プロローグ
窓枠に縁どられた、青白い雪景色。
外は身震いするような寒さだが、伯爵家の邸宅には明々と暖炉に火が灯る。
その一室から、楽しげな笑い声が響いていた。
澄んだ水色の瞳が見つめる先では、幼い女の子が遊んでいる。
とてとて……と二歳ほどの少女がカーテンの後ろに隠れ、ばあっと顔を出しては、また隠れる。飽きずにそれを繰り返す幼い娘へ、若い母親もまた幾度も「みいつけた」と笑いかけた。
母親の、雪の白さを思わせる肌、ほっそりとした顔を縁取る淡い金糸の髪。ローブルグ人を思わせる彼女の容姿には、胸を突かれるような透明感があった。
そのうち遊びを中断した少女が、母親に駆け寄る。
まるで母親を小さな人形にしたかのような、容姿の似通う娘だった。
「おなか」
少女が母親のお腹に手をやった。
「そうよ、赤ちゃん」
「あかちゃん」
「生まれたらあなたはお姉ちゃんになるの」
「おねえちゃん」
言葉を繰り返すだけの少女が、理解しているのかどうかはわからない。母親の頬に手をくっつけて無邪気に笑う。
「ばあ!」
ふふふと幼い娘に頬寄せる母親は、笑うといっそうあどけない。
「きっと仲良しになるわね」
少女は母親の身体に抱きつき、お腹に耳を押しあてた。まるで赤ん坊の声を聞こうしているようだ。母親が目を細める。
幸せ――。
そう、幸せなのだ。
愛する夫とのあいだにできた可愛い娘。
これから生まれてくる赤ん坊。
狂おしいほどに愛しいこの瞬間。
それなのに。
――ふと不安が過ぎるのはなぜなのか。
そのとき、部屋に入ってきたのは乳母のエマだった。
「……あら、エマ。どうしたの?」
ノックがなかったのはなぜ。
エマの顔に表情がないのは、なぜ。
胸をよぎる不安が濃くなっていく。
「エマ?」
「…………」
どこかに感情を置いてきたかのようなエマの顔。
「申しわけございません、コルネリア様――どうかわたくしめをお赦しください」
抑揚なく告げて、エマはコルネリアの幼い娘を抱きあげる。
「エマ、エマ」
少女は乳母の顔を見つめ、頬に触れながらにこにこと笑った。
けれど。
「シャンティ様……お赦しください」
エマは幼い少女――シャンティを抱きあげたまま部屋を出ていく。母親は慌ててそのあとを追いかけた。
「エマ、待って! どうしたというの、どこへいくの」
機械仕掛けの人形のように、それでいて足早に、エマはなにも答えぬまま別室へと入っていく。
「エマ、どうし――」
追っていたコルネリアの声が途切れたのは、室内に伯爵夫人が立っていたからだ。
「ベアトリス様……」
身ごもっているコルネリアと同じように、ベアトリスの腹は大きい。
コルネリアとベアトリスの腹の子の父親は同じ。
大切そうに腹をさすりながらコルネリアを見返すブレーズ家出身の令嬢は、氷のような眼差しだった。
「いったい……?」
コルネリアが訳もわからず見つめ返すなか、ベアトリスがエマへ視線を移す。
これまで表情を欠いていたエマは、はじめて顔を歪ませた。エマの悲痛な眼差しが、腕のなかの少女へと向けられる。
「早く」
ベアトリスの言葉に、エマは固く双眸を閉ざした。
それから息を止めるようにひゅっと喉を鳴らし、両手を振り上げる。たっぷりと水の張られた大きな盥に放り出されたのは、シャンティの小さな身体。
大きな水しぶきが立った。
「シャンティ――!」
高い悲鳴を上げて駆け寄ったコルネリアのまえへ、ベアトリスが立ちはだかる。
「なにをするの!」
盥のなかで、シャンティが溺れている。
今、シャンティの父親であるデュノア伯爵は不在。助けを求めようにも、前伯爵夫人が死んだ今、この館でコルネリアの存在を知るものは他にいない。
「助けてほしいのなら、わたくしがこれから口にする言葉を、一字一句違えずここに書きなさい」
ベアトリスが指差した机には、紙と羽ペンが用意されている。
「なにを書けと……」
震える声でコルネリアは尋ねた。
「短い文章です。『自分は、オラス様ではない男と通じておりました。お腹の子供は、あなたの子ではなく、他の男との子供です。どうぞお赦しください』――たったのそれだけですよ」
コルネリアは息を呑む。
「なんてことを」
「わたくしにもようやく子供ができたのです。あなたも、あなたの子供たちも不要なのですよ。ここを出ていきなさい」
「そんな」
呆然とつぶやいてから、我に返ったようにコルネリアはベアトリスに掴みかかった。
