第一章 デュノア家からの書状 1
思い出せそうで思い出せないというのは、歯がゆいものだ。クレティアンはイシャスを遊ばせながら、ふと考えにふける。
この水色の瞳。
そう、やはりアベルに出会う以前に、よく似た色をどこかで見たことがある。
領主ともなれば、日々多くの者に会うため過去に一度や二度話したくらいではその先ずっと覚えていられるはずがない。けれど、この淡い金色の髪はなにか胸につかえるものがある。ある種の不吉な予感と共に、その姿が記憶の底から浮上しかけては沈んでいくのだ。
人は大きな出来事のあった前後の記憶をなくすと、執事のオリヴィエが言っていた。ならば、アンリエットの亡くなったころの記憶なのだろうか。
「コーシャサマ、えいっ」
降りしきる雪のなか、玩具の剣を振りまわすイシャスに、クレティアンは我に返る。
「なかなかやるな」
答えながら剣を受け止めるクレティアンは、正直驚かざるをえない。
あと数カ月で三歳になるイシャスは、すでに剣を正しく握り、こちらが驚くような動きと方法で攻めてくる。母親が優れた剣の使い手であることは充分わかっているが、それにしても筋がよかった。下手をすればリオネルの子供のころと匹敵するくらい習得が早い。
世話係りのエレンや女中らは、イシャスがクレティアンを傷つけないかハラハラしながら見守っている。けれどクレティアンはほとんど確信していた。イシャスはクレティアンに怪我をさせぬように、加減しながら遊んでいることを。
一所懸命遊んでいたイシャスが、ふとその手を止める。
「どうしたのだ?」
「……アベルとリオネルサマは?」
十二月後半に彼らがベルリオーズ邸を発ってから、もうすでに一ヶ月以上が経つ。その間、イシャスは時折こうして思い出して周囲の者に尋ねるのだ。
「一週間以上まえに王都を出発したと聞いている。もうすぐ着くころだろう」
真っ白な雪に包まれながら、イシャスは首をかしげた。その表情でクレティアンは即座に彼の疑問を理解する。
「そうだな、〝もうすぐ〟ではわからないな。教えてやろう。あと二日のうちには着くはずだ。早ければ明日にでも会えるかもしれない」
イシャスは嬉しそうにエレンを振り返る。するとエレンは笑顔でうなずき返した。
ほほえましい二人の様子を見つめながら、クレティアンは思い出せそうで思い出せない記憶のかけらを、強引に頭の隅へ追いやった。
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白く霞む視界。
降りしきる雪は、止む気配を見せない。
木々に囲まれた雪深い道を、二十騎ほどの騎兵が駆けている。馬の鬣や、手綱を握る騎手の手袋、厚手の外套のフードや肩にも容赦なく雪が積もっていた。
王都で新年祭を過ごし、リオネルらはベルリオーズ邸へ戻る途中である。
林を抜ければベルリオーズ領シャサーヌも間近というあたり。
「リオネル様、真っ白です」
アベルは近くを走る主人へ声をかけた。
「え?」
自分から声をかけたのに、振り返るリオネルと目が合って、アベルはどきりとする。高鳴る鼓動に気づかぬふりをしてほほえんだ。
「リオネル様のフードも、茶色い髪も、睫毛も、ぜんぶ真っ白です」
フードの隙間から見える栗色のはずのリオネルの髪には、雪が積もっている。アベルの言葉にリオネルが表情を緩めた。
「アベルのほうが真っ白だよ。雪ウサギかと思った」
「雪ウサギ……それなら、ベルトランは白熊ですね」
リオネルが笑いを噛み殺す。
「白熊……」
「外套にひとまわり白い雪をかぶっただけで、いっそうの迫力です」
ついにリオネルが吹きだす。ベルトランはディルクのような地獄耳ではないが、なにか自分がいじられている気配を感じたのか、ちらと視線を二人へ向けた。
