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王宮の最上階に位置する廊下を、二人の若者が歩んでいる。
廊下の窓に映るのは、しきりに舞い落ちる雪。人気のない廊下は静かだ。
「母上から小言を聞かされた」
ジェルヴェーズはやや苛立った口調だった。対するフィデールは普段どおりそつのない態度だ。
「王妃様から、ですか」
ジェルヴェーズの気を害さず会話する術を、彼はよく心得ている。
「兄弟仲良くするようにとな」
「さようですか」
二人の話す声は、廊下を支配する静寂の彼方へと吸い込まれていく。
「レオンを西方視察という名目で遠ざけたのも、母上の計らいだろう」
「例の一件があったからでしょうか」
フィデールの言う例の一件とは、体調の優れぬレオンに手を上げようとした挙句、リオネルと殴り合いの喧嘩になったことだ。
「あるいは池に突き落としたことも、勘付かれているかもしれない」
言葉にはしないものの、おもしろくないことばかりだと、ジェルヴェーズの不機嫌な顔には書いてあった。
「リオネル・ベルリオーズはすでに領地へと発った」
「そのようですね」
「しばらく会うこともないだろう」
フィデールは、隣を歩むジェルヴェーズの横顔をちらと見やる。
けっきょくジェルヴェーズには、空虚な心を埋めるものがなければならないのだ。それは憎しみでも執着でもかまわない。とにかく生きていると感じさせるような激情だ。
リオネルや王弟派諸侯への憎しみ。
次期国王としてのプライド。
そして、最近はレナーテに対する執着がそこへ加わった。
音楽の才に恵まれても、芸術の力ではジェルヴェーズの心は癒すことができない。
「退屈ですか」
「私を楽しませてくれるものは、なにも残っていない。倦むような日常があるだけだ」
まるで恋人が去ったかのようなジェルヴェーズの様子に、フィデールは内心で苦笑したくなる。憎しみはたしかに、愛に近い存在のようだった。
「いっそ再びベルリオーズ邸へ赴かれては? リオネル殿も、レオン殿下もおられますし、案外レナーテという名の女性にも再び会えるかもしれません」
フィデールの言葉に、はじめてジェルヴェーズはかすかに笑った。
「都合のいい筋書きだが、おもしろい」
「私は本気で申しあげておりますが」
「行きたいところだが、母上に止められるのは必然だ」
「なるほど、それでは難しいですね」
フィデールは素直に納得する。あの王妃には不思議と人のうちに潜む悪を弱める力があるようだ。彼女の手にかかれば、ジェルヴェーズでさえ行動を制御させられる。
かといって、王都でジェルヴェーズの満たされぬ心を満足させるものは、見つかりそうにない。
「そういえば、殿下」
思い立った様子のフィデールへ、ジェルヴェーズは視線を向けた。
「このところ父は、殿下の結婚相手を探すため、王都周辺にある貴族の館を回っているようです」
「近頃顔を見ないと思ったら、公爵はそんなつまらぬことをやっていたのか」
「ルスティーユ公爵殿も、近隣の国々の姫君や公爵令嬢のなかであたりをつけているようです」
「なにが言いたい?」
「遊んでおくなら、今のうちということです」
フィデールの提案にジェルヴェーズは声を立てて笑った。
「ありがたい忠告だな。だが私は結婚などには縛られぬ。妻を得ても、それ以外を抱かないというわけではない」
「さようですか」
一国を統べる王とて、相手の家柄によってはジェルヴェーズの望むような生活が容易ではないこともある。現国王であるエルネストも、直臣であり、高貴な身分であるルスティーユ公爵家の娘を娶ったがために、確固たる地位を築くことはできたが、放縦な生活とは言い難い。遊び相手が高級娼婦程度なら自由だが、貴族の令嬢相手となると容易とはいかない。
けれどジェルヴェーズがそのようなことに縛られるとは、たしかに思えなかった。
