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「カミーユ様?」
「どうして教えてくれなかったの」
カミーユの手元を見やってトゥーサンは眉をひそめる。
「ご覧になったのですか」
「エマが……」
トゥーサンはうつむいた。
「ねえ、返事を書いたの? 探さなくちゃ。こんな真冬に、死んじゃうよ」
「カミーユ様」
名を呼ぶトゥーサンは諭すような口調だ。
「トゥーサンは、今すぐデュノア領に戻ったほうがいい。エマを探してあげなくちゃ。明日の朝にでも出発してさ」
「カミーユ様のおそばを離れることはできません」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ。エマになにかあったらどうするんだよ」
「ここにはジェルヴェーズ殿下がおられます。カミーユ様をお守りすることが私の役目であり、それは母の望みでもあります」
かつてカミーユはジェルヴェーズに斬られそうになったことがある。トゥーサンは王宮にカミーユをひとり残していきたくないようだった。
「エマは、姉さんが生きている可能性を知って、探しにいったのかもしれないって。おれの書いた手紙が間にあえば、こんなことにならなかったのに」
エマが出ていったのは、シャンティが生きている可能性を門番の男から聞いたからではないかと、カトリーヌは手紙に記している。
ちなみにカミーユがエマに書き送った手紙――シャンティが無事であることを記したそれは、エマが館を出ていく前には届かなかったのだろう。
間にあったなら、エマが出ていくことはなかったはずだ。
「しかたがありません。だれも母が出ていくことなど予期できなかったのですから」
手紙の文面によると、カミーユの手紙はエマの目に触れることはなく、母ベアトリスに渡ったという。
「じゃあさ、いっしょにデュノア邸に戻ろう」
「なにをおっしゃるのですか」
トゥーサンは苦い表情だ。とんでもないことだと、その顔には書いてある。けれど、カミーユはすでに心を定めていた。
「おれの書いた手紙を、母上は読んだかもしれない」
「まさか……」
「姉さんが無事だということや、おれが居場所を知っていることが父上に知られたら大変だ。母上が父上に告げるとは思わないけど、一度直接話したほうがいい。エマを探すためにも、いっしょに戻ろう」
「カミーユ様は従騎士としてここに居なければなりません」
「ノエル叔父上には事情を説明するよ。姉さんのこともあるから、きっと許してくれると思う」
「ノエル様がお許しになっても、伯爵様がお許しになるわけがありません」
「父上には秘密で戻るから」
けっして軽い口調ではない。確かな決心の滲む声で、カミーユは宣言した。トゥーサンは虚を突かれた様子である。
「……は?」
「母上やカトリーヌと話せればいい。エマを探すのは館の外だから、父上に見つかることはないし」
「そのようなことをして、伯爵様に万が一知られたときには、どれほどお叱りを受けることになるか」
「トゥーサンのことは必ず守るよ」
「私のことはどうでもいいのです。カミーユ様が難しいお立場に立たされるのを見るのは、私にとって耐えがたいことです。それに……館を出た母を探すことなど、もはや不可能でしょう」
「じゃあ、このままでいいの?」
トゥーサンは難しい面持ちで沈黙した。
「ねえ、できることがしたい。たとえ結果は同じだったとしても、おれは精一杯のことをしたいんだ。おれたちを育ててくれたエマのためになにかしたい」
沈黙したままのトゥーサンは、やがて大きく息を吐いてうなだれた。
「トゥーサン?」
不安になって呼び掛ければ、ありがとうございます、とトゥーサンがくぐもった声で言う。
「――母を愛してくださって、ありがとうございます」
「…………」
愛だなんて、そんなことは考えたこともなかった。けれど、トゥーサンに言われてはじめてそうなのかもしれないと思う。
大切に思う気持ち。