一方、アベルとリオネルの会話に加わったのは地獄耳のディルクだ。
「なんか楽しそうだね、入れてよ」
「いや別に……」
リオネルは笑いの余韻を口元に残しながら、ディルクを見やる。
「なに? 二人だけの秘密か? おれには聞こえていたぞ、ベルトランは雪をかぶっただけで大迫力の熊――」
馬上からアベルは手を伸ばしてディルクの口を塞ぐ。
わ、冷たい。てゆうか、そんなに乗りだしたら危ないよ。……と言っていたディルクだが、アベルの手に塞がれてもごもごとした声しか出ない。
「だれが熊だって?」
低い声のベルトランに、アベルは愛想笑いを返す。
「なんでもないんです」
「まあ、子ウサギのようなアベルのまえでは、ベルトランはたしかに熊だな」
平然と言ってのけたのはレオンで、直後にベルトランに一瞥されると、はっとして蒼ざめる。
「あ、いや、これは言葉の齟齬というか、客観的な見識というか……」
「寒さのせいで皆様、あらゆる判断能力が鈍っておられるようですね」
客観的かつ冷静に指摘したのはマチアスだ。
「おまえはどうなんだ、マチアス?」
さすがに寒いですね、とマチアスは正直に答えた。
「だよね。早くこの林を抜けたいよ。ここって、こんなに木ばっかり続いてたっけ?」
「急に木が増えるわけがないのだから、これくらい続いていたのだろう」
レオンの声は心なしか小さい。寒さであまり声が出ないらしい。
王都を出て十日目。馬上の旅ではそろそろ連日の寒さがこたえる。顔にあたる雪は冷たく、頬はぴりぴりと痛んだ。
リオネルの左手が伸びてアベルの頬に触れる。包み込むような触れ方だ。
大きくて、手袋越しにも感じられる温度に気持ちが和らぐ。
「平気?」
うなずけば、そっと離れていく指先が名残惜しく、思わず手を伸ばしそうになる。けれどそうしなかったのは、恋心ゆえの躊躇いが生じる以前に、ぴんと神経が張りつめたからだ。
考えるより先に、手綱を繰りつつ指先が剣に伸びている。
咄嗟に引き抜いた剣で矢を斬り落とすくらいの技量は、アベルにもある。
けれど、ベルトランの投げた短剣が矢を地面に落とすほうが先。
「アベル、下がれ!」
背後から厳しい口調でリオネルに命じられる。言葉が最後まで紡がれぬうちに、矢が飛び来たった。アベルのまえに馬ごと躍り出たリオネルが、降りそそぐ矢を叩き斬る。
リオネルとその護衛の騎士らのうえへ、冷たい雪と、白く光る矢の雨が降りそそいだ。
「狙いはリオネルだ! 皆でリオネルを守れ!」
ディルクが叫ぶ。
目的はリオネル以外にない。現にレオンのいる場所にだけ、矢は一本も飛んでこず、彼のうえに降りそそいでいたのは白い雪ばかり。
護衛の騎士らは矢を薙ぎ払いつつ少しずつ移動し、リオネルを守るための位置についた。ベルトランはリオネルの前方を、アベルは後方を守る。
いつ止むとも知れぬ激しい矢の攻撃。けれど、それは突如終わりを告げた。
最後の矢がベルトランによって叩き斬られると、静寂が訪れる。
音もなく舞い落ちる雪だけが、時間の経過を告げているようだった。
「敵はまだいる、気をつけろ」
ベルトランが低く忠告する。黒い木々の幹が、不気味なほど濃い色に染まって見えるのは、その陰から感じられる強い殺気のせいか。
アベルは剣を握り直した。
皆、全神経を集中させているが、敵は姿を現さない。
と、次の瞬間、なにかが一行の中心に向けて投げ込まれたようだった。
「逃げろ!」
周囲にむけて叫んだリオネルが、同時にアベルの馬の腹を強く蹴る。直後、すさまじい衝撃と共に爆音が響いた。
なにが起きたか瞬時には理解できない。灰色の火煙のなかで馬が高く嘶いて駆け出し、混乱に陥る。
先程の衝撃で、アベルは馬上から放りだされ、地面に手をつく。慌てて起きあがってリオネルの姿を探した。