「卑怯者! あなたは卑怯者です! わたしとオラス様の仲を裂き、子供ができないからとわたしを利用して、今度はご自身に子ができたら追い出すなんて!」
叫ぶコルネリアの頬を、ベアトリスは平手で叩きつける。コルネリアは頬を押さえて相手を睨み返した。
「早くしなければ、かわいい娘が死にますよ」
「――あなたには人の血が通っていないの?」
「素直に従うなら、この娘の命は助けます。ここでわたくしの子として育てましょう。もし拒むなら、この娘も、あなたも、この場で死んでもらいます」
ベアトリスの背後には、デュノア邸の家臣ではない男たちが立っている。おそらくブレーズ邸から呼び寄せた精鋭の兵士たちだ。
話しているあいだにも、幼い少女は男たちによって水の中に沈められている。
このままでは――。
「わかりました。書きます。だから今すぐあの子を助けて……」
コルネリアは気の強い娘だ。けれど目のまえで娘の命が危険にさらされている。ブレーズ家の権力と屈強な兵士らのまえでは成す術がない。
「早く書きなさい。書かないと助けることはできません」
震える指先で羽ペンをひっ掴み、コルネリアは紙に書きなぐる。書きながら、涙があふれ、零れ落ちた。
早く、早くしなければ、シャンティが。
かわいい、小さな、わたしのシャンティが……。
見慣れた筆跡が滲む。
どうして。
なぜ。
シャンティの溺れる水音と、自らの指先が綴る偽りの言葉が、胸をえぐる。
書き終えた紙をつまみ上げたベアトリスが、表情を動かさずにエマに目配せする。
エマはもはや表情を描いた機械仕掛けの人形ではなかった。
「ああ、ああ――、申しわけございません……申しわけございません……申しわけ……ああ」
繰り返し、泣きじゃくりながらエマは盥から少女を抱え上げた。すでにシャンティは弱り切って、エマの腕のなかでぐったりしている。水を吐かなければ死に至るだろう。
「シャンティ!」
コルネリアが駆け寄ろうとすれば、兵士らが瞬時に動いてその細い肩を掴んで床に抑えつけた。
「放して! シャンティが!」
悲鳴のようなコルネリアの泣き声が響く。
「そのローブルグ女は……そうですね、荷車の後ろにでも手足を縛って乗せて、街の片隅に転がしておきなさい」
男たちに身体を押さえつけられたコルネリアは叫んだ。
「シャンティ! シャンティ、シャン――」
けれど途中でその口は男の手で塞がれる。涙をこぼしながら娘の無事を確認しようとするコルネリアは、ブレーズ家の兵士らによって、声を出すことも許されぬまま部屋から引きずり出されていった。
「その子は生きていますか」
冷ややかな声でベアトリスが尋ねる。震える手でシャンティを抱きしめながら、エマは嗚咽をもらした。
「生きているかと聞いているのです」
「……ベアトリス様、あなたは――あなたは悪魔のような方です」
エマの口から発せられたのは、苦しみを絞り出すように掠れた声だった。
「自らの子の運命がかかっていることを忘れたのですか? 口を慎みなさい、エマ。もし今後そのような口を利けば、別邸にいるトゥーサンとは永遠に会えぬ運命を辿りますよ」
泣き濡れた顔で唇を噛みしめ、エマは声を絞り出した。
「……シャンティ様は水を吐かれ、今はご無事でいらっしゃいます」
エマはシャンティを抱き締める。けっしてベアトリスに渡すまいとするように。
その頭上へ、ベアトリスの冷ややかな声が振りかかった。
「死んだら、オラス様への説明がつかなくなるので困ります。お戻りになるまでに、着替えさせて、意識もはっきりさせておきなさい」
「……はい」
小さな声で答えながら、エマは大きく肩を震わせていた。
失われた幸福な時間は、戻ることはない。
その後帰館したオラス・デュノアは、コルネリアの手紙を見て愕然とした。
愛する相手の裏切りを知った彼の失望と哀しみが、深い怒りと憎悪にかわるまでに時間はかからなかった。それは同時に、彼の人格を変えた。
オラスは人が変ったようになった。
オラス・デュノアは厳格な人物ではあったが、心から家族を愛していた。家族へ向けていた優しい眼差しは真実だった。このときまでは。
だがこの事件をきっかけに彼はその眼差しを失い、不機嫌で神経質に振る舞うようになった。
+
むかし、むかしのお話。
小さな国境沿いの領地を治める若き貴族は、隣国の領内で運命の娘と出会いました。
国境視察に訪れていた貴族の青年。