自分は、エマを、トゥーサンを、シャンティを……愛している。
大袈裟な響きとは裏腹に、それはとても静かで優しい感情だった。
王宮に住んであらためて思う。
デュノア邸で、シャンティやトゥーサンやエマと共に過ごしたあの穏やかで楽しい時が、今のカミーユのすべての礎となっている。今の自分があるのは――こうして、なにがあっても揺るぎなく立っていられるのは、愛に溢れたあの時間があったからだ。
「いっしょにデュノア領へ戻ろう、トゥーサン」
うなずくトゥーサンの瞳を、カミーユはしっかりと見つめた。
+++
ぽちゃんと水が跳ねて、水滴が雪の上に散る。
水の入った大きな桶は、馬の飲み水だ。足をくるぶしまで雪に埋もれさせながら、アベルは重たい桶を騎士館の厩舎まで運ぶ。
昨年、夏の終わりにローブルグへ交渉に赴き、それからユスターとの戦い。その直後に王宮の新年祭に招待され、ようやくこうして帰ってきた。これまで実に様々なことがあったが、ようやく日常が戻った気がする。
その間に、リオネルから告白され、アベルの正体をリオネルやディルクらに知られ、さらにアベルは自分自身の気持ちに気づき……日常が戻ったといっても、以前と状況は大きく違う。それでも、こうしてもとの生活に戻ればアベルはほっとした。
繰り返される日常こそが、なにものにも代えがたい宝物だということを、アベルは知っている。
気持ちの置き場所や、互いの認識は変わっても、リオネルのそばにいられるということに変わりはない。大切な人たちと過ごせるこのときを、アベルはただ神に感謝した。
アベルは足を止め、いったん水桶を雪の上に置く。
「ふう……」
……それにしても重い。
「貸して」
横から声がして、振り向くより早く水桶を奪われる。
「ジュストさん?」
桶を持ち上げるジュストは、アベルの勘違いでなければ、代わりに厩舎まで運ぼうとしてくれているようだ。
「あっ、大丈夫です。わたしの仕事ですから」
「いいから、おれがやる。アベルはそっちを持って」
示されたのは、これまでジュストが持っていたらしい馬鞍だ。
「ダミアン殿の鞍が古くなったから、新しいものを用意したんだ」
そう言いながら、重い桶をものともせず、ジュストは早足で歩きだす。アベルは慌ててあとを追いかけた。
「ジュストさん、これくらい自分でできます」
馬の世話は従騎士の仕事だ。力仕事が苦手だからといって、甘えるわけにはいかない。
けれどジュストはきっぱりと言い切った。
「もう少しアベルの背が伸びるまでは、おれがやる。そんな小柄なのに重いものを持って、怪我でもしたらどうするんだ」
「…………」
かつてはあんなに意地悪だったジュストが、いつの日を境にか、がらりと雰囲気が変わった。こちらが戸惑うほど優しいのだ。
もちろん嬉しいが、不思議でしかたがない。なにか彼のなかで心境の変化でもあったのだろうか。
じっとジュストの横顔を見つめていると、相手がこちらを振り向く。
「なに?」
「え、あ、ごめんなさい」
慌ててアベルは視線を外して馬鞍を持ちなおす。へんに思われなかっただろうか。心配するアベルをよそに、ジュストは気に止めていない様子だ。
「王都では、なにか変ったことや、危険なこととかなかったか?」
ぎくりとして、アベルはジュストを盗み見る。
「……どうしてですか?」
「いや、アベルを守るって言ったからにはちゃんと守りたいから、気になって」
やはり調子が狂う。以前のジュストはどこへ行ってしまったのだろう。
「ありがとうございます、わたしは大丈夫でした。ただ――」
「ただ?」
「公爵様や他の騎士たちの耳には入れないでいただきたいのですが、リオネル様のお命が狙われました」
ジュストが足を止める。
「そうなのか」
「詳しくは話せませんが」
「そうか……」
つぶやいてからジュストはアベルへ顔を向けた。
「おれに言ってはいけなかったのではないのか?」
「……ジュストさんには、知らせておくべきかと思って」
「どうして?」
