第七部最終回 49
視界を埋め尽くす雪の蒼さに、胸を締めつけられる。
ノートル領とベルリオーズ領を隔てる森のなかを、アベルはリオネルたちと共に西へと向かっていた。
すでにラトゥイ領アルクイユではタマラとミーシャに会ってきた。むろんディルクやレオンまで長時間待たせるわけにはいかないので、挨拶程度だったが。
それでもアベルは充分だった。
二人の元気な顔を見ることができれば、それでいいのだ。
一方、カルノー邸へ立ち寄らなかったのは、レオンとカルノー家の双方の立場に配慮したためである。レオンの兄ジェルヴェーズが前カルノー伯爵を惨殺した過去がある以上、互いに気まずい思いをせぬようにというリオネルの計らいだった。
こうしてすでに王都を発って六日、ベルリオーズ領は目前だ。
ベルリオーズ領に入れば、シャサーヌまではあと二日ほど。
真っ直ぐに伸びる道は雪で埋め尽くされ、天井を覆い尽くすかのように伸びる背の高い木々も、枝という枝に雪をかぶってすっかりこの景色に溶け込んでいる。垂直に伸びる木の幹だけが黒く、雪の蒼白さを際立たせていた。
馬たちが荒く吐き出す息もまた白い。
手袋をしていても、この寒さは骨の芯まで沁みていく。
真冬の旅も終盤へさしかかるこのころになれば、普段は賑やかなこの一行も、いつのまにか口数が減っていた。
「暖炉……」
つぶやいたのはレオンだ。
「布団……スープ……」
いつもは反応するディルクも、このときばかりは無言を貫いている。寒さや暑さで弱音を吐くディルクではないが、その彼でさえこの寒さは応えるようだ。
そろそろアベルの指先も、感覚を失いつつある。
「暖かい葡萄酒……ベネデット……」
まだレオンがぶつぶつ言っている。考えてみれば、男性陣のなかで最も寒さに弱いのはレオンだ。これまでの言葉の羅列から考えると、なぜそこに哲学者ベネデットの名が出たのかは不明だ。
きっとなにかレオンなりのわけがあったに違いない。
「フリートヘルム……」
続いてローブルグ王の名をつぶやいたのは、レオンではなく、ようやく反応を示したディルクだ。これまでぶつぶつ言っていたレオンが、突如言葉を止める。
レオンは無言でディルクの真横へ馬を寄せ、
「なんだ今のは」
と不機嫌な声で尋ねた。
「……寒さに凍えきっているレオンの心を慰めるものを、羅列してたんだろ?」
なるほど、とアベルは思った。
それでベネデットか。
けれど、なぜフリートヘルム?
「今日こそおまえを成敗してやる、ディルク」
そう言ってレオンが長剣に手を伸ばそうとするが、うまく柄を握ることができない。どうやら手がかじかんでいるようだ。
小さく舌打ちして、レオンが剣を握るのをあきらめる。
「アベル、おれの代わりにこの男の首を討ち取ってくれ」
「ごめんなさい、わたしも手がかじかんで……」
深く考えずに答えれば、ディルクが、えっとアベルを振り返る。
「手がかじかんでなければ、おれを討ち果したのか?」
「……あの、深い意味はなくて、論じる余地もなくレオン殿下のご希望に添えないということです」
舌まで冷え切って、アベルは呂律さえうまく回らない。
「もうすぐ森を出るから、そうしたら一度休憩しよう」
疲労も寒さも感じさせない声でリオネルが皆に言った。アベルはまじまじとリオネルを見やる。
「どうかした?」
「い、いえ……」
リオネルは寒くないのだろうか。いや、寒くないはずないから、聞くまでもないのだが。
それにしても――。
「リオネル様は、愚痴を言いたくなるときとかないのですか?」
「愚痴?」
「暑いとか、寒いとか、疲れたとか、もうやだとか……生きていれば、いろいろあるでしょう?」
「ああ、そうだね。もちろん色々と思うことはあるよ。でも、嫌だと思うことより、感謝することのほう多い。今だって寒いけど、それ以上に皆でこうしていっしょにいられることがおれは嬉しい」
「…………」
――なんて。
なんて素晴らしい考えの持ち主なのだろう。
弱音を吐きたくなる自分自身と必死で戦っているアベルより、よほどリオネルのほうが前向きで立派な姿勢だ。
「リオネル様は素敵ですね」
素直に褒めれば、リオネルはわずかに戸惑う面持ちになる。近頃アベルがリオネルへの気持ちを表すと、想いが伝わるどころか、リオネルは余計に困惑するようだった。
「アベル、その……ときにきみの態度は、誤解を生むから気をつけたほうがいい」
「本心です」
しばし沈黙してから、リオネルはふっと表情をゆるめる。
「ありがとう、でもきっとおれが優れているんじゃない。素晴らしい仲間に巡り合えただけのことだよ」
「ようするに、リオネルは皆が大好きということだ」
ディルクが横から口を挟んで、話をまとめる。
すると、リオネルはてらいもなく言った。
「そう、皆のことが好きだ。ひとりでも欠けたらきっと途方に暮れる。救いだせるものなら、なんでもするだろう。失ったもののぶんだけ、神々はおれに大切なものを与えてくれた」
幼いころから王位継承争いに巻き込まれ、苦労の連続だったリオネル。
六歳で心の支えだった母アンリエットさえ失い、辛い思いをしてきたに違いない。それなのに。
「リオネル様……涙が出そうです」
感動してアベルはリオネルを見つめる。
「わたしも同じ気持ちです……失った以上のものを得ました」
多くのものをこれまで失ってきたが、同じくらい素晴らしいものを手に入れた。
「そうだね……きっとアベルはおれより多くのものを失っている。でも、泣かないで。アベルには笑っていてほしいから」