すでに全員が散り散りになっており、煙で視界の悪いなか、無事なのかどうかさえわからない。
「リオネル様!」
叫べば、近くから手を取られる。剣を振り上げるが、「おれだよ」という聞き慣れた声がして手を止めた。
「ディルク様――」
「叫んだらだめだ、敵に自分の居場所を知らせることになる」
周囲から近づく大勢の気配。火煙のなかに、黒い男たちの姿が現れる。
「すごい数だ。リオネルが危ない」
アベルとディルクは顔を見合わせると剣を握り直し、立ちこめる煙のなかへとそれぞれ駆けだした。
リオネルは――。
不安で心臓が破れそうだ。
爆発の瞬間、リオネルはアベルを守るために、自分の馬ではなくアベルの馬の腹を蹴った。彼自身が逃げる時間はなかっただろう。
あの爆発で怪我でもしていたら、刺客をまえにひとたまりもない。
視界が悪いため、突如目のまえに現れるかのように見える敵たちを、容赦なく斬りながら先へ進む。
どこ……。
と、煙のなか、敵兵に囲まれて戦うリオネルの姿が垣間見えた気がした。地を蹴ってアベルはそちらへ駆けていく。ベルトランや護衛の姿は見えない。
リオネルはひとり、刺客らに囲まれていた。
標的を殺すことだけに専念している刺客らを、アベルは背後から容赦なく斬り倒す。倒れた刺客らの向こう側に立つリオネルと目が合った。
が、すぐにアベルの視線は彼の腕へと吸い寄せられる。
右腕の服に血が滲んでいる。
「リオネル様、お怪我を――」
「こっちへ来てはいけない」
命じられたとて従えるわけがない。
リオネルは怪我を感じさせぬ様子で剣を交えているが、少なからぬ痛みがあるはずだ。そのうえ多勢に無勢。
アベルはリオネルの脇に立ち、刺客らと対峙した。
「リオネル様はわたしがお守りします」
激しく斬りかかってくる相手に、アベルは鮮やかな手並みで応戦する。
ベルトランは近くにいない。リオネルを守ることができるのは、自分しかいない。そう思えば、全身の感覚が冴えわたり、指の先まで神経が研ぎ澄まされる。
「アベルは下がっているんだ」
リオネルに命じられたが、アベルは梃子でもそこから動かなかった。この状態のリオネルをひとりきりにするのは、わずかなあいだでも危険だ。
生まれて初めて好きになった人を、守りたい。
迷いのない剣さばきでアベルは刺客と剣を交える。けれど相手は、人を殺すためだけに鍛え抜かれた手練たちだ。容易に決着はつかない。
圧倒的な強さをみせるアベルだが、ときに敵の剣先がアベルの目と鼻の先をかすめることもある。
「アベル!」
リオネルが一歩アベルのまえへ出た。
「見ていられない、心臓が止まりそうだ」
……と言われても、むしろ見ていられないのはこちらのほうだ。
ひとりきりで戦おうとしないでほしい。
今はなにを言ってもリオネルは引き下がらないだろう。それがわかっているからこそ、アベルは安心させるためにほほえんでみせた。
「わたしは死んだりしません」
「…………」
「あなたのために戦わせてください」
そう、すでに心は定まっている。
自分の気持ちに気づいたのだから。
なにも気づいていなかったときとは違う。あのときのように捨て身の戦い方はしない。少しでも長くリオネルのそばにいたい。だから。
アベルは素早い動きで敵の懐に踏みこみ、長剣を薙ぎ払う。たちまち相手は背後へ倒れ込んだ。と、次の瞬間に襲いかかってきた敵をいなそうとすれば、剣が触れるまえに相手が血を吹いて倒れる。
なにかと思えば、その背後に立っていたのは長身の騎士だった。
「ベルトラ――」
言いかけて言葉を止める。違う。ベルトランじゃない。ベルトランに匹敵する長身の持ち主は……。
「――ヴィート!」
アベルは目を丸くして叫んだ。
「アベル! やっと会えた!」
