのときと同様に、巧みに追い出したはずが、まさか宿敵であるベルリオーズ家に逃げ込んだとは。


「どこまでも憎らしい……」


 神話から抜け出てきたかのようにコルネリアは美しかったが、その母に容姿のよく似たシャンティ。

 勝てない、と純粋に思うのは女の直感だ。


 あの透明感のある美貌は、おそらくローブルグ人特有のもの。むろんローブルグ人がすべて美しいわけではなく、シャルム人でもまた絶世の美女は生まれるのだが、美しさの種類が違う。

 淡い金糸の髪や透き通った水色の瞳、そして消え入りそうに儚げな雰囲気は、どんなに美しいシャルム人でも手に入れることの難しいものだった。


 オラスの血を引く者を自らの手で殺めるのは気がとがめたので、命は助けてやったが、それがすべての仇となった。


 ベアトリスは手紙をしまい、視線を暖炉へやる。

 宿敵の懐へ逃げ込んだ子ネズミを、どうしてくれようか。

 燃えさかる炎をしばし見つめてから、不意にベアトリスは視線を斜めに移す。


「そうだったわ……」


 鈴を鳴らして隣室に控える侍女を呼んだ。


「ご用ですか、奥様」

「オラス様にお話があります。至急の用事です。すぐに知らせてください」

「承知いたしました」


 侍女のひとりが部屋を出ていく。その後ろ姿を見るともなく見送りながら、ベアトリスは目を細めた。


 そう、おそらくこの事態をだれよりも許さないのはオラスだ。


 婚約者のある身で他の男と通じたために追放したはずの娘が、あろうことかその婚約者の親友のもとに身を寄せていたのだから。……これほどの醜聞もないだろう。


 リオネル・ベルリオーズが、なにをどれだけ知っているかはわからない。

 だが、オラスに言ってみる価値はある。彼が動いてくれれば、こちらのものだ。


 鏡のまえに立ち、化粧や髪の乱れを確認する。

 コルネリアのような淡い金色とまではいかないものの、明るい髪色はまだ艶やかで、肌も白く滑らかだ。年齢を感じさせない美貌を確かめてから、侍女の呼びかけに応じてベアトリスは部屋を出た。