二人の会話を聞いていた地獄耳のディルクが、愛馬シリルの鬣に顔をうずめる。
「うう、なんだか聞いているだけで胸が締め付けられる」
「なにをなさっているのですか?」
やや引き気味にマチアスが尋ねる。
「二人の言葉が、いちいち胸に沁みないか?」
「沁みます。けれど、馬の頸に顔を押し付ける理由にはなりません」
「幸せになってほしいと思ってね」
「……私は、ディルク様にも幸福になってもらいたいと思っています」
「おれ? おれは充分に幸せだから。そこいらの面倒な恋人に振りまわされるより、こうして仲間と群れているのが一番いい」
マチアスは溜息をつく。
「アベラール家の跡継ぎが生まれる日は、遠いようですね」
「姉上たちの子供が数え切れないくらいいるからいいだろう。父上も、もうこれ以上孫はいらないと思うけど」
「そういう問題ではなく――」
言いかけたところで、レオンが深くディルクに同意する。
「わかるぞ、おまえの気持ちは。女の機嫌を取って過ごすくらいなら、ディルクの緊張感のない顔を眺めているほうがまだましだ」
「なんだ、その比較は。いや、そもそも緊張感のない顔とはなんだ?」
「ああ、顔に緊張感がないうえに、発言に至っては品もない」
「なんだって?」
「だが、貴婦人に気をつかうよりは幾分かましだ」
「言ったな、このやろう。レオンだって――ぃってえ!」
台詞の途中でディルクが叫んだのは、ぴしゃりと手をマチアスに叩かれたらだ。
「王子殿下に向かって〝このやろう〟とはどういうことですか。言葉を慎んでください」
「そうか、ならおまえにならいいのか。マチアスのこのやろう、このやろう、このやろう、痛いじゃないか、このやろう」
おまえは子供か、とレオンが呆れ顔になる。
「従者殿も苦労が絶えないな」
「まあ、かわいいものですよ」
マチアスの台詞に、これまで沈黙していたベルトランが小さく笑った。
「おい、ベルトラン。今笑っただろう」
すかさずディルクが顔をしかめる。
「いや」
「たしかに聞こえたぞ」
「いや」
「なにがおかしかった」
「いや、笑っていない」
「…………」
ついに黙ったディルクへ、アベルは声をかける。
「皆、ディルク様のことが大好きなんですね」
「これまでの会話を聞いていて、その台詞が出てくるか?」
「ええ、聞いていたからこそ、よくわかります。ね、リオネル様」
話を振られるとリオネルがさらりと言う。
「おれもレオンやマチアスに負けないくらい、ディルクのことが好きだよ」
きまりの悪い様子でディルクはリオネルから視線をそらす。
「おまえは、ときにおそろしく素直だな。こっちが気恥かしくなる」
「そうかな。おれは生きているうちに幾度でも伝えたいけど」
「嬉しいけどもういいよ。どう反応していいかわからなくなるから」
ディルクの気持ちは、アベルにもよくわかる。真正面から向けられるリオネルの言葉にはこれまでアベルも度々戸惑った。
けれど最近気づいたことがある。
それは、逆にリオネルへの直球が伝わらないということだ。
あるいは、アベルが自分へ気持ちを傾けるはずがないと彼が信じ込んでいるからだろうか、アベルの想いはいっこうに伝わっている気配がない。
「生きているうちに、なんて言わないでください、リオネル様」
アベルは少し怒ったようにリオネルに言う。
「これから先、リオネル様は長く長く生きていかれるのですから」
「そうだね」
多くを失ってきたからこそ、〝今〟の大切さを知っている。
今を生きたい。
人は〝今〟しか生きられないのだから。
だからこそ、今を、精いっぱい――心を尽くして生きていたい。
その感覚はアベルにもよく理解できる。
素性が複数の者に知られた以上、いつまでリオネルのそばにいることができるかわからない。だからこそ、手を伸ばしたいと思う。伝えたいと思う。伝わったらいいと、思う。
信じたい。
せめて想いを伝えるまではせめていっしょにいられることを。
だから、伝えるのはもう少し先でもいいかとも思う。
この想いを伝えたら、別れる日が近くなってしまうような気がしてならないから。根拠はないけれど、そんな気がしてしまうから。
無言でアベルは手を伸ばす。
触れたのはリオネルの腕。
――リオネルのことが好きだ。
好きで、好きで、どうしようもないくらいに。
困ったような表情で、けれど優しく手を重ねてくれるリオネル。
一日でも、一秒でも、一瞬でも長く、この温もりを感じていられるように。
「ああ! 街が見えてきた!」
ディルクが叫ぶ。森の出口に差し掛かると、木々の合間から、遠く煙突から白い煙の上がる民家が垣間見えた。ベルリオーズ領最東の街レヴティエールだ。
「もうベルリオーズ領か」
ベルトランの声に続いて、レオンがうわごとのようにつぶやく。
「暖炉……布団……スープ……ヴァンショー……」
「布団はないけど、他のはあるね」
冷静に指摘したディルクが馬の腹を蹴ると、それに続いて一行は軽快な足取りで街へ向かう。
――ベルリオーズ領へ。
純白の景色に、馬の嘶きが響きわたり、空の割れ目からは一筋の光が差し込んだ。
(第七部 完)
いつもお読みくださっている読者様へ
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございましたm(_ _)m
このような拙い物語であるにもかかわらず、応援してくださる方がいらしてくださったからこそ、第七部まで投稿することができました。
少し間が空きますが、また第八部でお会いできましたら幸いです。yuuHi