「つまらぬ女に縛られるくらいなら、いっそ首を刎ねて国元に送り返してやる」
「困りましたね、下手な相手を選ぶと大変なことになります」
ジェルヴェーズは口端を吊り上げる。
「そう思うなら、結婚相手探しなどくらだぬことはやめるよう、ブレーズ公爵とルスティーユ公爵を諌めるのだな」
かしこまりましたとフィデールが答えると、ジェルヴェーズは足早に大階段を下りながら言い放った。
「今夜、王宮の夜会に出席する」
フィデールはジェルヴェーズの背中へ視線を投げかける。このところ、ジェルヴェーズは王宮の夜会から足が遠のいていたが。
「王弟派貴族の美しい娘でも捕まえ、遊び明かせば少しは気も晴れるだろう」
無言で小さく笑い、フィデールは瞼を伏せた。
+++
年が明けてからのデュノア邸には、穏やかな時間が流れている。
いや、むしろ穏やかというよりは、すでにカミーユも従騎士として王宮に赴いており、静かすぎるほどだった。かつて幼い姉弟がはしゃぎまわり、笑い声が響きわたっていたのも、今となっては泡沫の幻だったかのようだ。
けれど今朝、そのデュノア邸の方々から大きな呼び声が上がっていた。
「エマ様! エマ様!」
侍女の声が高く響きわたるなか、使用人や騎士らが館じゅうを探し回っている。
「エマ殿、出てこられよ!」
乳母であるエマの姿が見当たらぬことに真っ先に気づいたのは、最もエマのそばにいたシャンティの侍女カトリーヌである。
「いつからエマはいないのですか?」
政務に忙しいデュノア伯爵に代わって、エマの捜索を指揮しているのは伯爵夫人ベアトリスだった。
ブレーズ公爵家の令嬢だけあって、ベアトリスの態度は落ちついている。対するカトリーヌは動揺しきっていた。
「昨夜、お休みの挨拶にうかがったときに、お部屋から返事がなかったのです。もう寝台に入られたのかと思ってそのまま立ち去ったのですが、考えてみればあのときからすでにいらっしゃらなかったのかもしれません」
「つまり昨日の夜には、すでにエマは館にはいなかったということですね」
「おそらく……」
カトリーヌは泣き出しそうな気持ちで答える。
「部屋にはなにか残されていましたか?」
「手紙などはなく、服や、身の回りのものはそのままです」
「お金は?」
「残っていました」
もともとどれほどの所持金があったのかわからないが、エマの部屋にはそれなりの金額が残っていた。おそらく手つかずのままだろう。
「何者かにさらわれた可能性もあります。館の内部に不審な者がいなかったか、部屋に争った跡はなかったか、兵士らに調べさせましょう」
そう告げると、ベアトリスはそばに控えていた臣下へ手際よく指示を出す。それから混乱しているカトリーヌへ告げた。
「エマになにかあれば、わたしたちだけではなく、カミーユもトゥーサンも哀しみます。街の憲兵たちにも彼女を探させましょう」
「ありがとうございます、奥方様」
なんとかそう答えたものの、カトリーヌはいっこうに希望を見い出せなかった。
というのも、実のところカトリーヌにはわかっていたからだ。
エマは何者かにさらわれたのではない。
――自らの意志で、この館を出て行ったのだ。
むろん話を聞いたわけではないし、その現場を見たわけでもない。けれど、元門番だったエリックからシャンティが死んでおらず、伯爵によってこの館から追い出されたのだと聞いたときから、エマはなにかにとりつかれたように館の外へ出たがるようになった。
危険だと思い、カトリーヌは始終そばに付き添ってエマが危険な真似をしないように見張っていたが、今回は目を離したすきに姿を消された。
エマは、シャンティを探しにいった。
そのことをカトリーヌは確信している。
連れ戻したところで、彼女は救われない。
けれど、この極寒の冬に、所持金もなくどこへ行こうというのか。
いや、昨夜のうちにすでに凍死している可能性だってある。