+++






 雄たけびと共にラザールが雪玉を投げつける。猛烈なその球を肩に受けた若手騎士が、後ろにひっくり返った。


「ラザール殿、張り切りすぎです」


 両手で雪を丸めながらダミアンが呆れた声を向ける。が、ラザールは、


「やるからには、何事も真剣にやらなければな」


 と言いながら、素早く二球目を投げつけた。二球目はベルトランの腕をかすり、思わずラザールの口から「げっ」と声が漏れる。


「まあ、やるからには真剣にやらなくてはいけませんよね」


 他人事のようにダミアンはつぶやいたが、次の瞬間には、猛烈な雪玉を前頭部に受けてのけぞった。


「すまん、ダミアン。避けてしまった」


 ベルトランの投げ返した玉は、ラザールが身体を逸らしたためにダミアンに当たったのだ。


「勘弁してください……かなり痛いです」


 ダミアンは前髪についた雪を払う。けれど懲りた気配もなくラザールが続けて投げた雪玉は、同じく長身のクロードに当たった。


「貴方は厄介な相手ばかり――」


 つぶやく途中でダミアンが一瞬の衝撃と共によろけたのは、クロードの返した雪玉が肩に当たったからだ。


「すまん、また避けてしまった」

「いい加減にしてください、私は向こうへ行きますからね。ラザール殿のそばにいると、ろくな目に遭いません」

「まあそう言うな」


 今、ベルリオーズ邸の騎士館前では、立派な騎士たちが雪を丸めて玉を作り、それを本気で互いに投げつけ合っている。

 発案者はディルク。少人数でやる予定だったのが、騎士館にいたヴィートを誘ったら、いつのまにか周囲にいた若い騎士らも参加することになっていた。

 気づけば百人近いベルリオーズ家の騎士らが夢中で雪を投げ合っている。


「それで、ヴィートに特大の玉は当てたか?」


 それは、この大雪合戦の本来の目的だったはずだが、ディルクに問われたリオネルは首をかしげた。


「当たったかな、どうだろう」

「そこはちゃんと確認しておかないと」


 そう言ったディルクの腹に雪玉がぶつかって砕ける。


「やったな、だれだ投げたのは!」


 ディルクの視線の先――木の陰から嬉しそうに左手を振り、右手で二球目を投げたのはレオンだ。油断していたディルクはそれも身体に受けることになった。


「わっ」

「日頃の恨みだ!」


 レオンは三球目を丸めている。ディルクにぶつけるのが楽しくてしかたないようだ。


「おれになんの恨みがあるんだ!」

「まあ、日頃の行いを反省するのですね」


 近くにいるマチアスは主人を助けようともしない。


「それでも従者か、おまえは。主人が集中攻撃を受けてるんだぞ」

「だって今日は無礼講でしょう? レオン殿下との戦いが終われば、わたしもディルク様に投げさせていただこうかと思っているところです」

「ああ、いいとも。おまえがそのつもりなら、受けて立ってやる」


 激しい争いを繰り広げる傍ら、かわいらしい声が響く。


「リオネル様!」


 振り返ったリオネルの胸のあたりに、なかなか勢いのある雪玉が飛んでくる。身を翻してそれを避けたリオネルの瞳に、いたずらっぽく笑うアベルが映った。


「もうひとつ行きますよ!」


 雪を丸めるアベルへ、リオネルは両手を上げて苦笑いを返す。


「降参だ、できればアベルに雪は投げたくない」

「今日くらい、いいではありませんか。やりましょう?」


 アベルに誘われると、リオネルはしかたなさそうに雪を丸めて、まるでイシャスと毬投げをするときのようにアベルへ投げてよこす。それを手で受け止めながら、今度はアベルが苦笑いする番だ。


「雪が当たったくらいで死にませんから」


 近くへ歩み寄るアベルにリオネルは肩をすくめた。


「でも、怪我をするかもしれない」

「さっきから思いっきり、ぶつけられていますよ」


 身体のあちこちに雪をつけたアベルの頬は、ほのかに上気している。金糸の髪やひたいについた雪を、リオネルがきれいに払った。


「痛いところはない?」


 アベルはくすぐったそうに、そして少し呆れたように笑った。


「平気ですよ、本当に心配症なんですね」

「そうかな」


 先程と同じ表情でアベルが再び笑ったとき、どこからかアベルに向けて雪玉が飛んでくる。それを敵から身を守る要領で、片手で受け止めたリオネルは、ある意味では自分が随分と大人気ないような気もした。


「リオネル様がそばにいると、雪合戦になりません」


 アベルへと飛んでくる雪を次々と受け止めるリオネルへ、アベルは困ったように言う。


「ごめん、つい……」

「ではいっしょに雪だるまボノムドネージュでも作りますか?」

「え?」

「なんだか落ち着かないご様子なので、別のことをするのもいいかと思って」


 リオネルは笑った。雪だるまなど最後に作ったのはいつだろう。


「雪だるまか」

「イシャスにあげた人形、とっても気に入ってましたから、あの人形にそっくりな雪だるまを作って、見せてあげませんか?」

「いいね」


 同意したところで、アベルの真後ろから雪が投げつけられる。不意打ちを食らったので、リオネルも守りきれない。

 猛烈な勢いの雪玉はアベルの後頭部を直撃し、アベルはリオネルの腕のなかに倒れこむこととなった。


「すっ、すみません――」

「大丈夫?」

「これくらい平気です」


 平気だと笑うアベルだが、ぶつかってきた玉はまったく手加減なしだった。

 アベルの身体を受け止めながらリオネルは犯人を探す。と、ばっちりと目が合ったのはラザールだ。すぐ近くでダミアンが顔を引きつらせるのが見えた。


「ちょっと待ってて」


 リオネルは雪を丸めて玉を作る。アベルの不思議そうな視線を受けながら、リオネルはそれをラザールへと投げ返した。

 速球だったがために今度こそ避けきれなかったラザールが、雪玉を受けて後ろへひっくり返る。

 その光景を見届けてから、リオネルはアベルへ視線を戻した。


「じゃあ、雪だるまでも作りにいこうか」

「あの、ラザールさんは……」


 雪のなかに埋もれたまま起きあがらないラザールを振り返って、アベルはどうしたものかという顔になる。


「平気だよ、これでも手加減したんだ」


 ひっくり返ったラザールの脇ではダミアンが、


「天罰ですね」


 とつぶやいていた。






 まずは雪だるまの土台となる部分を作るために、二人で玉を転がし、それがある程度の大きさになると雪を足して固めていく。そうしながら、リオネルはアベルに尋ねてきた。


「イシャスはお土産を気に入ってくれているのか?」


 アベルが少し意外に思ったのは、イシャスがあれほど毎日のように土産の人形で遊んでいるのに、リオネルがそのことを知らなかったからだ。


「ええ、とても気に入ってます。出したり戻したり並べたり……よく飽きずに遊んでいられるなあって感心するくらいです」

「そうか」


 うなずくリオネルは嬉しそうだ。

 イシャスに買っていったのは、青く塗られた木彫りの人形のなかに、ひとまわり小さい人形が入っており、さらにそのなかにはもうひとまわり小さな人形が入っていて……というのが七個ほど続く不思議な北方の玩具だ。