聞かれてアベル自身も不思議に思う。どうしてだろう。
なんとなく、そう思ったのだ。
その〝なんとなく〟という思いの裏に潜んでいる暗い予感に気づきかけたとき、アベルはどうにもならないほどの不安に襲われた。気づきたくない。今は、考えないでいたい。
「……なんとなく、です」
ジュストは眉をひそめた。
「なにか不安なことでもあるのか」
「いいえ、ないですよ」
アベルは少し無理をして、笑顔を作ってみせた。ジュストはアベルの顔を見つめていたが、しばらくして口を開く。
「なにかあったら、おれに言えよ。リオネル様やベルトラン様に言えないことでも、同じ従騎士のおれなら言いやすいこともあるだろう? 秘密にしておきたいなら、だれにも言わないから」
再び歩きはじめたジュストの背中を、アベルは感動の思いで見つめる。
なんて優しい青年なのだろう。
いや、この人は本当にあのジュストなのだろうか。別人が乗り移っているとか、あるいは実のところジュストは多重人格……。
いや、そんなふうに考えるのは失礼なことだと思いなおす。
「ジュストさん!」
走って追いつくと、ジュストが振り返る。ずっと仲が悪かったけれど、これからでも遅くはない。ジュストとは良い友達になれるのではないか。
「ありがとうございます」
笑みを向ければ、ジュストがはにかんだように顔を逸らした。
和やかな雰囲気の二人がいる一方、ベルリオーズ邸の本館では、やや気まずい雰囲気の二人がいる。
人気のない最上階の廊下で、うっかりすれ違ってしまったリオネルとヴィートだ。
再会してからまだ二人はまともに話をしていない。避けていたわけではないが、リオネルは溜まった政務で忙しく、ヴィートはイシャスと遊ぶ以外は騎士館に入り浸っていたからである。
二人がすれ違ったのは、ちょうどアベルの部屋のまえ。
「やあ、坊ちゃん」
ヴィートは適当に挨拶を放る。リオネルは軽く視線だけ返して、尋ねた。
「アベルに会いにきたのか」
それ以外にヴィートがこの廊下にいる理由が思い当たらない。
「アベルなら騎士館のほうで仕事をしているはずだ」
恋敵にわざわざ親切に教えてやる義理もないが、そこは、駆け引きとは無縁のリオネルだから真実のまま伝える。
「ああ、そう」
アベルがいないならここに用はないといった様子で踵を返すヴィートの背中へ、リオネルは声をかけた。
「ヴィート」
相手が足を止めるまえに、リオネルはすでに次の台詞を発している。
「おれもアベルに気持ちを伝えた」
驚く面持ちで振り返ったヴィートへ、リオネルは淡々と告げた。
「伝えようと思ったわけじゃない。成り行きで言ってしまった」
「……それで?」
「むろん玉砕だ」
「…………」
「そのうえ、告げたその日の夜に館を出ていかれた」
「……よくこの状態にまで戻れたな」
ぼそりとヴィートが言う。
「受け入れられなかったことよりも、出ていかれたことのほうがこたえた」
ヴィートはなにも答えなかったが、そうだろうなという表情だ。リオネルの気持ちは、同じようにアベルを想う者としてはよくわかるらしい。
「再会したのはユスター国境の戦場だ。アベルはおれのもとから去ったのに、それでもおれの力になろうとしてくれた」
「惚気か?」
眉をひそめるヴィートを無視して、リオネルは言葉を続けた。
「今回も、王都でアベルを深く傷つけた。何度もアベルに苦しい思いをさせて……それでもそばにいてほしいと思うのはおれの我儘だとわかっている」
「なぜそんな話をおれにする? そんな弱気なことを言ってるなら、本気でおれが奪うぞ」
リオネルは静かに首を横に振る。
「きみには渡さないよ」
「……喧嘩売ってるのか?」
「いつか手放さなければならない日が来るかもしれないというのは、同じだということだ」
つかつかとリオネルへ歩み寄ったヴィートは、素早い動きで相手の襟首を掴み上げる。
避けようと思えばできただろうが、リオネルはベルトランを制して、無言でそれを受け入れる。紫色の瞳をひたとヴィートへ向けた。