そして、それがエマの本当の望みなのではないかと思うとき、カトリーヌはぞっとするのだった。
けれど信じたい。
エマが肌身離さず身につけていたシャンティの瑠璃の首飾り。
あれを身につけたまま、エマは死ぬはずない。
たしかな信念が彼女の身を守っていることをカトリーヌは願う。
成す術もなく立ちつくしていると、玄関のあたりが騒がしくなった。何事かと視線をやると、雪をかぶった兵士がベアトリスを探してこちらへやってくる。見知らぬ顔だ。
「デュノア伯爵夫人ベアトリス様はどちらに」
場所を移動しようとしていたベアトリスが振り返る。
「わたしにご用でしょうか」
王宮から参じたという兵士は、深々と一礼してから、一通の手紙をベアトリスへ渡す。
「ご子息カミーユ様から、エマ様へのお便りです」
「カミーユからエマへ?」
ベアトリスが確認する。
「エマ様がおられぬと門前でうかがいましたゆえ、ベアトリス様に手紙をお預けいたしたく存じます」
ベアトリスは王宮からの使者を労い、着替えと食事を用意するよう使用人らに命じた。使用人らに使者を案内させると、ベアトリスはその場でカミーユからの手紙の封を切る。
エマへの手紙だ。開けてよいのだろうかとカトリーヌは不安に思ったが、それを察したベアトリスは、わずかに首をかしげてカトリーヌを見やった。
「エマの行き先の手がかりになるかもしれません」
「……はい」
「それに、火急の用でしたら確認しておかねばなりませんから」
再びうなずいたが、やはり不安はぬぐえない。
なにか、とんでもないことが起きようとしている気がした。
開いた手紙にベアトリスが目を通す。短い手紙だったようで、すぐに字を追うのをやめると、ふと視線を伏せ、周囲から隠そうとするかのように手紙をもとの形に畳む。
なんと書いてあったのだろう。
気になったが、むろんカトリーヌの立場でベアトリスに尋ねるわけにはいかない。
「フィデールに書状をしたためます。すぐに紙とペンの用意を」
ベアトリスは背後に従っていた侍女へ命じると、踵を返した。
不安な気持ちで立ちすくむカトリーヌを、ベアトリスが振り返る。
「案じることはありません、カトリーヌ。エマは兵士らに探させますから、あなたは館のなかで待っていなさい」
かしこまりました、とドレスの裾をつまんだカトリーヌだが、案じずになどいられるはずがない。
カミーユの手紙には何と書いてあったのだろう。
なぜ、ブレーズ家嫡男フィデールに連絡をとる必要があるのだろう。
そして、エマはどこへ……。
カトリーヌは知る由もないが、カミーユの手紙には次のように書かれていた。
『親愛なるエマへ
エマ、元気にしているかい?
素晴らしい報告があるんだよ。ただ、この話をけっして他言しないと約束してほしい。
エマがこの約束を守ってくれるとわかっているし、きっとエマがこの事実を聞いたら元気になってくれると思うから、おれはその出来事をここに書いて知らせるよ。
エマはきっと驚くよ。
実は、姉さんが生きていたんだ。
姉さんは死んでいなかったんだよ。信じられる? 信じられないでしょ。でも、本当のことなんだ。だって、王都で再会できたから。おれが姉さんを間違えるはずないだろう?
とても元気だったよ。身長はあまり変わらないけど、三年前より少し大人びてた。
もうエマは姉さんのことで心を痛める必要はないんだ。
今は姉さんの居る場所を伝えられないけれど、おれがデュノア家を継いだ暁には必ず館に呼び戻すから。エマはそれまで信じて待っていて
貴女が育ててくれたカミーユより』
……アベルやリオネルの知らぬところで、運命の歯車が、耳障りな音を立てて再び軋みはじめていた。
今回はメインキャラが登場せず、しかも前半も後半も不穏な感じになってしまいましたm(_ _)m
次話で第七部完結です。
時間があれば明日投稿しますので(できなかったらすみません)、もう一話だけお付き合いいただけましたら幸いです。yuuHi