 考えてみればこのごろリオネルはあまりイシャスのもとへ来ない。

 というより、政務に忙しくてアベルと過ごす時間自体が少ない。そのため、アベルは空いた時間を、ヴィートやエレンと共にイシャスを遊ばせることに費やしていた。


「今度、様子を見にきてください。イシャスも喜びます」


 そうだね、と答えるリオネルはどこか寂しげだ。なにか気になることでもあるのだろうか。


「政務、忙しいのですか?」

「しばらく留守が続いていたからね」

「もし忙しかったら、イシャスに会うために無理しないでください」

「大丈夫、今度顔を見にいくよ」


 やはり、なんだかリオネルは元気がないような気がした。


「ちゃんと休めていますか?」

「もちろん」

「なにか大変な案件などがあるのですか?」


 先程から質問を続けるアベルへ、リオネルは雪を固める手を止めて顔を向けた。


「アベルが心配することはなにもないよ」


 柔らかくほほえむリオネルの顔を、アベルは見返す。


「そう、ですか」

「疲れた顔をしてた? 心配をかけたならすまない」


 リオネルは視線を元に戻して雪を固めるのを再開させたが、その横顔へアベルはじっと視線を注ぐ。少し困ったような顔でリオネルがもう一度こちらへ眼差しを向けた。


「本当になにもないから平気だよ」

「でも少し違う気がして」

「違う?」

「いつものリオネル様と」


 少しばかり瞳を大きくしてから、リオネルはしばし沈黙する。


「本当はなにか気になっていることがあるのでしょう?」


 今度こそリオネルは困惑の面持ちになった。聞かないほうがよかっただろうか。けれど、リオネルの気持ちの変化には、近頃よく気づくようになってしまった。

 リオネルを困らせるつもりはなかったが、それでも気になってしまう。


「アベルには隠し事ができないね」

「隠し事?」

「たしかに気になっていることがあるよ。でも、あまりに些細なことできみには言えない」

「どんなことでも真剣に聞きますよ」


 ありがとう、とリオネルが口元を緩める。


「でも、いいんだ。自分でも呆れるようなことだから、アベルには聞かせたくない」


 そんな些細なことでリオネルが頭を悩ませるなんて、いったいなんのことだろう。

 気にはなったが、人に話したくないこともあるだろうと、アベルはこれ以上詮索するのをやめる。


 アベルはうなずいてから、雪だるまの土台に雪を足しつつ静かに言った。


「いろいろ聞いてごめんなさい。リオネル様のことは、とても小さなことでも気になるんです。それくらい大切だということ、最近あらためて気づかされたのです。わたしでよければいつでも話を聞きますから」


 アベル、と名を呼ばれ、顔を上げる。するとふわりと身体が包まれた。

 ――あたたかい。そう思ったのは一瞬のことで、すぐに顔は耳まで必要以上に熱くなる。


「リオネル様……?」

「おれのことを大切だと言ってくれて、ありがとう」


 どきどきしながら、リオネルの腕のなかでアベルはうなずく。大切すぎて、どうしていいかわからないくらいだ。


「アベルのひと言で、気がかりだったことなんてどこかへ飛んでいってしまったよ」


 小さく笑いながらアベルはリオネルの胸に頬を寄せる。

 目を閉じて感じる力強いリオネルの鼓動が心地いい。


 ずっとこうしていたい。

 この人の腕のなかが、きっと世界で最も落ちつける場所だ。


 幸せに満たされる自分が、少し怖かった。幸福と隣り合わせにある不吉な予感を、しっかりと感じてしまうから。


 離れたくなくて、祈るようにアベルは目をつむっていた。


「もう少しだけ、このままでいい?」


 ささやくように尋ねるリオネルへ、アベルは黙ってうなずく。作りかけの雪だるまだけが二人の想いを見守っていた。








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