隣国の森で薬草を探していた、異国の薬師の娘。
若く美しい二人はすぐに恋に落ちましたが、身分も、国さえも異なる二人の恋の物語には、結ばれる幸福な結末が用意されていませんでした。
それでも、二人は幾度も国境で逢瀬を重ねました。
二人の恋を知っていたのは、若き貴族の母親ひとり。
道端に咲く真紅のひなげしの花が、二人の哀しい恋を彩るばかりでした。
ある日、貴族の青年は、夏の夜会で大公爵家の令嬢に見初められます。
病弱ながらも意思の強いその令嬢は、一族の権力をもって青年との縁談を進めました。
国境の小さな領地を治める彼には断る術はありません。貴族の青年は、大公爵家の令嬢を迎え入れる以外の道はありませんでした。
愛する相手がいるにも関わらず、他の女性を娶らねばならなかった青年。
哀しみのなかの婚姻。
貴族の青年も、隣国の娘も、涙を流しました。
ひなげしがこの丘を埋めつくしたら
どうか あなた
わたしを迎えにきてください
甘い言葉を 花束に添えて
どうか あなた
わたしを迎えにきてください
とても長いこと
それは 気が遠のくほど 長いこと
あなたを待ちつづけているのですから
幾年経ち、病弱な大公爵家の令嬢には子ができませんでした。
望まぬ結婚をした息子と、子ができぬ令嬢に手を差し伸べたのは、若き貴族の母親でした。
跡取りを作るため、秘密裏に他の娘を館に住まわせることを、若き貴族の母親は提案したのです。産まれた子を自らの子として育てることを条件に、大公爵家の令嬢はその提案を受け入れました。
そうして連れてこられた娘こそ、青年の愛した異国の恋人でした。
二人のあいだには美しい娘が生まれ、幸福な日々を手に入れました。
めでたし、めだたし。
お伽噺は終わり、夢は現実となり、いずれ、甘い現実は醒めていく。
その日は突然訪れるのです。
――人間の皮をかぶった悪魔が、彼らの仲を引き裂くその日に。
+
娘を盾にとられ、絶望のなかでコルネリアがデュノア邸を追い出された数日後。
館の門前に身重の娘の姿があった。オラスが現れるのを待っていたのは、身ひとつで館まで帰りついたコルネリアである。
館の奥で密かに住まっていた彼女を知る者は、デュノア邸にはひとりもいない。
コルネリアは自らの手で、自分自身と子供たちを救うしかなかった。
何時間も待ち続け、ようやく館のまえに現れたオラスの馬車にコルネリアは駆け寄った。
けれど、オラスは彼女を冷たく突き放した。
――〝裏切り者〟と。
手紙は読んだ。話すことはもうなにもない。この場で殺さないことだけが、愛したおまえへのせめてもの情けだ。今すぐ自分のもとから去れ。
オラスは怒りと絶望とを滲ませて、そうコルネリアに告げた。
「違うのです、あの手紙は真実ではありません。どうかお話を――」
コルネリアが訴える声を最後まで聞かず、オラスは馬車を走らせ去っていった。
地面に両手をつき泣き崩れたコルネリアだが、しばらくそうしていたあとに、不意に立ち上がる。白く華奢な手で涙をぬぐい、よろよろと歩きだした。
左手を身重の腹に添え、唇を引き結ぶ。
このままではシャンティも危ない。
ブレーズ家のあの女は、自らの子が生まれたら、シャンティに対してもなにをするかわからない。
向かったのは北東の方角。ブレーズ家の政敵――ベルリオーズ領の位置するほうへ。
――必ずベアトリスの罪を暴いてみせる。
オラスの信頼を取り戻してみせる。シャンティを守ってみせる。
その思いだけが、コルネリアを突き動かしている。
胸をえぐる痛み。
込み上げる哀しみ。
噛み締めた唇からにじみ出る血に混じる口惜しさ。
まっすぐ前を見つめた瞳は、澄んだ空のような淡い水色だった。
お久しぶりです、作者のyuuHiです。
第八部、ひっそりと再開させていただきました。
最後の更新からもう1年以上経過したのですね…。
今後も不定期になるかもしれませんが、なるべく定期的に更新できるように頑張りたいと思っています。
だいぶ間が開いてしまいましたが、再びアベルやリオネルたちの冒険にお付き合いくださる方がいらっしゃいましたら、とても幸いです。
また、この1年のあいだにレビューをくださったり、メッセージ、コメントくださった読者様、とても励みになりました。心より感謝です。
毎度ながら波乱の回(?)になるかと思いますが、第八部もどうぞよろしくお願い致します。yuuHi