「繋ぎとめておけよ、坊ちゃん。それができるのは、あんたしかいない」
「この先、おれのほうからアベルの手を放すことはない。けれど、ここに縛りつけることで彼女を苦しめたくはない」
ヴィートは苛立ったように短く息を吐き、リオネルを解放した。
「だからあんたは甘いんだ」
「甘い?」
「ああ、甘いとも。その甘さが命取りになるぞ」
「アベルの自由を奪い、家臣という立場に立たせ続けることが、彼女を愛することだとは思えない」
そう、本当はこの腕に閉じこめて放したくない。けれど、それはアベルを愛することとは違う。もっとアベル自身の望む形で愛したい。
「あんたが後悔するのはかまわない。好機があるなら、おれはいくらでもアベルの心を動かす努力をする。けど、アベルを最後に繋ぎとめておけるのは、あんただけだということは忘れるな」
意味ありげなヴィートの言葉だった。
「まえにも言ったが、あんたがうらやましい。うらやましがられる自覚がないなら、もう一度アベルの目をちゃんと見てみろ、おまえの目は節穴か?」
じゃあな、とヴィートが去っていく。
自由に生きるヴィートこそうらやましく感じるが、それは贅沢なことなのだろうか。ベルリオーズの領地を治める者として生きなくていいならば、もっと違う形でアベルを愛せたのではないだろうかとリオネルは思わずにはおれない。
しかし、節穴とは。
なにか見えていないことがあるだろうかとリオネルは自問する。
「……節穴、か」
自室へと戻りながら、気がつけば心の声は声に出ていた。すると、ベルトランがぼそりと言う。
「あいつの言うことは、わからないでもない」
「え?」
「近頃おまえといるときのアベルは、まえとは少しだけ違うように見えるということだ。だが、それに気づけないおまえの心理もわかる」
「リオネルの心理?」
突如聞こえてきた声に振り返れば、四部屋ほど先に、ディルクとマチアスの姿があった。リオネルは苦笑する。
「そこで、よく会話が聞こえたね」
「まあね」
恐ろしいほどの聴力の持ち主だ。
「なんでもないよ。……というか、おれにもよくわからない」
「ベルトランの言葉は、あんまり気にしなくていいんじゃないか?」
「どういう意味だ」
すかさず声を低くするベルトランにぎくりとしながら、ディルクはリオネルの手を引く。どこかへ連れていこうとしているようだ。
不思議そうに見返せば、ディルクが言う。
「皆で、雪合戦しよう」
「雪合戦?」
リオネルは目を丸くした。
「まえにもやっただろう?」
たしかに、山賊討伐へ赴くまえくらいだっただろうか、雪合戦をしようとしたわけではないが、結果的にそれに似たようなことをやったことがある。
「まだ政務が残ってる」
「ヴィートがアベルのところに行ったよ。おまえはなにしてるんだ。政務なんてあとからでもいいだろ。そんなことより、ぼんやりしてたら横取りされるぞ」
政務は政務で大切だと思うが、たしかにアベルとヴィートのことはずっと気にかかってはいる。それにしても。
「なぜ雪合戦?」
「思いきりヴィートに雪をぶつけてやれ」
「…………」
「特大の雪の玉をね」
そういうことか。いや、なんの解決にもならない気がしないでもないが。
別に彼は悪いことしているわけではない。ただ、はっきりと恋敵としての立場を明らかにしているだけのこと。
「ほら、ベルトランも行くぞ。参加者は多いほうが楽しいから」
……本当は雪合戦をしたいだけなのでは、とリオネルは思ったが口にはしない。
「おれもやるのか?」
ベルトランが仏頂面をさらに渋くする。
「私はやりませんよ」
貴族の面々に雪をぶつけるなどとんでもないというマチアスへ、ディルクは言い放った。
「今日だけはおれに雪をぶつけることを許す。日頃の鬱憤を晴らせ。ベルトランもね。さあ、レオンも誘おう」
勝手に話を進めるディルクに引きずられるようにして、リオネルらは冬空のもとへ出た。
いつも誤字脱字報告をいただき、ありがとうございます。
大変助かっております。感謝ですm(_ _)m yuuHi