それこそ雪まみれの外套を着た白熊のごときヴィートは、うっすらと髭の生えた口元を嬉しそうに笑ませる。
「おれが来たからには、アベルに指一本触れさせないぞ」
猛烈な勢いでヴィートが敵を斬り倒す。敵は未だ怯む気配を見せなかったが、アベルも剣を握り直して果敢に向かっていった。
平然と戦いつづけているリオネルは、やはり負傷を感じさせぬ強さだ。
次第に煙が流れていくと、周囲の状況が明らかになる。敵は〝赤毛の用心棒〟のそばにリオネルがいると踏んだのか、少し離れた場所にいるベルトランを囲い、それをマチアスやディルクが共に片づけつつあるところだった。
他の散らばった敵は護衛の騎士らが対処している。
レオンはというと、灰か煙が目に入ったらしく、屈みこんでしきりと目をこすっていた。
最後の敵をベルトランが斬り捨てると、アベルはヴィートに目配せしてからリオネルに駆け寄った。
「リオネル様、お怪我を」
「平気だ」
「見せてください」
まさかリオネルが怪我をするとは。
腕を取ろうとすると、すぐに引っ込められてしまう。
「大丈夫だから」
服が焼けて破れている様子からすると、剣で斬られたのではなく、最初の爆発で負傷したようだった。アベルのことに気を取られていなければ、きっと避けることはできたはずだ。
「いいから、貸せ」
そばへ来たベルトランが、いつも以上の仏頂面でリオネルの腕を強引に掴み、袖をめくる。リオネルの長くしなやかで、それでいて筋肉質な腕。その二の腕部分に、ひどくはないものの、ただれた火傷があった。
「地味に痛そうだなあ」
のぞきこんだディルクが眉を寄せる。
「冷たいけど我慢しろ」
横から手を出したのはヴィートだ。拾いあげた雪をリオネルの二の腕に押しつけ、それを自らの服を切り裂いた布で縛りつける。リオネルは痛みのためか、あるいは冷たかったのか、わずかに表情を動かした。
マチアスは屈んでいるレオンに、水やハンカチを渡してなにやら介抱している。
「ヴィート、どうしてここに?」
長身の相手へ視線をやれば、ヴィートは目を輝かせてアベルを見返す。
「今朝早く、ベルリオーズ邸に着いたんだ。せっかくアベルに会えると思っていたら、王都に行っていてもうすぐ戻るところだと聞いたから、迎えにきた。こんなことになっているとは思いも寄らなかったけど」
「久しぶりじゃないか、ヴィートくん。いいところに来たね、助太刀ありがとう」
ディルクが気安くヴィートの肩を叩く。
「おまえたちを助けたわけじゃない」
そう言いながらヴィートは、ところどころ剣のかすった跡が残るアベルの服へ視線をやった。
「ああ、アベルがこんなボロボロに。こいつら許せないな。いったい何者だ?」
「ボロボロなのは服だけです。それより助かりました。ありがとうございます」
「お安い御用だ。それより早いところここから離れよう。館に戻って、ゆっくり再会を喜びたい。……そちらの王子様は大丈夫か?」
マチアスに支えられて、よろよろとレオンがこちらへ来る。
「目をやられた」
心配そうにリオネルはレオンの目を覗き込む。どうも灰が目に入ったのではなく、目潰しでやられたようだ。
「平気か? だいぶ目が赤い」
「これしき大丈夫だ。それより加勢できなくてすまない」
「レオンだけは目潰しってことは、やっぱりレオンには剣を向けたくなかったのだろうね。これで敵がだれだかはっきりしたわけだ」
ディルクの発言にヴィートは少し考える面持ちになってから、なにか思い至る様子で、雪のうえに転がる賊を見下ろす。
リオネルの命を狙い、かつレオンに剣を向けたくない敵とは。
「……国王派ってやつか」
「再び襲われては危険です。とりあえず戻りましょう」
マチアスのひと声に背を押され、一行は再び帰途についた。